硝子の朧月 宵闇祭編
@grandpiano
プロローグ
春だった。その日はどんな生き物も人も、思わず顔が綻ぶほどに美しい青空が広がっていた。
右大臣邸では桜の花びらが何十枚も、何千枚も暖かい日の光を一身に浴びて舞い散り、梅の花がその高貴な香りを強くたなびかせ屋敷を優しく包んでいた。
藤も、椿も山吹も、今日は化粧をしたようであり、いつもよりも一層鮮やかに目に映る。まるで彼女を祝福しているかのようだ。
爽やかな青の直衣をまとう青年は、そう思いながら太い木の枝に腰掛け憂いを帯びた瞳でぼうっと右大臣邸を眺めた。
屋敷の部屋では、甘い夢のような光景の中で一人の少女が、女性へと変わろうとしていた。今日、屋敷では少女の裳着が行われている。
桜によって人からは見えないもの、屋敷を盗み見る変質者まがいの行動をしていることに気づき、青年はふと大きくため息をもらした。
初めは、裳着を覗き見るつもりなど到底無かったが、少女にどうしても姿を見てもらいたい、とせがまれたのだ。
もちろん、着替えるところではなく、その身を美しく着飾った姿をだ。
昨夜、裳着の前に顔だけでも見れたらと会いに行ったら、いたずらっ子のような愛くるしい瞳で少女に見つめられた。
『貴方に一番最初に見てもらいたいの。あの桜の木に、のぼって待っていてちょうだい。衣を変えたら貴方の見えるところまですぐに飛んでいくわ。約束よ。』
絶対にきてねと言われれば、行かないわけにもいかず今に至る。
やがてとたとたと、可愛らしい足音が聞こえて青年が目を向けると、一人の少女が、息を切らしながら、青年の方をまっすぐに見上げていた。
「………」
青年は少女のあまりの美しさに言葉を失いただただパクパクと動かした。
少女が最も気に入っていると言っていた、花山吹の襲をその身にまとい、たたずむ姿はまるで物語に登場する、月から降り立った天女のようで、青年は目がくらんだ。
白玉のような肌も、黒雲母のようなつやつやとした黒髪も、夜空を溶け込ませた瞳も、つい昨夜まではもうずっと見慣れたものだったはずなのに、青年は少女が遠い存在になってしまったかのように感じて、その手を思わず少女に向かってのばした。
しかし手は虚しくただ空を切っただけだった。
良かった。来てくれた。
恐らく、そんなことを思っているのだろう。
少女の緊張でこわばっていた顔が、青年と目が合った瞬間に、大きな目が細められ花が開いたような幼さの残る、あどけない笑顔に変わる。
青年は、今日は特別可愛らしく見えるその笑顔に心臓がとくりとはねて、顔がかっと熱くなった。
少女は青年に美しい姿を見せ付けるように、得意げにくるりと回ってみせると、黄金色の衣の裾がひらりと舞い上がり、まるで少女の浮き足立つような心のようである。
青年は少女に向かって口だけを動かした。
き れ い だ、お め で と
少女は丸い目を大きく見開いてパチパチとしばたかせると、たまらないというようなくしゃりとした、嬉しそうな表情をして少女もその小さな赤い唇を動かした。
あ り が と う、だ い す き
青年は恥ずかしさに頬杖をついていた顔を上げ、片手で己の端正な顔を覆った。少女はそんな青年を見て、また幸せそうに笑ったのだった。
俺はあいつと一つ違いだけど、あいつの親と主人が懇意にしていたこと、屋敷がすぐ近くにあったこともあって、毎日のように遊んだ。
春は桜を愛で、夏は水とともに舞い踊り、秋は風や虫とともに歌い、冬は二人で寄り添った。
九回、季節が巡った。
彼女のすべてを包みこむような暖かい手が好きだった。
彼女のからかうと顔を赤くさせて背ける仕草が好きだった。
彼女のすずめの親子が亡くなったときに涙を落とすような慈しみや優しさが好きだった。
彼女の俺の名を呼ぶ声が好きだった。
彼女の笑った顔が何よりも好きだった。
月鈴は、命よりも大切で、俺の一生をかけて守ろうと誓ったのだ。
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