秋雨

第47話 消えない夏の痛みを

 手元で色を変える夏の記憶を、丁寧にゆっくりと指でなぞる。

 鮮やかな青と淡い白が大半を占めたその想い出は、少しだけ夏草の青い香りがした。

 夏の終わりの記憶。公園で花火をしながらみんなで撮った写真が、名残惜しそうに手元で止まる。それぞれの持った花火が色とりどりに咲き、夏の暗闇を飾っていた。右や左へ向いた視線はそれぞれの幸せを見つめているようで、不思議と笑みがこぼれる。

 微笑みながらそっとなぞった夏の夜空は、次の想い出へと繋がった。

 僕と朱音の二人で撮った写真。近づいた肩の距離に、数か月という時間の流れと数年越しに動き出した時間が現れていた。吐き出した息と共に記憶の欠片を鞄へ投げ入れ、冷たくなった机に伏せる。

 いつの間にか季節は夏から秋へと移ろい、夜が身近になり風が冷たくなっていく。あの夏の終わりから唯一止まったままの時間を置き去りにして――。




 柔らかな日差しと揺れるカーテン、外から聞こえる歓声が秋風に紛れる。

 夏休みが終わったと思ったら、もう九月の終わりが目の前で手を広げていた。期末試験も終わり、前期と後期を繋ぐ一瞬の静寂期間。


「こんなところにいたのか。外へ行かないのか?」


 頭上から降り注ぐ声に頭を上げる。机に反射する光に目を細めながら、声の主へ視線を向けた。


「出番終わったし、もう良いかなってさ」

「あぁ、そういえば篠崎の方は終わったんだっけ」

「そう」


 一ノ瀬へ軽く返事をしながら、両手を上げて欠伸をした。背中から乾いた音が鳴り、固まった体がほぐれる。

 今日は学校の球技大会だ。クラス対抗で様々な種目に出て、順位を競うというもの。サッカーにバレー、バスケやキックベース。今頃、校庭や体育館で様々な競技が行われているだろう。ちなみに僕が出ていた競技はバレーだ。

 何となくで選んだ種目だったが、バレーのみリーグ戦で必然と試合数が多いことに後から気付き、若干後悔していたのは内緒の話。


「僕の方は全試合終わった。そこそこ試合は勝ったから、学年順位は二、三位くらいじゃないかな」

「さすが」

「だいたい相手のミスだったから、ほぼラッキーかな。あれ、一ノ瀬はどうだった」

「俺の方か、バスケは予選突破したぜ。サッカーは三位だ」

「おめでとう。でも二種目は大変だな、確か葉山もだろ?」

「そうそう。最近二人でバスケの練習していてさ、その結果が出た感じ。このまま午後も勝つから楽しみにしておけよ」

「はいはい、葉山にも応援してるって言っといて」

「お前が直接言え、っていうか応援に来いよ」


 一ノ瀬が僕の肩を叩き笑う。


「ちゃんと行くよ。それで一ノ瀬は、どうして教室まで戻ってきたんだ? 別にそれを良いに来たわけではないだろ」

「あぁ、そうだった。いまから美菜と五十嵐さんがバスケの試合に出るんだよ。それで頼まれて、美菜のカメラを取りに来たってわけ」


 カメラを一條のリュックの中から取り出し、電源をつけて何かを確認してから片手を上げた。「行くぞ、もう決勝だぜあの二人」、と言いながら教室の出口へと向かう。

 時計はまだ昼前を示していた。こんなに早く決勝が来るんだなと呟きつつ、一ノ瀬の後を追う。人の少ない廊下に木霊する声援が、誰かの想いに色付く。

 無心でカメラの調整を行っている一ノ瀬の隣を歩いていると、程なくして体育館の入り口が見えてきた。体育館の床とシューズが擦れる音と、ボールが壁にぶつかる音が混ざって独特の音色になって溢れ出て来る。


「最近、元気ないだろ。どうかしたか?」


 顔を上げた一ノ瀬が、ぽつりと一言漏らす。こちらに向いた眼差しは真剣で、僕は黙って目を逸らした。逃げた視線の先で僕の影が大きく揺れた。


「そっか、何もなければ良いけど」


 喧騒に包まれる中、一ノ瀬の声だけが耳に残って離れなかった。




 体育館へと足を踏み入れると、僅かに湿度の高い熱気に包まれる。その熱気の真ん中で、向き合って並ぶ二つのチーム。その一方は僕たちのクラスで、朱音や一條の姿も確認できる。どうやら決勝には間に合ったみたいだ。

 あいさつの後、チームがコートに広がる間に、一ノ瀬を見つけた一條が小さく手を振る。その姿を見た朱音もこちらへ向かって、素っ気なく右手を振った。

 壁に背を預けながら、戸惑いつつも僕は胸元まで重い手を上げて答えた。

 一瞬の静寂の後、ホイッスルが鳴る。

 コートの中央で高く上がったボールがゆっくりと落下する。

 試合が始まった。

 カメラを構えた一ノ瀬のシャッターを切る音と、声援が途切れることなく聞こえる。その音を右耳で捉えつつ、コートを縦横無尽に移動するボールを目で追っていた。試合の残り時間が一秒、二秒と減っていく。均衡した試合展開のまま終わりへと進む。


「なぁ篠崎、勝てると思う?」

「どうだろうな。でも……」


 無意識に握り締めていた掌から力を抜き、素っ気なく答えた声は一ノ瀬に届いたのだろうか。他の声援に消されなければ良いけれど……。

 コートの隅に置かれたタイマーの残り時間が一分を切る。

 強くなる歓声と、激しくなる試合展開。

 残り三十秒。二十秒。

 大きく浮かんだボールをセンターラインで掴んだ一條が、身体を低くしてゴールへと走り出す。

 残り十秒。

 数人の影の間から、風を切る様にオレンジの線が一本引かれる。迷いなく綺麗に伸びた線は、スリーポイントラインで待つ朱音の元へと届いた。

 ボールを手に跳ねた朱音。シューズの鳴る音が耳に残る。

 揺れるポニーテールと、ふわりとしたジャージの裾。

 柔らかな弧を描いたボールが、ゆっくりとゴールへと吸い込まれた。微かにリングの鳴る音とネットの擦れる音。

 残り五秒。




 試合終了のホイッスルと共に一際大きな歓声が広がる。気付けば周りの観客も増え、色んな人が試合を観戦していた。疎らな人の間に見えるスコアボードの得点に安心する。僕のクラスのチームが勝った。学年一位だ。

 一ノ瀬が差し出した掌を叩いて息を吐く。肩に入っていた力が抜け、再び壁に背を預けた。

 最後にシュートを決めた朱音が、こちらを見てコートの中で笑う。一ノ瀬はカメラのシャッターを切り、僕はお疲れと呟いて笑った。届くはずの無い言葉を送った僅かな間の後、僕らは互いに視線を逸らす。

 体育館に充満していた、夏と錯覚するほどの熱気が身体に戻ってくる。

 カメラを一條へ渡しに行った一ノ瀬が帰ってきて、戻ろうと笑った。あぁ、喉が渇いたな。




 僕が教室でぼんやりと空を眺めている間にも、順調にスケジュールは進み、気付いたら閉会式の時間になっていた。青空の下に集められ、僕らの前で代わる代わる誰かが話をしている。

 その中で成績発表もされ、僕らのバレーが二位で、朱音たちのバスケが一位、一ノ瀬たちのバスケとサッカーは両方とも三位だった。総合順位も悪くなさそうだなと、ぼんやり考えているうちに閉会式も終わっていた。

 なんだろう。空に取り残された雲の様に、自分の存在が安定しない。

 閉会式後、各々みんなが好きな方へと散り始める中、僕は一ノ瀬と一緒に校庭の隅にあるプールの前へと向かう。途中で買った炭酸水を額に当てながら歩いていると、先に着いていた朱音と一條が退屈そうに空を見上げていた。


「お待たせ、ごめん待たせたね」

「大丈夫だよ。それにしても疲れたね。二人とも三位と二位おめでとう」

「そっちこそ一位だろ、お疲れ様」

「ありがと。ほらほら皆で写真を撮って、はやく着替えよう」


 話し始めていた一ノ瀬たちをぼんやり眺めていたが、急かされて四人で並ぶ。

 急いで、と一條に朱音の横へ連れられて立った僕はジャージの裾を直す。


「うそ、大丈夫かな、汗臭くないかな」


 朱音が呟いた言葉に、大丈夫と返事してシャッターを待つ。掲げられたカメラのレンズを見ながら小さく笑った。笑えていたかな、といういつも通りの心配は写っていなかった。

 また一枚、想い出が増えた瞬間。これは秋の記憶。


「さて、早く着替えて教室に戻ろう。じゃあまた後でね」


 そう言うと朱音の手を引いた一條が逃げるように校舎へと戻っていく。

 別に校舎までは一緒でも良いんじゃないかとは思うけど……。

 僕も朱音たちを追うように歩き出そうとするが、一ノ瀬に腕を掴まれて体に軽い衝撃が走る。驚いた僕は足を止め、一ノ瀬の方へと振り返り口を開いた。


「どうした?」

「ちょっと良いか」

「うん、まぁ」


 視線が安定せず歯切れの悪い一ノ瀬に、首を傾げながらも次の言葉を待つ。日差しが柔らかくになったとはいえ、さすがに暑いから早くして欲しいところだ。


「やっぱ最近、何かあっただろ」

「何かって何の話だ?」

「いや、五十嵐さんとだよ」


 突然出てきた朱音の名前に、心臓の音が鳴り出す。僕と一ノ瀬の間に風が吹き、足元で砂埃が舞う。


「何も無い」

「本当か? 夏休み後ぐらいから、余所余所しくなったというか、お互いに顔を合わせる回数が減ったというか」

「何にも無いよ」

「……そうか気のせいだったなら、変なこと聞いて悪かったな。美菜もお前たちのことを心配してたから。喧嘩とかじゃなければ良いや」

「ごめん。でも本当に、何にも変わらないんだよ」


 そう、何も変わらない。

 あの夏の終わり、線香花火を見ながら話した日から、僕と朱音の関係は全く変わっていない。僕らは変わらず、いつも通り二人で帰ったり、夕飯を一緒に食べたりしている。ただ少しだけ会話の回数が減り、一ノ瀬の指摘通り視線を合わせる回数が減った。

 夏の走馬灯に似た線香花火の灯りに囚われたまま、僕ら二人の時間はあの日から止まっている。

 「好き」の一言を直接言えたら変わっていたのだろうか。婉曲した言葉で自分の勇気の無さを隠さなければ。本音を真っ直ぐ伝えられたら。もっと、もっと……。

 日差しが厚い雲に覆われる。

 温度の下がった空気が身体の奥を冷やし、自分の影が砂に溶けた。

 僕の気持ちは朱音に届いたのだろうか。

 校舎へと向かう一ノ瀬の背中を横目に、炭酸水のペットボトルを空へと翳す。その小さく透明な世界では幾つもの光を反射し、細かな泡が空へと昇っては消えていく。

 見上げた空に一羽の鳥が横切る。少しずつ消えていく碧い空に、僕は消えない夏の痛みを映していた。隠しきれない痛みと想いは、いつこの碧から零れ落ちるのだろうか。

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