第二十九話『夢現の不可思議世界』
「やったの?」
大の字に倒れる黒衣の視界に、刀を携え眼鏡を外した眼鏡少女がその短い黒髪を揺らして入ってくる。
短いスカートならばもしくは……、などと男の子的なことを考えつつ、そこまでして命を捨てる根気も体力も既に残ってはいないと断念。眼を背けつつ問われた答えを返す。
「はい。たぶん、ですけど……」
「そう」
短い答えに短く返し、杏は魔女を見つめる。
自分の心音以外何も聞こえないこの世界は、戦いの終わりを静かに告げてくる。
「八重は……?」
「大丈夫よ。桃が付いてるわ」
言って杏は視線を移す。そこにはさきほど黒衣がいた校舎の壊れた教室。その端で静かに佇む桃の傍に、心配そうな表情でこちらを覗き込む八重が膝をつき座っていた。
「そうか。助かった」
「まったく。アナタもあの子も、相手のことばっかり気にしちゃって。ちょっとは自分のことも心配しろっての。ホンット、お熱いことね」
呆れたと言わんばかりにそんなことを吐く杏に、言い返す気力もなく黒衣は口を閉ざす。
「まったくだ。少しはわたしの心配もしてくれていいものだがなあ、人間?」
するとアリスが何食わぬ顔で現れる。
空色と白が映えるエプロンドレスも左右非対称のソックスも全て血と土でぼろぼろとなり、本人も多くの生傷――特に最期に食らった腹部の傷――で痛々しい姿と成り果てていた。だが、その表情は見た目とは裏腹に、怪我などどこ吹く風と言った様子だ。
「アリス……。すまない、無事か?」
「いいや、無事じゃない。他の女の後回しにされたわたしの心は深く傷ついた。詫びに、最高級の茶葉と極上の甘味を所望する」
ふんす。と、胸を張ってそんなことを言ってくる。
なんだ。やっぱり、全然無事じゃないか。
と、黒衣は少し安心して口を開く。
「わかった。帰ったら買っておくよ」
「忘れるでないぞ」
……どら焼きでもやっておくか。
満足げにドヤ顔をするアリスに、ため息を吐きつつも笑みを零す杏。
そして遠くの校舎から未だ心配そうな視線を向けてくる八重。
そんな三人の少女の姿を眼に納めて、黒衣は戦いの終わりを確信する。
ああ、護れたのだな、と。
ようやく、自分は大切なものを一つ護れたのだと、黒衣は不意に口元を綻ばせる。
「――成った」
――そんな、誰もが安心しきっていた時だった。
ただ一言、小さく響いたその呟きは、闇夜の静寂に霹靂の如く伝わり、その場にいた誰しもを凍り付かせる。
近くでその声を聞いた三人が向けるのは、銃数メートル先で倒れているはずの女――茨の魔女。
使役してた万を超す狼の群れも、緑翼を誇る巨竜の咆哮も、待機に散らばる魔力の光も、全て魔女が倒れたと同時に綺麗に消え去っていた。魔女本人も未だその場で倒れ伏し、立ち上がる気配などありはしない。
だが確信できる。
目の前で対面したその三人だからこそ感じる。
その場で死体のように倒れるその女は、未だ負けてはいないのだと。
倒れてなお、その女は人を、【妖精】すらも恐怖させる存在――【魔女】は健在なのだと。
「『成った』とは何のことだ」
三人が魔女の元へ駆けつけるよりも速く、一陣の風が三人の横を駆け抜ける。
桃太郎だ。
桃は魔女の元へいち早く辿り着くと、同時に魔女の首へとその大太刀を突きつける。
「ふふ……。サムライか」
ドレスは汚れさきほどまでの煌びやかさはそこにはないが、その妖艶な声色は未だ衰えてはいない。
「答えろ」
不敵に笑む魔女に、桃は容赦なく答えを迫る。
「簡単なことだ。見ろ」
視線だけを動かし示す魔女につられ、その場の全員がそちらへ顔を向ける。
それは、華だった。
全員が視線を向けると同時に花開く、巨大なる大輪の華。幾重にも絡まり合った茨の螺旋の先より咲き出で、虹の花弁と光の密を滴らせる、それはまさに神代の薔薇。
開いたばかりの華は瞬く間に満開へとなり、空間全てを光の波によって満たしていく。
「はは……、ははははははっ」
突如花開いた茨の大樹を一同が唖然とした面持ちで見つめる中、一人倒れたままの魔女が高らかに嗤う。
その華の光を讃えるが如く。
「っ……」
そんな光の空間へと一変した世界で、いち早く行動を起こしたのは杏だった。
杏は桃の刀の先で嗤う魔女へと賭けより、その胸ぐらを掴み訴える。
「今すぐ答えなさい、あれは何っ!」
「わかっているのだろう、鬼狩りの娘よ。あれは人の子らより抽出し編まれた高純度の魔力そのものだ」
「魔力の塊……、いいえ、魔力の結晶ね」
「ああ、そうだ。本来器なしには留めることのできぬ魔力に形を与えることで、高純度かつ大質量の魔力塊へと変質させたのがあの華だ。我がこの世を統べるための足掛かりとして創った、膨大なる魔力の源だ」
「……魔力源……。【妖精】は人間の協力なしにはこちらの世界で生きられない。その呪縛からの解放のために、こんなものを」
「その通りだ。この世は住み辛い。我らが
「そのために、どれだけの人間や【妖精】を犠牲にしたと――」
「知ったことではない」
「っ――」
「我は【魔女】だ。それは何をどう取り繕ろうと変わらぬこと。取り繕うつまりなど馬の毛先ほどもありはしないが。なればこそ、その生まれ持った本質に従い、人に、【妖精】に、この世界に、
嗤う。
魔女は嗤う。
自分は魔女だと、そう嗤う。
それを誇るでもなく、卑下するでもなく、ただそうなのだと嗤う。
自分はただの魔女なのだと。
どうしようもないほど、どうしようともしないまでも、魔女であるのだと。
魔女はそう言って、嗤う。
「……あれを止めなさい」
「無理だ」
「止めなさい!」
「不可能だ。既に手遅れ。一度成った魔力塊はそう簡単には解体などできぬし、下手に触れればどうなるか我にもわからん。
「なっ……」
「貴様にもこの意味が理解できよう。魔力とはつまりエネルギーだ。膨大なるエネルギーが消費されることなく暴走すればどうなるのか……」
簡単な話だ。エネルギーとはすなわち力のこと。一つ所に集められ圧縮された力が制御できずに暴走、行き場を失い外へと漏れ出す。それはつまるところの、爆弾だ。
それも大質量の魔力を一点に固めた、巨大な爆弾。
「よくて待ち一つ。悪ければこの都市一帯は丸ごと吹き飛ぶことになるだろう」
それを聞いて、その場の全員が息を呑む。
予想はしていた。魔法などという奇跡を生み出す力。その暴走がいかほどなものになるのか。魔法を行使する者たちであるからこそ、その言葉が事実であるということを嫌でも理解させられる。
「そん、な……」
そんな中、ただ一人、一同とは違う感情を持った声が聞こえてくる。
そちらに顔を向けずとも、黒衣にはわかる。
「八重」
そこにいたのは、胸に手を置き、不安そうな表情でこちらを見つめる八重の姿だった。
「ああ……、ああロゼ。嘘、ですよね? 貴女が、まさかそんなこと……」
「すまないな、我が愛しい娘よ。我が唯一愛した人の子よ。だが、もう遅いのだ。何もかも失ってしまったのだ。もう我にはどうすることもできぬ。我は、負けたのだ」
「そんな……」
親しき友人のように寄り添う八重は、魔女のその言葉により一層顔色を落とし、へたりとその場に座り込んでしまう。
「クロ……」
八重はまるで救いを求めるように黒衣を見つめる。
「……先輩。どうにか――」
「わかっているのでしょ。あたしには、どうすることもできない。魔女の魔法によって編まれた術式を、人間程度でどうにかすることは難しいわ。……いいえ、不可能よ。出来たとしても、どれほどの時間がかかるのか……。もちろん破壊もダメ。聞いたでしょ。あれは、要は爆弾。それもとびっきり大型のね。それを不用意に攻撃なんてしようものなら……」
その先は言わずとも理解できる。さっき魔女が口にした町一つ。それはつまりこの爆弾による被爆圏内。もしかすると都市一つを丸ごと灰にするかもしれないのだ。そんなものを不用意に攻撃など、できるはずもない。
可能性があるとすれば、それは魔女だろう。魔女こそがこの光の薔薇を創った張本人。魔女ならば、おそらく制御は可能だろう。だがそれは、一時でもこの魔女に莫大な魔力を与えるということに他ならない。今回の元凶たるこの魔女を自由にするのと同義だ。それは、出来ない。
「っ…………」
口を閉ざし視線を背ける黒衣に、八重は涙を一筋流す。
今度の涙は、俺のためでも、自分のためでもなく、犯してしまった罪のため。
どうすることもできない現実に、八重は静かに涙を流す。
救いなどないと、叫ぶかのように。
「あれを消せばよいのだな、人間」
その場の全員が絶望に拳を握る中。たった一人、アリスだけが静かにそう呟く。
「アリス?」
こちらに背中を向けたまま、アリスは光の薔薇を見上げ続けている。その顔をこちらかは読み取れないが、その背中だけが何かを語っていた。
「どうなんだ、人間」
「あ、ああ。それはそうだが……」
アリスが何を意図しているのかわからない。
……いや。わかってはいる。だが、それは何かいけないような、そんな気がするのだ。
「そうか」
「アリス?」
「……知っているか、人間。いや、知らないだろうな。わたしの魔法はな、二つあるんだ」
「なに?」
突然のアリスの告白に、黒衣はさらにわからなくなる。アリスが何を言おうとしているのか。
「なにも珍しいことではない。【妖精】ならば一つ以上の魔法を扱える者も中にはいる。わたしのその一人だというだけの話だ」
だからそう驚くなと、アリスは言う。
だが黒衣が驚いているのはそんなことではない。
今それを話すことに、驚いているのだ。
「一つはお前にも見せただろう。思い描いた不思議を
それは知っている。さきの戦闘でも目にした、詩唄う自在の魔法。
「そしてもう一つ。夢と現実の境をなくし、二つを入れ替える魔法。その名は『
夢と現実を、入れ替える?
「夢と現実を交じり合わせる魔法だ。夢を現実に。現実を夢に。昨晩見た夢を現実に変えることも、目の前で起きた事実を白昼夢に変えることもできる、わたしのとっておきの一つだ」
説明されても、やはりよくわからない。
だがそれに、杏が反応する。
「現実を夢にって……、それが本当なら、それはもう魔法なんてものじゃないわ。現実の書き換え。有を無にも、無を有にも変えることのできる、まさに神の所業。真の奇跡じゃない! そんな魔法があるわけが……」
「ああ。無論、代償はある」
信じられないという杏に、アリスは答える。
「それは、使用者である私もその影響を受けてしまうということだ」
「それは、どういう……」
「さぁな。なにせ、わたしもこの魔法は使ったことがないゆえ、実際に何が起こるのかはさっぱりわからない」
「なんだよ、それ」
「おそらくだが、わたしの存在も夢に消えるのだろう」
「……」
「当然だな。夢は
それは、なんとなく予想できていた。
アリスが話し始めたときから、そんな予感はあった。
アリスは、そのつもりなのだと。
「だったら、それはできない。やらせるわけにはいかない。何か他に方法を――」
「ああ、そうだろうな」
提案を却下する黒衣に、アリスは静かに、何かを納得したように目を瞑る。
「何のことだ?」
「お前は、そう言うと思っていた。出逢ったばかりの【妖精】の顔色をを、いちいち気にするようなお前なら」
不意に、アリスはこちらへ顔を向ける。ずっと背けていた顔を。
その顔は笑っていた。まるで泣きそうなくらいに、満面に笑っていた。
「だがな、人間。どうやら、もう時間は残っていないようだ」
そう言うアリスは再び視線を戻す。そこにある光の薔薇はさきほどよりも光量を増し、今すぐにでも臨界点を突破しそうなほどに光を振りまいていた。
「迷っている暇はない以上、答えは決まっている」
答えは決まっていると、アリスはそう言う。
しかし黒衣は思う。答えが決まっているのではなく、既にアリスが、答えを決めてしまっているのだと。
「だけど、それじゃあ……」
顔を背け頭を巡らせる黒衣に、アリスは優しく笑う。
「そんな顔をするな、人間。お前の願いはまだ叶えられてはいないが、それでも潰えてはいない。共に叶えることができなくなったのは残念に思うが、それはお前がこれから成し遂げていけばいいだけのこと」
自分が今どんな顔をしているのかわらかない。それでもアリスは、黒衣の顔を見て笑う。
「それに、案外わたしは満足しているのだぞ? この世界にいたのはたった二日だけだったが、それでも、わたしは十分楽しかった。満足などしてはいない。だが、楽しかったというこの紛れもない事実だ。感謝するぞ、人間」
笑う。
アリスは笑う。
消えるということは、つまり死ぬということなのだろう。
だというのに、アリスはそれを口にして、笑う。
「アリス……」
「サムライ女。お前にも世話になったな。あまりそうは思わぬが、そういうことにしておいてやろう」
「ホンット、最期まで減らず口が絶えないのね、アナタ」
「お前も人のことは言えないだろう」
「そうね。そうかもしれないわね」
「後のことは任せるぞ」
「ええ、そこは安心しなさい」
「……助かる」
杏とも別れを告げ、アリスは薔薇の元へ向かおうと一歩踏み出す。
「待ってください」
それを、八重が引き留める。
「どうして、どうして貴女がそこまでするんですか? 【妖精】の貴女なら、ここから逃げるなんて簡単なはずです。なのにどうして、私たちのために、そこまで……」
胸の前で手を握り、八重は真摯に問う。
自らを犠牲にして他を救おうとするアリスに対して。
「確かに、わたしなら逃げ果せることも可能やもしれん」
「だったら……」
「だが、約束したのでな」
「……約束、ですか?」
「ああ。こいつと、こいつの願いを叶えてやるとな」
そう言って、アリスは親指で黒衣を示す。
「だから、わたしはそれを叶えるために行くのだ」
「たとえそれが、死ぬことになっても……ですか」
「ああ。その通りだ。たとえ死ぬことになろうとも、それは既にわたしの叶えたい願いなのだから。契約だから、ではない。そう共に誓ったからだ」
アリスは胸を張ってそう告げる。
誰の、誰かのためなどではなく、自分の、自分が叶えたい願いのために、自ら進み行くのだと。
「もう、止めても無駄なのか」
「ああ、無駄だな」
「そうか……」
「さっきも言っただろう。そんな顔をするな。男は美しい女を笑って見送るものだ」
「ああ、わかってるさ」
なんとか笑顔を作ろうと努力するが、そう簡単に自分を誤魔化すことができない。
そんな俺を見て、アリスはフッと笑い、前を向く。
「ではな、人間。今まで楽しかったぞ」
「……くろえだ」
「ん?」
「俺の名前だ。たった二日だったけど、お前と過ごしたパートナーの名前だ」
「ああ……、ああ、そうだな。クロエ!」
最期に、アリスは嬉しそうに笑う。
子供のように、くしゃくしゃの笑顔で。
「ありがとう、アリス。俺も楽しかった」
「ああ」
アリスは再び歩み出す。
薔薇の光量はさらに増大し、既に目を開けていられないほど溢れている。
そんな空間を、アリスは一人進む。
「『
同時に、光が溢れた。
白とも青ともつかない光が、空間を丸ごと包み込む。
その光は臨界寸前の薔薇の華さえも呑み込み、その存在をブレさせる。
見ているものが現実なのか夢なのか、それすらも曖昧に思えてきたその時。唐突に世界は我を取り戻したかのように、ブツリと音を立てて、動き出す。
茨の大樹も光の薔薇も、【逢魔時】すらも掻き消えたその世界には、ただ静寂なる青い月だけが輝いていた。
それまでの出来事が全て夢だったかのように、人の世は何事もなく動き出す。
そこにいたはずの――エプロンドレスの少女も、夢へと消えて。
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