山月記-Lyricist Remix-

せらあまね

1

 西高にしこう文哉ふみやは高校球児。

 入部から一年、早くして名を登録選手に連ね、ついでリリーフを任されたが、性、狷介けんかいみずかたのむところすこぶる厚く、二番手に甘んずるをいさぎよしとしなかった。

 いくばくもなく部を退いた後は、野球道具を寄付し、エレキとアンプを買って、ひたすらロックにふけった。球児として長くひざを横暴な監督の前に屈するよりは、バンドマンとしての名を女子百人に広めようとしたのである。

 しかし、技術は容易に上がらず、指先は日をうて痛くなる。文哉はようや後悔こうかいに駆られて来た。このころからその容貌ようぼうもニキビが目立ち、筋肉落ち骨ひいで、性欲のみいたずらに悶々もんもんとして、かつて野球部のレギュラーだった頃の爽やかなイケメンのおもかげは、何処どこに求めようもない。

 数ヶ月の後、一通りコードを覚え、文化祭の出演のためについに満を持して、軽音部へ赴き、バンドメンバーを探すことになった。一方、これは、異性との出会いに半ば期待したためでもある。

 が、同級生は既に演奏技術が高く、彼が昔、根暗として歯牙しがにもかけなかったその連中の後塵を拝さねばならぬことが、野球部の元ピッチャー文哉の自尊心を如何いかきずつけたかは、想像にかたくない。

 彼は怏々おうおうとして楽しまず、狂悖きょうはいの性は愈々いよいよ抑えがたくなった。一月ひとつきの後、ギターソロで文化祭に出、全校の白眼視に晒された時、遂に発狂した。

 演奏中、急に顔色を変えてステージから飛び降りると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま学外にとび出して、往来の中へ駈出かけだした。

 彼は二度と戻って来なかった。

 ツイッターのアカウントを捜索しても、何の手掛りもない。

 その後文哉がどうなったかを知る者は、誰もなかった。


***


 翌年、西高野球部、三年の健一朗けんいちろうという者、部活を引退して大学を受験し、前日に近場のホテルに宿った。

 次の朝未だ暗いうちに出発しようとしたところ、ホテルの受付が言うことに、これから先の道にライブハウスがあり、大勢の客が集まっているため、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたがよろしいでしょうと。

 健一朗は、しかし、筋肉質の元キャッチャーなのを恃み、受付の言葉を無視して、出発した。ネオンの光を横目にライブハウスの傍を通った時、果して一人の青年が地下の階段から現れた。青年は、あわや健一朗に激突するかと見えたが、たちまち身をひるがえして、建物の陰に隠れた。

 陰の中から高めの声で「あぶないところだった」と繰返しつぶやくのが聞えた。その声に健一朗は聞きおぼえがあった。驚懼きょうくの中にも、彼は咄嗟とっさに思いあたって、叫んだ。

「その声は、我が友、文哉ではないか?」

 健一朗は文哉と同年に西高の野球部に入り、友人の少かった文哉にとっては、最も親しい友であった。温和な健一朗の性格が、峻峭しゅんしょうな文哉の性情と衝突しなかったためであろう。

 物陰の中からは、しばらく返辞が無かった。しのび泣きかと思われるかすかな声が時々洩れるばかりである。

 ややあって、高い声が答えた。

「如何にも自分は元野球部の文哉である」

 と。

 健一朗は恐怖を忘れ、物陰に入って彼に近づき、なつかしげに久闊きゅうかつを叙した。

 そして、何故なぜ高校に出て来ないのかと問うた。

 文哉の声が答えて言う。自分は今やラッパーの身となっている。どうして、おめおめと一般人パンピーの前にチルった姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を現せば、必ず生徒に狂瀾怒濤きょうらんどとうのヴァイブスを起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも君にうことを得て、愧赧きたんの念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が奇抜な今の格好をいとわず、曾て君のチームメイトであったこの自分の音楽を聴いていってくれないだろうか。

 後で考えれば不思議だったが、その時、文哉は、この超独特のスタイルを、実に上手に身にまとって、少しも不自然でなかった。

 文哉は健一朗を誘って地下のライブハウスに入り、自分はステージの上に跳躍して、沸き立つ客を睥睨へいげいした。

 透明感あるトラック、先鋭的なリリック、文哉が渾身のシャウト、それに対する客たちの熱狂……!


 野球部時代に親しかった球児同志の、あの隔てのない語調で、ライブが終わった後、健一朗は、文哉がどうして今の身となるに至ったかをたずねた。彼は次のように語った。


***


 今から一年程前、自分が高校を出てここのライブハウスに入った夜のこと、一服してから、ふと我に返ると、ステージで誰かがライムを吟じている。フックに応じて目を上げて見ると、声はライトの中からしきりに自分を招く。

 覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時いつしか景色はネオン街に変わり、しかも、知らぬ間に俺は自分の口でライムを叫んで走っていた。何か身体からだ中に力がち満ちたような感じで、軽々とガードレールを跳び越えて行った。気が付くと、手先やひじのあたりに傷が生じているらしい。

 少し明るくなってから、川縁かわべりに臨んで内心を省みて見ると、既にラッパーとなっていた。

 自分は初め本能を信じなかった。

 次に、これは夢に違いないと考えた。

 夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。

 どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然ぼうぜんとした。

 そうしておそれた。

 全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。

 しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々にはわからぬ。

 理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

 自分はぐにポエットおもうた。


 そして、後日、眼の前に一本のマイクが置かれているのを見た途端に、自分の中のエミネムが忽ち姿を現した。再び自分の中のエミネムが消え去った時、自分の全身は大量の汗にまみれ、あたりには客たちのタオルが散らばっていた。

 これがラッパーとしての最初の経験であった。

 それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、詩人リリシストの心が宿やどって来る。そういう時には、あの日と同じく、ヘッズも沸けば、複雑なトラックにも合わせ得るし、即興でリリックをそらんずることも出来る。

 その詩人の心で、ラッパーとしてのおのれのドープなフリースタイルを見、他人の曲をサンプリングする時が、最も快く、昂ぶって、晴れ晴れしい。

 ゆえに、その、ラッパーとしての数時間も、日を経るに従って次第に長くなって行く。

 今までは、どうしてラッパーなどになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、おれはどうして以前、野球少年だったのかと考えていた。

 これは恐しいことだ。今少してば、おれの中の球児の心は、ラッパーとしての習慣の中にすっかりうもれて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿のいしずえが次第に土砂に埋没するように。

 そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹のラッパーとして狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人ともと認めることなく、君をディスり倒して何のくいも感じないだろう。

 一体、ラッパーでも高校球児でも、もとは何かほかのものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? 

 いや、そんな事はどうでもいい。己の中の球児の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。

 だのに、己の中の球児は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、かなしく、切なく思っているだろう! 己がピッチャーだった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり野球少年でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。


***


 健一朗は、息をのんで、文哉の声の語る不思議に聞入っていた。

 声は続けて言う。

 他でもない。自分は元来ラッパーとして名を成す運命であった。しかも、業遂に成りて、この運命に立至った。

 曾て作るところのリリック数百ぺんもとより、まだトラックがついておらぬ。己も数ヶ月後は最早もはやメジャーデビューしていよう。ところで、その中、今はもうこだわらないものが数十ある。これに軽音部でトラックを付けていただきたいのだ。何も、これにって一年前の汚名返上をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、バットを捨て心を狂わせてまで自分が心底それに執着したところのものを、一部なりとも全校生徒に伝えないでは、デビューしても満足し切れないのだ。


***


 受験を終えた健一朗は軽音部に頼み、トラックをつけてもらい、文哉の要望にもしたがって曲を完成させた。

 文哉の声は校内放送で朗々と響いた。

 長短およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一聴して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。

 そして、健一朗は感嘆しながらも漠然ばくぜんと次のように感じていた。成程なるほど、文哉の素質が第一流に属するものであることは疑いない。さらに、このままでも、ヒットチャート入りの作品となるのに、何処どこも(非常に微妙な点にいたるまで)欠けるところがないではないか、と。

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