第5話

 猫と一緒に今日も人間を待っている。でも人間は来ない。最近めっきり全然来ない。猫はもうぼくのことは完全に無視で、空気ですらなく扱いは無だった。

 もう来ないのかなあ。残念な気がした。猫はいつもぼくより先に諦めてどこかへ行ってしまう。猫の方がぼくよりも見極めが上手なのだ。見習ったらぼくも猫くらいには利口になれるんだろうけど、ぼくはいつもサボテンに聞いてしまう。サボテンはあるときは饒舌に捲し立てるくせに、あるときにはまったく何の反応も寄こさなくなってしまう。困ったものだ、そんな風に言うとサボテンはぼくを見下してせせら笑う。仕方ない奴だ。

 ごはんを食べられなくなってしまったけれど、どぶ水があるから大丈夫。ぼくはなんとか生きていた。あとで全部出しちゃってる気がするのに不思議なことだった。でもそんなときサボテンは異様に優しいのだ。優しくぼくを眺めているのだ。

 そういえば、最近は景色に色が薄いような気がする。今までがどんな風に見えていたのかを覚えているわけじゃないけれど、でも、サボテンだってもっと緑色だったはずだ。

「こんな風に?」

 サボテンが視線を横に外して笑う。まるで発光しているみたいだ、一瞬にしてサボテンだけがグレーの世界の中で輝きだした。そう!そんな緑色だった!ぼくはものすごく嬉しくなってサボテンを高く高く胴上げした。サボテンも得意そうだった。

「ほら、外を見てごらん」

 サボテンが指し示す方向を振り返る。それはフェンスの向こう側。白黒写真の中には人間がたくさんいた。なんだかみんなスローで、つぎはぎだらけな動きをしていて、変だった。

「おかしいね」

 ぼくは笑った。サボテンは笑わなかった。無表情にフェンスの向こうを見つめていた。どうかしたのかと、サボテンとフェンスを交互に見た。ねえとかおーいとか声をかけてもサボテンはだんまりモードに入ってしまったようだった。サボテンの視線の先をぼくも追った。追おうとした。でもぼくの体は、突如ぐるぐると回転し始めた。ああ、維持できないなと思ったときにはもうすごい大回転だった。手を伸ばした。無意識だった。左手か右手が何かを掴んだ。ぼくの体が勝手になにか叫んだ。腕も脚も、動きまわっているようだ。とうとうぼくの体はぼくを捨てたようだった。灰色写真の人物の視線は、すべてぼくに集まっていた。

 この人たちはなんなんだろう、ぼくに向かって口をぱくぱくさせている。しゃべっているように見えるけれど、何も聞こえない。

 こんな景色をぼくは味わったことがあると思った。あのときは本当に怖かった、怖くて怖くて、ぼくは泣いたのだったか、絶句していたのだったか、怯えていたことだけは確かだった。でも、今回はどこかおかしい、変だ。

 全然怖くない。美術館とか、そういうところで絵を鑑賞してるみたいに、非常にのんきな気持ちだった。

 映像が切り替わる。体が倒されたみたいだ。見てごらん、サボテンの声がした。サボテンの指し示す方を見た。

 のほほんと、列車が動いているのが見えた。動いているのは見えた。けれど、何か、違和感。

 ああ、分かった。

 音がないんだ!

 ぼくは大声で笑った。ぼくにはぼくの声も届かなかった。相当に愉快なことが起こっていた。ぼくはもうこれ以上はできないほど笑ってやった。手やら脚やら口やら抑え込まれているらしいけど、どうせもうぼくの体はぼくを諦めているのだから関係なかった。涙も溢れてきて灰色の景色もいよいよ終幕を迎えてきた。そんな中でただただ、サボテンの緑だけは消えなかった。

 そういえば、相変わらずサボテンの声だけははっきりと聞こえる。サボテンが近付いてきた、そして、耳元で囁いた。

 そっか。それを聞いてぼくは非常に安心して、最後まで残っていた意識を手放した。


 真っ白な視界。色が戻ったのかどうか、最初ぼくは分かりかねた。ぼくが三角を作っていると白衣を着ている男の人と女の人がやってきて、その人たちの頭は黒かったし、口は赤かったからぼくは色が戻ったのだと判断した。

 男の人が口をぱくぱくした。何か話しているみたいに見えたけれど、音がしないから何を言っているのか分からなかった。ぼくの前で人差し指を動かしてみたり、ぼくの手を握ったりする男の人をぼくはぼんやり見ていた。やがて二人は出ていった。

 左腕からは管が伸びていて、音のしない機械は停止していた。右手の窓からは白いほわんほわんした明るさが入ってきていた。

 その向こう側に、サボテンはいた。相変わらずぴかぴかに輝いていて、空に浮いていた。サボテンは笑っていた。つられてぼくも笑った。

 どうしたのとぼくが聞いたらサボテンは大きな声で笑った。お前こそそんなところで何をしているんだ、そんな風に。

「約束だ」

 ほら。サボテンが手を差し出した。

「あっちへ行こう」

 ぼくは噴き出して大声で笑ってしまった。

 ぼくには聞こえない誰かが聞いている誰にも聞こえない誰も聞いていない声。サボテンだけが聞いている声。

 ぼくは泣いてしまった。ぼくは笑ってしまった。

 ぼくはぼくの感情なんてやっぱりちんぷんかんぷんだった。

 ぼくはふらふら立ち上がって、サボテンに手を伸ばした。

 チクチクのはずのサボテンの手は、ぼくの手に柔らかく突き刺さって、しまいにはぼく全部をすっぽり包みこんでしまった。

 ぼくはとても心地よくて、うつらうつらしてしまう。サボテンはしょうがないなあと言って、ぼくを抱えて歩きだす。ゆりかごみたいだ。ぼくはいっそう眠くなってしまう。

 サボテンの歌が聞こえてきた。

 サボテンの歌を、ぼくはようやく理解した。

 それは子守唄だった。

 もう眠っていいよ。そうサボテンに言われている気がした。

 ぼくはサボテンにおやすみを言って、サボテンの中で目を閉じる。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

高架線下生活 コオロギ @softinsect

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ