有用性の終り
スガワラヒロ
有用性の終り
三万円台のプラスでその日最後のトレードを終えて、おれはマンションの部屋を出た。
真昼の太陽が眩しい。
電車に乗って繁華街に出るまでの道中、堅苦しいスーツに身を包んだサラリーマンと何度もすれ違った。
営業で外を回っている者、取引先との打ち合わせを終えて帰社する者、クレーム対応に向かう者――事情は様々だろう。そうわかってはいても、判で押されたような格好でせわしく行き交う男や女を見ていると、彼ら全員が同じ仕事場で勤務しているのではないかという錯覚に囚われることがある。
もっとも、かく言うおれもつい二年前までは彼らの一員だった。
そこそこ大きなリース会社の支店に勤めていたおれは、もはや組織に所属することが満足な暮らしを請け負ってくれる時代ではないと悟って退職した。そして東京のアパートを引き払い、地元の郊外に建つ格安のマンションへと移ったのだ。
辞めた理由から察しはつくと思われる。おれは現在、働いていない。
ではどうやって生活しているのかと言うと、それまでの労働で拵えた貯蓄を種金にして、相場の世界で儲けているのである。
無論、始めたての頃はマイナスを抱え込んだ。少しでも損失を埋め合わせるべく日雇いのアルバイトを入れたり、せどりで小金を稼いだりもした。しかし、もともとデータを集めて分析する作業を苦にしないタチであることが幸いしてか、勝ち方を学習するにつれて利益はだんだんと増えていった。
今のおれの月収は、かつて貰っていた給料の額の約三倍。食うには一切困らない。
そんなふうにトレードの成績が安定するようになって、おれは一つの確信を得るに至った。
自分の興味のあること――それはたとえば株式市場のチャートを眺めることであったり、本や映画に触れることであったり、作ったことのない料理に挑戦することであるのだが――以外には、おれはもう一切の労力を割くべきではない。
「――
声をかけられたのは、映画館を二つハシゴした後に入った大衆居酒屋でのことだった。
カウンター席に座るおれの隣に、人ひとりぶんの影が落ちた。すらりと引き締まったシルエット。おれはそいつが誰かを知っていた。
「
「ああ。奇遇だね、こんなところで会うなんて」
山田。高校時代のクラスメイト。
昔は別段仲がよかったわけでもなかったのだが、三年ほど前、同窓会で顔を合わせたときに仕事の愚痴を言い合って意気投合した。連絡先を交換し、以来たびたび近況を話し合っている間柄だ。
山田は今、市内のハウスメーカーで正社員として働いている。
もともと真面目な奴だという印象は持っていた。実際、優秀だったのだろう。おれたちが就職活動に乗り出した頃はひどく不景気で、地元の求人など数えるほどしかなかったはずで、こいつはその少ない枠に見事滑り込んだのだから。
だが正直なところ、おれは最近、山田と喋ることが億劫になりつつあった。
「――まったく参ったよ。近隣からのクレームで僕が謝罪に行ったんだけど、顔を合わせてみたら癇癪持ちのお婆さんでさ、こっちの話なんか聞きゃしないんだ。施工は止まるし、ってことは工期は遅れるしでさあ……」
ビールと烏賊揚げを注文するなり、山田は立て板に水のごとく捲し立てはじめた。
今日の山田はグレーのスーツ姿だ。グレーという色には見る者を落ち着かせる効果があり、謝罪のときはグレーのスーツを着るのがよいと言われるが、どうやら今度の相手には通用しなかったらしい。
「相変わらず大変だな。辞めちまったらどうだ?」
そもそもが愚痴からスタートした友好である。会うたびにこうなるのは今に始まったことではないし、定期的に交わすチャットでも山田が切り出す話題はパターンが決まっている。
それは構わない。
おれが気になるのは、こいつが望んで今の仕事に留まっているようには見えないことだ。
山田が大学でどう過ごしていたのかは知らないが、聞いたところによれば法律を学んでいたらしい。ハウスメーカーの営業とはいかにも妥協したというか、とりあえず入れる会社に入ったという印象だ。
自分のやりたいことが何か分からないまま社会に出たのはおれだって同じだ。だがもういい大人になった。少なくとも、人間やりたくないことをしながら生きるべきではない、と理解できる程度には。
「おまえんとこ、このへんじゃけっこう有名な会社だろ。七年も勤めてりゃ蓄えもあるだろ。辞めても案外何とかなるもんだぞ」
自分を褒めるのもなんだが、間違いのないアドバイスである。なにしろおれの実体験からくる言葉なのだから。
だが一方で、山田が首を縦に振るはずがないと分かってもいた。
そんなことができる男なら、言われるまでもなく動いているはずだった。
「働かざる者食うべからずって言うだろ」
山田の答えはいつもこれだ。
こいつの名誉のために言い添えておくと、別におれへの当てつけというわけではない。こいつの考えが固いのは知っていたから、おれだってわざわざ「実はおれ働いてないんだ」などと打ち明けたりはしなかった。したがって山田は今も、おれがアルバイトで稼いでいると思っているわけだ。
――酒が進んでいた。その一言に尽きる。
口がひとりでに動いた。
「おれは食ってるぜ」
「は?」
「もうずっとバイトもしてない。不労所得で普通に食えてるからな。生活できてるんだから誰に文句言われる筋合いもねえし、おれ自身べつに恥だとも思わん」
やめとけバカ。盛んに警告するおれの脳ミソは、しかし、同時に羽が生えたかのような解放感を覚えてもいた。数少ない友人だ。仮面を被って接する必要がなくなるなら、そのほうがいい。
それでも心のどこかで、山田が同意してくれることを期待していた。
「僕は……そういう生き方は感心しない」
やはり、そうはならなかった。
「仕事を通して世の中と関わってるんだ。そこから逃げるのは真っ当な人間の生き方じゃないと思う」
「そうかね」
「そうだよ。前のとこ辞めた理由は詮索しないけどさ、とにかく辞めたなら辞めたで、さっさと次を探すなり自分で何か始めるなりしたほうがいい」
おれは肩を竦めた。
逃げている、ときたか……。
山田の答え自体は予想の範疇だったが、そんなふうに見られることは意外でならなかった。もちろんおれは逃げているつもりなどない。むしろその逆、会社にいた頃のほうこそ自分の欲求から逃げていたとすら認識しているくらいだ。
しかし、それを口にしたところで、山田の気を変えさせることは不可能だろう。
「――ま、気が向いたらな」
おれは説得を諦めた。
酒を追加するべくカウンターの奥に呼びかけ、二人ぶんのウイスキーを注文した。こういうときは飲むに限る。
結局、店を出たのは終電の時刻が迫ってからだった。
おれも山田も、記憶が飛ぶほどの量を飲んだわけではなかったはずだ。にもかかわらず、山田が以後この夜の話を蒸し返すことはなかったし、おれも退職を勧めることは二度となかった。
しだいに顔を合わせる機会は減り、チャットの頻度も少なくなった。
でも、あいつはいい奴だ。おれは偽りなしにそう思っている。
◇ ◇ ◇
最後に会ってから十五年が経とうとしていた時分、唐突に山田が他界したとの知らせを受けた。
自殺であったらしい。
死の半年ほど前、山田はそれまで勤めていたハウスメーカーから解雇を言い渡されていた。デスクワークを全てAIに任せる方が安上がりであることに気付いた会社は、きわめて基本的な経営原則に従って、生身の人間という金食い虫をパージしたのだ。
そして、そういうことなら事情は概ねどこも一緒だ。もはや山田の技能を必要とする企業は世の中に存在しなかった。再就職の試みが悉く失敗に終わったのは、決して山田が人より劣っていたためではないだろうとおれは睨んでいる。
なにも命を絶つことはなかった。だらだらと日々を過ごしていてもよかったのだ。おれがそうしているように。
「……まあ、無理な相談だったろうな」
これはおれの想像だが――十中八九当たっているに違いない――おそらく山田は貧しさに苦しめられはしなかったはずだ。くそ真面目だった山田のことだ、そう簡単に貯蓄が底を尽いたとは考えにくい。それでなくても、近年おっかなびっくりスタートを切ったベーシックインカム制度によって、最低限食いつなぐ程度の生活は誰でもできる世の中になっているのだから。
では、山田をあの世へと追いやった犯人はどこのどいつだったのか。おれには心当たりがあった。
――働かざる者食うべからず。
言葉には言霊が宿るという。山田はきっと、己自身の練り上げた言霊に殺されたのだと思う。
働くこと。仕事をすること。それは即ち社会に貢献するということであり、突き詰めて言えば「他人の役に立つ」ための行為に他ならない。
どれだけ他人の役に立てるかで人間の価値は決まる。そう信じていた山田は、何をするでもなく生きることに耐えられなかったのだ。
「なあ、おまえは間違ってたぞ」
告別式に参列して焼香をあげながら、おれは遺影を見つめて独白した。小さなつぶやきは誰の耳にも入ることなく、坊主の読経にかき消されて空気の中へと溶けてゆく。
「おまえは、おまえのままでいるだけでよかったんだ」
他人の役に立てる人間など、もうどこを捜しても存在しない。それらはあらゆる意味で過去の遺物だった。今日、有用性という基準を持ち込んでいいのは、機械の性能を測るときだけだ。
人間の価値は、そいつ自身が幸せかどうかで決まるのだ。
有用性の終り スガワラヒロ @sugawarahiro
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