【拾壱】 価値

🌸



  一  価値  ─ かち ─

  二  目標  ─ もくひょう ─

  三  叔父  ─ おじ ─

  四  交友  ─ こうゆう ─

  五  春画  ─ しゅんが ─

  六  鞘  ─ さや ─

  七  幸太  ─ こうた ─

  八  朔夜  ─ さくや ─

  九  相違  ─ そうい ─

  十  後悔  ─ こうかい ─

 十一  牡丹  ─ ぼたん ─

 十二  告白  ─ こくはく ─








🌸 一 価値  ─ かち ─



 自尊心が、そうを支えていた。颯には兄姉がいたが、十歳を越えて生存しているのは颯一人だ。自分は桂篤の血を受け継ぐ唯一の相続者だという誇りがあればこそ、辛苦にも耐えていられたのだ。

 この三年、颯は己を憐れみ、他人を責めていた。

なぜ、行動を起こそうとする者がいないのだ。

御曹司の失踪に関し、誰一人として疑問を持つ者もいない。颯は、不忠の家臣どもに怒りを覚えた。そして、郷土くにを遠く離れた異国の地で、叔父の改革の成功をうらやんでいた。

 俺は、切り捨てられたのだ。

信頼していた叔父に裏切られていたと感じたときの、颯の動揺は大きかった。

 あの日、叔父が語ってくれた話に颯は心震わせた。かつて、あれほどの高揚を覚えたことはなかった。叔父の、待っている──という一言が、重責を担うことへの不安を消した。自分には、背を支える心強い味方があると実感できたからだ。だが、それはすべて幻だった。

 到底、かなう相手ではない。

信頼していた叔父が敵であるという結論に至ったとき、颯は奈落に突き落とされた。桂徹には颯の望む全てが備わっていた。それに対し、己にはなにもない。経験も実績もなく、家臣の信頼も、領民からの支持もない。現状、この埋めがたい力量の差が、颯を惨めな気持ちにさせた。

 誰も、俺を必要としていない。ならば、今まで俺がやってきたことは一体なんだったのか。すべては、虚しい努力であったのか。

 そう思うとやりきれなかった。颯は、卑小な己と向かい合いたくなくて、架空の男を造りだした。

 今より俺は、草介だ。

根なし草の、草介。切り捨てられた俺に似合いの名だと、颯は自らの憐れさを嘲笑わらった。

 いいさ、ならばこれからは、勝手気ままに生きてやる。

女色に耽り、賭け事に傾倒し、酒に酔いながら草介は世の中の不条理を嘆いた。誰に気兼ねをすることもない。背負うものはない、忍耐を強いられることもない、明日のことなど考えず、今、この一瞬を面白おかしく生きていられれば それで良い。

 けれど、無頼を気取っている草介の心は、空虚だった。底が欠けた壺のように、満たされはしなかった。

 これは、まことの俺ではない。

酔いが醒めれば、自己嫌悪に陥った。己の行動のひとつひとつが、下手くそな役者のように鼻についた。目先の快楽を追う生き方には、何の価値も見出みいだせなかった。

 俺は、稔りある生き方をしたいのだ。生存いきている手触りを、実感できる生き方をしたいのだ。

哲郎の話を聞いてから、このままでは終われない、といった想いを、一層 強く意識するようになっていた。

 名を変えようと、別人になれるものではない。格好をやつしても、詰まるところ、己は己でしかないのだ。





  二  目標  ─ もくひょう ─



 大業を成すには協力者が不可欠だ。

 父は、薄氷を踏めば奈落に墜ちる場所に身を置いていた。その重圧に耐えられたのは、同じ目的を持って道を進む同志ヽヽの存在があったからだ。

 颯はここに来て、改めて桂徹という男について考えた。桂徹はるがない。桂徹は、常に郷土くにの将来を見据えている。兄弟が想い描いた理想の国を実現するべく、今、何をすべきかを思考し続け、行動している。

 後世、人は桂徹を名君と讃えるだろう。桂徹には確固たる信念があり、事業を遂行する力と苦難を耐え忍ぶ強さを合わせ持っている。大業を成す者とは、ああいう男だ。

『不安を打ち消すのに有効な手段は、考え抜くことだ。』

 桂徹の言葉を、颯は思い返していた。

『物事を始める時には、常に不安がつきまとう。私は、臆病な人間だ。これは正しい選択なのかと、いつも思い悩み、躊躇する。そして物事を始めてからも、絶えず不安に襲われている。臆病な己を、私は恥じていた。けれどある時、臆病であるのも悪いことではないと気づいた。臆病であるからこそ、危機に敏感なのだ。臆病さは、危機の実態や本質を正確に把握し、対処するための具体的な手段を考える原動力ともなっているのだと。

 そして、不安を打ち消すのに有効な手段は、考え抜くヽヽヽヽことだ。思考を止めれば、そこで終わりだが、止めなければ必ずなにかしらの打開策が閃き、道が開ける。』

 仮養子を解かれた時にも、桂徹は有益な決断をした。不遇を嘆き、現実に背けるのではなく、己の責務を果たすために前へと一歩を踏み出した。

 桂徹は、努力の人である、と颯は思う。だからこそ、叔父を尊敬する。自らを臆病であると言った叔父に、颯は親近感を覚え、そして目標に定めた。

 俺は、好機きっかけを待ち望んでいた。──

 誰かヽヽが手を差しのべてくれることを期待していた。あの時、一旦退く、──と決断した心理には、甘えヽヽがあった。先の読めない将来に対する不安と、身に危機が迫っているという恐怖心から、打算的で消極的な決断を下した。その結果、三年もの期間を無為に過ごした。

 好機を見過ごしていたのは、他ならぬ己自身だ。ようと努めなければ、見えない。己にとって有益な好機に気づくのも、やはり己なのだ。

 現状を打開するには、行動を起こさねばならない。──

 思うだけでは何事もはじまらない。欲しいものは、自ら掴みにいかねばならない。

 先ずは目の前の勝負に、勝つ。──

 草介は無言で石をおいた。冷静に状況を分析し、判断し、布石を打つ。相手を己の術中にはめるべく、網を張る。

 窮地に追い込まれた時に、人の真価が問われる。その選択が、己の心に問いかけて恥じないものであるか、否か、──そこで道は大きく分岐わかれるのだ。

 痴情に心が乱れ、数日は囲碁の勝負も負け続きであったが、今夜の対局は草介が征した。





  三  叔父  ─ おじ ─



「参りました。」

 諭利は、落ち着いた声色で言い、静かに頭をさげた。

 草介も神妙な面持ちで礼を返した。

かんをつけようか。」と、諭利が訊いた。相槌あいづちを求めるように、こちらを伺っている。

 いいのか、と目で問う草介に、「一本だけだよ。」と答え、諭利は頬笑んだ。さっそく風炉に鉄瓶をかけ、湯を沸かしはじめる。

 燗酒を用意する姿を目で追いながら、昔から俺は少しも変わらないなと、草介は憶い返して自嘲した。好きなひとが、他の男を褒めるのを聞くと腹が立つのだ。

 あの方は、信頼できるお人でございます。──

 ミツは、桂徹を手本とするようにと颯に言った。ミツは、颯の至らないところを、桂徹を引き合いに出してたしなめた。だから、颯は、桂徹の一挙一動を見逃さないように努めた。不足をあげつらい、抵抗を試みる為に、──だ。

「確かに、叔父上はご立派だ。けれど、──」

 そんな颯の反論ヘリクツを、ミツは無言で聴いた。責めるでもない、憂いを含んだ視線は、真っ直ぐに颯の真意を捉えた。

 雲った目では、正しく物を視ることはできません。──

 批判をするのは、簡単だ。批判をする側の心理には、嫉妬や羨望の念がある。ミツが桂徹を見習えという理由を、颯は十分に理解していた。ただ、ミツがあんまり桂徹を持ちあげるので、素直に認める気になれなかったのだ。

 颯は、桂徹を尊敬していた。そして今でも、為政者としての畏敬の念は消えていない。裏切りヽヽも、自らを桂徹の立場に置き換えて考えると、無理からぬ事と共感する部分がある。

 颯は、父と叔父の、兄弟の絆の深さを知っていた。だからあの時、父のに叔父が関与しているという何者かの意見を即座に否定した。だが、ある一点において、颯は叔父を信じてはいなかった。

 人間にはがある。──

 良くも悪くも、人の心に内在する感情の根源だ。それに依って人は惑い、ときに、取り返しのつかない過ちを犯すのだ。

 一通の手紙から、颯の思考は迷走をはじめた。思いつくままに仮説を立てては打ち消す、といった作業を繰り返した。そのうちに、ふと一つの考えが浮かんだ。

 これは、叔父の仕業ではないか。──

 兄の急逝により、桂徹の心に迷いが生じた可能性がある。こう仮定すると、領主の不在は桂徹にとって千載一遇の好機だ。桂徹には領主としての資質がある。これまで補佐に徹し、二番手に甘んじていたのは、傍らに、領主としての力量を供えた者が存在していたからだ。

のこされた嫡子は、未だ独りでは狩りのできない未熟な獅子、捩じ伏せるのは簡単だ。正式に家督を継承する前の今ならば、騒動の被害も最小限にとどまる。』

 そして、桂徹は己の築き上げてきたものを、是非に我が子へ、と望んだのではないだろうか。

 弟を仮養子としておきながら、やはり実子をとの望みを棄てきれなかった父のように。





  四  交友  ─ こうゆう ─



 草介は おもむろに質問を投げかけた。

「明晏仁を、旦那さまヽヽヽヽと呼んでいたのか。」

 明晏仁、とは。──

 予期せぬ名があがった。

 草介の、ここ数日の不機嫌の理由は邑重がらみの事柄だ。諭利は当然、邑重との交遊を訊かれるだろうと身構えていたので、少々拍子抜けだ。

「お呼びしていたよ、雇い主だったからね。」

 明晏仁は、衛国の先王の弟であり、かつては、〔 戦略の奇才 〕──と世に名を馳せたおとこだ。そして、桂颯の叔父にあたる桂徹と交友を持っている。

 以前、握り飯を作った時のことだ。承との会話中、妙覚寺みょうかくじの名称が出ると、草介は即座に、明晏仁のいる寺か、──と確認をした。

 別段、草介が明晏仁を知っていても不思議ではないのだが、その後の草介の態度に諭利は違和を感じた。そこで早速、諭利は妙覚寺へ文を出した。

『確か、──あなたは豊国の、桂家のどなたかと文の遣り取りをしておられませんでしたか。』

 数日後、早々はやばやと返事がきた。文には、先の領主の弟、──つまり桂徹けい てつと以前より親交がある、と書かれていた。

 桂徹と明晏仁は、明晏仁が呂康邑ろこうゆうの知事をしていた頃よりの文友であったのだ。

 諭利は、再び筆をとった。

『桂の領は、現在あるじが不在であると聞きました。なんでも、先の領主の子息は叔父と仲違いをして家を出ているのだとか。──』

 明晏仁から文が届いた。 

『桂颯は、珠国に留学中だそうだが、そなた、もしやその者と関わりがあるのか。』

 留学、──などとは面体を繕う偽りだと知りながら、明晏仁はこちらへサグりを入れてきた。

 これに、諭利は返事をしていない。さすれば、物見高い 御仁ごじんのこと、桂颯の失踪について独自に調査を始めるだろうと考え、えて草介のことを隠している。 

 そして諭利は、草介を家に入れたときから、吟仙ぎんせん(清張)に桂家の内情調査を依頼していた。

 商いの決め手は情報の収集力、──吟仙の収集力の高さは一国の諜報機関にも勝るものである。

 双方を照合し、おおむね、桂颯の失踪の原因は叔父との不和であると、諭利はみている。原因は、当人が口をつぐんでいるから定かでないが、何かしら糸口を見つけ、関係を修復できないかと考えていた。

 少しずつ、ソウも動き始めているようである。帰郷し、領主となることこそが、ソウにとっての最善の道だ。

 ソウが本心からそれを望むのであれば、助力を惜しまない。そして、もしも希が叶わないとしても、ソウが新たな道を見つけるまで、傍らに在ろうと決めている。

 だが しかし、──と、諭利は首を傾げる。

 何の謎かけだろう、「旦那さまと呼んでいたのか」などと。──

 草介は、諭利の表情を眺め、含み笑いを返す。諭利の問いを謎にしたまま、更に草介は質問を投げた。

「これは、あんたか。」





  五  春画  ─ しゅんが ─



質問ヽヽは一つ、とは限定していない。

 諭利の目前に差し出されたのは、遊吉ゆうきつの肉筆の絵だった。

〔 四十八手 〕と題されたそれは、男女の交合を描いた春画の習作だ。女より麗しい、美貌の若衆の背には傷がある。傷の位置は諭利の背の それと符合していた。

「そうだよ。」

こっちヽヽヽの男は、誰だ。」


 草介は別の項をめくった。千鳥の体位カタチで女と絡んでいるのは、腹のたるみが目立つ中年の男だ。うねりの強い縮毛が肩に垂れている。

千獄せんごく、 ──遊吉の弟子。といっても、遊吉は弟子を取らないから、当人が勝手に名乗っているだけ。」

 諭利は男の頭部を指差し、言葉を継いだ。

「頭に、牡丹の刺青をしている。普段は毛髪に隠されているけれど、掻き分けると図柄が少しずつ見えてくる。けれど、体には一切、墨を刺していない。頭にだけ、ってのは、いきだろ。」

 掌中のぎょくを見せるように、諭利は艶然と微笑した。

 草介は眉をひそめた。男の頭部に触れた指から、頭髪を掻き分ける叙情的な動きを想像し、同時にその男と諭利との関係を邪推するに至っていた。

「そうだ、私のイロだった。」

 諭利はあっさりと、草介の疑念を肯定した。

「互いの体を、隅々まで知っている。千獄はとても強くてね、私の要求によく応えてくれた。色子あがりの千獄は、人を悦ばせる手管に長けていた。人の急所に詳しく、伝えなくてもすぐに感じ所ヽヽヽを探り当てた。私たちは、二つ巴(69)になって互いを喰らい合った。どこまでが己の躯か区別がつかなくなるくらい、際限なく縺れ合った。──ああ、でもね、惚れた腫れたの仲ではない。肉体カラダだけの関係だ。そうした相手が、その時の私には必要だった。私は、当時、精神を病んでいた。」諭利は自嘲するような笑みを浮かべた。「私はね、色狂い《イロキチガイ》だったんだよ。」

 諭利は草介と目を合わせた。

「肉の火照りを抑えられず、町に男を漁りに出ていた。強そうな男だと見ると声をかけ、昼夜の別なく交わった。どの男も、始めは極楽だ、菩薩様だ、と喜んでくれるけど、やがて際限のない私に食傷し、大概にしやがれ、クサれ陰間め、──と唾を吐きかけて逃げて行く、」

 感情は、理屈では割り切れない。草介の心中は、やはり穏やかでないようだ。

 諭利は、何を聞いても驚かないんじゃなかったのかい、──と揶揄するように草介を見た。

「千獄は、厄介者を引き受けてくれた。お蔭で私は救われた。悪い者に騙され、苦界に身を沈めることなく済んだ。けれど、そこで私は大きな思い違いをした。体を可愛いがられているうちに、独りで逆上のぼせあがっていた。私は、千獄の情人になったつもりでいたが、向こうは違っていたのだ。千獄は私の気持ちを察し、俺に惚れるな、俺は雲だから、一ヶ所ひとところには留まれない、──と、釘を刺してきた。」





  六  鞘  ─ さや ─



「おまえにはさやが必要だ、──そう、千獄は言った。抜き身ヽヽヽの おまえは危なっかしくて見ていられない。だから俺がおまえのになってやる。だがな、妙な期待を持つなよ、一時いっとき、──おまえが正気を取り戻すまでの間だ。俺は人を愛せないから、堅気マトモな相手を見つけ、サッサと俺から離れてくれ。──情人、どころか、千獄は私を側に置く気もなかった。イロを売っていた経験を待つ千獄は、かえって色恋に関しては冷淡だった。特定の情人をつくらず、割り切った付き合いのできる者としか関係を持たなかった。身勝手な奴、──私は千獄を面罵した。手を差しのべておいて突き放すのは、何もしないよりタチが悪い。愛されたいと望むがゆえに拒絶されなど、到底、納得のゆかないことだった。私は千獄を失いたくなかった。千獄は、決して私を辱しめなかった。千獄との交わりは、単に肉慾を満たすだけの行為ではない、他の男からは得られなかったやすらぎを私に与えてくれた。そしてそれは、この男のなかに、私を愛おしく思う気持ちがあるからだと、感じた。」

 狂っていれば、千獄は私から離れない、──ならば、狂ったふりをしていよう。

「私は、雛鳥のように頼りなげに身を寄せ、独りにしないで、と鳴いた。憐憫を誘い、千獄を繋ぎ留めようとした。けれどそのつど、千獄は哀しげな顔で、そっと私を引き離した。拒まれ続け、私は腹を立てた。やがて、私は、私を受け入れないこの男を、困らせてやりたい、と思うようになった。私は わざと危険な場所へ近づき、千獄が追って来るのを待った。私のために、右往左往する姿を眺め、愉しんだ。情人でない おまえに、とやかく云われる筋合いはない、と、差し出された手をはたき、密かな愉悦に浸った。──それでも、千獄は私を見捨てなかった。本気で案じ、叱ってくれた。そんな男を、誰にも渡したくはなかった。」

 愛さなくいい、私だけヽヽヽを見ていて欲しい。──

「身勝手は、私の方だ。優しい言葉をかけてくれる者なら誰だってよかった。親切な誰かヽヽに丸ごと我が身を委ね、癒して欲しいと願っていた。嘘でもいいから、お前を愛している、──と云って欲しかった。だが、千獄は気休めで人に、愛してる、と云える男ではなかった。千獄にとってという言葉は、軽々しく口にできるものではなかった。」

 憂いを纏った男の横顔を、諭利は想う。今、こうして冷静な心で振り返ると、言動のうちに秘められた男の哀しみが、浮かびあがってくるのだ。

「千獄は、て子だった。産まれて間もなく、尼寺の門前に置き去りにされた。赤子の身体をくるんでいた袢纏はんてんの内には、護符おまもりふみが添えられていた。その文には、赤子の名と、母親と推測される女の筆跡で、必ず、迎えに来ますから、──と書かれてあったそうだ。」





  七  幸太  ─ こうた ─



幸太こうた、──文に書かれてあった赤子の名だ。その尼寺は〔 縁切寺 〕で、常時、亭主から逃れて来た数人の女が身を寄せていた。なかには乳呑子を抱える女もいて、乳を分けて貰えると思ってか、赤子を置いて去る者が後を絶たなかった。──寺では、そうした赤子を十歳とおになるまで養育した。なかには子宝に恵まれずにいる夫婦に貰われて行く者もあったが、それはごく稀な例だ。──幸太が七歳ななつになった頃、引き受けたい、と望む者が現れた。寺に出入りする者の口伝てに、あの尼寺に、花のように美しい童子がいる、──という噂が広まっていた。その頃の千獄は、一見して少女と見紛う容姿をしていた。申し出た男は、芝居小屋の関係者だった。美童の噂を聞きつけ、役者にならないかと誘いにきたのだ。──役者で名を上げれば、生き別れた親も、舞台の上の我が子を一目観たいと現れるかもしれない。──巧みな男の話術に、幸太は夢を見た。子供たちの多くは、十を過ぎるまでに奉公先を決めて寺を去っていた。どのみち、寺に長くは居られない。幸太は考え、答えを出した。これからは、己の力で生きてゆくのだと、決心したのだ。──けれど、夢を懐いた新たな場所で、幸太は現実を知ることとなった。見習い役者としての生活は、想い描いたもとは違った。役者は、芸を売り色を売る。それも修業のうち、と雇い主に云われては、戻る場所のない少年は受け入れるしかなかった。幸太は、己の価値を示すため、芸の稽古に励んだ。棄て子、要らないモノ、──背に貼られた札を払拭したかったのだ。──だが、幾ら努力をしようと、報われる保証などはないのだ。幸太の心身は、子供部屋で春をひさぐ日々に疲弊した。周りには、役者を目指す者が腐るほどいた。舞台に上がれる者など ほんの一握り。日の目を見ずに終わる者がほとんどだ。弱ってゆく心には、悪い考えばかりが浮かぶ。幸太は、に対しても疑念を懐くようになった。今の今まで、母と おぼしき人物からは何の音沙汰もない。果たして、本当に迎えに来る意志があったのだろうか。そして、目を向ければ、幸太の回りは似たような境遇の者ばかり。そんな子供たちに対し、幸太は憐れみを懐いていた。迎えなんか、来やしない。お前も俺たちと同じ棄て子なんだ、──寺で、他の子供に揶揄される度に、母は、必ず来る、と言い返した。母は、やむにやまれぬ事情があって、私をここへ預けたのだ、──そう、己に言い聞かせた。──幸太は、己の傲慢さに気づいた。すると、他人を憐れんでいた己が、一層、惨めに感じられた。幸太の心は、悲しみとも怒りともつかぬ感情に染まっていった。──」

 諭利は立ち上がると、後ろの書棚から本を取り出した。それから、本に挟んでいる絵を一枚抜き取り、座り直して草介に差し向けた。

「そんな時、幸太は遊吉ゆうきつと出会った。」





  八  朔夜  ─ さくや ─



「遊吉は、幸太を一日買い上げては、姿絵すがたえを描いた。遊女ばかりを描いていた遊吉が、少年を描くのは珍しいことだった。」

 草介は絵を手に取って眺めた。可憐な少女、──としか見受けられない、艶やかな装いの少年の姿。未だ、男にも女にも成りきっていない者の、一種神々しいともいえる姿だった。

「絵は評判を呼んだ。遊吉の姿絵のお陰で、幸太には上客が付くようになった。やがて、幸太は ほんの端役だが、舞台に立てるようにもなった。そして、幸太は〔 朔弥さくや 〕と名を改めた。暫くして、朔弥に好機が訪れた。急な病で降板した者の、代役を務めることになったのだ。朔弥にとって、それは夢のような時間だった。朔弥が垣間見せる可憐な微笑は、観客を釘付けにした。けれど、──」

 と、諭利は表情を翳らせた。

「華やかな日々は、長く続かなかった。夢の蕾が花開きかけた寸前、朔弥を災いが襲った。朔弥の成功の影に、泣く者があった。疱瘡ほうそうを患い、降板を余儀なくされた少年だ。病から回復したのち、少年の居場所はなくなっていた。かつて、己がいたその場には、別の者が立っていた。そこは、血の滲むような努力をし、掴み取った場所だった。少年は不運を嘆いた。いくら嘆いたとて、もはや取り返しがつくものではない。命と引き換えに、顔には醜い痘痕あばたが残っていた。やり場のない憤り、その矛先は、舞台の上の者に向かった。朔弥の評判が高まるたび、少年は妬みを募らせた。病にさえかからなければ、──朔弥アイツさえいなければ。少年の憎悪は破裂した。──それは、新作の舞台の初日の出来事だった。少年は、花道に乗り上がり、真っ直ぐに進んで来た。目を見開いた朔弥の右頬に、瞬時、鋭い痛みがはした。血飛沫が舞い、方々で悲鳴があがった。──」

 諭利はまた一枚、草介に絵を手渡した。

「朔弥の頬には傷が残った。

 医師の腕が良く、縫合の痕は目立たずにすんだ。

 化粧をすれば傷は殆んど隠れたが、それ以降、朔弥が舞台に立つことはなかった。

 朔弥は、代名詞である〔 微笑 〕を失っていた。その場には、違う者が立っていた。威光を失った朔弥から、取巻きは潮が引くように、消えた。──」

「希望のともしびついえた。抜け殻のようになった幸太を、遊吉は引き受けた。幸太は、暫くして遊吉の仕事を手伝うようになった。──千獄せんごくを、私が初めて見たのは、商家の建ち並ぶ大通りだ。開店の客寄せで、千獄は大筆を振っていた。祝歌を口に、踊るように筆を走らせていた。豪快な筆が紙に下りる度に、ヨイショ、──と観客から合いの手が入る。そして、歌が終わると、紙には見事な登り竜が出現あらわれていた。歓声に応え、千獄は恭しく頭をさげた。称賛の渦中にある男の姿から、こうした背景があるとは想像できなかった。──」

『お前には、鞘が必要だ。』

 暗闇を彷徨さまよっていた私に向けられたその言葉は、ひかりを喪い、絶望のなかにいたあった己の姿を重ね、手を差しのべずにはいられなかったかもしれない。





  九  相違  ─ そうい ─



「千獄は、私の心を見透していた。私が求めていたものは、唯一無二の鞘。すべてを受け入れ、癒してくれる存在だ。私は、愛する人を失った。失ったことにより、発狂した。心を鎮めるためには、仮の鞘となる者が必要だった。しかし、それは一時凌ぎの紛い物なのだ。決して、亡くした者に代わることはない。心は誤魔化せない、己を偽れば歪みが生じ、ひとたび違うヽヽと認識すると、その一点に囚われはじめる。生じた違和は少しずつ大きくなり、やがて不満が口を突く。

互いを傷つけ合うのを避けるため、千獄は私を拒絶したのだ。」


「幸太、──その名に込められた母の愛を信じ、幼子おさなごは『母』を待った。されど、母は現れることなく、月日だけが過ぎた。移ろう時のなかで、少年ののぞみは虚しさに変わり、いつしか、男は待つことをやめた。──虚構にすがっていた。実体のない言葉に、振り回されていた。──だが、それでも信じるしかなかった。幼子には、待つより他にすべはなかった。──迎えに行くという文が添えられていなければ、──ある時、千獄はそう呟いた。今ごろは、商家の跡取りとして、左うちわで暮らしていたかもしれない、──と。事実、幸太を貰い受けたいと望む者があった。寺を訪れる商家の奥方に、幸太は気に入られていてね、長らく子に恵まれずにいたその人は、幸太との養子縁組を願い出たそうだ。幸太は首を縦に振らなかった。それは、一途にの言葉を信じていたからだ。千獄は、笑っていた。そこに遺恨はなかった。それは過去の出来事であり、千獄は、すでに許容していた。養子にならなかったことを、後悔していたのではない。過去を笑い話として他人に語る、そうした想いに至るまでには、一言では表せない辛苦があったことだろう。──人を愛せない、その根底には、少なからず、親に棄てられた、という想いがあった。人を愛せば、おのずと相手の愛を望んでしまう。捧げた分の見返りを期待し、果ては、いつまでも振り向かない相手を、恨むようになる。そうなることを知っていたから、千獄は求めることをやめたのだろう。期待をしなければ、裏切られたと腹を立てたり、憎しみを懐くことはない。千極は、心細やかな男だった。それゆえに、その目には人の狡さや醜さがありありと映っていた。非情、などではない。むしろが深かったから、情に流されてしまわないように、他人と己の間に線を引き、己を守っていたのだ。」





  十  後悔  ─ こうかい ─



「私は、千獄を理解しようとせずに、一方的に己の想いを押し付けていた。幼子のようにその背にしがみつき、愛してくれ、私だけを見てくれ、と駄々を捏ねていた。私は、千獄という個に、正面から向き合おうとせずにいた。肌を重ね、ほんの一端を垣間見、千獄をった風な気になっていた。」


「千獄は、鞘になってくれた。崖から落ちかけている私を掴まえていてくれた。己の内側に他人を立ち入らせず、他人の領域に踏み込むことを避けていた男が、線を踏み越えて私に手を差しのべてくれた。その心遣いを、私は感謝すべきだった。人を愛せない、その意味を、もっとよく考えていたらと思う。あの時の私は、己の感情に囚われ、人を思い遣る余裕がなかった。千獄の胸襟を無理やり抉じ開けて、己を捩じ込もうとした。心無い言葉を吐き、傷つけた。そして、傷つけたことを後ろめたく思っていたから、礼を言うこともしなかった。そのことを、私は今も悔やんでいる。」


「私が真に望むもの、それは、千獄が望むものと同じだった。必ず、迎えに来ますから、 ──その言葉は、幼い千獄にとって、生きるよすがであったにちがいない。言葉は、生きる力を言葉は与えていたのだと思う。私は、短い期間だが慈照院(孤児院)にいた。千獄が置き去りにされた尼寺のように、慈照院の門前には赤子が置かれることが度々あった。そんな子供に、先生(芙啓)の奥さまはこう言っていた。捨てたのではありません。事情があって、預けてゆかれたのです。必ず、会いに参りますよ。そんな奥さまに、私は皮肉を込めてこう訊ねた。男との駆け落ちが、止むに止まれぬ事情ですか、──と。その子はいずれ真実を知ることになる。信じたものが虚偽であったと知ったときほど失望は大きい。その場凌ぎの嘘など、その者の為にならない。非難する私に、奥さまは答えた。愛されているという自覚が、生きる力を与える、──と。要らないものと、自らを卑下してはならないのだと。嘘も方便。その時の私には、優しい嘘を許容できなかった。

けれど今は、人を救う嘘というものもあると思えるようになった。この世に一度ひとたび生を受けたからには、己の生を全うしなければならない。──清濁を受け入れながら、千獄は したたかに生きていたのだ。」





  十一  牡丹  ─ ぼたん ─




「牡丹に獅子は縁起の良い図柄だ。意味を知っているかい。」

 諭利の言葉を受け、草介は述べた。

「獅子は百獣の王だ。しかし、その無敵の獅子が唯一恐れるモノがある。それは、我が身の体毛に巣くう虫。毛の中で、小さな虫は密かに増殖し、皮を噛み破り肉を食らう。だが、この虫にも弱点がある。牡丹の花から滴り落ちる夜露にあたると、虫は死ぬ。だから、獅子は牡丹の花の許で体を休める。」

 牡丹の花の中は、獅子にとっての安息の地だ。

「千獄に惹かれたのは、己と似たような境遇であったからだ。身寄りのないもの同士、だから私を受入れてくれるだろうと思った。けれど、それは私の身勝手だ。私は千獄に依存しようとした。千獄の傷をこじ開けて、無理やり私を捩じ込もうとした。私は、牡丹を求める獅子だった。安らげる場が必要だった。そして千獄にも、心安らぐ場が必要だった。同じ境遇にあっても、状況をどう捉え、どう行動するかはそれぞれだ。私は安らげる相手ではなかった。千獄の鞘になってはやれなかった。」

 求めるばかりの私は、拒まれて当然だ。だから、千獄とは結ばれなかった。そういうえにしではなかったのだろう。

「お前が知りたがっていただよ。でも、これはのほんの一端だ。」

 諭利は草介に頬笑みかけた。

「あの頃の私を見たら、お前はきっと逃げ出すだろう。だが、それは仕方ない。誰だって、面倒なことには巻き込まれたくない。受入れられないとしても、責める気持ちはない。」

 諭利の顔を見て、草介は笑った。

「そんな突き放すような言い方をしても無駄だ。過去がどうであれ、俺はあんたを嫌いになったりはしない。ガキじゃない、──と云ったよな。俺も、流れている間に色々と見てきたから、大抵のことには驚かないのさ。」

 諭利は草介を見つめていた。しばらく見つめ続け、そして静かに言葉を告げた。

「それでお前は、に嫌気がさしたのかい。」





  十二  告白  ─ こくはく ─



 諭利は視線を外し、云った。

「そんなに飢えてるのなら、街へ行って女を抱いておいでよ。」

「誰でもイイってわけじゃない、俺は あんたがいいんだ。あんたじゃなきゃ、駄目なんだ。」

 知っているだろ、と、草介の目が訴えている。

「ソウ、お前はが好きだろ。試してごらんよ、きっともう大丈夫だよ。」

 応える様子がないので、諭利は言葉を継いだ。

「私もね、どちらかというと女の方が好きなんだよ。」

 草介が複雑な表情を造る。

「あんた、が好きなのか?」

「なんだい、私がが好きだと言ったら、可笑オカしいかい。」

 草介は唖然としている。

「節操がない、──と言いたげだね。そうさ、節操がないせいで、時々つまらない拾い物ヽヽヽをしてしまうのだよ。」

 ちらり と、諭利は草介を見、「つまらない、という言い方はよしてくれ。」と、草介は神妙な顔で言った。

「俺だって、いい加減傷つくぜ。自分でも、つまらない男と思えてきて、自信がなくなる。あんまり邪険にしないでくれ。ふわふわと漂って生きるのは もうやめた。地に足をつけ、生きようと思っている。だから、な、蚊帳の中に入れてくれよ。」

 諭利は苦笑し、今夜だけだよ、──と草介の申し出を受け入れた。

 蚊帳のうちに布団を並べて敷き、それぞれに横たわった。

 草介は手をのばし、諭利の手をとって指の間に己の指を差し入れた。

「握らせてくれ。それくらい、イイだろ。もう少し、優しくしてくれ。俺は褒められると伸びるのさ。」

 諭利の手を引き寄せ、自分の胸の上に置いた。

「ここに来て、俺はあんたを好きになったんだ。名のない人形ヽヽではない、俺は生身の あんたが好きなんだ。慕うのは勝手だ。好きになるな、と規制するのは無意味だ。感情ヽヽはどうにもならない。押さようとするほどに、想いは募るもの、──そうだろ。」

 諭利は口を開いた。

「千獄のもとにね、母と名乗る女があらわれたそうだ。女は、千獄を連れて豪遊し、数日楽しんだあと、忽然と姿を消した。この女は、千獄の母ではなかった。千獄は知りながら、騙されたふりをして、女に付き合っていたのさ。一時いっときでも、親孝行の真似事ができてよかった、束の間、愉しい夢を見せてもらった、だからその謝礼だと、──そう、云っていたよ。」









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櫻の国【月光】 桂颯・夢ひと夜 アマリ @10-amari-1

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