17.新月の奇跡
ターシャが言葉にした想いは、少し冷たい風に乗って、空へと消えた。星だけがターシャの想いを知り、涙を見ている――はずだった。
そのはずだったのに、なぜかすぐ近くから、突然声が聞こえた。
「それはショックなんだけど……」
「うぎゃっ!」
驚いて飛び起きたターシャだったが、相変わらず周囲は暗闇で、なにも見えない。
足元に置いたランプに手を伸ばそうとしてもぞもぞ動くが、見つからない。どうして火を消してしまったのだろう、と今更ながら後悔する。
ターシャは聞き慣れた声に、ドキドキと鼓動が速くなっていた。
聞きたかった声だ。焦がれていた声。でも、今ここでは聞けるはずのないものだった。
「な、なに? なに? 今の」
おかしい。
グリードの声が聞こえた気がする。
名前を叫びすぎて、泣きすぎて、妄想が幻聴となったのだろうか。
想いが強すぎて、なにかおかしなものを呼び寄せてしまっただろうか。
(胸のペンダントで無意識にグリードのことを見ようとした?)
慌てて胸元のペンダントに触れるが、鏡は冷たいままだ。
両手で耳を塞いだり外したりしてみるが、特に変わった様子はない。
キョロキョロと忙しなく辺りに視線を彷徨わせるが、やはりターシャの目にはなにも見えない。
おかしい。確かに聞こえたのだ。しかも、温度を感じる程近くで。
首を傾げると、また声が聞こえた。今度は上からだ。
「ターシャ。涙なのか鼻水なのか、それとも両方なのかがわからない位、顔がぐしゃぐしゃだぞ」
見上げた先、そこに見えるはずの満点の星空は、大きな影で隠れている。
ポカンと口を開けて呆けた顔をしているターシャの頬を、あたたかくて大きな優しい手が包んだ。
指でそっと涙を拭い。鼻に布を押し当て鼻水も拭く。やけに至れり尽くせりの幻影だ。
「俺に会いたくて泣いてくれてるんじゃないのかよ。バカとか嫌いとか、そんなの聞くために急いで帰って来たんじゃないぞ」
「ふんがっ」
ふいに鼻を摘ままれ、その感触にやっとこれが現実なのだと気づいた。
「ぐ、グリード?」
「うん?」
「ほほほほほんとに? ほんとにグリード?」
ターシャは手探りでペタペタと目の前の影を触る。
すると、手によく馴染む豊かな髪が、指に絡んだ。この感触はよく覚えている。グリードが悪夢を見ている時、そして満月の夜、何度も何度も撫でた髪だ。
ちゃんと顔が見たいのに、見えない。確かめたいのに、この目で愛しい人を見たいのに。
暗闇で手に触れる感触は、見えない分やけに生々しいが、どこかもどかしさも残る。
「あー、やっぱりターシャに撫でられるのは気持ちいいな」
うっとりと気持ちよさそうな、少し甘えた声に、再びターシャの目から涙が溢れる。
「グリード! グリード!! 夢じゃない! 本物だ! どうして? どうして? どうしてここにいるの?」
堪らずにグリードを引き寄せ、思い切り抱き付くターシャを、グリードは笑いながら受け止めた。その手は、まるで癇癪を起こした子供を宥めるかのように、優しい。
「今日は雲がない新月の夜だから。ターシャなら、きっとここに登って、あの日のように満点の星空を見てるだろうって思った。確信はあったけど、でも本当に見つけた時は、すげー嬉しかったよ。まさか、大ッキライとか叫ばれると思わなかったけど」
「それは〜、ほら。言葉のアヤと言うか……。あっ! でも、どうして? 森は? 赤ずきんは? 帰ってきたって、とういうこと?」
ターシャは矢継ぎ早に質問を投げかける。
ここにいるグリードは本物だとわかっても、ぬか喜びはしたくない。
一度は諦めた恋だ。それがこうしてまた目の前に現れてしまっては、もう一度諦めるのは一度目より辛いだろう。
これが一時的なもので、また森へ戻ると言われたら、今度は気持ちを振り切れないかもしれない。
「森は、もう大丈夫だ。ターシャが教えてくれたおかげで、群れの分裂は事前に防ぐことができた」
グリードが育った人狼の森は、人間社会に近い場所にあるということから、本来人間側の協力がなければ、住処を失っても仕方がないほど危ういものだった。
長くグリードの祖父とアメリアが協力関係にあり、守り人制度によって強固に守られていたからこそ、一族の繁栄があったのだ。
だが、長く平和だったからこそ、その有難さが、あって当然のものになっていた。
すると、そこに息苦しさを感じる者も現れた。血気盛んな若者は、自由を求め、狼のプライドから、人間の守り人という存在を、束縛と感じるようになった。
だが、守り人制度を廃止したら、自由になれるという簡単な問題ではないのだ。
守り人がいるからこそ、うまく共存してきた関係が、一気に崩れる恐れがあった。
守り人というのは、人間を人狼から守っていたのではない。
人間から、人狼を守り、彼らの文化を守ってきたのだ。
それが崩れては、境界線がなくなることになってしまう。
人間は、心が狭い生き物だ。そして、人類至上主義者も多い。自分たちと違うモノを、嫌悪する愚かな生き物だ。
境界線が消えたことに恐怖を感じた人間は、人狼をより警戒するようになる。そしていずれ人狼は人間に疎まれ、やがて森を追われる恐れもあるのだ。そうなると、一族は離散することになる。
森を追われた狼は、それぞれ群れとなってまた別の場所を縄張りとする。だが、そんな場所は簡単には見つからない。大きな森には、既に別の人狼族や、他の種族が住処としているところが多い。そこで起こるのは縄張り争いだ。そんな危険からグリードの一族を守ってきたのが、赤ずきんたち守り人の一族なのだ。
「でもな、俺が悪いんだ。不満を抱えているヤツはいた。実際、成人したタイミングで、人間社会に出ることを選んだ仲間も多い。でも、それは俺もだった。森の外に出たい。もっと広い世界を知る権利はあるはずだ。それが、
祖父の世代の人狼は、守り人ありきで、人狼の森が存在することが分かっていた。だからアメリアを敬い、自分たちの仲間と同じくらい大事にした。
若い世代になるにつれ、そんな感情が薄くなるのは当然だった。ましてや実際に接することがないのだから、当たり前だ。それでも、まさか、そんな極端なことを考えているとは思わなかった。だから、対応が遅れてしまった。
ちょうどその時、グリードの祖父が亡くなり、長の座が空いてしまったことも大きかっただろう。
新しい長が、まだ若く、頼りがいのないグリードが最有力だったことも、革新派の不満が大きくなった原因だった。
そんな時、ボイスルがグリードに囁いたのだ。「お前は森に囚われるぞ。今が最後のチャンスだ」と――。
後から思えば、長を長く不在にし、群れを混乱させるための罠だったのだ。グリードはそれにまんまと引っかかり、その日のうちに森を飛び出してしまった。
ボイスルたちにしてみれば、狙ったとおりになった、ということだ。
「そう! 長! グリードは人狼族の新しい長になったんでしょ? そんな人が、簡単に人狼の森を抜け出していいの?」
「長? 俺が?」
オウム返しで聞き返すと、グリードが吹き出した。ターシャがポカンとしていると、とうとう大きな声で笑い出す。ターシャとしては、心配しての発言だ。一体なにがおかしいのか分からない。
「俺が長になるなんて、あり得ない。確かに俺は長の一族で直系で、若長さま、だなんて呼ばれていた。候補のひとりであったことは確かだ。けど、そんなの、俺じゃなくてもいる」
「で、でも……最有力候補だって……」
「あれは、直系の自覚を持たせるためにそう言い聞かせていただけであって、俺が相応しいとかそういう意味じゃない。それに、俺の
ターシャは益々口をぽかんとさせるだけだった。
(今、グリードは番いと言った? それは赤ずきんでしょう? 森の外って、どういうこと?)
「番い……番いって?」
「それ、言わせるか? ターシャに決まってるだろ! 狼は、一途なんだ。一生でひとりしか、愛さない。でなきゃ鼻をくわえないし、キスだってしない! 俺がなにを考えてキスしたと思ってるんだよ!?」
「愛? グリード、愛って言った? それって……それって、もしかして、私のこと愛してるの?」
「だから、そう言ってるだろう! でなきゃ甲斐甲斐しく料理したり、ターシャが過ごしやすいように掃除したり、悪い虫追い払ったり、キスしたりしないっ!!」
グリードがまるで吠えるようにそう言い捨てた。
彼は今、顔が赤くなっているに違いない。新月の闇でそれが見られないのが惜しい。
対するターシャは、やっと頭が働き、グリードの言っている意味が分かって顔が緩みっぱなしだ。
「なんだよ、もう! ニヤニヤするな!」
グリードはガウガウ吠えるが、そんなことは無理な話だ。
失恋は決定的だと思っていたのだ。
狼の生態に詳しくないターシャは、グリードの行動にそのような深い意味があったとは知る由もない。
「えっ!? でも待って! 赤ずきんはどうなるの?」
「は? なんでそこで赤ずきんが出てくるんだよ」
怪訝そうな声を出すが、ターシャにとっては大問題だ。
ターシャはグリードを占った時に、確かに見た。だから、グリードを諦めて、森へ帰す覚悟を決めたのだ。では、占いで視た、あの光景は一体なんだったというのか。
「だって……赤ずきんは、あなたと結ばれる運命だったのよ? 私の占いでそう出たんだもの!」
「へぇ~。ターシャの占いも、はずれることがあるんだな」
「失礼ね! そんなことないんだから!」
自慢ではないが、ターシャが占いを外したことなど、これまで一度もなかった。
だからグリードをひとりで送り出した。グリードがターシャの元へ帰ってくるという兆しは見えなかった。それもあって、今日だってこうしてひとり裏山を登ってきたのだ。
「ちゃんと、見たのよ。グリードと、赤ずきんが抱き合っていたの……。きっちりくっきり、この目で見たんだから!」
「は? 抱き合ってた? 俺と赤ずきんが? あり得ないね。だって俺、再会したその時、思い切りビンタされたんだぜ?」
赤ずきんは、グリードを見るなり、悪魔のような形相になると、もの凄い勢いで近づいてきて、思い切り右手を振った。それは、成人した人狼であるグリードが、一瞬目の前に火花が飛び、意識を遠のきかけたほどの威力だった。そして、「こんな時にどこほっつき歩いてたんだ! 薄情もの!」と、大きな雷を落とされたのだ。それが、どこをどう見たら抱き合ってることになっているのだ。
大体、グリードと赤ずきんは兄妹のように育った。お互いを思いやることはあっても、その感情は、決して恋愛感情ではない。
ターシャはまだ納得がいかないのか、「おかしいなぁ」と首を傾げている。
その時、グリードはある事に思い至った。
「それ、本当に俺だったか?」
「え? 勿論よ。間違えるはずないわ。癖のある豊かな黒髪を無造作に後ろで結んでる、長身で逞しい背中。私がよくキッチンで見ていた背中だったもの」
「背中……背中ねぇ……。なあ、ターシャ。占いでそれを視た時、俺の顔をちゃんと見たか?」
「顔……?」
ハッと顔を上げる。
そういえば、見ていない。
力なく首を振ったターシャに、グリードは「おいおい」と苦笑する。
グリードを占った時、赤ずきんと抱き合っていたり、腕を組んで寄り添っていた場面は、どちらも背中しか見ていない。
けれど、その後ろ姿はグリードそのものだったのだが――。
「それ、シャリグ叔父さんだ。ちゃんと顔を見ていたら、一発で俺とは別人だと分かったはずだ。シャリグ叔父さんは、確かに俺と同じ癖の強い黒毛だけど、目から頬にかけて、大きな古傷を持っている。シャリグの見た目はそんな感じでいかついから、群れでも一目置かれてるんだけど――」
「だけど?」
オウム返しに問うと、グリードは可笑しそうに笑った。
「赤ずきんに押しに押されて、赤ずきんとの結婚に同意させられた」
「えっ!?」
親子ほどに年が離れたふたりだが、赤ずきんは幼いころからシャリグ一筋だった。それは大きくなってからも変わらなかった。
言い寄られては、のらりくらりとかわしていたシャリグだったが、今回のこの一件で赤ずきんの本気を見ることになり、とうとう陥落したのだった。
「なんだ。ターシャ、シャリグ叔父さんの後ろ姿を俺と勘違いして、俺を森に送り出したのか? じゃあ、ヨダアンが言っていたのはそれだな」
「え? なにを?」
「ヨダアンが言ってた。『自分に関わることを占うと、真実が歪む』って。なんのことかと思ってたけど、そうか……このことだったんだな」
「私が関わってるってこと? それって……」
「俺の人生には、その時点でもうターシャが関わってたってことだ。だから、ちゃんとした占いができなかった。あのなぁ、俺は問題が解決したら、すぐに戻って来るつもりだったぞ? だからターシャになにも言わずに出ていったし、あの日ターシャに印を残したんだ」
「印……?」
なんのことかと思い問い返した唇は、あっという間にグリードのそれに塞がれた。
暗闇での急な口づけに、ターシャの心臓が飛び跳ねる。
唇はすぐに外されたが、ターシャが驚いて目を真ん丸に見開いていると、グリードが優しく指で瞼を閉じさせた。
「そんなに真ん丸な目で俺を見るな。……照れる」
そう言われたところで、ターシャには暗闇でグリードの顔は見えない。そう文句を言おうとすると、今度は先ほどよりも強く、唇を奪われた。
何度も角度を変え、ターシャの下唇を軽く食むと、ちゅっと小さな音を立てて、ゆっくりと離す。
「やっぱり、人間のキスの方がいいな。ターシャの唇は甘くて柔らかい」
「……グリード……」
「これが、印。俺の番いだって印。お前は俺ので、俺は、お前のだ」
「……うん」
ふたりはピッタリと寄り添いながら、何度もキスを交わす。それを、空いっぱいに散らばった星たちが見守っていた。
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