第46話 線香花火
揺れるブランコ。
寄り添う木の葉。
一瞬だけ咲く花。
手元を眺める僕と朱音の呼吸の音だけが聞こえる。しゃがんだ二人の足元を照らす火花が、ゆっくりと砂に落ちては溶ける。
ワンピースから伸びた白い脚に、厚底のサンダル。
火の粉が降り注がないか不安になりながら、朱色に染まる空気の行き先を眺めていた。言いたいことは沢山あるのに、言おうとすると口が開かない。出かけた言葉が、喉の奥で霧散する。すすき花火が消えるように。
「ありがとう」
「どうしたの?」
「倒れたときに看病してくれたことだよ。治ってから何も言えずに曖昧なままになっていたなってさ」
「気にしなくていいよ。お互い様だって」
「まさか一日中、面倒見てくれるとは思わないだろ。それにその間、ご飯もずっと作ってくれて」
「気が向いた時に様子を見ていただけよ。それにご飯についてはもう今更でしょ。殆ど桜さんを手伝ってただけだし」
「目が覚める度に、いつも隣にいたのはタイミングが良かっただけなのか?」
「……そうね。タイミングが良かっただけ」
「寝顔を撮ったとか無いよな」
「……うん、大丈夫。その火、頂戴」
話を始めれば淀むことなく会話が進む。いつも通りの日常で、いつもとは違う非日常の空間。白く咲く火花を、朱音が出した花火の先端へ近づける。
シュッと鳴る音。
白と赤が混ざり、柔らかな光が暗い足元を照らす。
ただやっぱり、いまの間だけは気になるな。
「言い淀まなかったか? 寝顔撮っただろ」
「……撮った。ほら、お互い様ってことで」
「そこで開き直るな。まあ、別に今更良いけどさ」
「そう、ありがとう。あのさ、今年の夏は色々あったけど、楽しかった?」
「楽しかったよ。色々ありすぎて心が追い付いてないけど」
「私も。花火を見て、プールへ行って……それに、紫苑が思い出してくれて」
仄かに照らされた、ほんの少し緩んだ頬。
蜃気楼のように一瞬だけ浮かんだ柔らかな表情に、入学式の日を思い出す。冷たい目と感情の読めない表情。あの日に比べたら、だいぶ表情を見せてくれるようになった、そして彼女の感情が分かるようにもなった。ずっと探し求めていた相手と気付かない内に仲良くなれていたことに、嬉しくなり僅かに息が漏れる。
本当に色々あった。
あぁ、本当に。
「なに笑ってるのよ」
「花火ができて幸せだなって」
上手く誤魔化せていない僕の隣で、クスクスと笑う声だけが聞こえてくる。万華鏡のように広がる火花が上下に揺れていた。
そうだ、と朱音が一言呟く。
「写真撮らない?」
「良いけど、この暗さで写るかな」
「花火の灯りがあれば大丈夫よ、きっと」
カメラを起動させるために、ディスプレイから漏れる無機質な明かり。攻撃的で痛々しい真っ白な光から目を背ける。
小さなスパーク花火に火をつけて、朱音が空へとカメラを掲げた。真っ暗闇に切り取られた風景に、柔らかな朱色の光が二人を浮かび上がらせる。パチパチと弾ける夏の欠片が僕らを照らした。
「良い感じじゃない?」
「意外と明るいな」
「感心してないでもっと近づいてよ、見切れてるって」
「結構近いだろ。っていうか花火、消えない?」
「消えちゃうから、ほら早く」
「こんな感じか?」
「もっと。もう、これくらいよ」
朱音が一歩、僕へと近づく。
肩と肩が触れ合うギリギリの距離。揺れた髪が、さざ波のように僕の腕を撫でた。
「うわ、目の前で花火を振り回すな」
「え、ごめん、ごめん」
「ほら、消える。花火消える!」
「ちょっと紫苑、ほら、カメラ見て!」
「待って、レンズどこ?」
「これ! もう撮るよ!」
叫ぶ僕ら。
その声の隙間に隠れるように、何度も鳴る小さな機械音。
夏の記憶が一瞬一瞬切り取られ、ゾエトロープの様に画面の中の二人の視線がぎこちなく動く。逸れては絡み、こちらを見てはまた逸れる。目の前で揺れる花火を持った朱音の手を掴む。
二人で握った花火が、僕らの間で彼岸花のように咲いて散った。
朱音と視線が合う。
空気が漏れるような小さな笑いに、肩が触れ合って、離れた。
「もう、慌てすぎよ」
「朱音には言われたくない。めっちゃ花火、振り回すし」
「それはごめん。でも紫苑だって、花火が消えるって言いながら全然近づいてくれなかったでしょ」
朱音の手を離す。
燃え尽きた木の棒が、バケツの中でジュッと音を立てる。手元の小さな灯りが消えた夜の暗さに、少しずつ目が慣れ始める。
「写真はどう? 良い感じに写ってた?」
「たぶん大丈夫よ。また後で確認してみるけど、ぶれてないやつは送るね」
「ありがとう。楽しみにしてる」
「うん」
「なんか久しぶりだよね、こうやって二人で写真を撮るの」
「そうね。嫌だった?」
「全然。ただ珍しいなって」
「うん。……美菜の影響かな。今のうちに思い出を残しておかないと、いつか後悔しそうで。せっかく紫苑と再会できたのに、またいつか何もできずに別れて、そのまま、この夏の記憶が少しずつ溶けて消えちゃうって考えると、怖いのよ。怖いの、大切なものを忘れていく感覚が」
「それなら別れなければ良い」
無意識に漏らした言葉。
これは祈りか、願いか。
もう一度呟く、自分に言い聞かせるように。
砂に書いた名前の無い落書きを消して、顔を上げる。朱音が何か言いたそうにこちらを見つめているが、無視するように話題を変える。本当は繋げたい言葉があるのに。僕にはそれが言えなかった。
「いつから? いつから朱音は、僕が昔約束をした相手だって気づいたの?」
「えっ、あ、えっと……入学式の日、あなたの顔を見たとき懐かしい感じがしたのよ」
「うそだ、そんなに早く?」
「本当よ。そうじゃなきゃ、いくら美菜の誘いだからと言って、初対面の男子と遊びに行かないわよ」
「そう……か?」
「そうよ」
「ごめんって、そんな目で見るなよ」
じっとりとした、湿り気の多い視線。
そんな視線を受けながら、朱音の言葉に実は少し安心した気持ちを冗談の影に隠して笑う。
「あぁ、そっか。あの日、スイミングスクールが無くなったって話に、寂しそうにいしてたのはそういうことだったのか」
「よく憶えてたわね」
「僕も寂しかったから」
「ふふ、そっか。それでね、入学式の日に似てるなって思ってから、色々なことがあったでしょ。家が隣同士だったり、お母さんと桜さんが友達同士だったり、私たちが昔に会ったことがあるって言われたり」
「いま思い返すと色々ありすぎだよな」
「本当、びっくりするほどね」
静かに相槌を打ちながら空を見上げる。
純粋な黒の中で月光に照らされた薄い雲だけが、緩慢な動きで泳いでいた。時間の流れよりも、ゆっくりで穏やかで優しい。
「たまにあなたが言ってくれる言葉が、あの日の約束と似ていたの。それに、あのときの子が私に言ってくれた言葉と同じだったりしてね。もしかしたらって、ゴールデンウィークが終わる頃には、九割ぐらい確信していたのよ」
「はぁ、自分の鈍感さが嫌になるな」
「今だから言うけど、四月ごろに、桜さんがこっそり卒アルを見せてくれたりしたんだよね」
「何それ、聞いてない」
「言ってないから。驚いたわ、記憶の中のあの子と、卒アルの中のあなたが似ていてさ」
本人だからな。
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
その代わり溜息を一つ。
もしかしたら気づいていたんだろう。僕が探していた初恋の相手が誰なのか、そしてその人がどこにいるのか。ぜんぶ分かっていながら、僕が言った『必ず見つけ出して、僕から声をかける』という言葉を信じて待っていてくれたのかな。
自惚れかもしれないけど、僕はまた彼女を気付かないうちに傷つけていたのかもしれない。きっと僕が全部思い出しても、思い出すことを諦めても、どの結末でも受け入れる覚悟で僕の隣にいてくれたんだろう。
無力だ。嫌になるほど、どこまでもちっぽけで的外れ。
小さくて下らない自分の中に閉じこもって、必死に善人ぶった仮面をつける癖に、誰にも手を差し伸べられない。どうしようもなく、救いようがない。
「ねぇ紫苑、あなたは……キミはどうして思い出してくれたの?」
「昔に会ったことがあるって話を聞いたときに、可能性だけは考えたよ。可能性だけな。僕には、あの子の顔も名前も思い出せなくなっていたから。でも、遊園地へ行った時だっけな、『笑える時にしっかり笑ってないと幸せになれない』みたいなことを言ってくれただろ。似たような言葉を言われたんだよね、あの子に」
「あっ、憶えていてくれたんだ。確か、泣きたいときは泣いて良いって話をしたっけ」
「まあ、正直恥ずかしくて言いたくないけど、あの言葉たちがいまの僕の支えになってる」
「その割に、あまり笑ってくれないけど」
「笑ってるつもりだけどな。朱音だってそんなに笑わないだろ」
「そうかしら。これでもこの数か月で、かなり笑えるようになったのよ」
「それなら良いけど。でも結局さ、朱音があの子だって気づいたのは、プールの屋上だったんだよ」
「え、本当にあの瞬間まで思い出してなかったの?」
「うん、確信してなかった。朱音は憶えてる? 別れの日に、プールの屋上で少し話をしたの」
「もちろん憶えてるよ」
「あのときの屋上で、景色を眺めていたあの子が僕の方を振り返る瞬間まで、その瞬間までの後ろ姿を思い出せていたんだ。でも振り返ると、顔だけが思い出せなかった。会話も思い出せるのに、あの子の笑顔が好きだったのに」
懺悔にも似た告白。
相槌を打ってくれる朱音の声だけを頼りに、僕は言葉を紡ぐ。迷子にならないように、見失わないように。僕は過去と今を繋ぐ。
「いままで何度か朱音が振り返ると、その記憶の光景と重なることがあったんだ。その度に、朱音があの子なのかもしれないと錯覚して、否定して、目を背けていた。そうしないと、僕は……」
言葉を区切って、残り少なくなった花火に火をつける。
もう夏が終わる。
このままじゃダメなんだ。
このままじゃ夏を逃してしまう。僕は今年の夏に取り残されて、秋風に触れられない。
「僕は?」
「あの子と朱音の二人を傷つけることになるって思って、色んなことを見ないようにしていた」
「変なところで真面目よね。いや、真面目って言うか優しいのかな」
「そんなことない」
「そう思ってるのは、あなただけ。そういうところ良いと思うけどな。私は紫苑のそういうとこ……好きよ」
最後の花火が消える。
顔が熱くなるのは夏のせいで、花火を持つ手が震えたのは秋の空気が冷たいから。隣では俯いたままの朱音が、耳に髪をかけて肩へ流した毛先を指に絡めていた。
明瞭な意識のなかで、不明瞭な言葉の輪郭をなぞる。
「最後に、線香花火があるんだけど、どうかな?」
朱音がぽつりと呟く。
細長い紐のような花火を数本受け取って、そっと足元に置く。
二人で火をつけた線香花火は、小さな火の玉を作って揺れる。
囁くように音を立てて火花を散らす姿は、儚く、その中に夏が詰め込まれているように見えて、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。少しでも長くこの時間を過ごせるように、この想いが落ちてしまわないように、息を止めた。
揺れ動かないように。
「綺麗だね」
「そうだな、線香花火が一番好きかも」
「私も。あのさ、線香花火って私たちに似ている気がするの」
「朱音と僕にってこと?」
「うん。線香花火って、こんなに綺麗なのに、ひとりぼっちで小さくて、少しの揺れでもあっさり落ちて消えちゃうでしょ。どんなに明るく輝こうとしても、照らせるのはたった一人の足元くらいで、落ちた火の玉は砂に混じって誰の目にも留まらなくなるの。どんなに綺麗でも、結局は特別なんかじゃないって思うと寂しいよね」
「そうだな」
「もちろん私たちが綺麗かどうかは別としてだよ。不器用なくせに誰かの為に頑張って、一人で苦しんで傷ついて……」
「うん」
「誰か一人を幸せにするどころか、自分自身すらも幸せにできずに悩んでいるところが」
「似てるね」
「もちろん、紫苑は私を幸せにしてくれているわ。そこは勘違いしないで欲しいけど」
「それは朱音も同じだ。朱音のお陰で僕もいまは幸せだよ」
「ありがとう」
ぽとり。
二人の持っていた線香花火が同時に地面へと落ちて、見えなくなった。
消えちゃったね、と呟いてどちらともなく見つめあう。月明かりが照らす朱音の濡れた瞳が、柔らかな光を帯びていた。
そしてゆっくりと最後の一本に火をつける。
静かに音を立てる火花が、寂し気に手元を照らし始める。
「もうこれで最後ね」
「まだ終わりたくないな」
「我がまま言わないの」
「……あのさ」
「なに?」
今なら言えるかもしれない。
今じゃないと言えないかもしれない。
夏が終わる前に、どうかこの想いを。
儚げに揺れる線香花火を見つめていると、今年の夏休みの記憶が目の前に溢れ出てくる。それは夏が見る走馬灯のようで、季節の終わりを告げられているようだ。
似ている、か。
「確かに線香花火みたいで、ちっぽけで、どうしようもなく弱くてさ。ひとりだと何もできないくせに、お互い悩み事も相談しないで勝手に抱え込むし、大人ぶって平気なふりをしては空回りして――。でも、誰か一人のことを照らせるなら、僕はそれで十分だと思うんだ。どんなに苦しんでも、幸せにしたいって思える相手を幸せにできるなら、それ以上は望まない。僕にとってそれは朱音だったわけだけど」
「私も。私も、紫苑のことは幸せにしたいわよ。この数年間、私はあなたに救われていたんだから。でも、私ひとりだと何もできないの。弱くて、自分のことに精いっぱいで」
「知ってるでしょ、僕も同じだよ。だから、こうするのはどうかなって」
そう言って僕は、手元の小さな火の玉を、そっと朱音の線香花火に近づける。ゆっくり近づいた火の玉は、触れ合うと溶け合って一つになり、僅かに明るくなる。
「こうやってくっつけば、線香花火って落ちにくくなると思うんだ。まぁ、なんて言うか、お互いの弱い部分を一緒に補っていけたら、一人ぼっちじゃなくなるはず。一人で抱えずに、二人で。自分のことを幸せにするのが難しいなら、お互いに相手を幸せにすることだけ考えるってのは?」
「一つだけ問題があるかな」
「そうか?」
「えぇ、私があなたに愛想を尽かされるかもしれない」
「そんなことは無い。寧ろ、僕が愛想を尽かされる可能性の方が高いから」
「それこそないわよ」
無駄な言い合いをしているうちにも、火の玉は徐々に大きくなり、火花が激しい音を立てて飛び散り始める。僅かに酸っぱいような火薬の香りが、爽やかな夏の香りに混ざって風の中に消えた。
「今も昔も、朱音は僕にとって特別だ。だからさ、出来ることなら、僕は朱音とこの線香花火みたいに寄り添っていたい。小さくて弱いけど、一緒にお互いの足元を照らせる方法を探してみないか」
隣で息を呑む音だけが聞こえる。
落ちることなく、静かに消えた線香花火。目の中に残った光の粒が、いつまでも夏を惜しんでいた。
見失って、回り道をして、やっと言葉に出来た自分の気持ち。この想いをどこまで伝えることが出来たのだろうか。弱いくせに大人ぶって紡いだ言葉は、特別な人にとっての、特別な相手になりたいという我儘で、子供じみた希望。
これは、あの日の約束に、あの日の笑顔に囚われていた僕の言葉ではなく、現在の僕の言葉だ。いま隣にいる朱音と一緒にいたい、ただそれだけ。
風が吹く。
乾いた冷たい風が秋を連れて来る。髪を揺らした秋風が、僕らの想い出をまた一つ作って去っていった。
どこかから聞こえてきた虫の鳴く声。
幾重にも重なる透き通った鈴の音が、夏の終わりを告げていた。
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