エピローグ『こうして世界は動き出す』


 月曜日朝。終業式。


「めん、ど、くせぇ~~……」


 俺は相も変わらず、一人項垂れていた。

 朝っぱらから買ったソーダアイスは既に半分が溶け、ポタポタと地べたを這いずり回るアリたちに甘い餌を提供していた。


「よぉ黒の字。相変わらず景気がよろしいようで」


 そんな風にしていると、聞き覚えのある声が耳に届く。

 顔を上げずともわかる。


「なんだ、満月か……」


 満月はこんなクソが付くくらい暑い日差しの中でも、俺が苦しんでいることが楽しいのか、ニヒルな笑顔を向けてきやがる。妙に癪に障る。


「なんだとは釣れないヤツだな」

「俺が、少しでもまともに釣れた試しがあるのかよ」

「は……、そりゃそうだ」


 満月は納得した様子で嘆息つくと、どっかりと俺の隣へと腰を下ろす。相席を許可した覚えはないんだがな。

 ちなみに、今俺は教室にはいない。俺がいるのは校舎中庭にある木陰のベンチだ。昼間は中央に聳える銀杏の木が影を差し、夏場でも非常に快適空間を楽しめる昼休み人気のスポットとなっている。のだが、午前中の今は日差しがモロに差し込む火刑待ったなしの地獄スポットと化している。

 何でクソ暑いクソ暑い言ってんのにそんなとこにいるの? マゾなの死ぬの? とか言われそうなので弁明しておくが、俺はマゾではない(戒め)。

 理由は、まぁいろいろあるのだが、とりあえず教室にいたくなかった。それだけだ。


「いいのかよ」

「何の話だ」

「終業式だ。もう始まってるぞ」

「……ああ」


 満月に指摘されるが、俺は相づちを打つだけで特に反応はしない。

 普段の俺ならば「お前もだろうがこの不良ヤロー」なんて具合に言い返していたのだろうが、生憎、今はそんな気分ではない。


「……心ここに在らず、か」


 満月も俺の状態を的確に言い表すが、今の俺には届かない。

 それよりも気になっているのは、


「ま、昨日あんなことありゃあな」

「っ……、ごほっごほっ……」


 考えていたワードが満月の口から飛び出し、思わず俺は咽せてしまう。


「おいおい、大丈夫かよ」

「……あ、ああ。それより、昨日って……」

「ん? ああ、昨日のあれ。全員無事だったらしいな」

「あ、ああ……そっちか……」


 その答えに、俺はあからさまに落胆してしまう。


 あの後、光の薔薇の消失と同時に茨の大樹も消え去り、連れ去れていた生徒たちは全員一人も残すことなく解放されていた。

 杏の話によれば、解放された生徒は皆眠った状態で発見されたらしく、『神秘の秘匿』――つまり、【妖精】や【魔法】など通常世界には存在しないとされるものを公の事実にしないための、その裏工作に関しては心配いらないとのこと(その裏工作とやらの内容については多少なり興味があるのだが、露骨にヤバそうなのでスルーすることとした)。


 【逢魔時】による現実世界への影響に関しては、一部校舎の損壊(特に校舎一階に空いた大穴)が見られるが、今朝登校した時には既に綺麗さっぱり消え去っていた。

 結局、学外の生徒をも巻き込んだこの集団昏倒事件は、一晩も経たないうちに大した問題にもならずに幕を下ろしたわけなのだが。


 どう考えてもおかしい。あれだけの生徒――およそ百人前後の生徒が一時的にとは言え同時に姿を消し、あまつさえその全員が昏倒した状態で発見されたというのに、警察沙汰にすらなっていないなんて。これはどう考えてもおかしくないわけがない。

 これに関して杏にSNSで尋ねてみたところ、「問題ないわ」の一言だけでそれ以降の反応が一切ない。

 いやいやいやいや。おかしいだろ、ホント。

 他の生徒もそれなりに話題には出しているものの、大して大事とは見ていない様子だ。

 う~~~~む……。これは、何やら背後に神の見えざる手が存在するような気がしてならない。

 はぁ……、ホントめんどくせぇ……。


 だが実際、それはほんの些細な出来事に過ぎない。

 そんなことよりも今は、あのすぐ後に起こった出来事の方が、本当の意味で俺を悩ませていた。


   *


 全てが終わった。

 その事実を、天より青く照らす月が静かに、しかし雄弁に語っていた。

 魔力の蜜を垂れ流す光の薔薇も、不気味に聳え立つ茨の大樹も消え去り、世界に残ったのは星々煌めく満天の夜空と、耳を澄まさずとも聞こえてくる虫たちの鳴き声。

 図らずともそこには、先日までと同じ、何も変わることのない退屈な夏の夜が帰ってきていた。


「終わった、のか……」


 その台詞を口にしたのは、奇しくも茨の魔女。


「ええ、そうね」


 そしてそれを、杏が静かに返す。


「そうか……。我が抱いた願は、ここで潰えたのか……」


 杏の、無情とも取れる短い答えを、魔女は全身で呑み込むかのようにそっと目を瞑る。


「消せ」


 そしてただ一言、そう口にする。


「それは、できないわ。アナタはあたしたち人間の手によって、正式に裁かれるの。それがアナタの犯した罪の、その償いよ」

「……は。裁きだと? 償いだと? 貴様ら人間の尺度など、この我には関係のないことだ。我は消せと言ったのだ。お前たちは同族を殺すことに異様なまでの嫌悪感を抱くようだが、我は人ではない。我は【妖精】だ。貴様ら人間と違い、この世界に望まれぬ存在だ。我らがこの世界にいたところで、ただ消えゆく運命さだめ。ならば、早々に消し去れと言っているのだ。そうでなくとも、我は【魔女】だ。人に忌み嫌われ、悪と穢れを世界に振りまく疎ましき存在。魔女を裁いて咎めるものなどいはいない。わかったのならば、さっさと我の首を――」


 だが杏は、首を縦には振らず。


「言っているでしょ。それはできないの。何より、あの子が命を賭して止めたのに、あたしがそんなことできるわけがないわ」

「…………」


 その言葉を最期に魔女は何も言わなくなり、俺は思わず視線を変える。

 何もなくなった広きグラウンド。そこには倒れた多くの人影はあれど、俺の求める姿は確認できない。この煌々と瞬く星空にも負けない、黄金色の姿は。


「それでアン、コイツはどうする?」


 俺がしんみりしていると、後ろから桃がそう杏に問う。


「とりあえず縛っておくわ。抵抗する魔力もないでしょうけど、応援が来るまではそれで――――」




「『兎の洞穴うさぎのほらあな』――」




 誰も気付くことはなかった。

 その声が聞こえるまでは。

 すぐそばで刀を構えていた桃も、視界に入っていたはずの杏さえも。

 それは突如意識の外より現れ、魔女を連れ去ってしまう。


 その白き存在は――――。


「っ――――」

「どこに――」


 辺りを見渡せば、それはいた。

 黒衣たちから離れたグラウンドの隅っこ。

 そこにいたのは、一人の少女――見覚えのある白い少女が立っていた。


「お前、は――」


 そこに立っていたのは、肩口で揃えた短い白銀の髪に、うさぎのような紅い瞳をした少女。

 今日の昼前。図書館塔で自らを『うさぎ』と名乗った、あの少女だった。


「な……、なんで、お前が……」

「…………『白ウサギ』」


 黒衣が絶句している中、杏は一人その姿を見て奥歯を噛み締める。


「昨日話したと思うけど、【獣種ビースト】の中でも特に危険視されている目的不明神出鬼没の【妖精】。【獣種】らしからぬ数々の魔法を持つ、危険度Aクラスに指定されている厄介極まりないバケモノよ」

「あの子が……、そのバケモノだって言うんですか……っ」


 黒衣は目を擦る。しかし何度やっても、そこに立っているのは昨日の昼間に見た少女の姿で。

 そして、黒衣が初めて【逢魔時】に落ちた時に見た少女の姿だった。


「どこであの【妖精】と知り合ったのかは知らないけど、その先入観はさっさと捨てた方がいいわ。あんな見た目だけど、実力は本物のはずよ」

「っ……」


 動揺を、黒衣は隠せない。

 昼間にあった女の子ということもそうだが、それ以上に、妹に似た少女の正体が【妖精】だったという事実にこそ動揺してしまう。

 これは一体何を意味しているのか。ただの偶然、他人の空似と言うにはあまりにも無理矢理に過ぎる。

 黒衣を含めた一同が動けずにいると、白ウサギはおもむろに脇で倒れる魔女へと手を伸ばす。


「ぐ、あ――」

「ロゼ!!」


 どこにそんな力があるのか、白ウサギは魔女の首を片手で掴み上げると、その体を軽々と宙へと掲げる。

 信じられぬ力を発揮する白ウサギの細腕には、ぼんやりと青白い光が流れ出す。


「アンっ!」

「ダメよ桃!」


 魔女の救出か、はたまた白ウサギの打倒か。突撃の命を待つ桃だが、その支持を主人は却下する。


「迂闊に飛び込める相手じゃないわ。それに、もう――」


 言っている間にも、魔女の体からはみるみる生気が抜けていき。草花が干からびていく様を早回しで見ているかのように、魔女のドレスの隙間から覗く白い腕はまるで老婆のように痩せ細り、さっきまでの美貌は瞬く間に消え失せてしまう。

 数秒もせぬうちに、魔女の腕がだらりと垂れ下がる。そこには【妖精】とはいえ、存在する生命としての鼓動が一切感じられなかった。


「この程度」


 ぼそりと、期待外れとでも言いたげに白ウサギはそう呟く。そしてそのまま興味を失ったかのように魔女の――魔女だったももの体を放り捨てる。


「期待、してたのに」


 起伏のない表情で淡々とそう告げる白ウサギの声は、まるで空けた世界が再び闇夜で閉ざされたかのような錯覚を覚えさせられる。

 不意に、白ウサギがこちらへと視線を向ける。

 こちら――と言うより、黒衣だけに。


「あなたが、邪魔したの」


 呟くように、しかし確かに聞こえる鈴の音の声で、黒衣へと問いかける。


「……ああ。だが、、だ」

「そう」


 黒衣の答えにやはり短く返し、白ウサギの足下には深淵のごとき大穴が開く。

 その大穴に、黒衣は既視感を覚える。

 それは黒衣が最初の夕暮れにて【逢魔時】へと落ちた、あの大穴だ。


「ち、ちょっと待ち――」


 杏の制止の声も聞かぬまま、白ウサギは大穴と共にあっさりと消え去ってしまう。

 綺麗に澄んで見えていたはずの夏の夜に、何か見えない澱みを残して。



 それからのことは、はっきり言ってあまり覚えていない。

 事後処理やら応援がどうやらと杏が話していたが、俺は程なくして気を失ってしまった。

 意識がゆっくりと薄れていく中、八重の泣きそうな声だけが俺の耳の中を反響していた。



   *



 そして今朝、俺は自分の部屋の自分のベッドで目を覚ました。

 俺がどうやって帰ったのかは覚えていない。

 ただ、あれほど血を流していたはずの肩口の傷も、全身にあった切り傷も綺麗さっぱり消え去っていた。無論全部が全部というわけにはいかなかったようで、少々のかすり傷は残っていたものの、針を通すほどの大きな傷は全て何事もなかったかのように治癒されていた。

 これも【魔法】の力なのかと感心しつつ、俺は何事もなく学校へと登校していた。


「お」


 満月は唐突にそんな声を上げ、つられてそちらへと視線を向ける。

 そこには体育館から溢れ出してきた生徒たちがぞろぞろと教室棟の方へと向かう様子が見て取れた。

 どうやら終業式は粛々と執り行われたらしく、昨晩の騒動について特に騒ぎ出す生徒もいない様子だ。いつもの退屈極まりない締めの行事が行われたことを、真面目に出席していた彼らの顔から窺い取れる。


「なあ黒の字」

「なんだよ満月」


「誰か探してんのか?」


「っ――――――――」


 言われて、はたと気付く。

 いつの間にか俺は、体育館から流れるその群衆の中から、誰かの顔を探していたことに。

 そしてそれは、おそらく――。


 俺は満月の見る。

 俺にそう指摘した満月は、特に何か気にした様子もなく、アイスをかじりながら生徒の方を眺めている。

 おそらく、その質問に深い意味はない。ただなんとなく、俺の様子が気になったから聞いてきただけなのだろう。

 だが、当の俺は……。


「別に、誰も……」


 俺は短く、そう答える。

 なるたけ動揺を悟られないように、ゆっくりと。

 そうして人の流れが薄くなった頃、俺と満月はどちらともなしにベンチを立ち、今学期最期のホームルームが始まる教室へと向かう。



 油断していた。

 まさか、満月に気付かれてしまうなんて。

 いや、たぶん、俺は俺も気付いてきなかった。

 無意識だった。

 自分でも気付かないうちに、俺は探してたんだ。

 誰かだって? そんなの明白だ。

 俺はさっき、探してたんだ。

 女の子を。

 顔の見知った、三人の女の子を――。


 昔よく後ろにくっついてきた、小さな女の子を――。


 俺の顔を見ては泣いていた、泣き虫の女の子を――。


 そして、黄金に輝く白と水色に彩られた女の子のことを――。@


 俺は知らずのうちに追いかけていた。

 教室が近づく。

 ふと目に入るのは、隣の教室。

 既に多くの生徒が自分の教室へと帰っていて、クラスの友人と楽しく談笑していたり、少し早めの帰り支度をしていたりする。

 そんな中、クラスの中心。いつもは多くの女生徒が集まるはずの真ん中の席が一つ。ポツンと寂しく空席となっていた。

 一瞬足を止める俺を、満月が呼び教室へと帰る。

 教室はまだ何も始まっていなかった土曜の昼と何も変わらず、ただただ眩い日差しを俺の席へと差し込んでいた。

 全開の窓からはたっぷりと夏の日差しを吸い込んだ生暖かい風が流れ込み、不快に流れる汗を少しばかり紛らわせてくる。


「…………」


 未だ担任のやってこない教室は若き喧噪に包まれていて、これから夏休みが始まるという期待と希望にあふれかえっている。

 むせ返るほどに。


「ほーらお前ら、さっさと席に着け」


 気が付くと、担任の姉さんが教室へやってきていた。

 今学期最期のホームルーム。

 これが終われば、晴れて夏休み。

 また何も変わらない夏休みが始まる。

 俺はなんとなく窓の外へと目を向ける。

 窓の外は相変わらず目が痛くなるほどの光に包まれていて、けたたましく鳴り響くミンミン蝉の鳴き声と、時折低空を飛び行く飛行機のエンジン音が、抜けるほどの青空を統べる入道雲と共に、今が夏だということを俺に伝えてくる。

 何も変わらない。

 四年前も、今も、一昨日も。

 何も変わらない夏の景色。

 何もかもが変わったはずなのに、この夏の景色だけは変わらない。

 退屈な、景色。

 昨日までの奇跡は全て夏の暑さが見せた陽炎だったのではないかと思うほど、窓から見える空蝉うつせみは空虚に見える。

 終わってしまったのだと。

 終わって欲しくなかったのだと、思ってしまう。

 またいつもと変わらない日常が始まってしまう。



「……………………退屈だ」



 ブ……ブ……

 その時、不意にスマホが震える。

 姉さんにバレないように取り出して画面を見ると、そこにはいつの間にか登録されていた杏先輩のメッセージが表示されている。


『園咲さんは大丈夫だから、心配しないでね』


 見透かされたようなその内容に、思わず笑みが溢れてしまう。

 気ぃ使わせてんな。

 今度会ったとき、厳しいくせに後輩思いな先輩にお礼でもしようと考えていると、


 ブ……

 再び、メッセが入る。


『追伸――一応、これはアナタへのお礼のつもりだから』


 それを最期に、先輩からの連絡は途絶えてしまう。

 何のことかわからず首を捻っていると、


「えー……、明日から夏休みだが、お前たちに、急遽転校生を紹介する」


 姉さんのその発言に、教室内はにわかに騒がしくなる。


「本来なら二学期からの編入となるんだが、編入生の強い希望で今日からの編入となった。お前たちが驚くのは非常にわかる。私も驚いた。ていうかさっき聞いた。まあとりあえず、入れ――」


 よくわからない姉さんの説明ののち前方の扉が開き、生徒は一様にそちらへと視線を向ける。

 入ってきたのは、夏の太陽にも負けない黄金の髪に碧玉の瞳をした、異国風の少女――



「転校生のアリスだ。皆の者、よろしく頼む!!」



「――――――――」


 そんな――そんな、夏の太陽にも負けない満面の笑顔で現れたのは、泡沫の夢へと消えたはずの少女。


「おいおい。これはまた、なかなか上玉じゃねぇか」


 突然の金髪美少女の来訪に、クラスメイト同様テンションを上げる満月だが。

 俺はそんな感想を言えるほどの余裕などありはせず、



「アリス――――!!!」


 立ち上がり、名前を叫ぶ。


「おお、人間」


 そんな俺の驚きなどどこ吹く風と、アリスはいつもの調子で俺を呼ぶ。


「おまえ、どうして……っ」

「ふふ、驚いたか? 驚いただろう。あのサムライ娘が突然この服を寄越してきてな。今日からわたしもここで――」

「そんなことより、なんで、生きて……。みんなにも見えて……」

「ん? ん~~……、それがわたしにもよくわからんでな。どうも夢に消えるはずが逆に現へと変わってしまったらしい。ほら、わたしは【妖精】だしな」


 あっけらかんと、当たり前のように、そんなことを言ってくる。

 俺が、俺がどれだけ心配したと、思って……。


「バカヤロウ……」


 そんなアリスは、俺は思わず抱きしめる。

 周りからは黄色い声が上がるが、そんなこと知ったことではない。


「っ――――。お、おい人間……。さすがのわたしも、これほど情熱的な抱擁を人前でされるのはその、なんだ……、気恥ずかしいのだが……」

「よかった……」

「……人間」

「本当に、よかった……」


 俺がそう呟くと、アリスはもう何も言わない。

 ただそっと、優しく抱きしめ返してくれる。



「おかえり、アリス」

「ああ。ただいまだ、人間」



 ニッと、昨日の夜見たあの笑顔で、アリスは笑っていた。




   ***




「八重」

「あ、クロ」

#ここから

 銀杏並木が続く閑静な住宅街の中。

 とてとてと、俺の顔を見るなり駆け寄ってくる幼馴染みを見て、俺は頬が緩むのを感じる。


「おはようございます」

「ああ、おはよう」


 いつものように畏まった挨拶をしてくる八重に、俺も挨拶を返す。

 少し後ろには久々に会う八重の母親が立っていて、俺に柄着を返すと八重に「車で待ってるわね」とだけ言って背を向ける。


「…………」

「…………」


 挨拶もそこそこに、俺たちは互いの顔を見るなり口を閉ざしてしまう。

 なぜと問われても困る。なんとなく、気恥ずかしさを感じたから。


「え……っと、元気に、してましたか?」

「なんだよそれ。えらく他人行儀だな」


 八重らしからぬその態度に俺は思わず苦笑を漏らし、八重もそれを見て頬を紅くする。


「だ、だってあの後、一度も、会えてませんから……」


 そう。あの夜から二日。昨日の終業式にも出席していなかった八重と俺は結局一度も会うことができず、連絡を入れようにも八重への電話は一向に繋がることがなかった。

 そうしてようやく今朝、杏から一件のメッセージが届いていた。


『今日、園咲さんがこの街を発つわ』


 その簡素すぎるメッセージで、ようやく俺は今日のことを知ったのだ。


「アリスさんも、ご無事だったって聞いたときは驚きました」

「まぁ無理もない。わたしほどの【妖精】ともなると、常人ではありえぬ奇跡くらい日常茶飯事で起こすのだ」

「ありがたみが全くないな」


 フンスと胸を張るアリスだが、発見された当時は生まれたままの姿で倒れていたらしく、魔力もその一切が残ったおらず、人間で言うところの衰弱に近い状態だったらしい。

 それがたった一晩で歩けるまでに回復したというのだから、そのバケモノ具合が窺える。


 そんなアリスの上段(九割本気)にクスクスと笑う八重は、一見するといつも通りのようで、次に口を開けば口やかましくあーしろだこーしろだの説教してきそうなほど、その面持ちは自然に見えた。

 だが、だからこそわかる。

 今の八重が、常とは違っていることが。

 いつも通りではないことが。


「本当に、出てくのか」

「…………。はい」


 唐突に切り出した話に、八重は待っていたかのようにゆっくりと頷いた。


「お父さんとお母さんの離婚が正式に決まりました」


 その声は、蝉の音すら聞こえない静かな朝に、小さく響く。


「本当は私の卒業を待ってからにするつもりだったらしいのですが、それももう……限界、らしくて……」


 少し俯き気味ではあるものの、八重の顔はさっさと変わることなく笑顔のままで。

 ただ淡々と、昨日聞いたであろう事の荒回しを俺に語る。


「だからせめて一学期が終わるまではということで、昨日、その……届け出を出してきたみたいなんです」


 だがやはり、その声の奥は震えていた。


「…………、そうか……」


 こんなとき、そんなことしか言えない自分が情けない。

 気の利いた一言すら、俺は言えやしない。


「やっぱり、クロは優しいです」

「え……」


 そんな俺を、八重が声をかける。


「たぶん、他の人なら可哀想とか、悲しいとか言って慰めてくれると思うんです」


 ああ、そうかもしれない。でも――、


「でも、お前はもう呑み込んだんだろ?」


 きっと、そう。こいつなら。


「……はい。やっぱり、家族がバラバラになるのは悲しいです。慣れ親しんだこの街を離れるのもスゴく辛いです。それに共感してくれるのも慰めてくれるのも、どうちらも嬉しいですし、ありがたいと心から思います。でも、それはもう、受け入れたことですから」


 何かを思い出すように、八重は胸を握りしめる。


「あの夜、私はロゼに賭けました。たとえ他の人たちが傷ついても、私の大切な人が――大切な人たちが帰ってくるのなら、それでいいと。それでも構わないと、そう思いました」


 それが、八重の決意だったのだろう。

 人が傷つくことを、八重は望まない。同じ図書委員の子が【妖精】の被害に遭ったという話に、八重はひどく動揺を見せていた。

 それは他者への共感か。それとも自身への罪悪感からか。

 おそらく、そのどちらもなのだろう。

 人が傷つくことは望まない。

 だが、それでも叶えたい願いが、八重にはあった。

 自分の考えを、思いをねじ曲げてでも叶えたい願いが。


「でも、それは叶いませんでした」

「八重……」

「そんな顔しないでください。クロは正しかったんです。正しいことをしたんです。何も間違ってなんていません。間違っていたのは――私なんですから」


 泣きそうな、今にも泣きそうな笑顔で、八重は笑う。


「それに、私は嬉しかったんですよ?」

「嬉しい?」

「はい。間違った私を止めてくれたのは、やっぱりクロでした。他の誰でもない、クロでした」


 そう、八重は言う。黒衣は、ある意味で彼女の目的だ。黒衣なくして彼女の願いの成就もあり得ない。そんな彼が敵対し、あまつさえ自身を止めてしまったことに、八重は嬉しいと、よかったとそう言うのだ。


「それが私にとって何よりの救い。やっぱり今も昔も、私を引っ張ってくれるのはクロなんだなって、そう思いました」

「そんなこと――」

「でも、それも今日でおしまいです」


 黒衣の言葉を遮って、八重はきっぱりと言う。


「私、変わりますから。クロがいなくても、大丈夫なように」


 次第にその目頭は熱くなる。


「だから、お別れは言いません。一人でも大丈夫なようになったから、また、いずれ……」


 だがすぐに、堰き止めていたものが決壊する。


「ぅぅ……。泣かないって、決めたのに……」

「……大丈夫だ。お前は泣いてない」


 なぜなら、涙なんて流れていないから。

 俺の胸へと埋もれた顔に、涙なんて見えはしないから。

 だから俺は、八重を強く抱きしめる。

 できることなら、もっと早くにこうすべきだった。

 でもそれが叶わないから、これからはもう二度と流させない。

 だから……、


「…………。」


 その先の言葉を呑み込んで、俺は八重と目を合わす。

 少し潤んだ瞳は、やはりあの頃のように思えて。

 どうしても離したくないと――手を引っ張って連れ去ってしまいたいと、そう思えてしまう。


 でも、もうそれじゃあダメなんだよな。

 だって八重はもう、呑み込んだのだから。

 だったら、俺もそれに倣おう。

 もう二度と、大切な人を手放さないためにも。


 俺がそうして離れずにいると、八重は自ら一歩退き、俺から離れていく。


「それじゃクロ、また……ね」

「……ああ、また」


 八重はそう言って手を振ると、そのまま振り向かず、母親の待つ車へと乗り込んでいく。

 最期に母親が俺に一礼して、車は発進してしまう。

 次第に見えなくなっていく車を、俺は最期まで目を離すことはなく。

 八重もまた、最期までこちらを振り返ることはなかった。



「……なあアリス」

「なんだ」

「俺はさ。間違ってたのかな」

「さぁな。わたしにはわからん」

「冷たいな」

「慰めて欲しいのか?」

「……いや」


 そうじゃない、よな。

 優しい声をかけてほしいわけじゃない、よな。


「俺は……お前の願いを叶える」

「ああ。知っている」

「俺の願いも、俺は叶える」

「ああ。それも知っている」

「俺とお前、両方で俺たちの願いだ」

「ああ。わたしとお前の願い。両方でわたしたちだ。何故なら、わたしたちはパートナーなのだからな」

「ああ。それまで、お前は俺と一緒にいてくれるか?」

「それはお前次第だ。わたしを退屈させるようなことがあれば、わたしはすぐにでもお前を見限るぞ」


 それを聞いて、俺は思わず頬がほころぶ。


「む、なんだ。何がおかしい」

「いいや、なんでもない」

「なんでもないことがあるか。今確実にわたいを笑っ――」

「――ああ。俺はお前を飽きさせない。この世界の不思議も、この世界にすらない不思議も、全部お前に見せてやる。だから、お前も俺に魅せてくれ。前の不思議を」

「……おう。承知した!」


 するとアリスは俺の手を取り、走り出す。


「なっ、おい!」

「ならば善は急げだ! まずはこの街の不思議へ!」



 ――『ま、待ってクロ、引っ張らないで』

 ――『ほらあそこあそこ! そこの空き地に、不思議の口の入り口があるんだって!』



 不意に、俺はいつかすら忘れた出来事を思い出し、笑う。

 ああ、そうだ。


「ああ。何処へでも着いて行くさ」


 蝉はけたたましくいななき、空は落ちてくるほどの青を浮かべて流れていく。

 まだまだ夏は始まったばかりで。

 俺の新しい夏も、これから始まる。


 夏休みが――始まる。



「ひとまずあの怪しい店へ行くぞ!」

「おい、あれはただの和菓子屋じゃねえか!」



 日が傾く茜色の世界まではまだまだ遠く。

 黄金色の昼はどこまでも続いていく。




                               ――――了

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妖精の戯曲 -Fairy Rond- ことぶき司 @kotobuki7777

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