第48話 並んだ足跡

 濁った雲が空を覆う。

 放課後の人影が疎らになった教室の蛍光灯が、やけに寒々しく主を失った机を照らす。文庫本一冊ほどに開いた窓の隙間から流れ込む風が、緩やかにカーテンを揺らしていた。ぱらぱらと窓を叩く雨音。僅かに濡れた窓枠を眺めながら、手元にはない傘のことを考える。そう、ここには無い傘の事だけを。

 このまま時間が過ぎるのを待てば雨は止むのか、それとも今すぐに動かないともっと酷くなるのか。

 たぶん答えは分かっている。

 動いた方が良いのは分かっている。

 分かっているのに。


「まだこんな所にいて、何しているの?」


 声の方向へ視線を向けると、水色の傘が載る教卓に体を預けるように一條が立っている。

 いつの間にか教室には、僕と一條の二人だけになっていた。窓を鳴らす雨音が激しさを増す。


「あーあ、窓開けっぱなしじゃない。床も濡れてるし、閉めておいてよ」

「ごめん」


 呆れたような表情で僅かに開いた窓を閉め、鈍色の空を見上げている。


「紫苑くんはさ……まだ教室に残っているけど帰らないの?」

「帰るけど。雨も降ってきたし、少し様子を見ようかなって」

「そっか」


 隣の教室から笑い声が聞こえてくる。自分には関係のない会話がどうやっても耳に入ってきて、気が散って仕方がない。


「朱音ちゃんは……」

「五十嵐は先に帰ったよ」

「知ってるよ。だから紫苑くんは帰らないの?」

「だから雨が止むか様子を見てるって」


 微かに荒くなる語気が嫌になる。

 本当、何やっているんだ。


「朱音ちゃん、傘が無くて途中の公園で雨宿りしているんだって。行ってあげなよ、帰り道が同じ方なんだし」

「そんなこと言われても傘は無いし」

「傘があれば行く?」

「あればの話な。まぁ、無いからここにいるんだけど」

「だから」


 こちらに指を差しながら、溜息混じりに声を上げる。若干苛立っているようにも聞こえ、思わず顔を顰めていた。


「だから、この傘を届けに来たの。ほら、これなら行けるでしょ?」

「そっちは帰れなくなるんじゃないのか?」

「大丈夫! 圭も傘持ってるし。いまは私の心配よりも朱音ちゃんの心配をしてあげなよ」


 差し出された水色の傘に手を伸ばし立ち上がる。

 さっきからずっと傘のことを考えていた。傘の無い自分の手元と、帰り際に傘を持っていなかった彼女の手元。もやもやとしていた思考が一気に晴れていく。


「ありがとう、助かるよ」


 鞄を手に取り、教室を出ようと急ぐ。

 未だに激しさを増す雨音が、窓にモザイクをかけて向かいの校舎の存在を曖昧にしている。早く行かないと。


「紫苑くん」


 さっきまでの緊張感のある声とは異なり、いつも通りの明るい声に引き留められる。振り向くと困ったように一條が笑っていた。


「見守っていようかと思っていたし、二人は違うっていうけどさ……喧嘩しているのなら早く仲直りして欲しいし、すれ違いがあるなら解決して欲しいし。やっぱ仲良くしている二人が好きだな」

「うん」

「あとね、絶対傘はさしていくんだよ! びしょ濡れになって走って行ったら、朱音ちゃんも自分のせいだって思い悩むからね。あの子、優しいからさ」

「いつも心配かけてごめんな」


 そう一言だけ伝えて走り出す。

 人影のない暗い廊下に足音だけが響いていた。




 自分の頭上に広がる鮮やかな水色の傘。

 初めて使った水色の傘は、雲一つない青空を切り取ったような空間を作り出し、不思議と気分が楽になる。跳ねた雨粒が傘を叩き、足元を濡らす。

 はやる気持ちを抑えながら歩いていると、公園が見えてきた。その公園の片隅、東屋に置かれたベンチで空を眺める朱音が目に入った。徐々に大きくなる心臓の音がうるさい。

 雨音のせいか、こちらの足音には気付かないようで、近づいても振り向こうとはしない。自然と傘の柄を強く握りしめる手。息を吸っては、喉に詰まる言葉を無理やり出そうと息を吐く。


「大丈夫か?」


 やっと出た言葉は、余所余所しく冷たい響きを持っていた。


「何でここに……」

「一條に言われてさ。傘が無くて困っているって、この傘も貸してくれて……」

「だからその似合わない色の傘を持っているのね」


 久しぶりに自然に笑った顔を見た気がするな。そんなことを考えながら、揺れる植栽を見ていた。その姿に安心し、帰ろうと一言呟いて朱音が立ち上がるのを待つ。

 東屋の屋根から滴る雫がリズムよく傘を叩き、ゆっくりと時間だけが流れる。


「あのさ、私……」


 朱音は立ち上がろうとせずに、訥々と言葉を漏らす。


「ずっと考えていたの。貴方の言葉の意味を」

「うん」

「あの日の言葉を何度も何度も考えては、私の勘違いなのか、そのままの意味で受け止めて良いのか、毎日悩んで、でも直接確認なんかできないで」

「ごめん」

「だから……もう一度聞いても良いかな」


 朱音と目が合う。不安と困惑が溶け合ったその瞳に、今まで自分が何もせずに目を背けていたことを悔いる。ここから先は僕が動かないと……自分の気持ちを伝えるだけなのに、次の言葉を見つけることが出来ない。


「やっぱ今の無し、忘れて」


 立ち上がった朱音が俯いたまま僕の横を通り抜けようとする。傘も持たず、雨に濡れようとしている。

 何をやっているんだよ……俯瞰で眺めているもう一人の自分が、また何もできない姿に呆れていた。


「待って」


 咄嗟に掴んだ手。

 反射的に動いた体にすべてを委ねるように、自分の気持ちを吐き出そうと決めた。


「今度はちゃんと伝えるから聞いてくれるか」


 こちらを向かないままの朱音が静かに頷く。

 どこから話そうか。何から伝えようか。冷たくなった指先が僅かに震える。


「僕はずっと朱音に幸せになって欲しいと思ってさ。いつからかは分からないけど、笑っていて欲しくて、一人で苦しんで欲しくは無くて。その為なら、朱音の隣に立っているのは僕じゃなくても良いと思っていたんだ」


 話しながら自分の想いがしっかりと言葉として形になる。

 子供の頃に授業で作った粘土細工みたいに、指紋まみれで歪で不格好な僕の言葉。でもまだ一番伝えたい想いは形になっていない。傘を伝う雫が渇いた地面に小さな染みを作り始めている。


「でも……やっぱり僕が幸せにしたい。これは完全に僕のエゴで、ただの我儘かもしれないけど、もし良ければこれから先も貴方の隣に居させてくれないかな」


 朱音が顔を上げて振り向く。いつもよりも光を反射する、その潤んだ瞳は、たぶん雨のせいじゃないだろう。ステンドグラスのように世界の色を反射する瞳に惹かれる。

 僕はやっぱりこの人のことが、どうしようもなく彼女のことが――。


「好きだよ。誰よりも朱音のことが好きで大切なんだ」


 どんなに格好つけようとしても、気の利いた言葉を選ぼうとしても、結局口から出た言葉は一切飾り付けをしていない、純粋な想いだった。こんな短い言葉を言うためにどれだけ悩んで、苦しんで、傷つけて、遠回りして……。

 もう曖昧な僕らの関係は終わる。


「本当に私で良いの?」

「うん、朱音が良いんだ」

「幸せになっても良いの?」

「うん、それを望んでくれるなら」


 胸に優しい衝撃が伝わる。背中に回された腕と、僕の胸に朱音の頭が預けられ、暖かな温度だけが伝わる。

 

「もう、分かり難いんだよバカ」

「ごめん」

「凄い悩んでいたのに、貴方はいつも通りで、その姿を見る度に私の気のせいだったのかって迷って。あれは告白でもなんでも無かったんだって」

「ごめん」

「覚悟してよ、紫苑にも幸せになってもらうからね」

「朱音と一緒に居られるだけで幸せだからな、覚悟しておくよ」


 彼女の背へ腕を回し、そっと力を籠める。壊れてしまわないように優しく、でも消えてしまわないようにしっかりと。


「帰ろうか、風邪ひく前に」

「そうね」


 お互いに背中へ回した手を離し、閉じていた傘を開く。

 鮮やかに咲いた小さな青空の下で、僕らは肩が触れ合うほど近くに寄り添う。一緒に歩き出した歩幅は狭く、そしてゆっくりだけど、確実に前へ進んでいた。


「来てくれて、ありがとう」

「お礼を言うなら一條に言ってくれ。この傘だってそうだし」

「そうね。あと言い忘れていたけど、私も好きだよ、紫苑の事。昔からずっと」

「うん……うん、ありがとう。これからもよろしくな」

「ええ、よろしくね」


 さっきまで感じていた憂鬱は、彼女の言葉に一つずつ綺麗に拭い去られていった。並べていた言い訳も、作り上げたフレーズも全部雨に流れて軽くなる。軽くなった心は、より彼女の傍に寄り添うことができそうで、持っていた傘を握り直し半歩だけ近づく。少しだけ歩きにくくなったけど暖かいなと空を見上げた。

 未だに空は鉛色の雲に覆われているが、僅かな雲の隙間から透き通るような青が顔を覗かせる。


「思い返すとさ、朱音との想い出って夕日とか、雨ばかりだよな」

「印象に残っているのはそうかも。雨の日に喧嘩したり、数年前の別れの日も夕日を見てたし。今日も雨だしね」

「流石に来年も雨とかは無いよな」

「そうしたらもう、どちらかが雨を呼んでいるってことになるわね」


 そう言って朱音が僅かに肩を震わせて笑った。触れ合った肩からその振動が伝わり、僕も小さく笑う。

 あぁ、その表情が好きなんだ。

 笑って、もっと笑っていて欲しい、それだけで僕は幸せになれるんだ。もう冷たい涙は流させないように傍に居よう。また明日も一緒に居られるために。

 僅かに開いた指の隙間から僕らの幸せが逃げないように、繋いでいた手をしっかりと握り直した。


「ねぇ、今度晴れたら何処かへ行こうよ。どこでも良いからさ、二人で遊びに行きたいな」

「そうだな、朱音と一緒ならどこへでも行くよ。電車にでも乗って、少し遠くへ行ってみるのもありだね」

「ふふ、楽しみにしているわ。これからも一緒にいようね」


 今日までの記憶を思い返す。綺麗とは言えない色で彩られた思い出は、苦しいものも辛いものもたくさんあった。それでも、丁寧に掬い上げた記憶の中でビー玉のように輝く朱音との思い出は、少し歪だけど、とても大切で絶対に失くしたくないものだ。そして、その想い出から続く今の幸せが、多くの人の支えによって成り立っていることも忘れてはいけないだろう。

 朱音の幸せを願って、自分の幸せを願おう。

 やっと動き始めた僕らの時間の中で、沢山の大切な想いを伝えられたら良いな。

 明日も笑っていてくれたら良いな。


「うん、一緒にいような」


 地面に残る足跡は二人分になって、これからはどこまでも続くだろう。足の大きさも違うし、歩幅も違うけど、それでも同じ方向へ二人一緒に。

 ずっと、ずっと隣で。

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あの日の初恋に一輪の花を すぐり @cassis_shino

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