【拾壱】 価値
🌸
一 価値
二 目標
三 叔父
四 交友
五 春画
六 鞘
七 幸太
八 朔夜
九 相違
十 後悔
十一 牡丹
十二 告白
🌸 一 価値
自尊心が、
この三年、颯は己を憐れみ、他人を責めていた。
なぜ、行動を起こそうとする者がいないのだ。
御曹司の失踪に関し、誰一人として疑問を持つ者もいない。颯は、不忠の家臣どもに怒りを覚えた。そして、
俺は、切り捨てられたのだ。
信頼していた叔父に裏切られていたと感じたときの、颯の動揺は大きかった。
あの日、叔父が語ってくれた話に颯は心震わせた。
到底、
信頼していた叔父が敵であるという結論に至ったとき、颯は奈落に突き落とされた。桂徹には颯の望む全てが備わっていた。それに対し、己にはなにもない。経験も実績もなく、家臣の信頼も、領民からの支持もない。現状、この埋めがたい力量の差が、颯を惨めな気持ちにさせた。
誰も、俺を必要としていない。ならば、今まで俺がやってきたことは一体なんだったのか。すべては、虚しい努力であったのか。
そう思うとやりきれなかった。颯は、卑小な己と向かい合いたくなくて、架空の男を造りだした。
今より俺は、草介だ。
根なし草の、草介。切り捨てられた俺に似合いの名だと、颯は自らの憐れさを
いいさ、ならばこれからは、勝手気ままに生きてやる。
女色に耽り、賭け事に傾倒し、酒に酔いながら草介は世の中の不条理を嘆いた。誰に気兼ねをすることもない。背負うものはない、忍耐を強いられることもない、明日のことなど考えず、今、この一瞬を面白おかしく生きていられれば それで良い。
けれど、無頼を気取っている草介の心は、空虚だった。底が欠けた壺のように、満たされはしなかった。
これは、
酔いが醒めれば、自己嫌悪に陥った。己の行動のひとつひとつが、下手くそな役者のように鼻についた。目先の快楽を追う生き方には、何の価値も
俺は、稔りある生き方をしたいのだ。
哲郎の話を聞いてから、このままでは終われない、といった想いを、一層 強く意識するようになっていた。
名を変えようと、別人になれるものではない。格好をやつしても、詰まるところ、己は己でしかないのだ。
二 目標
大業を成すには協力者が不可欠だ。
父は、薄氷を踏めば奈落に墜ちる場所に身を置いていた。その重圧に耐えられたのは、同じ目的を持って道を進む
颯はここに来て、改めて桂徹という男について考えた。桂徹は
後世、人は桂徹を名君と讃えるだろう。桂徹には確固たる信念があり、事業を遂行する力と苦難を耐え忍ぶ強さを合わせ持っている。大業を成す者とは、ああいう男だ。
『不安を打ち消すのに有効な手段は、考え抜くことだ。』
桂徹の言葉を、颯は思い返していた。
『物事を始める時には、常に不安がつきまとう。私は、臆病な人間だ。これは正しい選択なのかと、いつも思い悩み、躊躇する。そして物事を始めてからも、絶えず不安に襲われている。臆病な己を、私は恥じていた。けれどある時、臆病であるのも悪いことではないと気づいた。臆病であるからこそ、危機に敏感なのだ。臆病さは、危機の実態や本質を正確に把握し、対処するための具体的な手段を考える原動力ともなっているのだと。
そして、不安を打ち消すのに有効な手段は、
仮養子を解かれた時にも、桂徹は有益な決断をした。不遇を嘆き、現実に背けるのではなく、己の責務を果たすために前へと一歩を踏み出した。
桂徹は、努力の人である、と颯は思う。だからこそ、叔父を尊敬する。自らを臆病であると言った叔父に、颯は親近感を覚え、そして目標に定めた。
俺は、
好機を見過ごしていたのは、他ならぬ己自身だ。
現状を打開するには、行動を起こさねばならない。──
思うだけでは何事もはじまらない。欲しいものは、自ら掴みにいかねばならない。
先ずは目の前の勝負に、勝つ。──
草介は無言で石をおいた。冷静に状況を分析し、判断し、布石を打つ。相手を己の術中にはめるべく、網を張る。
窮地に追い込まれた時に、人の真価が問われる。その選択が、己の心に問いかけて恥じないものであるか、否か、──そこで道は大きく
痴情に心が乱れ、数日は囲碁の勝負も負け続きであったが、今夜の対局は草介が征した。
三 叔父
「参りました。」
諭利は、落ち着いた声色で言い、静かに頭をさげた。
草介も神妙な面持ちで礼を返した。
「
いいのか、と目で問う草介に、「一本だけだよ。」と答え、諭利は頬笑んだ。さっそく風炉に鉄瓶をかけ、湯を沸かしはじめる。
燗酒を用意する姿を目で追いながら、昔から俺は少しも変わらないなと、草介は憶い返して自嘲した。好きなひとが、他の男を褒めるのを聞くと腹が立つのだ。
あの方は、信頼できるお人でございます。──
ミツは、桂徹を手本とするようにと颯に言った。ミツは、颯の至らないところを、桂徹を引き合いに出してたしなめた。だから、颯は、桂徹の一挙一動を見逃さないように努めた。不足をあげつらい、抵抗を試みる為に、──だ。
「確かに、叔父上はご立派だ。けれど、──」
そんな颯の
雲った目では、正しく物を視ることはできません。──
批判をするのは、簡単だ。批判をする側の心理には、嫉妬や羨望の念がある。ミツが桂徹を見習えという理由を、颯は十分に理解していた。ただ、ミツがあんまり桂徹を持ちあげるので、素直に認める気になれなかったのだ。
颯は、桂徹を尊敬していた。そして今でも、為政者としての畏敬の念は消えていない。
颯は、父と叔父の、兄弟の絆の深さを知っていた。だからあの時、父の
人間には
良くも悪くも、人の心に内在する感情の根源だ。それに依って人は惑い、ときに、取り返しのつかない過ちを犯すのだ。
一通の手紙から、颯の思考は迷走をはじめた。思いつくままに仮説を立てては打ち消す、といった作業を繰り返した。そのうちに、ふと一つの考えが浮かんだ。
これは、叔父の仕業ではないか。──
兄の急逝により、桂徹の心に迷いが生じた可能性がある。こう仮定すると、領主の不在は桂徹にとって千載一遇の好機だ。桂徹には領主としての資質がある。これまで補佐に徹し、二番手に甘んじていたのは、傍らに、領主としての力量を供えた者が存在していたからだ。
『
そして、桂徹は己の築き上げてきたものを、是非に我が子へ、と望んだのではないだろうか。
弟を仮養子としておきながら、やはり実子をとの望みを棄てきれなかった父のように。
四 交友
草介は おもむろに質問を投げかけた。
「明晏仁を、
明晏仁、とは。──
予期せぬ名があがった。
草介の、ここ数日の不機嫌の理由は邑重がらみの事柄だ。諭利は当然、邑重との交遊を訊かれるだろうと身構えていたので、少々拍子抜けだ。
「お呼びしていたよ、雇い主だったからね。」
明晏仁は、衛国の先王の弟であり、かつては、〔 戦略の奇才 〕──と世に名を馳せた
以前、握り飯を作った時のことだ。承との会話中、
別段、草介が明晏仁を知っていても不思議ではないのだが、その後の草介の態度に諭利は違和を感じた。そこで早速、諭利は妙覚寺へ文を出した。
『確か、──あなたは豊国の、桂家のどなたかと文の遣り取りをしておられませんでしたか。』
数日後、
桂徹と明晏仁は、明晏仁が
諭利は、再び筆をとった。
『桂の領は、現在
明晏仁から文が届いた。
『桂颯は、珠国に留学中だそうだが、そなた、もしやその者と関わりがあるのか。』
留学、──などとは面体を繕う偽りだと知りながら、明晏仁はこちらへ
これに、諭利は返事をしていない。さすれば、物見高い
そして諭利は、草介を家に入れたときから、
商いの決め手は情報の収集力、──吟仙の収集力の高さは一国の諜報機関にも勝るものである。
双方を照合し、
少しずつ、ソウも動き始めているようである。帰郷し、領主となることこそが、ソウにとっての最善の道だ。
ソウが本心からそれを望むのであれば、助力を惜しまない。そして、もしも希が叶わないとしても、ソウが新たな道を見つけるまで、傍らに在ろうと決めている。
だが しかし、──と、諭利は首を傾げる。
何の謎かけだろう、「旦那さまと呼んでいたのか」などと。──
草介は、諭利の表情を眺め、含み笑いを返す。諭利の問いを謎にしたまま、更に草介は質問を投げた。
「これは、あんたか。」
五 春画
諭利の目前に差し出されたのは、
〔 四十八手 〕と題されたそれは、男女の交合を描いた春画の習作だ。女より麗しい、美貌の若衆の背には傷がある。傷の位置は諭利の背の それと符合していた。
「そうだよ。」
「
草介は別の項を
「
諭利は男の頭部を指差し、言葉を継いだ。
「頭に、牡丹の刺青をしている。普段は毛髪に隠されているけれど、掻き分けると図柄が少しずつ見えてくる。けれど、体には一切、墨を刺していない。頭にだけ、ってのは、
掌中の
草介は眉を
「そうだ、私の
諭利はあっさりと、草介の疑念を肯定した。
「互いの体を、隅々まで知っている。千獄はとても強くてね、私の要求によく応えてくれた。色子あがりの千獄は、人を悦ばせる手管に長けていた。人の急所に詳しく、伝えなくてもすぐに
諭利は草介と目を合わせた。
「肉の火照りを抑えられず、町に男を漁りに出ていた。強そうな男だと見ると声をかけ、昼夜の別なく交わった。どの男も、始めは極楽だ、菩薩様だ、と喜んでくれるけど、やがて際限のない私に食傷し、大概にしやがれ、
感情は、理屈では割り切れない。草介の心中は、やはり穏やかでないようだ。
諭利は、何を聞いても驚かないんじゃなかったのかい、──と揶揄するように草介を見た。
「千獄は、厄介者を引き受けてくれた。お蔭で私は救われた。悪い者に騙され、苦界に身を沈めることなく済んだ。けれど、そこで私は大きな思い違いをした。体を可愛いがられているうちに、独りで
六 鞘
「おまえには
狂っていれば、千獄は私から離れない、──ならば、狂ったふりをしていよう。
「私は、雛鳥のように頼りなげに身を寄せ、独りにしないで、と鳴いた。憐憫を誘い、千獄を繋ぎ留めようとした。けれどそのつど、千獄は哀しげな顔で、そっと私を引き離した。拒まれ続け、私は腹を立てた。やがて、私は、私を受け入れないこの男を、困らせてやりたい、と思うようになった。私は わざと危険な場所へ近づき、千獄が追って来るのを待った。私のために、右往左往する姿を眺め、愉しんだ。情人でない おまえに、とやかく云われる筋合いはない、と、差し出された手を
愛さなくいい、
「身勝手は、私の方だ。優しい言葉をかけてくれる者なら誰だってよかった。親切な
憂いを纏った男の横顔を、諭利は想う。今、こうして冷静な心で振り返ると、言動の
「千獄は、
七 幸太
「
諭利は立ち上がると、後ろの書棚から本を取り出した。それから、本に挟んでいる絵を一枚抜き取り、座り直して草介に差し向けた。
「そんな時、幸太は
八 朔夜
「遊吉は、幸太を一日買い上げては、
草介は絵を手に取って眺めた。可憐な少女、──としか見受けられない、艶やかな装いの少年の姿。未だ、男にも女にも成りきっていない者の、一種神々しいともいえる姿だった。
「絵は評判を呼んだ。遊吉の姿絵のお陰で、幸太には上客が付くようになった。やがて、幸太は ほんの端役だが、舞台に立てるようにもなった。そして、幸太は〔
と、諭利は表情を翳らせた。
「華やかな日々は、長く続かなかった。夢の蕾が花開きかけた寸前、朔弥を災いが襲った。朔弥の成功の影に、泣く者があった。
諭利はまた一枚、草介に絵を手渡した。
「朔弥の頬には傷が残った。
医師の腕が良く、縫合の痕は目立たずにすんだ。
化粧をすれば傷は殆んど隠れたが、それ以降、朔弥が舞台に立つことはなかった。
朔弥は、代名詞である〔 微笑 〕を失っていた。その場には、違う者が立っていた。威光を失った朔弥から、取巻きは潮が引くように、消えた。──」
「希望の
『お前には、鞘が必要だ。』
暗闇を
九 相違
「千獄は、私の心を見透していた。私が求めていたものは、唯一無二の鞘。すべてを受け入れ、癒してくれる存在だ。私は、愛する人を失った。失ったことにより、発狂した。心を鎮めるためには、仮の鞘となる者が必要だった。しかし、それは一時凌ぎの紛い物なのだ。決して、亡くした者に代わることはない。心は誤魔化せない、己を偽れば歪みが生じ、ひとたび
互いを傷つけ合うのを避けるため、千獄は私を拒絶したのだ。」
「幸太、──その名に込められた母の愛を信じ、
十 後悔
「私は、千獄を理解しようとせずに、一方的に己の想いを押し付けていた。幼子のようにその背にしがみつき、愛してくれ、私だけを見てくれ、と駄々を捏ねていた。私は、千獄という個に、正面から向き合おうとせずにいた。肌を重ね、ほんの一端を垣間見、千獄を
「千獄は、鞘になってくれた。崖から落ちかけている私を掴まえていてくれた。己の内側に他人を立ち入らせず、他人の領域に踏み込むことを避けていた男が、線を踏み越えて私に手を差しのべてくれた。その心遣いを、私は感謝すべきだった。人を愛せない、その意味を、もっとよく考えていたらと思う。あの時の私は、己の感情に囚われ、人を思い遣る余裕がなかった。千獄の胸襟を無理やり抉じ開けて、己を捩じ込もうとした。心無い言葉を吐き、傷つけた。そして、傷つけたことを後ろめたく思っていたから、礼を言うこともしなかった。そのことを、私は今も悔やんでいる。」
「私が真に望むもの、それは、千獄が望むものと同じだった。必ず、迎えに来ますから、 ──その言葉は、幼い千獄にとって、生きる
けれど今は、人を救う嘘というものもあると思えるようになった。この世に
十一 牡丹
「牡丹に獅子は縁起の良い図柄だ。意味を知っているかい。」
諭利の言葉を受け、草介は述べた。
「獅子は百獣の王だ。しかし、その無敵の獅子が唯一恐れるモノがある。それは、我が身の体毛に巣くう虫。毛の中で、小さな虫は密かに増殖し、皮を噛み破り肉を食らう。だが、この虫にも弱点がある。牡丹の花から滴り落ちる夜露にあたると、虫は死ぬ。だから、獅子は牡丹の花の許で体を休める。」
牡丹の花の中は、獅子にとっての安息の地だ。
「千獄に惹かれたのは、己と似たような境遇であったからだ。身寄りのないもの同士、だから私を受入れてくれるだろうと思った。けれど、それは私の身勝手だ。私は千獄に依存しようとした。千獄の傷をこじ開けて、無理やり私を捩じ込もうとした。私は、牡丹を求める獅子だった。安らげる場が必要だった。そして千獄にも、心安らぐ場が必要だった。同じ境遇にあっても、状況をどう捉え、どう行動するかはそれぞれだ。私は安らげる相手ではなかった。千獄の鞘になってはやれなかった。」
求めるばかりの私は、拒まれて当然だ。だから、千獄とは結ばれなかった。そういう
「お前が知りたがっていた
諭利は草介に頬笑みかけた。
「あの頃の私を見たら、お前はきっと逃げ出すだろう。だが、それは仕方ない。誰だって、面倒なことには巻き込まれたくない。受入れられないとしても、責める気持ちはない。」
諭利の顔を見て、草介は笑った。
「そんな突き放すような言い方をしても無駄だ。過去がどうであれ、俺はあんたを嫌いになったりはしない。ガキじゃない、──と云ったよな。俺も、流れている間に色々と見てきたから、大抵のことには驚かないのさ。」
諭利は草介を見つめていた。
「それでお前は、
十二 告白
諭利は視線を外し、云った。
「そんなに飢えてるのなら、街へ行って女を抱いておいでよ。」
「誰でもイイってわけじゃない、俺は あんたがいいんだ。あんたじゃなきゃ、駄目なんだ。」
知っているだろ、と、草介の目が訴えている。
「ソウ、お前は
応える様子がないので、諭利は言葉を継いだ。
「私もね、どちらかというと女の方が好きなんだよ。」
草介が複雑な表情を造る。
「あんた、
「なんだい、私が
草介は唖然としている。
「節操がない、──と言いたげだね。そうさ、節操がないせいで、時々つまらない
ちらり と、諭利は草介を見、「つまらない、という言い方はよしてくれ。」と、草介は神妙な顔で言った。
「俺だって、いい加減傷つくぜ。自分でも、つまらない男と思えてきて、自信がなくなる。あんまり邪険にしないでくれ。ふわふわと漂って生きるのは もうやめた。地に足をつけ、生きようと思っている。だから、な、蚊帳の中に入れてくれよ。」
諭利は苦笑し、今夜だけだよ、──と草介の申し出を受け入れた。
蚊帳のうちに布団を並べて敷き、それぞれに横たわった。
草介は手をのばし、諭利の手をとって指の間に己の指を差し入れた。
「握らせてくれ。それくらい、イイだろ。もう少し、優しくしてくれ。俺は褒められると伸びるのさ。」
諭利の手を引き寄せ、自分の胸の上に置いた。
「ここに来て、俺はあんたを好きになったんだ。名のない
諭利は口を開いた。
「千獄のもとにね、母と名乗る女があらわれたそうだ。女は、千獄を連れて豪遊し、数日楽しんだあと、忽然と姿を消した。この女は、千獄の母ではなかった。千獄は知りながら、騙されたふりをして、女に付き合っていたのさ。
🌸
櫻の国【月光】 桂颯・夢ひと夜 アマリ @10-amari-1
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