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 メジャーデビューを果たした文哉のラップは、しかし突然調子を変え、自らをあざけるかごときに成った。

はずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、おれは、己の投球が阪神甲子園球場のマウンドの上を貫いていく様を、夢に見ることがあるのだ。ライブの控え室に横たわって見る夢にだよ。わらってくれ。高校球児に成りそこなってラッパーになった哀れな男を。』

(健一朗は昔の文哉の自嘲癖じちょうへきを思出しながら、深夜ラジオで聴いていた。)

『そうだ。お笑い草ついでに、今のおもいを即席のフリースタイルでやって見ようか。このラッパーの魂に、まだ、曾ての高校球児が生きているしるし・・・に。』

(健一朗は又デビュー・アルバムも買ってこれも聴き込んている。)

 そのリリックに言う。


   たまたま狂疾きょうしつに因りて殊類しゅるいと成り  災患さいかんあいりてのがるべからず

   今日こんじつ爪牙そうが誰か敢へて敵せん   当時とうじ声跡せいせき共にあい高し

   我異物いぶつと為る蓬茅ほうぼうの下     君すでに?《よう》乗り気勢きせい豪なり

   の夕べ渓山けいざん明月めいげつむかひ    長嘯ちょうしょう成さずだ?《ほ》ゆるを成す


 時に、残月、光ひややかに、白露は地にしげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げている。

 健一朗は最早、彼の奇異を忘れ、粛然として、このラッパーの薄倖はっこうを嘆じた。

 文哉の声は再び続ける。


何故なぜこんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようにれば、思い当ることが全然ないでもない。野球少年であった時、おれは努めて人とのまじわりを避けた。仲間は己を倨傲きょごうだ、尊大だといった。実は、それがほとん羞恥心しゅうちしんに近いものであることを、仲間は知らなかった。勿論もちろん、曾てのスポ少の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはわない。しかし、それは臆病おくびょうな自尊心とでもいうべきものであった。己は野球によって名を成そうと思いながら、進んで師を探したり、求めてエリートたちと交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は凡才の間にすることもいさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦してみがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとしてかわらに伍することも出来なかった。おれは次第に野球と離れ、チームメイトと遠ざかり、憤悶ふんもん慙恚ざんいとによって益々ますますおのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

 人間は誰でも詩人であり、その詩趣に当るのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が詩趣だった。ラッパーだったのだ。これが己を救い、リリックを書かしめ、レコード会社を呼び寄せ、果ては、己のスタイルをかくの如く、内心にふさわしいものに仕立て上げたのだ。

 今思えば、全く、己は、己のっていたわずかばかりのラッパーの才能を見逃していた訳だ。人生は何事をもさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句をろうしながら、事実は、野球の才能の不足を暴露ばくろするかも知れないとの卑怯ひきょう危惧きぐと、刻苦をいとう怠惰とが己のすべてだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一せんいつに磨いたがために、堂々たる投手となった者が幾らでもいるのだ。

 ラッパーに成った今、己はようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸をかれるような悔を感じる。己には最早球児としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた投球を成したにしたところで、どういう手段で実現できよう。まして、己の頭は日毎ひごとにラッパーに成り切って行く。

 どうしようもないのだ。

 己の空費された過去は?

 己はたまらなくなる。

 そういう時、己は、地元のライブハウスのライトの下に立ち、クルーに向ってえる。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、此処ここで皆に向ってえた。誰かにこの苦しみが分ってもらえないかと。しかし、クルーたちも己のリリックを聴いて、ただおそれ、ひれ伏すばかり。

 父も母も姉もミケも、一匹の不良少年が怒り狂って、たけっているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、球児だった頃、己の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。己のTシャツのれるのは、汗のためばかりではない。』


 漸く夜更けの暗さが薄らいで来た。

 木の間を伝って、何処どこからか、暁角ぎょうかくが哀しげに響き始めた。


『最早、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(真のラッパーに還らねばならぬ時が)近づいたから。

 だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは己のセカンド・アルバムのことだ。お前等は現実マウンドにいる。固より、己の真の詩趣に就いては知るはずがない。お前等がCDショップに入ったら、己は更に変わったと自分に言い聞かせて貰えないだろうか。そしてアルバムだけは買い求めて欲しい。厚かましいお願だが、己の孤弱をあわれんで、今後とも道塗どうと飢凍きとうすることのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖おんこう、これに過ぎたるはい。』


 いい終って、ラジオから慟哭どうこくの声が聞えた。

 健一朗もまた涙をうかべ、よろこんで文哉の意にいたいむねを叫んだ。

 文哉の声はたちまち又先刻の自嘲的な調子をとって、言った。


『本当は、しかし、この事の方など先にお願いすべきでないのだ、己が高校球児だったなら。母校の甲子園出場よりも、来月出そうとするアルバムの売れ行きの方を気にかけているような男だから、こんなラッパーに身をおとすのだ。

 附加つけくわえて言うことに、チームメイトは己のライブでは決してチケットを購入しないで欲しい、その時には自分が計らって金を取らずに招待するから。又、帰省したとき、駅前通りの所にある、あのライブハウス近くに立ち寄ったら、俺に電話入れて呼び出して貰いたい。自分は昔のライムをもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、もって、同じ道を辿って自分を追おうとの気持をお前らに起させない為であると。』


 文哉はリスナーに向って、ねんごろに別れの言葉を述べ、コーナーを終えた。ラジオの中からは、又、え得ざるが如き悲泣ひきゅうのノイズがれた。

 健一朗も何とか感涙をこらえながら、ラジオの電源をオフにした。


***


 文哉が武道館でのライブを決めた時、健一郎は、言われた通りに連絡して、最前列の特別席からステージをながめた。忽ち、一匹の虎が舞台の袖からステージの中心に躍り出たのを彼は見た。虎は、既にことごとく観客で埋まった会場を仰いで、二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと、又、手前の健一朗を指さし、再びあの曲を歌い始めた……。



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山月記-Lyricist Remix- せらあまね @sera_amane

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