【玖】 きっかけ

🌸



  一  きっかけ

  二  人質  ─ ひとじち ─

  三  屈辱  ─ くつじょく ─

  四  根競べ  ─ こんくらべ ─

  五  遺恨  ─ いこん ─

  六  勇気  ─ ゆうき ─

  七  加害者  ─ かがいしゃ ─

  八  謝罪  ─ しゃざい ─

  九  信念  ─ しんねん ─

  十  経過  ─ けいか ─

  十一 褒美  ─ ほうび ─

  十二 いらぬ世話  ─ いらぬせわ ─


🌸



  一  きっかけ



 哲郎は草介を見返した。

『何故、役人に成ろうと思ったのだ。』

 知り合って二年は経つが、そんなことを訊かれたのは初めてだ。

 常々、役人は嫌いだ、と云ってはばからない奴だが、どうやら今の質問は、決して皮肉やからかいから出たものではない。

 世の為、人の為、──などと青臭いこと云っても、目の前の男は嘲笑わらいはしないだろう。

「俺が八歳やっつの頃だ。実家うち質屋みせに、出刃包丁デバを持った男が立て籠ったことがあったのさ。」

 哲郎は、自身が武官を目指すきっかけとなった、とある出来事を語りはじめた。

「男は店に入るなり、俺の女が質入れしたものを返せ、と云ったんだ。ああ、──正しくは、俺の女ヽヽヽではなく、以前 付き合っていた女だがな。」

 哲郎は苦笑いし、話しをする前に酒をすすって口をしめらせた。

 その男は、店に来る前に別れた女の住まいを訪れていた。俺が買ってやった物を出せ、──と女に詰め寄ったのだ。

 女は呆れた。金を貸してくれと泣きつかれるかと思いきや、やった物を返せ、というケチ臭さだ。

 別れた男の贈り物など、手元にあっても目障りなのでとっくに処分している。貰った物は、すべて質屋に持っていった、と女は答えた。

 金の切れ目が縁の切れ目、女は男を捨てたのだ。男は商いに失敗し、店を潰し、借財を抱えていた。一方女は、別れて間もないのにもう次の旦那オトコを捕まえていた。

 街で見かけた女は、相変わらず美しく着飾っており、贅沢な暮らしぶりが窺えた。男は物陰から、苦々しげに女の姿を眺めていた。男は、大手を振って日の下を歩ける身ではなかった。点々と居場所を変えながら、借金の取り立てから逃げ回っていたのだ。

 あの女、羽振りの良かった頃には、随分とイイ思いをさせてやったのに、こちらが困っている時には知らん顔だ。──

 付き合っている間に、女に使った金は百両を下らない。男は腹いせに、女に貢いだ品物を取りあげて、返済の足しにしようと考えた。

  鼻っ柱が強くとも、所詮は女。──

 ちょっと凄味を効かせれば素直に従うだろう。そして、あわよくば女の家に上がり込んで居座ってやろう、とも考えていた。

 ところが、企みは見事にくつがえされた。男は、返り討ちにあったのだ。女に口汚なく罵られ、塩を撒かれて追い払われた。

 独り、男は川縁でヤケ酒を呷った。女の言葉を反芻し、怒りを募らせた。やがて、したたか酔っぱらって正体を失くした男の足は、女が品物を持ち込んだという質屋へ向いた。

 質屋の中では、返せ、返せない、の押し問答が繰り返された。店の者は、こうした厄介な客の対応にも馴れており、恫喝や下手な泣き落としには動じない。男は、冷静な店員の態度に女の姿を重ね、逆上した。懐に忍ばせていた出刃デバを、抜いたのだった。





  二  人質  ─ ひとじち ─



 運悪く、哲郎はその場に居合わせた。

 男は店内を見渡し、奥へ入って行く男児に目をとめた。店の者が、坊っちゃん、と呼びかけている。

 男は駆けてゆき、子供を羽交い締めにすると、首筋に出刃を突き付けた。

「あの女を、ここへ連れて来い!」

 男の怒鳴り声に番頭は蒼くなり、急ぎ店の者に女を呼びに行かせた。

 事情を聞いた女は、これから芝居を観に行くところだからと、煩わしげに応じ、肝っ玉の小さい男だから、大それたことはできやしないさ、──と、あしらった。

 が、店の者は、酔って気持ちが大きくなっているし、何より、罪もない子供が人質に取られているのです、──と、食いさがり、土間に頭を擦り付けて、どうにか女を連れ帰った。

「おお、来やがったな、クソアマ。」

 赤ら顔の男に、女は眉をひそめた。空いた口から酒臭い息が漂って来そうだ。

「そこに額突ぬかずけ、さっき俺に云った事を謝りやがれ。」

 男は、勝ち誇ったような薄ら笑いを浮かべている。

 情けない。──

 見下げ果てた男だ。公衆の面前で、女に恥をかかせたいがために、子供にやいばを向け、従わなければ、危害を加える、と脅している。

 謝る必要はない。──

 事実を云ったまでだ。店を潰したのは自業自得。誰の所為でもない、男に才覚が無かったからだ。欲をかき、怪しげな者の口車に乗って、事業を拡げようとしたのが間違いだった。大それた夢を見ず、分相応の商いをしていれば良かったのだ。

 女は云った。

 『つまらない奴。

 小さくて底が浅い、あんたの器はお猪口ちょこ程度さ。』

 よほど「お猪口」がしゃくに障ったらしい。男は、女への恨みごとを訴え、周囲の同情を集めようとしていた。女は、腕組みをし、口を一文字に結んで、男の話しを聴いていた。

 この男、素面しらふで家に押しかけたときには、ぐうの音も出ずに顔を真っ赤にして立ち尽くしていたのに、今は酒の力を借りて別人のように饒舌だった。別れた女を、いつまでも自分の所有物だと思っているところが腹立たしい。──

「可哀想に、……」

 不意に、後ろで囁く声があった。女の前には、蒼ざめ、助けを請う子供の姿があった。子供の親が、後生だから頭を下げてくれと、女に手を合わせている。

「早く土下座しろ。」

 野次馬が声を荒げた。

「何て傲慢な女だ、幼子が哀れだとは思わないのか。」

「そうだ、さっさと謝れ。」

 謝れ、謝れ、と声が重なり大きくなる。皆、お前が頭を下げればすべて丸く納まるのだと、女を責めていた。

 女は舌打ちした。迷惑な話だ。男とは赤の他人、女房でも母親でもないのだから、不始末の尻拭いをさせられるいわれはない。

 それに、──

 と、女は思った。今頃は、夢心地に芝居を観ていたはずだった。無理やりこんな場所へ連れて来られ、腹立たしいのはこちらのほうだ。

 女は身を翻し、すべてに背を向けた。店を去る姿に、周囲は唖然となった。





  三  屈辱  ─ くつじょく ─



めやがって。」


 男は唸るように云い、怒りを噴出させた。


「戻ってこい! クソアマァ!!」


 怒号は表まで鳴り響いたが、女は振り返りもしなかった。

「どうか戻ってくれ」と追い縋る店の者を、煩わしげに追い払っている。


 ──刺される…!


 哲郎は身構えた。

 男が放つ罵声は、雷鳴のようにピシピシと体へ伝わっていた。

 まるで、己が責められているようだった。

 体をギリギリと締め付けられ、脂汗が流れ、全身からスウッと血の気が引くのを感じた。

 哲郎の我慢は、限界だった。


せぇ。……」


 立ち上ぼる異臭が、男の鼻を突いた。

 男は視線を下に向け、即座に顔を逸らした。


「このガキ、クソを漏らしやがった!」


 男は顔を歪め、哲郎の背に蹴りを入れた。


 今だ! ──と役人は視線を交わし合った。


 少年が土間に転がると、一人が背後から飛び掛かって、男を羽交い締めにした。

 別の者が、手首に手刀を叩き込んで出刃を離させた。


 男は俯伏うつぶせに押さえられ、縄を打たれた。

 体を拘束されてからも、男は威勢よく喚いていたが、横腹に拳を一発喰らうと、途端に意気消沈し、大人しく番所に曳かれて行った。


 哲郎は土間に伏せたまま動けなかった。

 体は小刻みに震えていた。

 恥しさと悔しさで、涙を流していた。

 蒼い顔をしていたのは、恐怖のためばかりではない。

 哲郎は用便を我慢していたのだ。


 事件は解決したが、哲郎の心には消えない傷が残った。

 はたで見聞きしていた者には、単なる「痴話喧嘩」で片づく話であっても、人質の少年にとっては、生死に関わる大事だった。


 それから十日経ち、久しぶりに顔を出した寺子屋で、哲郎は酷い仕打ちを受けた。

 学友は、哲郎の「吃音」を真似てからかった。

 人質にされたことによる後遺症で、哲郎の言葉にはどもりが表れていた。

 人の弱点を、少年たちは容赦なく突いてきた。

 それだけでなく、帰宅時にもしつこく後をつけて、哲郎を囃し立てた。


「やぁい、弱虫、クソ漏らし。」


 哲郎はビクリとなった。

 人の口に戸は立てられない。

 皆に知られているのだ。

 寺子屋に通う者全員に、──いや、町中に広まっているのだ。


 『クソモラシ、クソモラシ、……』


 不快な音が木霊した。

 哲郎の体は震えた。


 ──うるさい、黙れ!


 言葉を掻き消すように、哲郎は「ワアッ」と声を張りあげた。

 その場にしゃがみ、手に砂利を掴むと声の方へ力いっぱい投げ付けた。


 少年たちは、四方へ散らばった。

「糞漏らし」と囃しながら逃げて行った。

 悔しくて仕方ない。

 哲郎は、少年たちの姿が見えなくなっても闇雲に石を投げ続けた。


 この日を境に、哲郎は家から一歩も外に出ようとしなくなった。

 他人と会うのが億劫で、一日中、部屋で過ごす日々が続いた。


 ──糞漏らし……。


 お先真っ暗だ。

 生涯、この不名誉な枕詞がつき纏うのかと考えると、絶望的な気分だった。





  四  根競べ  ─ こんくらべ ─



 哲郎が家に引き籠って半月ほど経ったころ、三郎さぶろうという名の役人が会いに来た。

「取り調べなどではないから、そう固くなるな。」

 浅黒い肌をした男は、白い歯を見せて笑った。三十路半ば、中背で堅太り、言葉には南方の訛りがあった。

「色が白いな。もっと表に出て、遊んだ方がイイぞ。」

 察するに、この男は、哲郎が寺子屋を長く休んでいるのが気になって様子を見に訪れたようなのだ。男が遠回しに理由を訊いてきたが、哲郎は真相を答えず、気分が優れないので、と言葉を濁した。

 哲郎は終始俯向いて、早く帰れ、と念じながら、四半刻ほど男の無駄話に付き合った。

 帰り際、三郎は、またな、と云って哲郎の肩を叩いた。哲郎は、この男に二度と会いたいとは思わなかった。だから、あの男が現れても取り継がないでくれ、と家人に伝えた。

 哲郎は三郎の、畑から掘り出したばかりの里芋のような容姿が好きではなかった。そして、何より、哲郎は大人の男が怖かった。

「どうぞ、お察しください。あのような事があった後ですし、坊ちゃんは、お役人に会うのがお辛いようなのです 。」

 再び訪ねて来た三郎を、女中は慇懃いんぎんに追い払った。しかし、三郎は諦めなかった。裏へ回り、塀を乗り越えて侵入し、庭に面した一室で、寝転がる哲郎を見つけた。

「よお。」

 目を向けると、例の役人が手を振っていた。哲郎は飛び起きて、急いで部屋の障子を閉めた。

「なあ、こう考えてはどうだ。」と、三郎は、障子に顔を近づけた。「糞を漏らしたお蔭で、お前は助かったのだ。災い転じてナントカさ。」

 ウンが良かった、──という男の無神経な発言に、哲郎はブチ切れた。

 このヤロウ、巫山戯フザケるな。あんな事になったのは、おまえらの所為だろうが。

 胸の裡で哲郎は役人の不手際を責めた。あの時、現場に着くなり、役人は面倒くさそうに顔を見交わしていた。ずいぶんと遅れて来たうえに、対応もかなりのいい加減さだった。

 役人など頼みにならない。──

 以前、誰かが云っていた。役人は、罪もない者を罪人にする。手柄を挙げたいがために、ありもしない証拠をでっち上げ、罪もない者を番所にいて行き、棒で叩いたり石を抱かせたりして、自白を迫るのだそうだ。ヤクザまがいに、人の弱みを握って強請ユスりをする者もいるらしい。哲郎も、暖簾のれんのしたから手を差しだし、小銭をせびる役人の姿を見たことがあった。

 役人は信用できない。──

 あの一件があって、哲郎の役人に対する不信感は決定的になった。

「うるさい、帰れ。二度と来るな。」

 けれど、三郎は会いに来た。

 部屋の障子は何時も閉められていて、人の気配はするものの、中の様子はうかがえない。三郎は根気強く、声が返ってくるのを待っている。障子越しに、だんまりを決め込んだ少年を相手に語りかける。そして、帰り際には必ず、また来る、と言い添えるのだった。





  五  遺恨  ─ いこん ─



 二月ふたつきが経っていた。

「おまえは、そうして死ぬまで引き籠っている気なのか。」

 いつもどおり、哲郎は返事をしなかった。上向きに寝たまま、哲郎は天井を見ていた。

「お前の気持ちは判る。俺も、上京したての頃には訛りを揶揄からかわれていた。──それとな、」と、三郎は声をひそめた。

「実は最近、俺も糞を漏らしているんだ。」

 哲郎は目だけを障子のほうへ向け、耳をそばだてた。

 半年前。三郎は大酒を飲んで泥酔し、不始末をしでかしていた。友人の婚礼があった夜、翌日が非番という気楽さも手伝って、三郎は心置きなく酔った。翌日、──様子を見に寝所を開けた女房は、惨状に目を剥いた。布団に大の字になった亭主が、高いびきで脱糞していたのだ。

「俺は息苦しさで目をあけた。そしたら、カミさんが俺の顔を足裏で踏みつけていた。真顔で、本当に殺してやろうかと思った、と言われたよ。しばらくは口を利いてくれず、今でも白い目で見られているんだ。」

 いや参った、と、三郎はヘラヘラ笑った。

 三十路を過ぎた男でも、こうした粗相をするのだし、刃物で刺される事を思えば、糞を漏らす事など大した問題ではない。この男なりに、慰めているつもりなのだろうが、哲郎はちっとも嬉しくない。哲郎は生粋きっすいの都人だ。こんな田舎者のオッサンと同視されるのは迷惑千万だ。

「なにが判るヽヽ、だ。おまえなんかと一緒にするな。」

 糞漏らしの吃り野郎、俺は一生笑い者だ。──

「俺はもうお終いだ。──チクショウ。刺された方がマシだった。」

 惨めだ、何で俺がこんな目に遭うんだ。

 そして、被害者の少年は、加害者にもなっていたのだ。

「やぁい、弱虫、糞漏らし。」

 塀の向こうで声がした。

 家にまで来やがった、──と、哲郎はカッとなり、表に飛び出した。逃げる少年たちを追って行き、一人を捕まえると、馬乗りになって容赦なく拳を降りおろした。

 後日、母親は菓子折りを携えて哲郎が怪我を負わせた少年の家へ謝罪に行った。幾らかの慰謝料を渡し、事が穏便に済むように計らった。

 哲郎は母の対応に苛立った。

 何故、謝るんだ。──


 謝るのは奴らの方だ。先に喧嘩を吹っ掛けてきたのは奴らだ。俺はヤられたからヤリ返したのだ。人を辱しめた者に、制裁を加えるのは当然だ。

 眠っていると、刃物で刺される夢を見る。哲郎は叫びながら目覚める。そして反射的に手を尻に持っていく。糞を漏らしていないことを、確かめるのだ。

  なんでこんな目に遭うんだ。──

 引き籠っている間中、同じ事を考えていた。なぜ、あの場に俺は居合わせたのだろう。そして、なにが原因で、誰のせいで、俺がこんなに惨めなおもいを味あわなければならないのか、──と。

 事件を思い出す度に、哲郎の胸には悔しさが満ち、目には涙が滲む。

 すべて、のせいだ。──

「あんた、役人なら、今すぐあいつをここにいて来い。あの女に、土下座をして俺に謝らせろ。」





  六  勇気  ─ ゆうき ─



「俺は、ひどく女を憎んでいた。」


 自嘲するように、哲郎はうっすらと笑った。


「俺は本当に『殺される』と思った。

 喉元に出刃を突きつけられて声も出せず、わらにもすがる思いで女に助けを求めた。」


 それなのに、女は背を向けた。

 望みの綱を絶ち切られた。

 哲郎の悲しみは憎しみに変わり、その矛先は騒動を起こした張本人の男にではなく、女に向けられた。


 幼い哲郎は、男の話を真に受けていた。

 女の浪費癖に手を焼いていた、と男は言った。


『遮二無二働き、尽くしたが、金がなくなったとたん、あいつは他所に男を作って逃げたのだ。』


 非道ひどい女だ、と哲郎は思った。


「なぜあの時、頭をさげてくれなかったのだ、──俺は心のなかで女に問うていた。

 すべての元凶はあの女だ。

 俺をこんな目に合わせたのは、あの女だ。

 俺は女に、俺を見捨てたことを謝らせたかったのだ。」


 ──女に土下座をさせたら満足か。

 それでなにもかも解決するのか?


 三郎は、憎しみに涙を滲ませる少年を悲しげに見つめていた。


「たしかに、女が土下座をすれば、少しばかりは気も紛れるかもしれん。

 だが、それだけだ。

 起きた事は変えようがない。

 お前が糞を漏らした事実は、なかったことにはならない。

 寺子屋へ行けば、『吃り』だの『糞漏らし』だのと揶揄からかわれるだろう。」


 三郎は前に踏み出した。

 右の人指し指を哲郎の鳩尾みぞおちに押し当て、言った。


「そうなれば、女への憎しみは、おまえのココに残ったまんまだ。

 おまえは、思い通りにならない事が起きるたんびに、あの事件を引き合いにし、言い訳をするような、卑屈な男になるだろう。」


 哲郎は上目遣いに三郎をギッと睨み付けた。


「お前にはなんの罪咎つみとがもない。理不尽な目に合って腐る気持ちもわかるさ。だがな、誰かへの恨みつらみに、いつまでも囚われていては駄目だ。

 己の人生を、台無しにすることになる。」


 ──しっかりしろ、頑張れ、説教などウンザリだ。


 他人事だから偉そうなコトが云えるのだ。

 嘲笑わらわれて惨めな思いをするのは おまえではない、俺なんだ。


 俺だって、このままで良いとは思っていない。

 元の生活に戻りたい。

 けれど、現状を変えるすべが見つからない。

 独りでは、どうしたらいいのか、わからないんだ。……


 哲郎は奥歯を噛みしめ、込みあげてくる嗚咽を必死にこらえていた。

 三郎はしゃがんで、哲郎の両肩をがっしりと掴んだ。


「俺は、おまえの力になりたい。

 おまえが前へ進めるよう、手助けをしたい。

 このままではいけないと思うなら、お前も勇気を持って一歩を踏み出してくれ。」


 表情を和らげ、三郎は穏やかに語りかけた。


「寺子屋へ行き、俺は事件の詳細を学生たちに話した。

 皆は、おまえがどんな目に遭ったかを知らないから、心無い言葉を吐きかけたのだ。


 おまえの苦しみを、皆も理解した。

 もう、『吃り』だの『糞漏らし』だのと、おまえを馬鹿にする奴はいないはずだ。」





  七、加害者  ─ かがいしゃ ─



 数日前、三郎は寺子屋へ行っていた。

 手習いを始める前に時間を貰い、学生たちの前で事件の詳細を話した。

 それから、役人として自らが関わった幾つかの事件と、犯罪による被害者のその後を語った。


 学生たちは、目の前で親を殺された子供や、犯された娘が、今も尚、癒えない心の傷を抱えて苦しんでいる事を知った。


「事件によって被害を受けた者の痛みは、その場限りではない。

 人の傷口に塩を擦り込むような真似をしてはいけない。

 それは恥ずべき行為である。」


 その事に気づき、学生たちは神妙な顔つきになり、この場にいない学友に思いを馳せた。


 実は、哲郎が執拗な揶揄からかいの的となったのには、事件以外にも別の理由があった。

 哲郎は学友たちに、うとまれていた。

 哲郎の母は度々寺子屋を訪れ、教師に菓子などの差し入れをしていた。

 教師は哲郎を優遇していた。


 そして、当人にも、裕福な商家のお坊っちゃんらしく、鼻に付く言動が多々あった。

 つぎはぎの目立つお古を着、使い回しの教本で講義を受ける学友たちは、真新しい学用品を当然のように揃えている哲郎をやっかんでいた。

 人は平等ではない。

 生まれながらに身分や貧富の差がある。

 同じ寺子屋で学ぶなかで、子供たちは、出生による格差を微妙に感じ取っていた。


 だから学友たちは、事件の一報を聞いた時、人質となった哲郎に同情するよりも、「ザマをみろ」という気持が先立ったのだ。


「知っているか?」


 事件の翌日、一人の少年が口火を切った。


哲郎あいつは、出刃を突きつけらた途端にビビって、糞を漏らしたんだってよ。」


「うわっ、糞を漏らすなんて有り得ねぇだろ。

 あいつはホント、意気地がねえなぁ。」


「まあ、俺だったら、男のアゴにこう一発、頭突きを喰らわせて、軽ぅくしてやっていたぜ。」


 学友たちは哲郎を「意気地無しの弱虫」と決め付けて、恵まれた少年が痛い目に合ったのを嘲笑った。


 けれど今は、事件で哲郎の置かれた状況を把握し、自分たちが哲郎にしてしまった軽率な行為を反省していた。

 最後に、「学問を学ぶ前に、人の気持ちを思いやれる人間になって欲しい」と言った三郎の言葉を、胸に刻んでいるのだった。


 三郎は、学友たちが哲郎に、「すまなかった」と謝罪していたことを伝えた。


「おまえは何も悪くない。

 今後、おまえを『糞漏らし』と云って馬鹿にする奴がいたら、『それがどうした』と胸を張って言い返してやるがいい。

 あれは、どうにもならない事だった。

 あの時のおまえは、特殊な状況下に置かれていたのだから。


 引け目を感じることはない。

『吃り』だろうと、堂々と話せばいいんだ。

 オドオドしているから、余計に吃りが強調され、悪ガキに付け込む隙を与えるんだ。

 俺は、『訛り』を揶揄からかわれても堂々と喋っているぞ。

 まずは、話しかけないことには仕事にもならんし、友人もできないのだからな。」





  八、謝罪  ─ しゃざい ─



 寺子屋へ通う前に、哲郎には一つやるべき事があった。

 人に怪我を負わせた事を、謝らなくてはならないのだ。

 怒りに任せ、人を殴った。

「俺は間違っていない、無礼者を成敗してやったまでだ」──大義名分を掲げたが、省みれば、ただの「八つ当たり」であったことに気づく。

 人質を取り、別れた女への恨みごとを垂れ流していたあの男と変わりないのだ。


 鼻を折られるほどの罪など、あの少年にはなかった。

 哲郎は悔いていた。

 素手で人を殴ったのは初めてだった。

 右手の指は鬱血して青紫色になり、ジンジンと痛んだ。


 ──この手よりも、


 哲郎は少年の痛みを想像した。

 あいつは俺を憎んでいるだろう、──そう考えると、独りで会いに行く勇気がなかった。


 哲郎は三郎に、「相手に謝りたいから、付き添って欲しい」と頼んだ。

 自発的に、哲郎が謝罪を申し出た事を、三郎は喜んでいた。


 被害者の少年は、やはり哲郎を拒絶した。が、再び訪れた時には姿を現し、話しを聞いてくれた。

 そして次に顔を合わせた時には、向こうから、哲郎に対し暴言を吐いたことを詫びてくれたのだ。


 一つ、肩の荷が降りた。

 哲郎は、「海へ行きたい」と三郎に云った。部屋に籠っていた時、「気晴らしに、海へ行ってみないか」と誘われていた。


 三郎の非番の日に、二人は釣り道具を持って海へ出かけた。


「キツい言い方をして、すまなかったな。」


 波止場に座って釣糸を垂れながら、三郎は云った。

 これ迄の、神経を逆撫でするような発言の数々は、哲郎の腹の底に溜まった「鬱憤」を吐き出させる為だった。

 それから三郎は、事件の現場へ駆けつけてやれなかった事も詫びた。

 同じ時刻に密貿易の大がかりな捕物があり、役人の殆どがそちらへ駆り出されていた。

 のちに、三郎は同僚から「人騒がせな酔っ払い男」の一件を聞き、人質にされた少年のことを案じたそうだ。


 ものには優先順位がある。

 納得はいかないが、役人の事情も少しだけ理解できた。


「お前、好きな女はいるか?」


 三郎の問いに、哲郎は首を横に振った。


 上京したての頃、三郎の訛りは今よりヒドかった。

 度々、「何を云ってるのだ」と、訊き返されるので、箸を口に咥えて発音の練習をしたそうだ。


「言葉を覚えるには、人に惚れるのが一番なんだ。

 惚れた女に気持ちを伝えるには言葉が必要だ。

 俺は必死に努力した。

 そして口説き落としたのが、今のカミさんだ。」


 三郎は誇らしげに口の端を上げた。

 都での暮らしも十年以上になるらしいのだが、未だにお国訛りは抜けていない。

 田舎臭いと感じたその発音は、段々と哲郎の耳に馴染んできた。

 この男の温かい人柄が「訛り」に現れているようにも感じられた。


 哲郎は、進んで人に話しかけるよう努めた。

 それにより、腫れ物にさわるようだった学友たちも、肩の力を抜き接することができた。


 三郎の助言通り、堂々と会話をするうちに、いつの間にか「吃音」も、表れなくなっていた。





  九、信念  ─ しんねん ─



 哲郎は三郎を好意を何度も拒絶した。

 相手が心を開く気配がなければ、適当に見切りを付けて去るのが常だ。

 大抵は親切の押し売りで、相手が思い通りにならないと、「せっかく手助けをしてやったのに」という不満を懐いて去るのだ。


 だが、三郎はあきらめずに訪ねてくれた。

 真面目に働こうと、手を抜こうと、役人の給金は変わらない。

 赤の他人の、ガキのご機嫌取りなど、一銭にもなりはしない。

 はたから見れば無駄とも思える事に、己の貴重な時間を割いてくれたのだ。


「家に引き籠っている間、俺は、俺に出刃を突き付けた男を憎み、背を向けた女を憎み、助けてくれなかった役人を憎み、野次馬たちを憎み、俺を嘲笑った学友を憎み、そして、そいつらをどうやってブチのめしてやろうかと、繰り返し考えていた。」


 ──憎しみに囚われ、すっかり己を見失っていた。……


 哲郎は右の拳を見つめ、自らの過ちを省みていた。


「俺の間違いを正してくれたのは、三郎さんだ。

 起きたことを悔やんでいても仕方がない。

 将来さきを見据え、起きた事に対して、どう対処し改善していくのかが重要なのだ。

 間違っても、己の不幸に他人を捲き込んではいけない。

 己の不遇を嘆き、それを理由に身勝手な行動に出てはならない。

 あの人が、戸を叩き、暗闇から脱け出す「きっかけ」を与えてくれた。

 だから、今の俺が存在している。


 俺は、真っ当に生きている人々の暮らしを護りたいと思い、役人になった。

 それは同時に、三郎さんへ恩を返すことでもあるんだ。」


 哲郎は、三郎を信頼し、友人にも親にも云えない悩みを打ち明けていた。

 子供と侮ることはなく、三郎は親身になって話を聞いた。

 頭ごなしに、「これは、こうだ」と持論を押し付けるのではなく、哲郎が自ら答えを導き出せるよう手助けをした。


 ──この人は、俺に背を向けることはない。


 親交を深めるなかで、哲郎はそう確信した。

 同じように、三郎は町の人々との間にも信頼関係を築いていた。

 身近に厄介事が起きたとき、頭に浮かぶ役人が在るのは心強い。

 三郎は人々に、「あの役人に頼めば、きっと何とかしてくれる」といった安心を与えていた。


 人の信用は一朝一夕には得られない。

 やはりそれも、地道な行動の積み重ねによるものなのだ。


 三郎は言った、「起きた事件を解決する事だけではない、起きるかもしれない事件を未然に防ぐのが、俺の仕事だ」と。

 その為に、小さな異変を見過ごさないよう、日頃から人々の暮らしに目を配っていた。


 手柄を挙げ、名を上げたい、と望む者は多い。

 けれど三郎の理想は、手柄を挙げる「機会」を作らないことなのだ。


 哲郎の目の前には常に、犯罪のない、穏やかな日々を護る事に、心血を注いでいる役人の姿が在った。

「いつ」と思い立ったではない。

 哲郎は、信念を持って働く男の背を眺めているうち、ごく自然に己の将来を定めていたのだ。





  十、経過  ─ けいか ─


「人の噂も七十五日。

 己の身に起きたことでなければ、人は忘れてしまうものだ。

 たとえ、どんな陰惨な事件であっても、当時の記憶は、時の経過に伴い薄められてゆく。だから、ガキの俺が恐れていたように、生涯『糞漏らし』と揶揄からかわれ続けることなどありはしない。


 事件のことを、今こうして俺は人に話せる。それはすでに過去の出来事だからだ。

 それなりの経験を積み、成長し、あの頃とは別の場所に立っている。

 あの頃の己を冷静に見つめ、語ることができるのだ。


 さっきは、『起きた事は仕方がない』などと、物分かりのいいふりをしたが、実際には、そう簡単に割り切れやしなかった。

 眠ると、出刃で刺される夢を見たし、思い返して憎悪が沸きあがることもあった。

 気持ちに区切を付けるには、やはり時間ときが必要だった。


 世の中には、昔の俺のように独り暗闇で足掻いている者がいる。

 だから俺は、助けを求めている者にはできうる限り手を差しのべたい。

 微力ながら手助けをしたいと思っている。」


 いつになく、真面目な話しをしている自身に気づくと、哲郎は照れ隠しのようにスッと一息に酒を呷り、話題を変えた。


 じつは、「女と共寝をしたのは、二十歳はたちを過ぎてからなのだ」と告白した。


 実家の質屋は色町の中にあり、哲郎は男女の色恋を身近に見聞きして育った。

 悪ずれた手管の数々をちりばめた男女の挿話は、哲郎に微妙な嫌悪感を懐かせ、怯えさせていた。


行為ことの最中に女が痙攣を起こし、女陰ほとに男根が挟み込まれて抜けなくなった。

 男女は繋がり合った体勢のまま戸板に乗せられ、近くの診療所に運ばれたという。


 万が一、それがこの身に起きたらと考えると、俺は恐ろしかった。

 女とイイ雰囲気になっても、その事が頭を掠め、なかなか一線を越えらずにいた。」


 それで、二十歳過ぎまで、貞操を持ち越してしまったのだ。

 哲郎の初めての相手だが、例の「ひと夜の天女」だった。

 酔った勢いで茶屋にシケ込み、一夜を共にした天女の正体が、おかめ顔にぶ厚く白粉を塗り込んだ年増女だった、──というくだりのアレだ。

 草介は気の毒そうな表情を作り、「まあ、飲め」と哲郎の猪口に酒を注いだ。


 そこから二人は、女に纏わる失敗談を吐露し合い、安酒を注ぎ足しながら、閉店まで居座っていた。


 つじで草介と別れ、夜風に吹かれながら哲郎は思った。


 諭利という男、様々な噂はあるが、悪い奴ではないのだろう。荒んでいた草介を、生き返らせたのだ。──

 草介の変わりようを、哲郎は喜んでいた。草介あいつがどうなろうと知ったことでない、といいながら、少しでも自分と関わった者には、幸せであって欲しいのだ。

 哲郎は橋の上から川を覗き込んだ。

 さざなみが立った。風が吹きあがってくる。顔をあげ、哲郎は風を受けた。清々しい、気分だった。





  十一  褒美  ─ ほうび ─



「なあ、ご褒美はないのか。」

 草介が役所で働き始めてから一月ひとつきが経ち、怪我で療養中だった者も復帰した。これにてお役御免か、と思いきや、草介は引き続き役所で働けることになった。これは、嬉しい誤算だった。

 承の話によると、二十年前から予定し、再三に渡って先延ばしとなっていた朱穂あかほ川流域の治水工事が始まるそうだ。役所も忙しくなるだろう。とんでもないヘマをやらかさないかぎり、当面、草介の失業の心配はなさそうだった。

 昨日は、哲郎に会うからと、草介は夕飯を断っていた。足をふらつかせながら、草介は夜半に帰宅した。良い酒を飲んだのだろう、諭利が床を敷いている間に、草介は幸せそうな顔をして寝入っていた。

 そして今夜は、「何かお祝いをしてさしあげたい」という小鈴の提案で、食卓に草介の好物を並べ、三人でささやかながら、仕事の継続の祝いをした。

 食事を終える頃には、すっかり夜も更けていた。諭利は小鈴を家へ送り届け、たった今、戻って来たところだ。

 邪魔な小娘が消え、草介は待ちかねていたとばかりに、期待に満ちた眼差しを諭利に注いでいた。

「そんなもの、約束した覚えはないよ。」

 素っ気なく、諭利は答えた。

 自分の食い扶持を稼いでいるだけのこと、たった一月ひとつき働いただけで、ご褒美だなんて、甘過ぎる。

「なあ、蚊帳かやのなかに入らせてくれよ。知っているだろ、俺は暗いのがダメなんだ。眠ったら、決まってデカい百足ムカデの化け物に追いかけられる夢を見るのさ。──ああ、誰かさんが隣で唄を歌ってくれさえしたら、悪い夢を見ずに朝までぐっすり眠れるんだがなぁ。」

 草介は芝居がかった調子で言い、横目にチラリと諭利を窺った。

 諭利は、煩わしげに視線をそらした。

「私が、よしヽヽと言おうと言うまいと、おまえは寝ぼけて、勝手に蚊帳に潜り込んでいるだろう。おまえが背中に がっしりしがみ付いているから、起きた時に📍体があちこち痛くてかなわないよ。

 それに、おまえは また、上の棚の酒に手を出しているね。しかも、高価なものばかりを選り抜いている。そんな鼻だけは、利くのだよね。半人前のクセに嗜好は一人前。居候の分際で、おまえという奴はまったく始末が悪いよ。

 言いつけを守れない子に、ご褒美はないよ。」

 諭利は ぴしりと云った。

 えいクソッ、と草介は膝を叩いた。

「誰のせいだと思っているんだ。俺は毎晩生殺しさ。極上の肉を目の前に、ずうっっとお預けヽヽヽを喰らわされてるんだ。鼻先に旨そうな匂いが漂って来るのに、指をくわえて見てるだけさ。──酒でも飲まなきゃ居られねえよ。」

 居直った。──

「気に入らなければ、他所へお移りよ。」

 つれなく呟くと、諭利は一つだけ湯呑みを用意し、茶を注いだ。

 諭利の対応が、どうも冷たい。俺に不満があるのだな、と察しは付くが、一体なにが悪いのやら、草介にはトンと見当がつかない。





  十二  いらぬ世話  ─ いらぬせわ ─



「おまえ、あの態度はないんじゃないのかい。

 せっかく祝ってくれているのに。」


 夕食に、小鈴はぶり大根を作った。

 草介の一番の好物だと聞き、心を込めた一品だった。

「味付けは、どうです? お口に合うでしょうか 。」と、小鈴が訊ねると。「イイんじゃないか、普通に食える。」と草介は返した。

 小鈴が気を遣い、「お働きが認められて、良かったですね。」と云っても、「ああ。」と、一言素っ気ない相づちをしたきりで、そっぽを向いて汁を啜っていた。

「おまえは、小鈴に冷たいよ。散々世話になっているのに、ありがとうの一言もないのだから。ときには、優しい言葉をかけてあげなよ。」

 フン、と草介は鼻を鳴らした。

「使用人の機嫌など、取る必要はない。」

「小鈴は使用人ではないよ。」

「あの小娘の親は、ここの管理人だ。大家から、それなりの金を受け取っているはずだろう。そのうえ、あんたは小娘に小遣いを渡している。受領しているのだから、相応の労働をするのは、当然だ。

 優しい言葉は、あんたがかけてやれよ。小娘は、あんたに気に入られたくて俺の世話をしているんだ。俺にねぎらわれるよりも、よほど嬉しいだろうさ。」

「そうした考えは、嫌いだね。」

 やれやれ、と、諭利は溜め息をつき、続けた。

「おまえが着ている服の仕立て直しをしているのは、小鈴だよ。私が頼んだのではない、小鈴から、申し出てくれたんだ。」

 小鈴は、諭利が古着屋で買って来た服を、草介の体に合うように作り変えていた。腰帯を当てる部分に布を足して丈を揃え、背を縦に裁ってから、そこも布を足して幅を出した。継ぎ目の柄合わせが小粋で、まるではじめから、そのように仕立てた物のようだった。役所から支給された官服も、草介の体型に合わせ、見映えの良いように手を加えてやっていた。

「そんなことは、頼んでいない。」

 これだ。──

「ソウ、百足ムカデは毘沙門天の使者つかいだそうだよ。」

 それがなんだ、という表情で、草介は諭利を見返した。

「人の善意を踏みつけにする不心得者に、感謝の心を持てと、警告をしているのだよ。」

「善意、──か。」

 と呟いて、草介は諭利の夢解きに反論をした。

「相手の気持ちを勘定にいれない善意は、親切の押し売りだ。甘い顔をすると、ガキはすぐに調子に乗る。褒めて欲しいからと、必要のないことまでしようとする。──ありがた迷惑さ。」

 望んでもいないのに、おまえのために用意したのだ、感謝しろ、というのはオカしいだろう、──というのが草介の言い分だった。

 先ほどは、お祝いの仕度に手間がかかり、腹を空かせた草介は苛立っていた。品数よりも、とにかく食事をはじめたかったのだ。

 そんな事より、──

 と、草介は おもむろに立ちあがると、碁盤を抱えて戻って来た。

「勝負をしよう。俺が勝ったら、質問に答えてくれよ。あんたに言われた通りに、真面目に勤めていたんだ。それくらい、イイだろ。」







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