エピローグ:新たな日々
何度目のキスか、もう数えることもできなくなった時、グリードの唇から離れたターシャの口から小さなクシャミが飛び出した。
「わっ! ごめん、ターシャ。身体が冷えてきたね」
「う、うん。ちょっと……ね」
グリードとの再会に浮かれていたが、さすがに深夜にもなれば空気が冷たくなる。
そう指摘されると、急に寒さを感じて、ターシャはぶるりと震えた。
「まったく。ここは温暖な土地だとは言っても、夜は寒くなるものだ。これからしばらく、新月鑑賞には、上着が必要だな」
「ん~。少し考えたんだけど、どこにあるかわからなくって。もういいやって思ったのよ。こんなに長く外にいるつもりなかったんだけど」
思わぬ訪問者があり、外で話し込んだことも影響しているな……と、ターシャはグズリと鼻をすすった。
「早く帰るぞ。ホラ、背中に乗って」
「うん。ありがとう」
暗闇で見えない中、グリードはターシャの手を取ったまま、前にしゃがみ込む。そのまま手を肩に誘導し、ターシャの身体をすくい上げるように背負った。
久しぶりのグリードの背中だった。
肩に手を回し、ぎゅっと強く抱き付く。顔にかかる髪の感触が気持ちよくて、頬を摺り寄せた。
太陽と緑の匂い――ターシャに会うために、急いできたのだろうか。そこに少し汗の匂いが混ざっている。
グリードだ。
大好きなグリードの匂いだ。
ターシャは嬉しさで、頬が緩んだ。
「ふふふふ」
「こら、ターシャ。息が吹きかかってくすぐったい。そこで笑うなよ」
「そんなこと言われても、無理だよ。グリードに会えて、嬉しいんだもの」
早く、明るいところでグリードが見たい。
離れ離れだったこの期間で、グリードはどう変わったのだろう。
背中も肩も、ターシャの家にいた時よりも、逞しくなっている気がする。
「早く、グリードの顔が見たいな」
「ん? ああ、そっか。ターシャは今、ちゃんと見えないんだもんな。よし、早く帰ろう。今日、晩飯は? もう食った?」
「ううん。まだ!」
「よ~し。じゃあ、帰ったらなんか作ってやる。お土産もあるんだ」
「え、なになに?」
「裏山に登る前に、家の裏口に置いてきた。帰ってからな」
お土産……。一体なんだろう?
ターシャはこの村から出たことがない。この村の外の特産物や流行りも知らない。グリードに会ってから、楽しみなことばかりだ。
(早く家に着いたらいいのに。着いたら――着いたら??)
ヒゥッ!
声にならない音が喉奥から漏れる。
あまりの衝撃に、高揚していた気持ちは、一気にどん底に落ちた。
(ダメ! ダメ! 今家に帰ったら、また汚い部屋に戻ったことがグリードにバレてしまう!)
「待ってグリード! ダメダメ! 私もうちょっと外にいたい!」
「なんでだよ。また今度な。今日は帰るぞ、風邪ひいたらどうするんだよ」
「いや、でも……! なんなら、私だけ先に帰ろうかな? グリードも久しぶりの村が懐かしいでしょ? ちょっと散策なんてしてみたらどうかな!」
「今日は新月だぞ。皆家にいるさ。むやみに訪ねて行っても、怖がるだけだ。明日でもいいじゃないか。――さ、着いたぞ」
「え、もう!?」
ターシャの抵抗も虚しく、闇に目が慣れたグリードの足では、あっという間に山を下りてしまった。そして、ターシャを背負ったまま、扉を開け――固まった。
* * *
久しぶりにターシャの家にふたりが揃ったが、先ほどまで嬉しさに頬が緩んでいたターシャも、心が萎んでいた。
明るいところで久しぶりにグリードの顔が見れると喜んでいたが、先ほどからターシャはグリードと目を合わせようとしない。
「……それで? ターシャ。これは一体、どういうことだ?」
「ええっと……だから……そのう……」
先ほどまでの甘い雰囲気はどこへやら。
グリードの追及に、ターシャは相変わらず視線を彷徨わせている。
今、グリードは冷たい空気を纏い、仁王立ちしてターシャを見降ろしていた。
「そうね……。ちょっと……忙しかったかなぁ……って」
「ちょっと? ちょっとで、こうなるか? こんな短期間で?」
「ま、まあまあ。グリードも長旅で疲れただろうし、落ち着いて座ったら?」
「座る? 座るって言ったか? この足場もない散らかった部屋で、一体どこに座れって言うんだよ! 椅子の上にまでガラクタが積んであるじゃないか!」
「ガ、ガラクタじゃないもん……」
それは、裏山に登るためにランプを探していて……モゴモゴと説明するターシャだったが、グリードのひと睨みに口を噤んだ。
グリードが驚くのも無理はない。
彼が一日がかりで片付け綺麗に掃除し、それを維持し続けた部屋は、ターシャの手により、あっという間に元の物が散乱した部屋に戻っていたのだ。
ターシャとしても、まさかグリードがまた戻ってくるとは思っていなかったので、つい、こうなってしまったのだ。
戻ってくると知っていたら、こうならないように努力した。
できるかどうかはともかく……努力はした。
「戻るなら戻るって言ってくれたら……」
めげずにまた小さな声で反論するが、グリードがすぐに切り捨てる。
「事前に言わなきゃできないって問題でもないだろ。それに、戻って来ないなんて、俺は一言も言ってないからな!」
「はい……」
しゅん、と項垂れるターシャに、グリードもため息をつく。
結局、グリードはターシャに甘いのだ。
きっと、グリードと離れていた寂しさもあったのだろうと思うと、これ以上はなにも言えなかった。
「こんなんじゃ、今日だけじゃなく、最近はずっとロクな食事もしてないんだろう」
「ううう……ごめんなさい……」
「背負った時、なんだか軽く感じたし、そんなことかと思ったよ……。待ってろ」
そう言うと、器用に荷物をよけながら裏口へと向かうと、肩から大きな麻袋を引っ提げ、戻って来た。そして、麻袋の中に手を突っ込むと、おもむろになにかを取り出した。
「ウルフハムの、羊肉の燻製ハムだ。それにこっちは、ママウフル商会のバケット。それとオオカミ印の葡萄酒」
次々と出てくるのは、この村ではお目にかかれないような、高級品ばかりだった。これらは、村のことしか知らないターシャでも耳にしたことのある、ブランド品なのだ。
たちまち、ターシャの目が輝く。
「す、すごいっ!」
「だろ? すぐに飯作るからな。――頼むから、テーブルだけなんとか片付けてくれるか? ええと……なんだったら、テーブルの上の物をそのままそっくり、どこかに移動しておくだけでいいから」
「うんっ」
笑顔で頷くターシャに、グリードは小さなキスを落とした。
もう、このキスの意味を間違えることはない。
これは、挨拶のキスでもさよならのキスでもない。
好きだよ、のキス。
そして、ふたりが恋人として一緒に過ごす、はじまりのキスだ。
*
あるところに、とても恵まれた国々があった。
公正な世を目指し、国民に支持された国王と、それに寄り添うとても優しい王妃。そして、美しい姫に王子たち。
その国々は資源にも恵まれ、お互いが同盟国として友好な関係を築いており、国民も平和に暮らしていた。
周辺諸国は、平和で恵まれたこの国々を、おとぎの国と呼んだ。
そんな大国に挟まれた小さな国がある。
資源は少なく、国力も強くないが、貿易国としてそれなりに潤っていた。
その小さな国の、田舎の村に、占い屋を営む少女がいた。
よく当たると評判の、少女の占い屋には、国境を越えて様々な人々が集まって来る。
最近、その評判の占い屋の隣に寄り添うように、新しくできた店があった。
オオカミの姿が描かれた看板が掲げられた店は、占い屋とお揃いの若草色の建物だ。そこは、主に家具や看板作り、家屋の修復をおこなう工務店『ウルフ工房』。人狼族の青年が営んでいる。
「おはよう。ターシャにグリード。今日も一緒かい」
「あんたたちは本当に仲がいいねえ」
手を繋ぎ歩く姿を、周囲の村人が微笑ましい視線を投げかける。
占い屋の少女とウルフ工房の青年は、並び立つ建物のように、いつも一緒にいる。彼らは『おとぎの国』ではない、このなにもない小さな国で、一生に一度のまるでおとぎ話のような恋をした。
《完》
おとぎの国の占い師~恋する赤ずきんと家出オオカミ 雪夏 ミエル @Miel
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