第二十八話『共に』


「くっ……」

「クロ!」


 崩れるように、黒衣は膝をつく。

 全力疾走でもしていたのかと言わんばかりに、息は絶え絶えに、額には玉の汗が溢れている。


「八重……、無事か……?」

「なに、を、言っているんですか……」


 黒衣の言葉に、八重の目頭はまた熱くなるのを感じる。


「私なんかの心配より、まず自分の心配をしてください! 自分が……クロが今どれだけ傷ついているのかわかってるんですか!」


 憤慨したように、八重は叫ぶ。

 それも当然だ。黒衣は今文字通り全身傷だらけで、服は所々が派手に裂け、また血を滲ませている。露出した肌は血を流しているのか、そうでなければ青く痛々しい痣を作っている。

 満身創痍。誰がどう見ても、気絶していないことが不思議なほどの惨状だ。まして他人の心配などしている場合ではない。

 八重の意見は至極真っ当なものだ。

 だがそれでも、


「よかった」

「え」

「本当に、よかった……」


 八重の無事な姿を目にして、黒衣は心底安心したとばかりに深く息を吐き、そして笑う。

 まるで――そうまるで、家族を見るように。

 そんな黒衣の姿に、八重はついさっきまで敵対していたことも忘れ、黒衣の腕をとる。


「八重……っ――……」

「応急処置です。少し、じっとしていてください」


 八重はどこから出したのか、ハンカチとテーピングテープを取り出すと慣れた手つきで特に傷の酷い左肩口へと巻いていく。


「……これで大丈夫です。安静は必要ですけど、これで出血は抑えられるはずです」

「お、おお……。お前、いつの間にこんな」

「仮にもスポーツを嗜んでいる身です。これくらい出来て当然です」


 八重が言う間に、黒衣はテープを巻かれ固定された肩を回し、動作確認を行う。どうやら随分軽めに処置されているらしく、傷口はしっかりと覆われている割に肩の動作にそれほどの制限はなく、違和感もほとんど感じない。

 これなら……。

 黒衣はそう思い立ち上がる。


「クロ! まだ動いちゃ――」

「ひとまず、ここを出よう。どうにかお前を安全な場所に――」


 しかし――、



 ッド、……ッガーーン――!!



 その言葉を言い終わる前に、突如窓際の壁に大きな衝撃が走る。


「なんだ!?」


 壁は激しく崩れ、土煙が教室内を覆う。

 そんな中、


「――っごほっごっほ……。なんだこの煙は。ええい鬱陶しい!」


 ぶんぶんと、煙たそうに土煙を払おうとする人影を見て、黒衣は声を上げる。


「アリスか?」

「む? その声は――」


 言って土煙が晴れると共に姿を現したのは、黒衣のパートナー・アリス。


「おお、やはり人間ではないか。このようなところで何をしている? あの娘は無事に助け……出せたようだな」


 黒衣の傍に座る八重を見て、アリスも安心といった表情を見せる。


「ああ。お前のおかげだ」


 見たところ、アリスは大した傷こそないものの、服や日傘が土やら焦げ跡やらで薄汚れ、外での奮闘を窺わせる。


「ふ。当然だ。なにせ、お前は私のパートナーなのだからな」


 しかしそんな苦戦の様子を一切窺わせず、アリスは堂々と黒衣の前に立つ。

 そんなアリスの元へ駆け寄ろうとして、


「ま、待ってください!」


 しかし、八重が呼び止める。


「クロ、待って……もう行かないで、ください。もう、私を置いて、何処へも行かないで……」


 涙を堪えるように、ぎゅっと胸を握りしめ。

 それでも必死に、八重は行かせまいと黒衣の服の裾をそっと掴む。

 ああそれは、まるでいつか見た少女のように。

 決して強くはない力で、それでも必死に、頑なに、その小さな親指と人差し指で握りしめる。

 そんな、いつしかの光景と重なる彼女を見て、黒衣は片膝をつく。


「ごめんな、八重」


 そっと、その小さな手を握り、黒衣は涙に揺れる瞳を見つめる。


「でも俺、行かないと」


 そして出たのは、望まぬ答え。


「……どうして。どうしてクロはいつも私を置いて何処かへ行こうとするんですか。あの時だって、クロは私に何も言わずに……。もう嫌なんです。ゆきちゃんも、クロも、お父さんもお母さんも、みんな。大切な人がどこかへ行ってしまうのは、もう……嫌なんです……」


 握った手は細かく震え、俯き伏せた顔からは雫が零れ落ちる。

 見慣れたその肩は、あの夏に見たときよりも一回りも二回りも大きくなった。

 だけどそこにいる少女は、確かに俺の横で泣いていたあの女の子だ。

 ずっと変わらない。

 変わろうと必死に足掻いて、それでも変われない。

 何かを諦めた愚かな少年のため必死にその小さな手を伸ばし、何度その手から滑り落ちようと諦めなかった少女。

 失ってしまった大切なもののため、もう一つの大切なものを守ろうとした愛おしい少女。

 少女は言う。自分は何も出来ないのだと。

 でも、それは違う。違うと、知っている。

 少女がいてくれたおかげで踏み外さなかった人間が、確かにいる。

 少女が変わろうとした姿を見て、確かな安心感を得ていた人間がいる。

 大切な部分だけは決して変わることのなかった少女に、救われた愚かな少年が此処にはいる。


「ああ。俺だってそうだ。紗雪も、八重も、もう誰も失いたくなんかない」

「だったら……」


 だからこそ、


「だからこそ、俺は行かなきゃならない」


 握った手のひらが、一層熱くなる。


「もう二度と、失わないため。もう二度と、愚かな自分を後悔しないために」

「クロ……」

「だから、待っていてくれ。お前が笑顔で待っててくれれば、俺は安心して帰ってこれる」

「……クロは、ズルいです。そんなこと言われたら、もう止めるわけにはいかないじゃないですか」


 地響きが鳴り、校舎が揺れる。半壊した教室にはぱらぱらと塵が落ち、今にも崩れんばかりに悲鳴を上げる。

 だが暗闇に染まる蒼色の静寂だけは決して破れることなく、八重は顔を上げる。

 そこにはもう、泣き虫の少女の顔はない。


「わかりました。もう泣きません。だから必ず、帰ってきてください。だって――」


 そこにあるのは――、



「だってここが、クロの居場所なんですから」



 いつの日か見た、少女の満面の笑顔。


「ああ。言ってくる」


 黒衣は立ち上がり、後方の扉へと視線を向ける。


「あとは任せましたよ、先輩」

「まったく。揃いも揃って、ホンット出来の悪い後輩ばっかりね」


 そこにはいつから見ていたのか、不出来な後輩らに眉根を降ろす杏が立っていた。


「いいわ。園咲さんはあたしが責任を持って見ておいてあげるから、アナタはさっさと行ってきなさい」

「……ありがとうございます」


 ひらひらと手を振り、さっさと行けと促してくる杏を尻目に、黒衣は壊れた壁際に立つパートナーの元へ歩みを寄せる。



「もうよいのか?」


 静かに、こちらに視線を向けず、アリスは問う。


「ああ」


 そしてその問いに、黒衣も静かに答える。


「お前の願いは見つかったのか?」

「ああ。見つかった」


 互いは決して視線を交じり合わせることなく、ただ前だけを見つめる。


「なれば、それはわたしの願いも同然だ。お前とともに叶えるべき、わたしの願いだ」

「…………」


 ふと視線を感じて、黒衣は視線を向ける。

 そこには意外そうな瞳を黒衣に向ける、アリスの顔が。


「どうした?」

「いや。この数分で、随分と顔つきを変えたものだなと思っただけだ」

「そうか? いや……、そうかもな」

「怖くはないか?」


 アリスの問いに黒衣は答えず、正面に広がる景色に視線を向ける。

 階下には無数の狼が走り回り、前方には校舎よりも高く伸びる茨の大樹。

 そしてその周りを旋回するように、緑鱗のドラゴンが翼を広げ飛んでいる。


「……正直に言えば、少し怖い。昨日までただの一般人だった俺が、覚えたての魔法なんかを武器に魔女退治なんてな。おとぎ話にしても、少し展開が無理矢理過ぎやしないか?」

「ふふ……。ああ、そうかもしれないな」


 そう。そこに広がるのは、昨日まではあり得なかった、不可思議の世界。


「だけど、悪い気分じゃない」

「ほう?」

「お前の願い。『退屈のない世界を楽しむ』。今なら俺にもわかる。それは、かつて俺が見ていたものだ。そしてあの世界に置いて来てしまったものだ」


 それは、いつか手にして、忘れてしまったもの。


「紗雪を取り戻すことで、俺はもう一度あの景色を見たい。俺や俺の大切な人たちが共に笑って過ごせる世界を、俺は取り戻したい」

「ならば、どうする?」


 その答えは、知っている。


「簡単なことだ。俺は願いを叶える。もしそれを邪魔する奴がいるのなら――」

「――叩き潰す。いい答えだ、人間」


 それは今までにも用いてきたシンプルな手段。

 だが決定的に違う。

 意味なく振るう暴力ではなく、それは信念を抱いた反逆だ。

 自身と、世界に対する叛逆。


「だが一つ訂正だ、人間」

「? 何をだ」

「お前はもう、わたしと同じ景色を見ているはずだ」

「それは……」

「何故なら、今のお前は――実に楽しそうだ」


 アリスの言葉で、気付かされる。

 知らずうちに、自分の口元が大きく歪んでいることに。

 子供のように、興奮と期待に、その口元を笑みに変えていることに。


「……ああ。だったら、もう問題なんて何もねぇ。もう迷う理由なんか一つも、ねぇ!」

「行くぞ、人間」




「ああ。こっから先は俺の、俺たちの――」

「――わたしたちの時間だ」




 黒衣とアリスは空いた大穴から飛び出し、校舎を垂直に駆け下りる。

 対するは、グラウンド中央に聳え立つ茨の大樹、その麓で二人を仰ぎ見る妖精の女――『茨の魔女』。


「行け」


 魔女は手をかざし、配下に進軍を言い渡す。

 迫り来るそれは、一見すればグラウンドに引き詰められた灰色の絨毯。だがそうではない。それらは全て狼だ。灰狼の群れ。アリスが蹴散らした千の狼など優に超える、数万に及ぶ狼の大軍勢。


 万の狼は魔女の号令と共に走り出す。怒濤の勢いで校舎を降る黒衣とアリスの正面へと、重力などものともせず垂直に駆け上がる。


 それを見て、黒衣は拳を握る。

 ――時間操作の魔法。それが黒衣に与えられた魔法だ。

 だがそれは時間操作とは名ばかりの、欠陥だらけの魔法。

 まず時間を止めることが出来るのは、ほんの一瞬。魔法を用い時間を止めたとしても、一秒も維持することは出来ず、停止した時間はすぐに解除されてしまう。時間を遡る『時間回帰』も同様に、一瞬の時間しか巻き戻すことは叶わない。

 操るなんて、そんなご大層なことは決してできない、不完全で不親切な魔法。

 過去に戻ることも、過去を変えることすらもできはしない、奇跡と呼ぶにはお粗末過ぎるそれが黒衣の魔法だ。


 だが、それで十分。

 ほんの一瞬。一秒にも、零コンマ一秒にすら満たない時間だとしても、それだけ時間があるのなら十分だ。

 相手に拳を叩き込むには、十分すぎる時間だ。

 それだけの時間があるのなら、一発と言わず、何百発も持って行け。

 その対価はくれてやる。

 校舎中央に交錯した狼の大軍勢は、ただ勢いに任せ降る黒衣とアリスをあっという間に呑み込んでしまう。

 だが――、


「――邪魔だ」


 二人が呑み込まれたとほぼ同時に、狼の群れに大穴が開き、そのままモーゼの十戒の如く縦に割れていく。


「どけぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」


 だが、そう上手くはいかない。

 一瞬の間に百の一撃を叩き込む黒衣の拳と言えど、魔女による圧倒的なまでの物量には敵わない。

 徐々に、その勢いは削がれていく。

 そして、たった一瞬。黒衣の魔力が尽きかけ、わずかな空白の時間が訪れた一瞬を見逃さず、狼たちは二人へと殺到する。



『   きらきら瞬く夜空の星よ

    あなたは一体誰なのかしら

    世界の空の遙か彼方

    宝石のように輝くあなた    』



 その詩は、うなり声の隙間を縫うように空へと吸い込まれ、無音の世界へと消えていく。

 そして次の時には、何もなかったはずの空に星々が瞬き始める。


「『ステラよ』」


 それが合図とばかりに、それらは落ちてくる。

 星と言うには少々大きく、隕石と言うにはファンシーに過ぎる。そんな光り輝く五芒星ペンタグラム

 それらは今まさに襲いかからんとしていた狼たちの上空へと降り注ぎ、落ちては光の瞬きを振りまいて爆ぜていく。

 光の星々は二人には決して降り注がず、前方を切り拓くためだけに堕ちてくる。


「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――」


 ゆえに、二人は足を止めることなく進み続ける。


「GYAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!」


 そんな二人を、今度はドラゴンが行く手を阻む。


「っ――、アリス!」

「応さ」


 黒衣の呼びかけに応え、アリスは指揮者のように手を振るう。


「『星よ』!!」


 今度も降り注ぐ七色の星々。

 だが今度の欲しはその形状が些か異なっている。

 具体的に言えば、さっきまでの星々が天に掛かる川の石ころだと言うのなら、今度のそれは洗練され研がれた星の槍――。



「『煌めく星槍ティンクル・ジャベリン』!」


 降り注ぐ四つの星槍はドラゴンへと降り注ぎ、その緑翼へと突き刺さる。


「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA――」


「今だ、人間――!」


 さっきまでは一撃だった。

 八重の時の狼とは違い、その場を退けさせるためだけでいい今は一匹一発で十分だ。

 だからこそ、まだ撃てる。

 全力の一撃なら、まだ撃てる。

 隙なら、存分にある――。


「うぉおおおおおおおお――『百分ノ壱ハンドレットブロー』――――!!」


 ドラゴンの横っ面に、その一撃を叩き込む。

 さしも最強生物と名高いドラゴンも、一にして百の拳には耐えられまい。黒衣の狙い通り、ドラゴンはその巨体を大きく揺らす。

 だが無論、倒しきれたわけではない。

 黒衣の残存魔力ほとんど全てを注ぎ込んだ百撃であっても、最強の幻想種は倒しきれない。

 だが、それで十分だ。

 目的は竜の討伐などではない。

 そんなもの、神話おとぎばなしの主人公にでも任せておけ。

 黒衣が狙うはただ一人。

 ついに目の前へと迫った、あの魔女だけだ。

 魔女と二人の間には既に阻むものはなく。あとはただ、魔女の元へと駆けるだけ。


「くっ……」


 流石の魔女も焦りに顔を歪め、杖を地面へと突き立てる。

 杖に呼応するように、地面からはいくつもの茨が伸びてくる。


「『大きくグランデ』――」


 アリスの声と共に広げた日傘が大きく変化し、迫る茨を受け止める。

 だが――、


「ぐっ――」


 詩を奏でぬ魔法はその効力も弱く、大きく拡がっただけの日傘は簡単に茨に貫かれてしまう。


「アリス!」

「構うな、行け!」


 唇を噛み締め、黒衣は日傘を抜ける。


「はっ――、惜しかったな、人の子よ」


 現れた影に、魔女は嗤う。

 縮まった距離は未だ遠く、拳を届かせるには距離があり過ぎる。


「これで最期だ――」



『   かごめかごめ

    籠の中の鳥は いついつ出やる

    夜明けの晩に 鶴と亀が滑った

    うしろの正面だあれ?       』



 その詩で、魔女はようやく気付く。

 そこにいるのは、黒衣などではない。

 魔法により認識を差し替えられた――アリス。


「貴様――っ」


 奥歯を噛み締める魔女に、アリスは不敵に笑う。


「っ――――」


 その笑みを、無数の茨が容赦なく突き刺さる。

 白の素肌に鮮血が迸り、アリスは地面へと崩れ落ちる。


 正面にいたのがアリスならば、黒衣の行方は――――。


「――うしろか」


 魔女は気付き、振り返る。

 と同時に、自身の周りにいくつもの茨を展開させる。

 まるで剣山のように、魔女を中心に狂い咲く無数の茨。まさにそれは近づく全てを傷付ける毒の大輪だ。

 だが、


「遅ぇ」


 今の魔女に、その言葉の意味を理解する時間など既にない。


「瞬間移動みたいなあの魔法。あれはお前が茨の場所に『咲く』ことで可能としてるんだろう?」


 そのための時間は、アリスによって掻き消えた。


「だったら、その茨全てを潰せばいい……」


 気が付けば、展開した茨その全てが手折れている。


「……迷い児、貴様っ――――」

「うおおおおおおおおあああああああああああああああああああああ!!!!」


 黒衣の拳は、宵闇のドレスで覆われた腹部を捉え、吹き飛ばす。

 魔力は既になく、百の拳には到底及ばぬたった一撃だけの拳。

 だが、それだけで十分だ。

 魔女の体は地面を大きく跳ね、数十メートルを転がったところでようやく止まる。

 杖は折れ、ドレスは土で汚れ、手足は無残に放り捨てられている。

 魔女に動く気配はなく、そこにあるのは静寂と、たった一人立つ黒衣だけ。


「……よし」


 握りしめたその拳を見つめ、黒衣は静かにその場に倒れ落ちる。

 歓声などありはしない。

 辺りは未だ闇に包まれたまま。

 だがそれは、確かに、宇佐美黒衣の勝利だった。


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