愛にゆく

     *


 先程までいた喫茶店から一度外へ出て、壁伝いに左側に回ると銀色の階段が2階へ向かって伸びていた。その階段は、空の方へと足音をよく響かせた。行き止まりには扉があり、その横に白色のプラスチックの板で施された小さな看板が打ち付けられてあった。

「……篠敬太郎探偵事務所、ですか。ところでなんでフルネーム?」

「自分の名前が好きだからだ」

 想像していた以上につまらない答えを聞いてしまった私は、すでに座っていた来客用のソファの上でお尻の位置を直す。背もたれに体を預けると、安っぽい音を立ててきしんだ。それに若干イラッとしつつ、改めて事務所の中を見渡してみる。

 現在、私がいる位置は、篠さんが依頼人と話をする場所らしい。二人がけ用の茶色いソファが向かい合っている。その間には、透明なガラスのテーブルがある。

 右側には入口の扉があり、その脇に大きめの観葉植物がある。緑の力は偉大だ。さびれた雰囲気のこの空間の、オアシスのような存在になっている。あるのとないのとでは随分違うだろう。

 入口の横の方に、まるで給湯室のように小さなコンロがあった。一応食器棚もある。お客をもてなす用意はできているようだ。

 ……そろそろ私のことをもてなしてくださってもいいんじゃないですか?

 左側に目線を動かすと、そこにはデスクがあり、その隣には大きな本棚が二つ並んでいた。そこに収められているほとんどが、専門的な内容の書物のようだ。後はファイルも数冊並んでいる。

「なぎさん、少々挙動不審じゃないか?」

 いつの間にやら篠さんは隣の部屋(?)に行っていたようで、なんだか失礼なことを言いながらこちらへ戻ってきた。

 その扉の向こうから流水音が聞こえてきた。……トイレか。

 篠さんが、私の向かいのソファに腰をかける。さすが自分の陣地らしく、少しリラックスしているようだ。両膝を大きく広げて、後ろに体重をかける。

「……篠さん、チャック開いてますけどそれはいいんですか?」

「おうっ」

 篠さんは慌てて自分の股間を確認し、素早くチャックを上げる。

「しかもパンツ、ピンクでしたね」

「い、いやらしいな。なぎさんは」

「見たくて見たわけじゃないですよ! 黒とかグレーのパンツだったら気付かないですんだかもしれないのに、なんでよりによって鮮やかなピンクなんですか」

「パンツの色や形の選択は、俺の自由だろう」

 いい大人二人が、パンツパンツ言い合いながら言い争っている。冷静になると、極めてバカバカしいということに篠さんも気づいたようで、わざとらしく咳払いをし、そして口を開いた。

「さっきのプリント倶楽部の女性は、本当に里卯さんじゃないんだな?」

「いや、私も信じられないですけど……花子ちゃんの言うとおり、村上くんの元カノなんでしょうね。やっぱり」

 双子。他人の空似。ドッペルゲンガー。三つ子。

「不思議なことがあるもんだな」

「不思議だから。運命、なんですかね」

「こんなに、運命という言葉が似合わない女の人がいるなんて」

 篠さんが、驚いた表情で私のことを見た。

 ここで殴ったらスッキリするだろうな。

「村上さんは不思議とは思わなかったろう。同じ事柄を〈運命〉で〈不思議〉とは、脳が考えさせないんじゃないかな」

 篠さんが言った言葉の意味は、私にはよくわからなかった。篠さん自身も本当にわかって言っているんだろうか。

 彼も充分、運命という言葉は似合わなかった。


 その時、携帯電話の着うたらしき音が事務所内に響いた。私の携帯ではない、ということは、ここにいるもう一人の携帯ということになる。

「……はああ。大和田アキ子だ」

「おっ。なんだ、なぎさんもファンか」

「いや、そういうのじゃないです。ここはどうにかノーコメントで」

 私が大和田さんに対して言葉を選んでいる中、篠さんは電話に出た。

『あのかーねーおーなら』

「はい。ああ……そうか、やっぱりな。受信装置のような物は……そうか、なかったか。……うん、わかった。ありがとう」

 電話を切ると、篠さんは一瞬考え込んだ様子を見せ、その後こちらに顔を向けた。

 篠さんは、時々目の大きさが変わる。今も、あの細い目が、少しだけくりっとしている。

「なぎさん。凶器についてわかった」

「あ、じゃあ、今の電話はやっぱりコウジさ……沢下さんからだったんですね」

「なんだ、その目の輝きは」

「いや、篠さんには全然全く関係ないです。で、凶器についてって?」

「凶器は……〈カラクリ殺人機〉だったんだ」

 私はぽかんと口を開けた。

 胡散臭くてちゃちな響きのそれを、彼はとても誇らしげに口にした。

「ただし、電動式ではなく、いたってシンプルな作りの、な」

 な、と言われても。

 私は、事件の起こった教習車の内部を思い出していた。確か、気になる点がいくつかあったはずだ。

 運転席の背もたれの部分。細長く開いた、穴のようなものがあった。そして、血に混ざってシートに滲み込んでいた、透明な液体。

 それが〈カラクリ殺人機〉の正体のヒントになるのだろうか。

「なぎさん、村上さんの死因は?」

「ナイフでブスっとです」

「どこを?」

「背中です。……そっか、もしかして」

 脳内と心の中のもやもやが、その瞬間結合したみたいだった。結合したとたん、それは嘘のように消え去った。雨雲と、青空のようだと思った。

「おもちゃのナイフが、シートに埋められてたんですね」

「実際は手作りの……無論おもちゃとは言えないが、おそらくなぎさんの考えは外れてはいない。まずナイフ自体は果物ナイフの刃だ。そして、柄は縄跳びの持ち手だ。それも太くて長い、長縄飛び用のな。柄の中にはバネと水を入れる。そして、ナイフの刃の部分を、柄の部分に閉まった状態で凍らせるんだ。これでカラクリ殺人機の出来上がりだ。後は氷が融けるのを待つのみ。ナイフが飛び出るまでだいたい20分から30分くらいだそうだ」

「……なんか、嘘みたいな仕組みですね」

「これで、実際人が死んでいるのだから、冗談ではすませない」

 篠さんの真剣な目は、私の目を奪って捕える。

 そう。そんなふざけた装置によって人が一人。村上隆志が死んだのだ。

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ドライヴ〜密室の教習車〜 鮭田やいり @shakera8

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