【拾】 小役人

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  一  小役人  ─ こやくにん ─

  二  手紙  ─ てがみ ─

  三  仮養子  ─ かりようし ─

  四  助言  ─ じょげん ─

  五  課題  ─ かだい ─

  六  進路  ─ しんろ ─

  七  障壁  ─ しょうへき ─

  八  熱意  ─ ねつい ─

  九  信頼  ─ しんらい ─

  十  三年  ─ さんねん ─

  十一 忍耐  ─ にんたい ─

  十二 まじない





  一  小役人  ─ こやくにん ─



 諭利は、勝負を受けた。ただし、私個人のことなら構わないが、他人の秘密などは話せない、──と条件を付けた。

 碁を打ちながら草介は、昨夜、哲郎てつおが語ったことを諭利に話した。

「人の信用は、一朝一夕には得られない。けれど、悪い噂はすぐに広まる。一旦 悪評があがると、それを払拭するのは容易でない。真面目に働いている者の方が多いのに、一部の不心得者のせいで、役人全体が信用ならないと思われてしまうのが残念だ、──と哲郎あいつは云っていたよ。」

 役人は嫌いだ、役人になろうという奴の気が知れない。──

 それは、世の中を知った風な気になって、批判をする事が格好いい、と勘違いしている尻の青いガキの発言だった。草介は、己の軽卒さを恥じた。自らの言葉が、如何に陳腐なものだったかを悟ると、草介の哲郎を見る目は一変した。

 これまで、哲郎のことを知ろうともしていなかった。面と向かい、役人は嫌いだ、と嫌味を云われながら、言い返しもしない哲郎を、草介は密かにさげすんでいた。

 そう、──いつだったか、馴染みの飯屋で会っていた時のことだ。奥の席で、幾分 酒が入って良い気分になった役人が、己の手柄話を大声で喋っていた。手振りを交え、盗賊との大立ち回りを得意気に再現する男を横目に、哲郎は舌打ちをした。

「つまらねぇ野郎だ。」そう、顔をしかめ、苦々しげにそう呟いた。

 その時、草介は単に、こいつは他人の手柄が妬ましのだ、と思った。だが、これも哲郎の心裏を覗いた後では、まったく違った見解となっていた。

 俺は、哲郎を 一介の小役人 と見くだしていた。──

 頼まれたら断れない お人好し、と侮って、哲郎の親切心に付け込んで、都合良く利用していた。だが、侮られていたのは俺も同じだった。哲郎から見れば、俺は女に寄生している毛虱けじらみだ。地道に生きている人間を、はすに眺めて小馬鹿にする者に、何を云っても無駄と考え、哲郎は反論をしなかったのだ。

 哲郎に、俺は劣っている。一介の小役人、と侮っていた者に差をつけられている。歳は三つと離れていないが、哲郎は一人前の男だ。あいつには信念があり、己の仕事に誇りを持っている。誰に褒められるでもない任務を、日々黙々と果たしている。哲郎に救われた者もこれまでに幾人かいただろう。けれどそれは役人として人として、しごく当たり前の事であり、えて他人に自慢するべき事柄ではない、と考えているのだ。

 人々の安寧を、哲郎は願っている。人々のささやかな暮らしを護るため、尽力している。それに比べ、俺の頭の中は己の事だけだ。このままではいけないと想いながら、俺は未だ何を為そうともしていない。

 世の為、人の為。──

 俺はこの三年、故郷の領民の暮らしに想いを馳せる日があっただろうか。そして三年、俺が浮き草の如く世の中をふわふわと漂っている間にも、叔父は領地を護り続けているのだ。





  二  手紙  ─ てがみ ─



 『修身斉家治国平天下』

 脳裏に、師、碩岳せきがくの声が響いた。これは対面したその日に、碩岳がそうに初めに語った言葉だ。

 俺は未だ、身を修めることすらできてはいない。──

 桂徹けいてつには、経験と実績がある。領民からの絶大な信頼がある、男としての埋めがたい力量の差があった。

 例えるなら、父は山の頂きに立つ大樹。どっしりと根をおろし、己を滅して、幹の許につどう民を風雨から護っていた。

 颯は父を尊敬していた。が、自分は父とはが違うと感じていた。

 どちらかというと己の気質は叔父に近い。

 ならば、父の志を継ぎ、行動は叔父に習おう。──そう、颯は考えた。

 哲郎の念頭に目標とする役人の姿が在るように、颯にも指標となる二人の為政者の姿が在ったのだ。

 父は、叔父の改革を支持していた。颯もその施策に異論はなかった。父亡きあと、颯は叔父を指南役に据え、領土くにを統治することを考えていた。

 ところが、──良好だった叔父との関係に亀裂が生じる事態が起きた。学業を修め、帰郷の支度をしていた颯に、匿名の手紙が送られてきたのだ。

桂篤けいとく様の死には、不可解な点があるのです。』

 手紙は問題を提起し、明言を避けながら、父の急死に叔父が関わっていると示唆していた。

 これを、颯が単なる妄言と一笑に付してしまえなかったのは、文中に父の側にいた者でしか知り得ない情報が示されていたからだ。

 颯が留学先の朱国へ戻って間もなく、叔父は旧体然とした組織を変えるべく、役職の入れ替えをし、無駄な経費の削減と人員整理を断行していた。それ迄、父の補佐に徹していた叔父が、前に出て大鉈おおなたを振るい始めたのだ。

 手紙の主は、叔父に対抗する勢力の何者かであるとも考えられる。──が、それならば匿名でははなく、叔父の横暴を訴えたうえで、早々に帰郷して欲しい、と要請するのではなかろうか。

 手紙は見覚えのない筆跡で、さほど上手いともいえない字に文章であった。けれど、それが返って、切に、あなたの身を案じている、といった筆者の心情を強く表しているように取れた。

 今、故郷くにに帰るのは危険だ。──

 相続をめぐる争いで、一番の敵は血縁者である。叔父は周到な男だ。味方であれば心強い叔父は、裏を返すと手強い敵だ。首尾よく領主の座に就いた先には、その座を我が子へ譲りたいと望むだろう。故に、後に禍根を残すであろう先のあるじの子は、闇に葬られるのが世の習いである。

 身を守る為にはどうすれば良いか。──

 なにより、信頼できる味方が必要だった。今は、誰が敵で誰が味方かを見極めることが重要だ。迂闊に渦中に踏み入れば、判断を誤ることもある。

 一旦退いて、大局を静観する、──と、颯は決めた。

 思えばこの選択が、二つ目の誤りだったのだ。





  三  仮養子  ─ かりようし ─



 颯は、父の側近だった者たちが、必ず迎えに来ると期待してた。密かに、唯一信頼している友に文を送り、居場所を伝えていた。だが、待てど暮らせど誰一人として、颯に接触を試みる者はいなかった。

 焦りを募らせる颯の胸に、ある疑惑が泛かんだ。

 これは、叔父の仕業ではないのか。何者かに文を書かせ、匿名の手紙を寄越した者の正体とは、誰あろう叔父自身ではなかったのか。──

 颯の帰郷を阻むために、叔父が仕組んだことであると仮定し、順を追ってゆくと、すべてに辻褄が合うのだ。

『兄上は、尊徳院で学んでいるお前を誇りに思っておられた。』

 この、叔父の一言に背を押され、颯は大学に残ると決めたのだ。

 生前の父は、なまじ智に長けると、小手先だけの小賢しい男になる、と云って、颯が必要以上に学問にのめり込むのを嫌っていた。父に褒められた記憶が、颯には無かった。それ故に、言葉は胸に響いたのだ。

 真に、叔父上は利口なお方だ。──

 正当な後継者を蹴落とし、領主の座を奪う事の危うさを十分に理解している。そのうえで、なるべく己の手を汚さずに望むものを手に入れる策を練ったのだ。

『桂颯は、帰郷する気がないようだ。』

『都暮らしに染まり、遊興に耽っているそうだ。』

郷土くにが大変なときに、いい気なものだな。』

 そんな噂が広まれば、桂颯には、領主としての資格なし、と判断され、自ずと桂徹の名が浮上する。

 叔父が描いた一等の策は、家臣と領民の声に押され、是非に、と望まれて領主となることだ。

 あの時、故郷を離れるべきではなかった。──

 領主不在の間に、着々と地固めが成されていたのだ。颯が、これが一つ目の最大の過ちであったと気づいた時には、既に遅かった。

 やはり、未練がお有りだったのだろうか。──

 颯は、叔父の心中を想った。桂徹は、一度は領主になることを約束された身だった。長く、子に恵まれなかった桂篤は、一時期、弟を〔 仮養子 〕としていたのだ。

 それは、颯が生まれる二年前のことである。その頃、桂篤は二人目の妻に死なれていた。妻は、連れ添った十年の間に四人の子を産んだ。けれど、成人した者はいなかった。一人は死産、三人は十歳とおに満たぬ内に死んだ。

 最初の妻は、嫁いで直ぐに懐妊し、男児を産んだが、産後の肥立ちが悪く死亡していた。子の方も、一歳ひとつにならぬ内に死んでいる。

 己の妻子が次々に世を去る、こうした悲運が、桂篤に弟を養子にすることを考えさせたのだ。

 しかし、としておいたのは、それでも、いつか我が子を、という、僅かな希みを棄てきれずにいたからにちがいない。

 くして、桂篤の望みは叶えられた。三人目の妻を迎え、翌年に待望の世継ぎが誕生した。桂徹は、その一年後に縁組みを解かれた。

 おまえさえいなければ。──

 叔父が、颯に屈折した感情を懐いたとしても、不思議ではないのだ。





  四  助言  ─ じょげん ─



 人の都合で据えられたり退けられたりされるのは、愉快でない。はじめから無かったものと諦めるより、手にしかけた物を奪われる方が、失望は大きい。

 けれど、叔父は感情をおくびにも出さなかった。

『お前は、学者にでもなるつもりか。』

 尊徳院を受験すると言い出した息子に、父は冷めた目を向けた。学者、という言葉に、明らかな嫌悪が込められていた。

 桂篤は領主となったとき、外からも人材を登用したいと考え、才覚を売り込んで来る学者と対面していた。だが、その殆どは、自分は並外れた独自の閃きと手腕を持っている、と勘違いしている、功名心に溢れる凡夫だった。当人が最良だとして語る改革案を、桂篤は異なる口から数十回と聞かされた。

 こうすれば必ずこうなる、というご都合主義を展開する者に、自らの命を懸けて事に当たるといった気概はみられない。

『学者とは、虚構に戯れ、現実に生きていない、頭のなかで言葉をねくり回しているだけの連中だ』というのが、桂篤の見解だ。

 颯は、父を説得するすべを考えた。

 父に、正面から当たっても無駄だと承知している。

 誰か、助け舟を出してくれる者があれば。──

 そこへ現れたのが叔父だ。叔父は、受験のために、朱国を訪れるだけでも価値がある、と云い、若いうちに異文化に触れ、見聞を広めておくのは、将来の為にも善い、──と、父に説いてくれたのだ。

 叔父は、颯が幼い頃から、それとなく助勢をしてくれていた。故に、密かに叔父が口添えをしてくれことを、桂颯は期待していた。

「──して、大学はどうするのだ。」

 叔父の問いに、颯は、辞めるつもりです、──と答えた。

 颯が父の死を受け入れたのは、葬儀を終えて数日が経ってからだ。颯のなかで、静かに父の不在が現実味を帯びてくると、これからは己を滅し、領主ヽヽとして生きねばならぬのだ、という自覚が芽生えた。

「心残りはないのか。」

「それが定めだと思っております。」

 己のことだけを考えている時間は終わった。朱国への留学は、本格的な任務に就く前の、余暇のようなものだった。未練はない、と言えば嘘になるが、颯は覚悟を決めていた。

 己の責務を果たさねばならない。──

 桂篤の子は唯一人、代われる者はいないのだ。

「私が、留学前におまえに云ったことを覚えているか。」

 やや間を置いて、はい、と答えた。

 叔父は、必ず卒業するように、と云った。そして父からは、卒業できずとも、四年経ったら帰れ、と言い渡されていた。

「兄上は、お前の努力も成果もしっかりと見ておられた。だが、褒められて現状に満足しないよう、敢えて厳しい言葉を投げかけておられたのだ。」

 桂篤は、はがねつるぎを造りたかった。叩いて叩いて、折れない意志を持った強い男に、颯を育てあげたかったのだ。

「私の言葉は兄上の本心だ。一度はじめたことはやり遂げるよう、お望みのはずだ。」





  五  課題  ─ かだい ─



 独り、父の書斎に残り、颯は自らの身の処し方を考えた。

『兄上に、私にもしものことがあれば、颯をたすけてやってくれ、と頼まれていた。勉学を続けるのであれば、留守の間、責任をもって私が領土くにを護ろう。』

 卒業は叔父の願いでもあるのだろうか。叔父は、自らも尊徳院に入ることを望みながら、次男という立場に伴う諸々の背景を考慮し、断念せざるを得なかったらしい。

 颯は、素直に この申し出を有り難いと思った。けれど、父は、一度口にした言葉をくつがえすことを潔しとはしないのではないか。颯にしても、勉学を続けたいという気持ちはあるが、一度決意した事柄を反故にすることには抵抗があった。

 颯はその場での返答を避け、考えてみます、と保留にしていた。

 父上は、どちらをお望みだろう。──

 颯は床の間に視線を向けた。大輪の白い菊が一輪、佇んでいる。青磁の壺に活けられた一輪の菊が、暗がりから静かに颯を見返していた。

 颯は、叔父が留学前に語ったことを脳裡に浮かべた。朱国へ発つ数日前、所用で屋敷を訪れていた桂徹は、颯を見かけて呼び止めた。

「いい機会だから、話しをしよう。」

 颯は自室に叔父を通した。

 こうして、二人きりで向き合うのは初めてだった。姿勢を正している颯を穏やかに見つめ、厳かに桂徹は口を開いた。

「いずれおまえは家を継ぐ。領主となり、おまえは何を成すヽヽのだ。」

 何を成す、とは、例えば、領民の為の善政を敷き、桂弦けいげんのような名君となる、などという漠然とした目標ではない。

 豊国の八つの領地は十割自治だ。領主の理念を基に行政計画が立てられる。それらを実行するための資金は、自前で調達しなければならない。領地の運営は領主の才覚にかかっている。各領地が財政難に陥ろうと、中央政府は一切の援助をおこなわない。そうした意味で、領主の権威は一国の王とかわりない。──以上を踏まえ、「経営方針」を問われているのだ。

「これを即座に答えられぬようでは、桂家の当主となる資格はないぞ。」

 颯は反論できなかった。領地くにを背負って立つ者としての気構えが、今の颯には希薄だった。父は健在であり、自身が領主となるのは先のはなし、──そう、悠長に捉えていたのだ。

「人の命には限りがある。ひとりの人間が生涯におこなうことにも、限りがある。我は、これを成す、という明確な目標を持って行動せねば、何事もなし遂げることはできない。そのために、朱国でなにを学ぶかを己で吟味し、選ぶのだ。朱国は四千年続く、洗練された都市国家だ。学ぶべきものは多い。実際にその場に住み、見聞きし、肌に感じた経験は、貴重な資産となるだろう。」

 桂徹は、颯に一冊の写本を手渡した。それは、桂篤の手によるものだった。座右の書として傍らにおいている〔 貞観政要じょうがんせいよう 〕の写しだ。





  六  進路  ─ しんろ ─



 写本は、桂徹が仮養子となったときに桂篤から贈られた品だ。これとは別に、桂徹はこれを手本とし、書き写したものを所持している。

『水はよく船を浮かべ、またよく覆す』

 唐の太宋は、水を人民に、そして船を自分になぞらえた。良い政治をおこなっていれば人民は君主を支えてくれるが、いったん悪政をおこなえば水はたちまち氾濫を起こして船をひっくり返してしまう、という自戒の意味だ。

 この言葉を念頭に、桂篤は愛民の政治をおこなった。桂篤が領主となったとき、最優先の課題は、少子化対策だった。冷害による飢饉で人口が減り、農村部での労働力が決定的に不足した。被害の酷い地域では、子捨てや間引きが起き、少子化を助長した。

 桂篤は、孤児院を建て、浮浪児を保護した。子殺しを禁じ、産まれた子に対し手厚い支援をした。飢饉の食糧対策として、馬鈴薯じゃがいもの栽培を奨励した。

 馬鈴薯は、米に比べて気候や土地に依存しない穀物だ。寒冷地や硬く痩せた土壌にも生育し、大量生産が可能なのだ。

 それでも、農村の人手不足は深刻で、未だ荒廃した田畑が各所にみられた。

 農地に人を呼ぶためには、どうすればよいか。──

 桂篤は、新たに農業へ従事しようとする者を募り、支援をした。荒れてしまった田畑を再生し、収穫を得られるまでの当面の生活を保障した。成人男子の義務である兵役の期間を、三年から二年に短縮し、作付けや収穫の時期には土地に帰り、農作業に専念できるようにした。夫婦に子が産まれると、祝い金を贈った。

 まずは、農業を立て直す。──

 そして財政再建の足掛かりとなる産業を興す。

 桂篤は、部下に各地域の風土を調べさせていた。その土地に合った作物の耕作から、それを使った加工品の生産をし、地域ぐるみの産業を展開する構想を描いていた。

 一方。農村の実態を調べていくなかで感じたことがある。想像以上に、地方の行政がいい加減であるということだ。権力は腐敗する。権力者が世襲によって継がれてゆく以上、起こり得る問題だ。人は、人事と財政を自在に扱える者の周りに集まる。情報を得たり、便宜をはかってもらう目的で、賄賂が慣例となっていた。権力者たちが身内に都合の良い仕組みを構築し、汚職政治は受け継がれてきた。

 特定の者だけに有利な、不正の横行を許してはならない。断固として不正を取り締まる人間と、それ施行するための明確なが必要だ。

 父上が為そうとしているのは、法整備の徹底だ。──

 静かに、颯は言葉を放った。

「おまえは、何を成すヽヽのだ。」

 目前の白い菊は、水鏡のように己の姿を映した。放った言葉は、己の心の裡へと落ちていく。この問いに、正解はない。しかし、曖昧な応答をするれば、それはそのまま自らに反映される。

 数日後。颯は問いを胸に、父の写本を携えて朱国へ発った。





  七  障壁  ─ しょうへき ─



 父の書斎で遺品の整理をしていて、颯は日記を見つけた。亡くなる前の数日の行動を追ってゆくと、相当な激務をこなしていたことが伺えた。

 桂篤は、軍の演習を視察中に倒れ、意識が戻らないまま死に至っていた。直接の死因は熱中症だが、要因は日々の心労にあり、不養生が祟っての過労死であるともいえた。

 悪しき慣習を排除する。──

 桂篤の行く手には、幾つもの障壁が立ち塞がった。一人の権力者の下には、様々な業種の者が芋づる式に繋がっている。その者たちの個々の利害が複雑に絡み、改革の進行を阻んでいるのだ。

 人の感情が一番の弊害である。綺麗ごとだけでは人は動かせない。──日記には、父の苦悩が綴られていた。

 そして颯は、父が心に秘めた決意を、この日記によって知ることとなった。それは日記の最後、倒れる前日の記述にあった。

『じきに颯がもどってくる。の者が領主となる迄に、少し、風通しを良くしておくとしよう。』

 桂篤の行動の全てが、そこに集約されていた。桂篤は、颯が大学を卒業し次第、当主の座に据えるつもりでいたのだ。

 人の言動の裏には、何らかの思惑があるもの。颯は、叔父と留学前に交わした言葉を、改めて想った。叔父は、父の考えをあんに示していたのだ。叔父の忠告があったことで、颯は学ぶべき事柄を迷わずに選択することができた。

 父は、叔父に全幅の信頼をおいていた。父の意思を誰よりも理解する人物だ。考えた末、颯は叔父の好意を受け入れることを決めた。そして翌日、その旨を叔父へ伝えた。

「卒業は、できそうか。」

 訊ねた叔父の声は、揶揄からかうような響きがあった。多分に漏れず、監視のない異国で羽目を外している甥の行状を、耳にしていたのだろう。

「まあよい、何事も経験ヽヽだ。」

 苦笑いする颯を、面白そうに眺めながら桂徹は言った。

「ところで、──資料には目を通したか。」

 颯は自信を持って、はい、と答えた。

 叔父に手渡された、膨大な資料を読み込んでいた。

 改革は進行中である。わば、荒れ地を開墾し、種を撒いた段階だった。未だ地下にある種が、これからどう育つか。──それは後を引き継ぐ者たちの手に委ねられている。

 桂篤の事業を徒労で終わらせないためには、志を継ぎ、これを遂行してゆく指導者が必要なのだ。

 そのために、颯は学んできた。改革は短期で成し得る事業ではない。新しい物事を浸透させ、定着させるには時間が要る。不備が生じれば、それに応じた改良を加える必要もある。

「兄上は立派に領主としての勤めを果たされた。弱者に手厚い政治をなさっていた。それでも、──民衆は、質素倹約を強いられる現状に不満を懐いている。公正な政治がおこなわれていても、景気回復の兆しが見えなければ、人は我慢を続けていられない。」

 三年、──と、桂徹は明言した。

「私は三年のうちに、結果を出したいと考えている。」





  八  熱意  ─ ねつい ─



 二十年前ことだ。仮養子を解かれた桂徹は、妻子を伴って、地方のある州都に移り住んだ。桂徹は志願し、知事として赴任したのだ。

 これは、地方自治の改革を立案し、農村の復興を請け負っての行動だった。桂篤の政策を領民に納得させる一番の方法は成功例ヽヽヽの提示であると桂徹は考えていた。

 都から、地方都市に派遣される知事の任期は四年だ。赴任にあたり、任期中に蓄財をするというのが、知事の心構えであった。民は生かさぬように、殺さぬようにと、自信をとことん富を搾り取り、現地で思いのままに私益を貪るのが、これ迄の知事の慣例であった。

 働けども、民の暮らし向きは楽にならない。それは、不当に富を搾取している者があるからだった。苦労が報われないのであれば、働く意欲など涌くはずもない。農業の生産力が落ちているのは、そうした構造に起因しているのだ。

 為政者に対し、民は不信感を持っていた。申し立てをしても無駄と諦めている。ゆえに、桂徹に対し何の期待もしていない。

 四年経てば任期が切れる。事業も中途で頓挫するだろう。生半可な気持ちで「改革」などされては迷惑だ。そう考える者が大半だった。

 桂徹は、頭ごなしに黙って従え、と命令するのではなく、役人に、事業の必要性と今後の展望を説いた。納得したうえで、自発的に行動を起こしてくれることを望んだ。改革は、その地域の者の手で成されるべきだと考えていたのだ。

 ゆえに、都から同行させた部下は数人だった。最初は、話に賛同した者だけを改革にあたらせた。指導する側の者の心に、僅かでも疑いがあってはならない。己の仕事に対する、自信や熱意が根底になければ、人を感動させることはできないからだ。

 桑を植え、養蚕をする。

 生糸を作り、布を織る。

 そして、それらの品質の向上を図る。

 桂徹は信頼のおける商人を起用し、商品の流通販売を任せた。上質の物を安価で提供することで、消費者の信用を得た。

 商売が軌道にのり、安定した値で売買されるようになると、産業に携わる人々の暮らし向きも徐々に改善されていった。努力した分、報われることが証明されていた。

 すると、はたで 日より見をしていた者たちが重い腰を上げ始めた。

 実際に、隣家の成功を目の当たりにし、あいつにできたのだから、俺もやれる、といった行動が起きていた。

 都で、織物の評判が高まっていた。それは産業に従事する者の自信に繋がる。村中に活気が満ち、そして、こうしてはどうだ、という改善案も、自然と民の口から出るようになった。一人一人が、誇りを持って仕事をするようになっていた。

 労働をする者にやる気がなければ、いくら綿密な計画を立てようと、満足な成果は得られない。命令され、嫌々ながらにやる仕事と、自ら望んで行う仕事では、推進力に格段の差がでるのだ。

 民に、やる気を起こさせ、熱意を拡散させる。壮大な改革の第一歩だ。





  九  信頼  ─ しんらい ─



 百の論理より、ひとつの成功例だ。

 桂徹は一つの村の例をあげ、労働には見合った報酬が払われる、努力は報われるのだ、──と説いた。

 嘘をつかない、口にした事柄は実行する、決して約束はたがえない。──

 桂徹は自らを戒めていた。

 一度でも嘘をつけば、自身だけでなく、政府の方針までもが、信用ならぬ、と撥ね付けられてしまうからだ。

 ときに、桂徹は自らくわを振るい、農作業をおこなった。妻は、進んで機織りを覚え、指導にあたった。家人は、民の手本となるよう質素倹約に努めていた。領主の実弟である自身が、率先して事業に取り組むことで、政策に対する意気込みを示した。

 実例は、安心感と信頼を生んだ。目前の成功例こそが、なにより民衆を説得するのに有用な道具である。論理より、政策に対する信頼を植え付けやすい。改革を担当している役人にとっても、指標になるだけでなく、仕事を進める為の自信と推進力になる。

 少子化対策についても、単なる労働力確保の為に、産めよ、増やせよ、と金を撒いていたわけではない。

 次代を担う人材の育成に重点をおき、地方の各地に学校を作っていた。人づくりは、目先の利益追求だけではない、長い目で見て大切な事業だ。どれだけの教育を受けられたかは、将来を決めるうえで重要だ。努力次第で、経済的に豊かな暮らしを望める、という可能性を持たせることが、社会を活性化させることに繋がる。

 人には感情がある。民を単なる労働力と考えていては、国は栄えない。対価のない労働に酷使される日々に、人は疲弊し、活力を失う。結果として国力が落ちるのだ。

 民衆のやる気を削いでいる一因は為政者にある。何処の土地の知事になれるかは、人事担当者のご機嫌次第である。旨みのある土地に赴任するためには、当然の如くに賄賂が使われている。人事権を持つのは、古参の重臣だ。この一部の者は、先祖の功績の上に胡座あぐらをかき、明らかに職務を怠っていた。

 桂篤は、身分の隔てなく優秀な人材を登用した。古参の重臣にとっては甚だ面白くない事態だ。新参者の台頭により、自分たちの特権を奪われることをなにより危惧した。重臣たちは、新参者に手柄を立てさせないよう手を回し、仕事を妨害した。

 舟(主君)を支えるどころか、我々を蔑ろにする気なら、荒波を立てて沈めてやるぞ、──と脅しをかけていた。領土くにの未来より、己の地位を守ることに重点を置いていた。

 桂篤は、これまで何度も、特権意識に基づいた驕った考えを改めるよう警告をした。けれど、一向に、国に不利益をもたらす行動に対する反省がみられない。ゆえに、桂篤は これらの者たちを処断することを決定した。

 早急に病巣を取り除く。──

 改革を推進し、景気回復の兆しを示さなければならない。人々が、新たな領主の治世に光を見いだせるように。





  十  三年  ─ さんねん ─



「為政者の課題とは、民衆に明日への希望を持たせることだ。」

 桂徹はそう前置きをして、産業改革に三年ヽヽと期限をつけたことの意味を明かした。

 桂篤は、国益を増進し、富国を図ることに尽力した。しかし、在任中に目立った成果を示すことができず、為政者としての評価は高くなかった。桂篤のしたで働いていた者たちには、その功労は後の世に高く評価されるものと確信している。だが、世論は過程ではなく結果を見る。なにを成そうとしたかではなく、なにを成したか、──実益がすべてなのだ。

 領主となり、桂篤は領地くにの現実に直面した。長年に渡って蓄積された負債により、財政は危機的状況に陥っていた。厄介な事象に目を瞑り、問題を先送りにしてきた結果である。

 放置すれば、状態は悪化するばかりだった。組織としての機能が崩壊する前に、転換を図ることが必須であった。

 誰かヽヽが背負わねばならぬ荷だ。桂篤は、負の遺産を自ら引き受ける覚悟をした。

 が、それは同時に、民にも負担を強いる決断であった。

『借財があるなどと、よくも云えたものだ。』

『それはおまえたちの責任だろう。』

『我々はしいたげられてきた。』

『このうえ、尻拭いをさせる気か。』

 これが民の本音だ。

 産業の収益は主に負債の返済に回され、いまだ民衆の生活へは還元されていない。忍耐を強いられた状態が長く続いている。

 民衆の憤懣が形を成す前に、桂篤は、澄んだ風を入れようと考えた。

「年が明ければ、新たな気持ちを懐くように、上に立つ者が代われば、民衆は新政権に対して期待を持つ。」

 桂徹は颯を見据えて言い、だが、──と続けた。

「人の熱は冷め易い。期待を寄せているのも、せいぜい三年だ。二年を過ぎ、景気が上向いたという実感がなければ、民衆は次第に背を向け始める。」

 ゆえに、民衆に温かい目を向けられている初期に、結果を出す必要があるのだ。追い風を受け、次の段階へと改革を押し進めようと考えていた。

 続いて、桂徹は今後の事業計画を説明した。ひと通りの話しを終えると、桂徹は、兄弟が描いた理想の国造りを颯に語った。桂家の領地は豊国のなかでも辺境に位置し、他領地の者からは、人よりも牛馬の数が多い、と揶揄やゆされている。都から遠く離れているうえに、交通の便も悪いのだ。

 で、あるならば。──

『この地に、朱国にも劣らない都市を造り上げよう。』

 兄弟は、そう誓った。

 人が、住みたい、と思う場所には、その土地ならではの魅力的な特色がある。心を惹きつける特色があれば、辺境にあっても人を呼び込むことは可能だ。

 颯は、桂徹の構想に感銘を受けた。

「叔父上、」と、颯は声をあげた。

「共に、今に生きる者たちが、安心して暮らせる住み良い郷土をつくりましょう。そして、次の世代の者たちが、誇れる領土くにいしずえを築きましょう。」

 力強く颯が言うと、桂徹は穏やかにうなずき、言葉を返した。

「学を修め、帰郷するその日を、待っている。」





  十一  忍耐  ─ にんたい ─



 未だ、颯に接触を試みる者はない。頼みの味方がいないのでは、次の手を打てない。途端に将来さきが見えなくなった。

 桂徹には、夫を支える妻がいる。跡継ぎとなる男児がいる。嫡子は、颯よりに二年先に鳳崇院(大学)を卒業し、父の補佐をしていた。颯が不在であっても、なんの支障もない。日々、滞りなく政務はおこなわれている。

 俺は、切り捨てられたのだろうか、必要とされていないのか。──

 颯は、無力感に襲われた。桂家の嫡子に生まれついた颯は、領主となる以外の道は、用意されていなかった。家臣をたばね、領民の安泰を護り、次の代へと血統を繋げてゆくことが、颯の責務だ。これは、逃れようのない運命さだめだった。

 窮屈で、何一つ己の勝手にならない、息苦しい日々の連続だった。歯を食い縛り、颯は耐えてきた。生まれつき、颯は体が弱かった。思い通りにならないことの最たるものが、己の身体だった。

 食後には、必ず湯薬が用意されていた。湯薬は、ある時から二杯に増えた。一杯目を飲んだあと、間を置いて二杯目が運ばれてくる。枯葉色の液体を見るたび、颯はゲンナリとなった。一杯目の湯薬は、苦い上にイヤな渋味があるのだ。

 鼻を摘まみ、えい、と一気に流し込むのだが、イヤな渋味はしつこく歯茎にこびりついている。慣れるどころか、不快感は増す一方だ。

 逃れるために、颯は策を弄した。一杯目の湯薬は、飲むふりをして綿を入れた椀に流した。布団の内にそっと隠し、素知らぬ顔で二杯目を飲んでいた。

 すると、三日ほど経ったころ、キリキリと腹が痛み出した。これ以降、激しい腹痛に嘔吐、血便が続いた。

「この、馬鹿者がッ。」

 桂篤は、とこに伏せる颯を見るなり、一喝した。

 薬の処方を守らなかったゆえ、こうした事態を引き起こしていた。颯は医師に、一杯目は、二杯目の湯薬を飲む為の補薬だと教えられた。二杯目は作用の強い薬なので、一杯目で胃腸に幕をはり、保護をするのだ。

「効果のある薬なら、直接飲んだ方が、身体の回復も早いだろうと思ったのです。」

「黙れ、口答えをするな。」

 颯の言い分は、不味い薬を飲まずに済ますための方便だ。桂篤は、即座に小賢しい応答をした息子に腹が立った。

「つまらん奴だ。そうした根性だから、容易に病を寄せ付けるのだ。」

 父は、病も気の持ちよう、と考えている。父は、病にかかりやすく、長患いしてしまうのは、おまえの心に甘えヽヽがあるからだ、──と、颯を責めるのだ。

 虚弱な息子の体質を、父は歯痒く思っている。けれど、──と、颯は胸のうちで反論する。

 誰よりも悔しい想いをしているのは、私だ。──

 薬を飲み続けても、身体が健やかになる兆しはない。いったい いつまで、こんな擬物ものを服用しなければならないのか。医師あいつは、薬料をせしめるために、治療を加減しているのではないだろうか。

 ままならぬ現状に、颯は不満を募らせていた。





  十二  まじない  ─ まじない ─



 桂篤が去ったあと、間を置いて桂徹が颯を見舞った。颯が上体を起こし、とこを出て座り直そうとするのを、叔父は手振りで止めた。

「早々に、退室する。」

 そう云ってから、言葉を告げた。

「ひとつだけ、覚えておくのだ。おまえの体は、おまえのものではない。」

 颯の目は一瞬、叔父とカチ合った。──が、反射的に喉元を押さえ、苦しげに咳を押し殺す動作で、感情を隠した。

 またもや、説教か。──

 叔父の口調は碩岳せきがくを連想させた。

 嘆いても、状況は変わらない。身体を取り替えることなど、できない。ならば如何に不本意であろうとも、現状を受け入れ、折り合いを付けながら改善のすべを模索するべきである。

 若輩を教え諭すのは、さぞ気持ちのよいことだろう。──

 颯は、胸のうちで皮肉めいた呟きを吐いた。父に、頭ごなしに叱咤され、颯は すっかりヘソを曲げていた。

「お言葉、胆に命じます。」

 颯は殊勝に答え、終始慇懃に努めた。はじめの言葉どおり、桂徹は颯の体調を気遣って四半刻ほどで退室した。遠ざかる足音に、じっと桂颯は耳を傾けた。角を曲がったことを確信すると、颯は下を向いて、ア"ァッ、と声を吐き出した。腹の底から声を出すと、胃の腑が疼いて苛立ちが増した。

 叔父上は、耐えろ、と云っていた。長患いの苦しみなど、叔父上には理解できない。

『久しく見ぬ間に、また背丈が伸びたようだな。十代は体が急に変化を遂げる時期だ。同時に、心も不安定な状態になる。身心の調和を図るには、座禅をするとよい。難しいことはない。朝に障子を開け、深く呼吸をしながら、何事も考えずに座っているだけでよいのだ。これを続けていると、不思議と心穏やかになり、些事に心を揺らすことがなくなる。』

 桂徹の助言を、颯は遠回しに、おまえは忍耐が足りない、と批難されていると解釈した。

「誰も彼も、耐えろ、耐えろ、──だ。私は、ずっと耐えている。」

「ええ、わかっておりますとも。」

 颯の呟きに、合いの手を入れたのは侍女のミツだ。ミツは先刻より部屋の隅に控え、ふたりの遣り取りを聴いていた。

「坊っちゃんの努力を、ミツはよく存じあげております。」

 颯は、わざと邪険にミツを見る。颯の胸には、己の立場を忘れるな、家名に恥じる行為をしてはならぬ、という父の教えが刻まれている。常に、自らの言動には注意を払っている。だが、未熟こどもなので、時折 独白を装った愚痴が口を突いて出る。

 ミツは少年の、行き場のないいきどおりを静かに受け止めていた。

「耳に痛い言をいう人ほど、大切になさいませ。あの方は信頼できるお人でございますよ。心を開き、教えを請えば、心強い味方となってくださいます。」

 颯が自棄やけを起こしかけたとき、ミツは手を握り、まじないのように同じ言葉を言った。

「あなたは、特別ヽヽなお方です。どうぞ、ご自身を信じてください。」











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