霞む月は崩れ行く

 その夜は、息を呑むほどに美しい満月が、天人の羽衣のような薄霞をまといぽっかりと浮かび上がっていた。月の下では、月光を浴びる桜が薄桃色の淡い輝きを放つ。桜の樹木は太く、幹のしわは年の功を感じさせた。


 草木も眠りにつこうかとするが如く、瑞々しい新緑をひそひそと闇に沈めていく時分、女房を下がらせた月鈴は一人、庭に構える一本の桜とそれを見下ろす満月に見とれていた。


 まるで心を浄化されているようだと、月鈴は夢心地に思った。こんなにも照る月は初めてであり、清らかな川に浸っているような気分になる。冷たい水が衣を濡らし、肌の奥にじわりと染み込み、体の中の心の汚い塊を外へ押し出す。


 満月の白らかな光が溶け込んだ瞳を細めると、月鈴はおもむろに手を己の胸へ押し当てた。


 その憂いを帯びた美麗な横顔は、本当に少女であるか怪しいと思うほどであり、なんともなまめかしい。


 その時、「月鈴」と庭の片隅から少し掠れた心地よい声が聞こえてきた。その声に月鈴はハッとして視線をぐるりと巡らせる。


 月の光が当たらない暗闇で人影がゆらめき、ゆったりとした動きで月明かりの下へとその姿を映し出した。濃紺の直衣に散った桜の花びらが星々のように重なると、そこにもう一つ夜空がつくられたようになった。


 「霞……。」


 月鈴は霞の姿を目にした途端ぱっと少女らしい可憐な笑顔を咲かせた。もうそこには女らしい艶やかな風情はきれいさっぱりなくなっている。


 烏帽子からはみでた色素の薄い黒髪がそよ風にゆられる。霞はうっとうしげにそれを払うと、爛々と輝く意志の強そうな目をゆるませ、凛々しい眉を下げて、呆れたようなほっとしたような表情をのぞかせた。


 「もう……寝ているのかと思った。」

 「霞を待っていたのよ。こうやって毎夜、霞とお話するのが日課になってしまったんだもの。これがないと、一日終わった気がしないのだから。しょうがないわ。」

 「それは俺も同じだ。いつも夜遅くまでごめんな。俺のために、ありがとう。」


 霞はすまなそうに言うと、月鈴よりもひとまわり大きくなった手を、艶やかな黒髪におくと髪筋にそって撫でた。そっと包み込むような霞の手が、寒さを感じる夜更けには心地よくて、月鈴は思わず口元を緩める。


 「寒いなら、部屋で待っていればいいのに。それにお前は、もう年頃なんだから。あんまり外に出ないほうがいい。」

 霞は月鈴の隣に腰かけると、同じように空を見上げた。

 「またそればっかり。わかってるわよ、初陽もうるさいから。でも今日は見逃してちょうだい。今日は、月が綺麗すぎるから、いけないのよ。彼のかぐや姫のように、月の魅力にとり憑かれて、さらわれてしまうところだったんだから―――。」


 肩をすくめて、霞を見上げた月鈴は驚嘆し、息を凝らした。薄い桃色の唇が刹那、乾燥する。


 霞の横顔は、ひどく美しくなっていた。

 決して幼い頃は醜かったわけではない。そのようなわかりやすいものではなくて、霞がまとう雰囲気のようなものが、変わったと月鈴が漠然と思った。


 幼い霞の瞳は、心の弾みが抑えきれないというようにキラキラと光っていた。桜の色彩すべてを、その身体の中に封じ込めようと、焼き付けようとするように大きく見開いていた。

まだか細い腕をこれでもかと広げて、降りてくる花びらをその手に収めようと、あちこち木の周りを走っていた。


 今、月鈴の隣でじっと桜を見上げる霞の瞳はキラキラとした光は、鳴りを潜めていた。かわりに咲き誇る桜への愛しさや慈しみ、そしてこれから散り行く運命への憂愁を滲ませている。

わずかに浮かべられた微笑が、清々しい春愁を漂わせた。


 (あの頃は私と同じくらい年に感じることができていたのに。いつのまにか、こんな顔をするようになって……私のことなんかおいていっちゃいそう。)


 月鈴は物悲しい疼きを肺の奥に感じて、うつむき眉をひそめた。


 「月鈴。」

 しばらくの沈黙のあと、ふるりと冷ややかな夜風を震わせ、内緒話をするかのように霞が声を発した。いつもと調子が違う緊張が含まれた声に不思議に思いながらも、月鈴は霞を見上げた。

 「なに。」


 自然と月鈴もささやくような声色になった。満月が冴え渡る二人だけの静寂の中、一筋の光線が差し込むように、月鈴と霞の声がよく響いた。

 月鈴が霞の顔を見つめると、霞はほんのりと顔を赤く染め顔を背けた。


 「ちょっと。なぜ顔を背けるの。」

 話すときは目をあわせてほしいと月鈴は、ふくれながら霞の衣を強めにくいっとひいた。ぎ、ぎ、ぎ、と鈍くぎこちない動作で霞は顔を月鈴へ向ける。


 顔が先刻よりもずっとずっと赤い。

 まるで庭で咲き乱れる真紅の椿のようだと、月鈴は呆気に取られた。

 頬を染めたまま霞は何かを決心したように、深く深呼吸をするとぼそりと言葉を落とした。


 「月鈴……。今日は言いたいことがあったんだ。」

 「はい。」


 背筋がピンとのびる。月鈴は霞からの言葉をじっと待った。

霞は普段、はきはきとものを言うが大切なことになればなるほど、言葉にするのをためらう男だ。ここで月鈴がむやみに促せば、霞が完全に口を閉ざすことは目に見えていた。


 月鈴自身はまだるっこしいことは苦手であり、気持ちが早まるもののぐっとこらえる。

 霞は時折視線をさまよわせたあと、射抜くような瞳で縛るように月鈴を見つめ返した。

 「月鈴。」

 「だからな―――」


 突然ぐいっと霞にひっぱられたかと思うと、衣擦れの音が月鈴の耳に聞こえた時にはすでに遅い。


 月鈴は霞に倒れこみ、濃紺の衣に抱きしめられていた。額が霞の肩にこつりとあたる。あまりの驚きに、月鈴は呼吸をとめる。心臓はこの状況についていくことができず、どくりと五月蝿く身体の内側で鐘のように鳴りあげた。


 「……あの、霞。これは一体、どうゆうこと。」

 月鈴は動けず、弱弱しく戸惑いの声をあげた。


 己の吐息が霞の首にかかるのが気恥ずかしく、顔を外に背けようとすると、まるで霞に擦り寄っているようになってしまうから、呼吸もままならない。

 霞は月鈴の言葉には答えずに、下手な動作で腕に力をこめた。


 「霞。」

 痛いわ、髪が乱れてしまうわと言いたいことはあるのに、それさえも言葉が詰まる。

 霞は月鈴の黒髪に顔をうずめると、何重に重ねた衣の上からでもわかるほどに熱い息を吐く。やがて心の奥をしぼりだすかのように、呟いた。


 「好きだ。」


 瞬間、月鈴は目を見開き、息を呑んだ。心臓の音がいよいよ警鐘のようにがなる。瞬く間に月鈴の頬もまた、椿のように赤く染まった。

 その言葉の意味がわからないほど月鈴は子どもではない。


 陸に打ち上げられた魚のように、口をパクパクと動かし、背筋が緊張に張り詰める。

 その時、衣越しに霞の体温が、月鈴の緊張を溶かすようにくるりと包んだ。その優しい暖かさに月鈴は驚愕に見開いていた目をゆっくりと閉じる。


 少しずつ溢れてくる愛しい感情に、心がきゅうとしめつけられた。

 ぶらりと下げられていた月鈴の腕が、ゆっくりと霞の背にまわされると、霞はぴくりと身じろぐ。

月鈴は霞の体温の己の体温をのせるように、抱きしめ返した。


 一言一言、ゆっくりと糸を紡ぐように唇を動かした。

 「……私も、霞のことが、好きよ。」

 「月鈴……。」


 出会って一歩ずつ霞に踏み込むたびに、月鈴の心は高鳴った。霞と過ごした季節は、いっぱいの色彩に満ちていて、目の前で鮮やかに形を変えた。


 霞の言葉は月鈴に幸せを与える。霞とともにいるだけで、月鈴の世界は色づき動き始める。


 霞のことを想うだけで、こんなにも愛しさや切なさ、幸福が混じりあった気持ちに燻られる。


 さっきまでの置いていかれそうな不安も、愛しさで包まれ淡くなる。


 甘くむせ返るような香りの中に、金木犀のような切ない香りがわずかに立つ、焦がれるような感情。これを恋と言わず何といえばいいのだろうか。


 霞の腕に包まれながら、月鈴はぼんやりと自分たちを見守る朧月を見上げた。


それは、幼き日の思い出だった。


* * * * * * *



「ねぇ、初陽。やっぱり御簾をあげてはだめかしら。」


 右大臣家三の姫である月鈴は首をかしげ、ちらりとななめ後ろをうかがった。


 月鈴の父である右大臣仇波は、時の権力者の中でも一際力を持っており、蝶よ花よと大切に育てられた月鈴は正真正銘「深窓の姫君」である。


 仇波は「花大臣」と呼ばれるほどの花好きであり、屋敷は季節によって様々な花がその花弁を美しく開く。

しかし御簾と几帳で作られた壁によって、月鈴はいまだその花たちを見ることができずにいた。


 初陽は眉間にしわをよせながら口をへの字に曲げた。


 「いけません。月鈴様。裳着を終えたばかりなのです。たくさんの殿方から文もきていらっしゃったでしょう。どこから殿方が見ているかわからないのですよ。お忘れですか。もう貴方様は夫婦となることができる年齢なのです。」


 初陽は三つ年上の月鈴付きの女房であり、教育係でもある。


少しばかり頭が固すぎるところがあるものの、女房としては右大臣家のなかで右にでるものはいないという程であり、年の離れた姉たちとは話があわない月鈴にとって、友のように気が置けない関係である。


今でも口調こそ敬語であるものの、表情や態度の不機嫌さを取り繕うとはしない。

 月鈴は初陽の言葉に口を尖らせたが、初陽はどこ吹く風であった。


 「だってこれじゃあ、花を愛でるにも愛でることができないわ。そのうち足が腐っちゃうわよ。宴まで暇だし。」


 今日の夜、右大臣邸では宴が催される。月鈴はそこで筝を披露しなければならなかった。


 「だめだと何度も言っているでしょう。はしたないですよ。右大臣様も『もう少し姫らしくしなさい』と仰っていたでしょう。」

 初陽がため息をついてそう言えば、月鈴は不満そうにすると、目の前を遮っている几帳の向こうにある世界に焦がれたように、そっと手を几帳にあてる。長いまつげが月鈴の顔に影を作った。


 「嫌よ。つまんないわ。こんな、人形みたいに、ただぼうっとするなんて……」


 御簾は、部屋の外から中が見えないようにするためのものである。しかしその代わりに、中にいる人間からも外の様子はわからなくなってしまう。月鈴の場合、几帳が立てられてるから、なおさら外の景色など見えなかった。


 几帳の向こうにある世界を、月鈴は目を閉じて想像した。


 幼い頃、小さな存在だった月鈴が感じた世界はひどく広くて、生命力にあふれていて、美しかった。野に咲く花々たちの朝露が、まだ乾ききれていない少女のような愛らしさいっぱいに、太陽に向かって一生懸命に咲く姿が月鈴の脳裏に焼きついている。


 御簾越しでは何もわからない。


 多分美しいのだろうとは予想できても、花弁一枚一枚の朝の水遣りで潤った鮮やか赤や黄の色も、そよ風に吹かれ生きる花の輝きも、目の前で見なければわからないものはすべて御簾によって閉ざされてしまう。


 それでも、その美しさに真剣に向き合ったわけでもないのに、いとも簡単に「あら美しい」と言えてしまう周りの大臣の姫たちの口に月鈴は嫌気がさしていた。


 それは人にも言えることで。裳着を終えてからひっきり無しに月鈴のもとへ文が来ていた。右大臣三の姫の肩書きはやはり大きいらしく、噂で聞くような若い公達もいる。文には、歯の浮くような甘い言葉がくどいほどに書かれており、どれもこれも似たり寄ったりで月鈴は名前すら把握できない。


 「もっと、なんか、こう、ひねったおもしろい文がこないものかしら。」


 暇つぶしにと思って何枚かの文を読むものの、月鈴はすぐに飽きて放り投げてしまう。

 初陽は月鈴が放り投げた文を拾うと、呆れたような表情で丁寧にたたんでいく。


 「月鈴様、文は大喜利じゃあありませんよ。殿方たちの気持ちがこもっているのですから、乱暴に扱ってはいけません。」


 少し語気を強くしてそう言ったが、月鈴は冷めた視線を文に山に送るだけだった。


 「よくもまぁ、こんなに言葉がすらすらと出てくるものだわ。気持ちって……一度も会ったことないくせに。私の何がわかったというの。」


 会ったことも言葉を交わしたこともないのに、こんなにも簡単に愛を吐くことができる公達たちに、月鈴は関心さえしていた。


 たとえ垣間見をしたところで、己の何がわかったというのか。そしてこの薄っぺらい紙切れ一枚から、月鈴に会ったこともない、男の何をわかれというのか。

 お互いにきちんと向き合ったわけでもないのに。


 「初陽、私やっぱり御簾は嫌いだわ。」

 月鈴がもう終わり、と言わんばかりに脇息にもたれると初陽はだらしないとたしなめた。


 「外に出たいなぁ。前みたいに麻の布一枚だけ着て、髪を束ねて、隠し穴から抜け出せば、誰も私だって気づきやしないわよ。」


 「またそんなことを言って……。姫君はなるたけ、顔を見られるべきではないのです。幼い頃から霞様がいらっしゃる、月鈴様にはわからないかもしれませんが。」


 霞の名を聞いた瞬間、少しだけ息苦しくなったように感じて、憂いを帯びた瞳を切なげに揺らし、不安と寂しさが混濁した表情で薄い唇を噛んだ。霞のことを思い出しただけで今は心が痛む。


 月鈴はうつむくとぽつりと呟いた。

 「霞……裳着の時には来てくれたのに、あれから全然来てくれない。何かあったのかしら。」


 霞は、月鈴の近隣の屋敷の主である頭中将八坂様に使える筒井筒の仲の青年である。身分は雑色であり、幼い頃身分の低かったところを八坂に拾われ、宮中で働いている。


 まだ月鈴が六つの頃、外に飛び出して出会ってからというものの、二人は毎日のように屋敷をこっそり抜け出しては遊んでいた。


 その時も確か季節は春で、月鈴はもうあれから九年がたったのかと思うと懐かしくなる。桜がひらひらと舞い散る中、右も左もわからない月鈴に霞はにっと笑って小さな手を月鈴へのばしたのだ。


 衵扇で口元を隠しながら、月鈴はため息をつく。


 月鈴の扇の中でも、わざわざ絵師を呼んで描かせた世でたった一つのこの扇は、いつかの夜桜をそのまま切り取ったように秀麗だ。

 落ち着いた色合いの夜空に描かれた、流れるようになめらかな曲線の満月を月鈴はゆっくりとなぞった。


 「寂しいわ。こんなに会わないこととなんて、今まで一度もなかったもの。」

 裳着の日にあったきり、月鈴の前から霞は忽然とその姿を消した。もう、半月ほど月鈴は霞と会っていない。


 「月鈴様。霞様のことは、もうお忘れになってくださいませ。あの方は身分があまりにも身分が低い。今上帝に伯母上様が嫁ぎ、いまや東宮までいらっしゃる。恐らくあなたもいつか入内をすることになるでしょう。霞様と結ばれることなどないのです。今日だってそのために、宴があるのですから。」


 衵扇をぱたりぱたりと弄ぶ月鈴に、初陽は顔をしかめながら淡々と言い放った。ただ、月鈴を見つめるその視線には、哀れみが含まれているようにも思える。


 「あなたは右大臣三の姫。いずれは入内する身。立場を弁えてください。」


 初陽は叱りつけるように、声を張った。


 この言葉を聞くと、月鈴はぴたりと扇を弄ぶ手を止めた。悔しそうに顔を歪め、現実から逃げようとするかのように、目を側める。

 そんなこと、考えたくもない。


 入内は女の幸せと世間では言われているものの、月鈴には恐ろしさしか感じられない。祭りのように華やかで盛大な行列はまやかし。その裏では、誰かが悲しみ、誰かが何かを妬み、誰かが悔いながらも、ただただ、帝の隣を奪い合う。


 家の栄光を小さな女たちが背負い、戦場に放り投げられるのだ。

 「私は、入内なんかしないわ。霞と一緒になるのよ。」

 わなわなと震える唇でそう言うと、部屋の空気がわずかにずしりと重くなった。


 「月鈴様のお心は関係ないのです。あなたに拒否する権利などない。右大臣が許すはずがない。」

 「拒否できる権利くらいあるわよ。」

 「あなたの言葉はきっと聞き入れられない。」

 「だったら逃げるわ。」

 「どこへ逃げるというのです。あなたは外にでれば何も知らない、ただの小娘だというのに。」

 「できるわ。私は―――」

 「月鈴様!!!」


 初陽が声を荒らげ、それまで淡々と話していた月鈴は、その大きさにびくりと肩を鳴らした。癇癪を起こしたように声は甲高く、顔は怒りに燃えていたが、その瞳は悲痛に歪んでいる。


 驚いた月鈴は言葉を続けることができずに、口を引き結んだ。

 初陽はもう耐え切れないという風に、ぼろぼろと言葉を月鈴に投げつけた。

 「もうお捨てください!!そんな気持ち、もう幼く何も考えずにのうのうと生きていけた日はもうないのです!それはあなたを苦しめても、幸せにすることはありません。いつかあなたはその心に殺されてしまう……」


 最後はか細い声で苦しそうにこぼし、初陽は力なく首をたらした。

 いつもは気丈で落ち着いた振る舞いをする初陽のすがるような声を月鈴は初めて聞いたような気がした。

 「ごめんなさい。初陽……」

 月鈴は呆然としながらただやるせない面持ちで、呟いた。

 月鈴が霞を想う気持ちが、月鈴を殺す。本当にそんなことになるのだろうか。

 心の中で問うものの、答えはとうに見つからなかった。


* * * * * * *


 それから幾刻かたち、月鈴は宴に向けて準備をしていた。 


「緊張していらっしゃいますか。」

 初陽は丁寧な手つきで女房から一枚衣を受け取ると、しわがつかないように月鈴の肩に衣をかけていった。月鈴が仕方なく腕を通すと、純白の衣が月鈴の麗しい黒髪を際だたせる。


 「まぁ、してないと言ったら嘘になるけど……筝の演技を人前で披露するのは初めてだから。あまり気は乗らないわ。」

 月鈴は緊張による身体のほてりを追い出そうと、深く息をはいた。

 ひんやりと冷たい衣に鳥肌がたつ。


 初陽の見立てで繕われた着物は、雪のように真っ白な衣を基調に、鮮やかに芽吹いた若草色の衣を組み合わせた襲が見事に調和し、若々しくも優雅な印象を与える。


 衣を重ねるたびに身体が重くなり、右大臣の肩書きを背負わされているような気になって、月鈴は顔をしかめた。


 最後の一枚まで着終わると、初陽は満足そうに月鈴を見つめ感嘆のため息をもらした。

 「お美しいですわ。『白百合の君』にふさわしい。」


 純白と新緑の衣をまとい佇む月鈴は、野に咲く一輪の可憐な白百合のように美しい。一点の汚れもないような澄み渡った儚さが月鈴の整った顔を、縁取った。


 平安の世では家族や親しい者以外に、名を明かしてはいけない。月鈴は都で、その清純な美しさと、めったに姿を現さないことから、野山にひっそりと咲く「白百合の君」と呼ばれていた。


 もちろん噂が勝手に闊歩しただけの名であり、容姿はさておき性格は「白百合」などではまったくない。

 うっとりとした眼差しを自身にむける初陽にいたたまれなくなり、月鈴はたじろぐ。


 「今日の宴には誰が来るの。」

 ふと月鈴は思い出したように初陽に問う。

 右大臣仇波はあまり騒がしい宴は好まないと女房たちの間でもっぱら噂されていた。だから今回もそう人数は呼んでないだろうと月鈴は思っていた。


 花大臣と呼ばれるほど、右大臣邸は花に溢れている。貴族たちにとって、右大臣邸ほど歌詠みが盛り上がる場はない。


 しかし右大臣は極少数しか、己の宴には呼ばない。したがって宮中の風流な貴族にとって、右大臣仇波の宴に呼ばれることがひそかな憧れになっているのだ。


 「そうですねぇ。噂によれば、名高い中将様たちはそろって参加していらっしゃるとか。右大臣は若い公達と語るのが、お好きのようですから。あとは、他にも名のある豪族の方も来ると耳にしましたわ。」

 「名高い中将様全員!!!それは本当なの。」


 月鈴は自分の耳を疑った。動揺で心臓が跳ね上がり、口をあんぐりとあける。

 「えぇ。何でも、姫様の裳着はまことにめでたく、とても幸せなことであるので、なるべく多くの人、貴族以外の人ともこの喜びを分かち合いたいだとか。近頃の右大臣様にしてはとても珍しく、皆驚いていました。」


 月鈴には初陽の声が遠くに感じられた。問題は人数のことではない。


 霞はまさか再開の機会がこんな形であるとは思っていなかったと、いまだ驚きが静まらずにいた。


 「霞……」

 頭中将八坂がくる。そうなれば霞がついているに違いない。幸い、宴で月鈴は筝を演奏するだけだ。自室にもどったあとにこっそりぬけだせば、霞に会えるかもしれないと、月鈴は考えを巡らした。


 月鈴の胸に一縷の希望が広がった。向こうから来てくれないのなら、こちらから行けばいい。


 月鈴は御簾の向こうにあるぼんやりとした、傾きつつある太陽の赤い光を見上げた。月鈴の純白の衣を朱に染め上げるその色は、いつかの想いが重なった夜の頬を思い出させる。


 御簾を通り過ぎた春の冷たい夕風が、まるで霞の手のように、月鈴の頬を優しく撫ぜた。


 霞への想いは、平安の世では月鈴を苦しめるものになるのだろうか。


 それでも、すでに恋い慕う心を知ってしまった今、消すことはできないのだと月鈴は、胸の奥でもやもやとした締め付けられるような想いを抱えながら、衣を翻した。


 *  *  *  *  *  *  *


 右大臣邸の池はだだっぴろい。夕日の柔らかな光が釣殿に反射して、池に映りこむ景色は梔子色の透明な布で覆われた。大きく池に架けられている朱の橋も、昼間は目立つものの今は鮮血のような光にその色を喰われていた。


 広い池に放し飼いされている鯉がはねると、大きな波紋がつくられ、鏡の世が歪む。跳ねる音が大きく聞こえてしまうほどの池の静寂とは裏腹に、釣殿では、話し声が飛び交っていた。


 恰幅がいい照り輝く派手な直衣を来た年寄りもいれば、まだ十代の若者までその年代は様々であり、食と酒を楽しんでいた。


 月鈴はその姿を公達たちが目に触れることがないよう、几帳で厳重に隠された中で初陽とともにその時を静かに待っていた。釣殿を蹂躙する、鼻につくような酒の臭いに慣れない月鈴は、緊張もあいまって、酔いそうになる。


 「いやぁ、まさか噂に名高い白百合の君の筝の音を聞けるとは。思ってもいませんでしたよ。」


 野太い男の声が几帳の向こうから、月鈴の耳にとびこんできた。

 初陽の言っていた豪族の方だろうか。がはは、と辺りに散らばる豪快な笑い声を聞きながら、月鈴はぼんやりと考える。


 右大臣がこの場に、ほとんど顔も知らないような人を上がらせるのは珍しく、祝われているのだと今更ながらに実感していた。月鈴とて、別に右大臣の知り合いをすべて把握しているわけではないのだが。


 重ねられた衣に徐々に肩が疲れ、心の中で重い、重いと連呼しながら、嫌気の塊のようなため息を、吐き出した。几帳の向こうから感じる舐めるように品定めをする何本もの視線が、月鈴を襲い、気分は優れない。


 その上頭中将から遅れると連絡が入ったらしく、霞もまだ現れない。本当に霞は来るのかしらと、月鈴は心配になってきた。

 暇つぶしにと、話し声に集中してみると、あまり馴染みのない声が右大臣と話しているのが聞こえ、聞き耳を立てる。


 「今日は白百合の君の筝の音が聞かせていただけるとか。美しいその名にふさわしい筝の音が、今から楽しみですね。」


 春風のように優しい、落ち着き払った若い声。


 幼い頃に右大臣に近しい者の声はひとしきり聞いていたと思っていたが、その声の主に月鈴は覚えが無い。


 誰かしら。

 初めて聞く声を、不思議に思った。


 「忙しい中よく来てくれたな。式部少輔朝霧殿。父親である私が言うのもなんだが、姫の筝の音は一音一音が白玉のようなのだ。」

 「ほう。それはそれは。待ち遠しいですね。本当はあなたの宴にはいつも顔を出したいのですが。上も人使いが荒い。」

 「いやいや。朝霧殿は、若くして人望が厚いからな、それだけ優秀なのだろう。私も見習わなければ、追い抜かれてしまうやもな。」

 「恐れ入ります。」


 貴族特有の気品あふれる話し方。

 右大臣が毎回宴に呼んでいるという事実に、月鈴は意外だとわずかに目を開ける。右大臣がこれだけ目をかける朝霧という男は、よっぽどできた人物なのだろう。


 「朝霧殿ねぇ。あんまり、聞いたことないけど。」

 月鈴が呟いた言葉は、宴の中で漂うように消えていった。


 宴は何事もなく進んだ。

 そしてその紅の錦のような夕日が西へ沈みかけ、空は夜に向かって衣を仄暗く重ねていたころ、一人の遣いが声を上げた。


 「頭中将様がいらっしゃいました。」

 その声に、にぎやかだった宴は時がとまったように一瞬にして静かになる。遠くで、鯉がはねる音が月鈴に聞こえた。

 ぎしり、ぎしりとゆっくり床を歩く音が響く。その度に、若い女房たちはごくりと、のどを鳴らした。中には、さりげなく髪を整える者や、着崩れを直す者もいる。


 そして頭中将八坂がその姿を現したとき、釣殿にいる誰もが、ほうとため息をついた。

 その容色は女を虜にするためにつくられたと言っても過言ではない。乳白色の肌に、薄紅色の唇が描く微笑は、花も恥らうほどの色気を漂わせていた。切れ長の目の奥では、色情が見え隠れし、それゆえの危うい艶やかさを放っていた。


 「遅れてしまい、申し訳ない。頭中将八坂、ただいま参上仕る。」

 身体の奥底をえぐるような、妖艶で甘い声が、釣殿に波のように広がる。

 その微笑みと声で堕とした女は数知れず、八坂は宮中随一の美青年として囁かれてた。

 「ふっ。待ちくたびれたぞ、八坂。相変わらず良い声だ。それで、遅れた理由はまさか女か?」

 水を打ったように静まりかえる中、右大臣がわざとらしくにやりと笑うと、八坂はたちまち顔をほころばせ、犬のように人懐こい笑みへと変わった。

 「いやだなぁぁ。そんなわけないじゃないですか。仕事ですよ、し・ご・と。これでも全力疾走して終わらしてきたのです。仇波様のために。」


 八坂の顔が柔和なものに変わると、魂を奪われたようにぽーっとしていた人々が、息を吹き返して、釣殿は再びにぎやかさを得た。

 「お前は私を調子に乗らせるのが上手いなぁ。こちらへおいで。お前とは、一番話が合うのだから。」

 「それは光栄。私も、あなたの話は唐菓子くらい、大好物なのです。」

 八坂はころころと笑うと、軽い足取りで仇波の隣へと向かった。

 「おや、八坂。その後ろの御人は誰だ。」

 仇波は、八坂の影に見え隠れする、黒の袍を見つけると目を丸くした。

 「あぁ、申し遅れましたね。仇波様が一人なら、誰か連れてきても良いと仰っていたので、今日は私の屋敷の家司を連れてきたんです。彼はまだ若く、身分もあまり高くありませんが、非常に頭が切れまして。私のお気に入りなんです。」


 その言葉に、それまで几帳の裏でじっとしていた月鈴の心臓が、どくりと大きくはねた。己の顔がこわばっていくのが、手に取るようにわかる。あぁ、それは、それはと震える声が月鈴の中で木霊した。

 八坂が一歩身を後ろに引くと、隠れた姿が右大臣の前に露になる。

 それは霞だった。


 「所の雑色、霞と申します。この度は、私のような身分に、右大臣様の宴に参加させていただき、お心遣い感謝いたします。」

 緊張した面持ちの霞に、仇波はふわりと優しく笑いかける。

 「そうかそうか。八坂から君の話はたまに聞いていたよ。真面目で、礼儀正しいとな。会うのは今日が初めてだね。私は右大臣仇波。なに、ただの老人だと思って仲良くしてくれ。」

 「ありがとうございます。」


 霞は頭を垂れると、八坂とともに右大臣の左隣に腰をおろした。

 その様子に耳をすませていた月鈴は、はりつめていたものが少しづつ溶けていくように感じた。こわばっていた全身から、力がすっとぬけていく。


 そして霞がすぐ近くにいるという嬉しさと同時に、今すぐ几帳をどけて霞の元へ駆けてゆきたいというもどかしい衝動がこみあげていた。


 「霞……」

 細い糸のような声で、月鈴は霞の名を呼んだ。その名を呼ぶと、月鈴の中にじんわりと暖かさが滲む。それはまるで、雨が降りそうな鉛空に、雲の切れ目をぬって優しく差し込んだ一筋の光のようだった。


 聞いてほしいことが、たくさんあるのだ。琵琶で苦手な曲が弾けるようになったこと。かわいらしい雀が先日二羽、巣立ったこと。梅の花がたくさん咲いたのに、まだちゃんと見れていないこと。


 そして、なぜ姿を突然現さなくなったのかを聞きたい。どうして、どうしてと心の内で叫び続けていても、どうしようもない。何かただならぬ理由があると、月鈴は確信していた。

 だからこそ、霞と会って話をしなければ。


 月鈴はそう決意を固めると、衣の下に隠された手を握り締めた。


 八坂が席についてしばらくするといよいよ日が沈み、釣殿には何個もの明かりが灯された。空の彼方では、姿を隠した夕日が残す紅い光と夜が交じり合い、薄紫にぼやける。冷たい風によって揺れる几帳の隙間で、見え隠れするほのかな光はふわりふわりと、幻想的だった。


 月鈴がそれをぼんやりと眺めていると、右大臣がおもむろに咳払いをして二度ほど手を叩く。小気味良い音が響き、注目が一斉に右大臣へと集まった。


 右大臣はぐるりと見回すとにこりと笑った。


 「皆様、本日はようおこしくださいました。八坂も到着し、全員そろったことです。宴の本題に入りましょう。我が右大臣家三の姫である白百合の君による筝の演奏にございます。その素晴らしさを言葉にしてしまえば、色あせてしまうため申し上げるのは無粋でございましょう。姫、皆様に一曲お聞かせなさい。」


 右大臣が几帳の中で静かに待つ月鈴に向かって視線を送った。


 「姫様、こちらを。」

 初陽から渡された爪を月鈴がはめると、途端に心臓の鼓動が緊張で駆け足に鳴り出す。

 右大臣家の姫として下手な演奏はできない。


 そう思うと、月鈴は圧迫感によって腹の中がぐにゃりとねじまがるような感覚にとらわれた。几帳の向こうから公達たちの、食入るような居心地の悪い視線が体中を刺した。


 まだ年端もいかぬ少女に満足いく演奏ができるのかと、一部の公達たちがひそひそと耳打ちする声が聞こえてくる。月鈴を見下し、なぶるようなその声を気にするなと心に訴えても、鼓動は速さを増し緊張は高まるばかり。


 視界が暗く狭まったときに、ふと身体を軽くするものがあった。


 他とはまったく違う、一際強く突き抜けてくる視線の方向を月鈴はじっと見つめる。

 それは間違いなく、霞のものだった。しりごみをする月鈴を強く引っ張るような視線は、月鈴をひどく安心させる。

 まるで霞が隣にいるようだ。不思議と圧迫感が消えていく。


 そして二回、深呼吸をすると視界が開け、鼓動は少しだけおさまった。

 霞に手をひかれるように月鈴は床に手をつき、頭を垂れた。流れるような黒髪が一房、はらりとおちる。


 「右大臣家三の姫にございます。僭越ながらこれから筝を演奏させていただきます。どうぞおくつろぎになってお聞きくださいませ。」

 高めの声でそう告げると、釣殿は水を打ったようになった。


 月鈴は弦に手を添えて一呼吸おいてから、最初の一音を鳴らした。空気を震わせ、重厚な音が広がる。


 音に身体を委ね目を閉じると、月鈴のまぶたの奥に映し出されるのは数々の春の憧憬。己の中を駆け巡る血にのせて、それを指先へ伝わらせていった。


 色とりどりの花から朝露が一滴一滴零れるような音は、時には鶯のさえずりのように軽やかで、時には吹き荒れる嵐のように荒々しい。


 その場の誰もが月鈴の筝の音に心をつかまれた。繊細で愛おしく、言葉にするのも惜しい。それは幼いころ、心の中にそっとしまいこんだ小さな秘密のような淡い背徳感のようだった。月鈴の音に若い公達たちは心をくすぐられ、年を重ねた者は懐古の情を抱く。


 月鈴は筝の音に酔いしれていた。

 私が今いる場所はここではない。枝垂桜が咲く小川のほとり。この身にまとうのは薄桃色の柔らかい羽衣。頭の上にはシロツメクサの花冠。


 こんな、こんな、綺麗な中で私がいるのならばきっとその隣にいるのはきっと……。その隣にいるのは……。


 「姫様……」

 筝の音にすっかり心を奪われていた初陽はふと顔をあげ、目を見開いた。


 月鈴の閉じられた瞳から、一筋の鈍く光る涙が流れていた。月鈴自身は気づいていない。


 それを初陽は見なかったかのように、そっと目をそらした。

 最後の筝の音が鳴り、月鈴が頭を垂れると少しの沈黙ののち、割れんばかりの拍手喝采が起こった。


 「いやぁ、素晴らしい。まさかこれほどの筝の名手がいたとは。こんなに素晴らしい姫がいたとは驚きだ。」


 一人の年老いた公達がそう賞賛すると、周りの人々も同意するようにうんうんとうなづいた。若い公達たちは頬を上気させ、酔った視線を几帳の向こう側へ投げかけ、三の姫に思いを馳せた。


 裳着を終えたばかりの少女だとばかり思っていた男たちは、自分達の想像を覆されることになった。几帳の向こう側にいるのは、全身から艶やかな花の香りを匂わせる女だったのだ。


 月鈴は呆然と賞賛を聞いていた。演奏に集中していたため、身体はまだ熱く、浅い呼吸を繰り返している。


 「大丈夫ですか。姫様。」

 初陽が心配そうに、月鈴を見る。

 「え…あ、あぁ。平気よ、少し息が上がっているだけ。」

 「姫」

 右大臣が上機嫌で声をかけた。

 「ありがとう。宴にぴったりのとても良い演奏だったよ。疲れているようだから、今日はもうお休み。姫を連れて行きなさい。」


 右大臣がそう命じると、初陽ははい、ただいまと月鈴に扇を渡した。こうして月鈴はやっと退出を許されたのだった。



 *  *  *  *  *  *  *



 「右大臣!ぜひあの姫君を息子の妻にしたのですが。」

 「いえ。ぜひ私の息子に。息子の頭は他の公達よりもずっと秀でてます。」

 「いやいや、ぜひ私に!もうすでに、あの姫への思いが溢れ返りそうなのです。」


 月鈴が去ると、釣殿は月鈴の話で持ちきりになった。多くの者が矢継ぎ早に右大臣へ申し出る。しかし右大臣はただ穏やかに笑うと、一口酒を飲んだ。


 「今はまだ、誰にも渡す気はありませんよ。姫は裳着を終えたばかりで、まだ精神的には子どもですし、まだまだ父親として可愛がりたいのでね。」


 すると隣で静かに酒をたしなんでいた八坂が大声で笑った。


 「はっはっは。政の場では天才的な才能を発揮し、国を支えておられるあなたも、姫の前では形無しですか。そんな姫、ぜひ見てみたいと思う男はきっと多い。幼い姫も可愛らしかったし……苦労しますね。」

 「八坂、食うなよ?」

 「まさかまさか。まぁ、好みではないかな。」


 朝霧はその会話に目を丸くする。

 「頭中将様は、白百合の君に会ったことがおありなのですか。」

 「ええ。まあ。ちょうど私が右大臣とお知り合いになったときに、白百合の君が生まれてね。小さいころはよくなつかれていたんだ。その頃はあんなに筝が上手くなるなんて思わなかったなぁ。」


 目を閉じて感慨深げに話す八坂に酒をつぎたしながら、ため息をついた。

 「でも右大臣の三の姫とも言うならば、帝や東宮の元へ入内するのはほぼ決定ですね。」


 右大臣は、朝霧の言葉にそうとも限らないと首をふった。

 「入内は確定ではないよ。かわいい姫だからこそ、本当に愛する人ができれば良いと私は本心では思っているし。それにしても、姫のことを思いため息とは。さては、姫のことが気になっているのかな?朝霧殿。」

 「おぉ!そうなのですか。それは面白い。」


 右大臣と八坂が意地の悪い顔をしてからかうと、朝霧は口に含んでいた酒を噴出し、途端に童顔の頬を上気させ、まくしたてる。くせっ毛の黒髪が怒るとふわりとはねた。

 「ま、まさか!そんな恐れ多いですよ。右大臣の姫君に手を出そうなど。私のような者では身分不相応極まりない。か、霞殿はどうなのですか。」

 戸惑いを隠すことができない朝霧はあわてて霞の名をだした。


 いきなり話のふられた霞は目を丸くして固まった。

 「は。」

 「あなたも頭中将様の家司。そのような浮いた話、一つや二つありましょう。」


 八坂と右大臣は、共に首をぐるりと回すと霞へと目を向けた。


 「ほう。八坂にどうしても目がいくが、よく見れば霞殿もなかなかに美しい顔をしているな。誰か想い人などはいるのか?」

 「まさかいるのか、霞!?」

 右大臣と八坂の興味が朝霧から霞へと移る。探るような視線を投げかけられ、顔を引きつらせながら霞は朝霧をちらりと見ると、朝霧はそっと手を合わせた。


 「……私の前に頭中将様という御方がいらっしゃるのに、わざわざ私に目を向ける姫君などいませんよ。身分も低いですし、私のような者に恋など、しない方がいい。」


 霞は懐かしむように遠くを見つめながら、薄く笑みを浮かべて、そう一言だけこぼした。

 「霞殿……もしかして――――」

 「大臣!お時間を頂いてもよろしいですか。」


 朝霧が話を続けようとしたとき、誰かの急いた声が間を割った。四人が瞬きをさせながら、頭上を見上げると、兵部卿宮継広が思いつめた顔でじっと立っていた。


 霞は、何の用だろうかと思い、ちらりと右大臣の顔を伺う。

 「………」

 右大臣はしばらく面食らっていたが次の瞬間、蝋燭の火を消したようにふっと表情を消し、野良犬のように目を鋭くした。


 霞は感情を宿さない右大臣の無表情を見て、ぞくりと背筋が凍るような思いが身体を這い上がる。しかし穏やかな右大臣とはまったく違うその表情は、すぐに引っ込められ再び柔和な笑みへと戻った。


 「兵部卿宮。……良いですよ。少し場所を変えましょうか。では八坂、話を中断させてすまないが、私は少し席をはずす。ここのことは頼むよ。霞殿も朝霧殿もゆっくり過ごしてくだされ。」

 「了解した。」


 右大臣は優雅な所作で立ち上がると、ではこちらへと歩き出す。兵部卿はその後をおどおどとした表情でついていった。


 「何か、あったのでしょうか。」

 「さぁね。」


 朝霧が二人が消えた方を見て不思議そうにつぶやく。

 霞は、拳をにぎると炎を灯らせたような強い視線で、隣で考え込む八坂を見上げた。

 もう後戻りはできない。

 その言葉を頭に打ちつけ、霞がうなづくと八坂は切れ長の目を思案にめぐらせたのち、ゆっくりとうなづいた。


* * * * * * *


 辺りはとうに闇に沈み、心なしか雨の匂いが漂っていた。昼間はあんなに晴天だったのに、と月鈴は思いながら部屋へ入る。初陽が手早く明かりを灯すと部屋はほのかな光に包まれた。


 「疲れたわ……。」


 倒れこむように脇息へよりかかると、月鈴は手足を投げ出して重くため息をついた。


 無理もない。見知らぬ人々からの重圧の中、精神を削りながらも筝を弾ききったのだ。緊張で張っていた糸がぷつりと切れた今は、その反動で身体全体がだるく感じていた。


 初陽はくすりと笑うと、もう一歩も歩けないと呻く月鈴に肩へ一枚の衣をかけた。


 「とても美しい演奏でしたわ。今夜は冷えるでしょう。私は温かい飲み物をお持ちします。しばし休まれててください。」

 そう言って、初陽は出て行った。


 女房は皆、宴にかかりっきりのため初陽が部屋を出て行くと、月鈴一人だけになる。部屋はしん、と静まり返り温度が低くなったように感じる。


 右大臣たちの華やかな宴も釣殿で開かれているため、端にある月鈴の部屋までは聞こえてこない。


 「筝の演奏、霞はどう思ったのかしら。」

 できれば、上手だねと霞がほめてくれるような演奏であれば良い。良かったと、優しく笑いかけてくれるような演奏であれば良いと、月鈴は願った。

いつも、演奏にのめり込みすぎて自分が奏でた音の記憶がまったく無いことが、月鈴を不安にさせる。


 ゆらめく蝋燭の明かりをぼぅっと眺めている内に、過去のことが思い出される。


 幼い頃は、よく霞と二人で楽器を演奏したものだ。霞は、笛が上手い。霞が操る笛の音は、まるで一本の煌めく糸のようだ。繊細な音がどこまでもまっすぐ響く。細いけれど決して弱弱しくは無い凛とした音に導かれ、月鈴は筝の腕を上げていった。


 霞の音につりあう音を奏でたいという一身で、ここまで上達したことに月鈴自身の驚きを隠せない。


 二人で目をあわせ、呼吸をあわせ、重ねた音がひどく懐かしい。音が調和して、空高く上っていくたびに心が通じあったような感覚に陥った。


 「霞に、会いたいなぁ。」

 霞に会えない寂しさが月鈴の心を覆った。もう、一生あんな安らかな日々は来ないのだろうか。


 すでに景色など見えなくなってしまった、御簾の向こうの暗雲立ち込める深い闇を見つめると、たちまち不安と心細さが小さな針のように月鈴の心を刺した。それに気づかないように、顔を衣にうずめる。こんな時は寝てしまおうと、月鈴が目を閉じかけた時だった。


 「ハァハァ。このあたりに噂に聞く白百合の君の部屋があると聞いたが。きっとこの辺にいるはずだ……。白百合を殺して、これで俺も…やっと。」

 低い男の声が部屋の外から聞こえた。

 月鈴はバッと顔を上げると、急いで辺りをキョロキョロ見回す。


 白百合を殺す。荒い鼻息と軋む足音の合間にそう聞こえた月鈴は、その声に驚愕し、青ざめた。何度も唾を飲み込み、落ち着こうと焦る。


 逃げなければ、殺される。月鈴はぞっと鳥肌がたった。

 冗談じゃない!!

 まだ男が月鈴の気配に気づいた様子はない。部屋の裏から出れば、屋敷の中に出ることができるはずだ。


 月鈴は重たい袿と長袴をそっと脱ぎ捨て、真っ白な小袖のみの姿になる。少々はしたないものの、今はそんなことは考えられない。これなら、走れるだろう。


 這うようにして、几帳をでる。音を立てずにそっと、そっとと心の中で何度も唱えた。

 しかし、もう少しというところで腕が鏡にあたり、ガシャンと激しい音をたてて倒れると、割れてしまった。


 「いたっ!」

 あわてて口を押さえるものの、すでに時遅し。

 「そこかぁぁぁっ!」

 「っ!」

 男が部屋にどたどたとあがり込んでくる。月鈴は、ふっと明かりをふき消すと、一目散に走り出した。

 「どうしよう。どうしよう。」

 月鈴は気も狂わんばかりに走る。外はすでに雨が降り出していて、床が良く滑るため月鈴は息も絶え絶えになりながら走り続けた。

 「どこだ、どこだ。」

 男は尚も追いかけてくる。暗闇の中、雨に濡れもう自分がどこを走っているのかもわからなくなってきた。


 もう体力もなくなってきた。足がだんだんと動かなくなってくる。普段から動いてなかったのが仇になったらしい。

 (あぁ、私、ここで死ぬの?霞に会えぬまま。)

 「霞……」

 苦しげな呼吸に、愛しい名が混じる。

 絶望的な気持ちで角を曲がったとたん、誰かとぶつかった。月鈴はとっさに倒れないように壁に手をつく。

 「ご、ごめんなさい。」

 悠長に謝っている暇など無い。こうしている間にも足音はどんどん近づいていた。月鈴は姿をあまり見られないように顔を背けながら、するりと抜けて駆け出した。


 ところが、ぶつかった相手は月鈴の手首をつかんだのである。

 「やっ!何をするの!離してっ!」

 「しっ。こっちだ。」

 聞き覚えのある声に、月鈴は息を呑んだ。手を引かれ、近くの角を曲がり二人で影に隠れる。

 なぜ、こんなところにいるのだろうか。

 心臓がばくばくと鳴り響く。二人は息を潜めて男が去るのを待った。

 「くそっ。どこにいきやがった。」

 男はしばらくうろうろした後、諦めたのか、静かに闇にまぎれていった。

 月鈴は少しの沈黙のあと、かすれた声を絞り出した。


 「どうして、霞が、ここにいるの。」

 唇をわなわなと震わせながら月鈴が顔をあげると、深刻そうな表情をした霞が静かにたっていた。月鈴の手をひいたのは、まぎれもなく霞だったのだ。

 「……酒の匂いに酔って、休もうと思ったら迷ったんだ。お前…なんて格好してるんだ!!男に会ったらどうするんだよ!俺じゃなかったら、襲われてたぞ……」


 目が暗闇に慣れてきたのか、月鈴の小袖姿に目を見開き、厳しい声で叱りつけるように声を荒げた。最後の方は、震えているような声色が雨音とともに廊下に反響する。

 霞の気迫にびくりと肩をゆらし、両腕で自身をかき抱くと、下を向いた。悔しそうに唇をかみ締める。


 「何にもないわ。」

 「嘘をつくな。あったのがばればれだ。何年一緒にいると思ってる。お前の嘘は全部わかるんだよ。」

 霞は目をふせると、石帯を解き、月鈴を覆い隠すように、自分の直衣をかぶせた。

 「これで少しは暖かいだろ。月鈴、何があった。」


 霞がにらみ付けるような強い視線で見つめると、月鈴はやがて言いたくなさそうに、口を開いた。

 「誰か、わからない男……今思えば、多分宴にいた豪族の声だった。部屋で休んでたら、男が部屋に来て、私を殺すって。それで、必死に逃げて、私……。怖くて…」

 「そうか……。」

 月鈴の震えは寒さだけではなかった。落ち着きを少しばかり取り戻した今、無我夢中で走っていた時には感じれなかった、恐怖が明確に湧きあがってくる。


 殺されたかもしれない。

 痛みに泣き叫び、血だまりに倒れている自分を想像して、月鈴は吐きそうになった。

 どうにか安心を取り戻せないかと、月鈴は霞を請うように見上げた。優しく、もう大丈夫だと抱きしめて、恐怖を包んでほしい。潤んだ瞳が、霞の悲痛な表情を捉える。


 「月鈴……」

 霞は月鈴に触れようとはしなかった。

 霞は手を月鈴へとのばした。しかし、途中でぴたりと止めると信じられないものを見るように、自分の手を見る。霞の手は、かたかたと震えていた。

 あまりにも、月鈴に触れることが当たり前であったため、無意識に手を伸ばしてしまったのだ。


 霞は血が滲むほどに唇をかみ締め、開きかけた手を抑えこむように握った。そして、力をいれたまま、緩慢な動きで拳をおろした。

 「霞、私を、抱きしめて。」

 月鈴はしびれを切らしたようにそっと囁いた。この震えを、治めてほしかった。

 「……すぐに、初陽様ここを通るだろう。右大臣には俺が伝えておこう。もう、男はいないから、早く休みなさい。」

 「え……。」


 霞はそれには答えない。見せかけのような、ただ、ひどく優しい笑みを浮かべるだけだった。

 「じゃあ、俺は行くよ。さよなら、月鈴。」

 まるで最後の別れのような言葉が月鈴に刺さる。


 その言葉を聞いて、急に月鈴は目の前の男は確かに霞であるはずなのに、霞ではないように感じた。月鈴に対して、一歩引いてまるで知らない姫を扱うような霞は、月鈴の知る霞とは異なる。


 月鈴に触れることのないその手も、無理矢理つくったような笑顔もすべて、月鈴は知らない。

 心がざわめくのを感じて、思わず袂を握り締める。

 霞はひらりと衣を返して、雨が降りしきる外へ下り立つ。数多の雨粒が即座に霞の白い衣を濡らしていった。


 「待って!!」

 気がつけば、月鈴は飛び出して、霞の雨に濡れる手を掴んでいた。冷たい大粒の雨が月鈴の身体に打ち付けられる。

 霞はぴたりと立ち止まった。


 「月鈴、離してくれないか。もう、行かなければ。」

 「嫌よ!ねぇ、どうして来てくなくなったの。今までずっと来てくれてたのに。私、ずっと待ってたのに。何か、あったの。それとも、私のこと、もう嫌いになったの?」


 月鈴は縋るように叫んだ。より一層強く霞の手を握る。

 この徐々に冷たくなってゆく手を離してしまえば、もう霞には会えないような気がして、月鈴は怖かった。

 霞はゆっくりと振り返ると、噛み締めるように言葉を放った。


 「嫌いだよ。」

 「……うそつき。うそつきうそつきっ!」

 二人の間に沈黙がおちた。

 あまりにも穏やかな霞の表情は、月鈴には何かに耐えて自分を傷つけて、今にも泣きそうな顔にしか見えない。


 霞は嘘をついていると、月鈴にはわかってしまった。

 雨の雫がまるで涙のように、月鈴の頬を伝う。大きな黒い槍で串刺しにされ、内臓がほじくり出されるような痛みが、月鈴の心を襲った。


 「さっき自分で言ったじゃない。『何年一緒にいると思ってる。お前の嘘は全部わかる』って。その言葉、そっくりそのまま返すわ。私だって、ずっと霞といたのよ。嘘か、どうかくらいなら簡単にわかる。ねぇ、何があったの。霞!!」


 霞は何も言わない。

 「もう、会わないつもりなの……?」


 月鈴の心は、ぐちゃぐちゃになっていた。霞に嘘でも嫌いと言わせてしまった情けなさと、哀しさと、切なさが混じって黒々とした得体の知れない苦痛へと姿を変えていった。


 整えられていた髪は雨で顔に張り付き、霞が被せた直衣も泥で汚れていく。

 上手く働かない頭で、月鈴はくしゃりと歪んだ顔を上げると、ゆっくりと霞へ近づいた。


 「私は、ずっと霞のことが好き。好きよ。」

 吐息交じりにそう呟くと、月鈴は、すばやく霞の唇に接吻をした。

 「なっ……月鈴!」

 霞は目を見開き、振り払うと怒ったよう顔を赤くした。


 月鈴はもうどうにでもなれと、目を閉じた。


 「私は、ずっと追いかけるわ!何があったかは知らないけど、何で教えてくれないのかもわからないけどっ!霞が私のことをちゃんと嫌うまで。私は、好き。ずっと、好き……」


 嗚咽が混じった声で叫ぶ。

 霞の哀しげな瞳が、月鈴を傷つける。

 「嫌い」が嘘だとわかっても、霞のすべてまではわからない。

 ならばいっそ、嫌いが本当のことになってしまえば良いのにと月鈴は思った。

 霞が何か、言いかけたとたんに後方から、初陽の呼ぶ声がした。


 「姫様ー!」

 霞はその声にハッとするとくるりと向きを変えると、走り出す。


 「待って!いかないで!おいていかないで!嫌!かすみ、かすみ!待って、まって……まってよぉ。か、すみ―――。」


 追いかけようとするものの、身体にはりついた装束が絡まり、転んでしまう。それでも、月鈴は這うように、手を伸ばし霞の名を呼び続けた。


 叫んだせいか、月鈴の声はひどくがらがらになっていく。身体が重く、だるい。


 初陽の姿が見えた瞬間、月鈴はふっと意識を失った。


 *  *  *  *  *  *  *



 真っ暗闇の中、雨に打たれながら、霞は帰路についていた。思いつめた顔から雨粒が滴る。


 本当にこれで良かったのだろうか、いやこれしか方法はない。


 自問自答を己の中で繰り返した。

 「身分不相応、か。確かにそうだよな。」

 宴で耳にした朝霧の言葉が脳内で反芻される。霞は自嘲気味に笑った。


 右大臣三の姫は、女としての最高の出世といわれる「入内」、すなわち帝のもとへ嫁ぐことが容易にできる。望みさえすれば、皇后になることだって可能になる身分なのだ。


 それに比べて霞の身分はお世辞にもつりあうとはいえない。もともと低い身分出身だった霞にとって雑色という身分でさえ奇跡に近いのだ。


 この平安の世は身分一つで財産、恋愛、生涯の幸せまでもが決まるといっても過言ではない。


 そしてこれから政権争いの火中に、否が応でも巻き込まれるだろう月鈴を守る力は、霞にはない。


 無邪気に笑う月鈴の隣で、何度自分の生まれを恨んだだろうか。

 「それでも、俺にできることはあるはずだ。」

 霞はうつむいて言い聞かせるように、一人呟いた。


 すると、急にフッと雨がとぎれ、不思議に思って霞は顔を上げた。

 「水も滴るいい男だな。今度私もそうして女人の家へいくか。で、お別れはすんだのか?霞。」


 霞の主である八坂が傘を手に、いたずらっぽい笑みでたっていた。

 霞は驚いて、すぐに姿勢をただす。

 「中将様。なぜお一人で出てこられたのです。しかもこんな雨の中。」

 人一人通らない夜道、声は雨が消してくれる。聞かれたくない話をするにはうってつけだ。


 八坂は、ずぶ濡れの霞に傘を渡すとゆっくりと歩き始めた。

 「いやなに、宴から帰った後、かわいいお前が傘をもってなかったことを思い出してね。こうして駆けつけたのさ。こっそりでてきたから、今頃屋敷は大騒ぎだろうがな!……それで、もういいのか?もう、三の姫とは会えなくなるかもしれんぞ。」

 霞は呆れたようにひきつった笑いを浮かべた後、目をふせておもむろに水溜りを蹴った。


 「覚悟はしてます。それに、もう決めたことなので。」

 それを聞くと、八坂は複雑そうな顔を霞に向けた。

 霞はそれよりも、と険しい表情に変わる。

 「三の姫が、今夜殺されそうになりました。間一髪のところで助かりましたが。」

 「なんだと!!そうか、もう動き始めているのか。参ったな。」


 八坂はあごに手をあてて、考え込む。


 「ええ。三の姫は、最近じゃ最も価値の高い姫君です。彼女自身はまったく気づいていませんが。容姿も優れているし、姿をめったに現さない彼女は、公達の間じゃ最早『秘宝』扱い。しかも、今日の筝の演奏でその価値は上がるばかりです。右大臣家は味方も多いが、その分敵も多い。おそらく右大臣の排除を望む方々が、次々に三の姫を狙うでしょう。それだけじゃない。これを機に、のし上がろうとする奴らも。」


 平安の世では、どんな宝玉よりもどれほどの金よりも価値があるのは「姫」だ。権力を持つのに手っ取り早い方法は、価値が高い姫を身分に高い公達に嫁がせて子を生ませること。


 右大臣家を嫌う者にとって、月鈴を消してしまえば右大臣家の栄光をとめる糸口になる。

 成り上がりたい者にとって月鈴は、「右大臣家」という箔付きの武器になる。


 「きっとあいつが、この権力戦争の鍵になる。」

 霞の声が雨音の中、凛と響く。

 霞は誰もいない暗闇を、目を光らせて睨みつけた。

 「お前は、守るんだろ?あの子を。」

 八坂は立ち止まると、今一度確認をするように問う。


 「守ります。何があろうと。俺には力がないから、傍にいて守ることはできないけれど。でも外側からなら。俺でもできる。」

 自分にもっと力があれば良かったのに。

 本当は自分が隣で、守りたかったのに。

 そう泣き叫んだ心を飲み込んで、霞は力強く言い放った。


 八坂は、霞の隠れた心を読み取ったのか、そうでないのか。一瞬哀しげな視線をよこした後、また飄々とした顔でふう、と息をつく。


 「何か、後悔はあるか?」

 霞は目を閉じると、月鈴のいかないでと言った顔が思い浮かんだ。


 「そうですね。最後に、頬を流れる大粒の雨を拭ってやればよかったです。それだけが、心残りです。」

 そのとき八坂が見た霞の顔は、泣きつかれた子どものようだった。


 *  *  *  *  *  *  *



 「右大臣、その、あの話は、どうなりましたか?」

 兵部卿宮継広は、焦った様子で額の汗をぬぐった。

 右大臣は目を鋭くさせると、事も無げに言った。


 「あぁ、その話なら、問題なく進んでいるよ。手はすでに回した。それよりも……」

 檜扇を弄びながら、右大臣は不快感を滲ませる。


 「あんな大勢の前で呼び出すのはいかがなものか。兵部卿宮、感づかれでもしたらどうするのだ。あなたはもう少し、はかりごとの意味を考えたほうが良いらしいな。」


 兵部卿は狼狽を隠せず、申し訳ありませんとどもりながら、深く腰を折った。

 右大臣は、ため息をつくと立ち上がって雨の降りしきる庭を見据えた。


 「急ぎなさい。祭はすぐそこまで来ているのだから。」

 その声は、嫌によく響いた。

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硝子の朧月 宵闇祭編 @grandpiano

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