【捌】 懇願



  一  懇願  ─ こんがん ─

  二  条件  ─ じょうけん ─

  三  懸念  ─ けねん ─

  四  畏れ  ─ おそれ─

  五  山ゆり  ─ やまゆり ─

  六  恋心  ─ こいごころ ─

  七  肩書き  ─ かたがき ─

  八  気遣い  ─ きづかい ─

  九  夜明け  ─ よあけ ─

  十  処世術  ─ しょせいじゅつ ─

  十一 前任  ─ ぜんにん ─

  十二 合言葉  ─ あいことば ─





  一、懇願  ─ こんがん ─



「ソウ、何度も同じことを云わせないで。

 私は、お前と夫婦めおとのように暮らす気はないのだよ。」


 静かに諭すような口調で云い、草介の頭を撫で、諭利はそっと草介の肩口を押した。

 離れてくれ、と伝えている。


「あんただって、飢えているハズさ。

 だったら俺を利用しろよ。

 俺は、誰かの身代わりだって構わないぜ。」


 一瞬、諭利の瞳が揺れるのを、草介は見逃さなかった。

 肩に添えられた諭利の手を取り、草介は指に口づけた。


「俺の容姿すがたが、好きなんだろ? ……」


 諭利の指先に熱い息を吹きかけながら、悪事を仄めかすように囁いた。


「あんたが、誰とでも寝るような男じゃないって分かっているさ。俺がと似ていたから声をかけてきたんだ。」


 諭利の人差し指を、草介は口に含んだ。

 柔らかく口を窄め、肉の感触を指に伝えた。


 ──あんたは、俺の唇を「好き」だと云った。


 草介の耳には、遠い潮騒のようなあの夜の囁きが聴こえていた。


 『少し厚めの唇が、私は好き、……』


 愛しげな眼差しを注ぎ、男は俺の唇に人差し指を滑らせた。


 『厚い唇は、情が篤いという証。

 上唇は与える愛、下唇は受ける愛、お前のはどちらもふっくらとして、とても好ましい。』


 男は、この唇に唇を重ね、揺蕩たゆたわせた。


 ──どうだ、思い出さないか?


 草介は口から指を抜き、諭利の手を己の胸の上に置いた。


 この、盾のような胸板が好きだと、確かに男は云ったのだ。

 この指は、若い肉の弾力を愉しんでいた。

 汗の滲む胸に鼻先を近づけ、肌の匂いを吸い込み、胸の肉についばむような口づけを繰り返した。


 ──この体が、欲しくはないか?


 媚びた笑みを浮かべ、草介は諭利をいざなう。

 唾液で湿った人差し指を、樺色の小さな突起に触れさせる。


 静かに、諭利の目は草介の行為を映している。

 導く手は、腹の肉を辿り、下腹部へと降りてゆく。

 草介は、震えるような息を吐き出す。

 諭利の諭利が肌の上を流れると、皮膚の下に細かなさざなみが立つのだ。


「なあ、少しだけ付き合ってくれよ。

 チョットでいい、手を添えてくれるだけでいいから。……」


 諭利の指先は、旺盛な茂みの内に分け入り、硬化した肉に触れた。

 途端、「ア"ァ」と草介は悲鳴を上げた。

 草介の手首を、諭利は逆にねじっていた。


「誰とでも、寝るような男だよ。」


 諭利は冷めた口調で呟くと、縛めを解き、立ち上がった。


「相手は誰だって良かった。

 あのあの場に、偶然お前が居合わせたというだけのこと。

 お前は己をだと思いたいから、私が特別な感情を懐いて近づいたと考えているようだが、それは単なる勘違い、トンだ思い上がりさ。」


 諭利はワザと辛辣な言葉を選んできた。

 その目は、「約束を破れば家を追い出す」と警告していた。


 草介は、すがるような声で胸の想いを吐き出した。


「忘れられるわけが、──ない。」





  二、条件  ─ じょうけん ─



 『いいかい。

 あの夜、飯屋を出た私を、お前は追いかけては来なかったのだ。』


 飯屋を出てからの一切は無かったものとする、そして、二度と肉の交わりを持たない、──これが、諭利が提示した、[居候]の条件だ。


 草介は二つ返事で快諾した。

 が、胸のうちでは、そんな口約束など容易たやすく反故にできる、とタカくくっていた。


 草介は諭利を侮っていた。

 どこぞのお大尽だいじんの男妾だろう、とくらいに見ていた。

 裕福な者の庇護を受けて安楽な暮らしをしている、だから、草介が今まで暮らした女たちと同様に、「なあなあ」と擦りよったら、簡単に身を委てくるものと、安く見積もっていたのだ。


 ──いったい、俺の何が気に入らないんだ。


 嫌いな男を、家に住まわせたりしないはず。

 俺に、好意を持っていることには違いない。

 先に声をかけてきたのは、諭利なのだ。

 あの夜、俺の猪口に酒を注ぎ、「あなたは強そうですね」と云った。

 その言葉の内には、「酒が強い」という意味だけではない、性的な含みを俺は確かに感じ取った。

 諭利はオトコとして、俺を見ていたのだ。


 この体が欲しいクセに、痩せ我慢をしている。

「私はそんなに安い男ではない」と、格好をつけているのだ。


 ──だったら、根比こんくらべだ。


 力づくでモノにするのは容易い。

 既に手の内にあるも同然だ。

 ならば、諭利がを上げるまで待とうと、草介は決めた。


 草介は駆け引きをしていた。

 それが、碁盤を前に対峙しているのは己一人だったはずなのに、いつの間にやらもう一人、勝負を仕掛けてくる者があった。

 諭利を奪おうとする者が現れた。

 不安だった。


 ──諭利の瞳に、自分以外の誰かが宿るのは、耐えられない。


「忘れられやしない。」


 草介は、一心に諭利を見つめた。


「あの男は、だ!」


 起きたことは、無かったことにはならない。一夜の出来事を、草介は全て覚えている。

 男の言動の一つ一つを、夜毎よごと、目蓋の裏に浮かべてみる。


 『大丈夫だよ、何処へも行きやしないから。

 夜が明けるまで、側にいるよ。』


 白い腕が草介の背を柔らかく包んだ。

 男の腕にいだかれ、胸の鼓動を聴いていると、己の体の隅々まで、甘やかに癒されてゆくのを感じた。


 『真っ暗闇で、帰り道が判らなくなったのだろ。

 お前は随分迷ってしまっているようだね。

 そして、酷く傷ついているのだよね。』


 草介の、閉じた瞼の隙間から熱い涙が流れ落ちた。

 幼子ようにすがり付き、咽び泣く草介の頭を、男は優しく撫でていた。


 『私の上にもお前の上にも、陽は等しく降り注ぐ。

 闇の底にも光は射して来る。

 明けない夜など、ないのだから。……』


 男は一時ひとときに、真心を尽くしてくれた。

 だから、再び「会いたい」と願ったのだ。


「頼むから、……俺を拒まないでくれ。」


 諭利は夜着の前を整えると、障子を引いて、草介を閉め出した。





  三、懸念  ─ けねん ─



『出て行ってくれないか。』


 突然、諭利から言い渡された。


『あの人がね、お前を家に置いておくのを嫌がるんだよ。

 仕方がないよね、お前だって、逆の立場ならそう思うだろ。』


「あの人」と、恥じらいを含んだ口調で、嬉しげに諭利は云った。


 その日、いつものように諭利は支度を始めた。

 これから邑重に会いに行くのだ。

 鼻歌を歌いながら、髪を洗い、お気に入りの桔梗色の衣装に着替えた。


『浄瑠璃を観に行くのだよ。

 今評判の冲也(戯作者)の新作だ。

 人気でなかなか席を取れないのだけれど、あの人が桟敷さじきを用意してくれたんだ。』


 選んだ衣装とは別に、諭利は着替えを風呂敷に包んでいた。


 ──何処かへ、行くのか?


『あの人が、休暇が取れたそうだから、二人で西の町へ観光に行こうか、という話しになってね。

 私も店を休んで三、四日ゆっくりと逗留する予定さ。


 だから、お前に猶予をあげるよ。

 私が観光から帰る迄に、荷物をまとめてこの家から出て行ってね。』


 ──俺より、あの野郎の方がいいのか?


『そうだよ。

 あの人は私を愉しませてくれるもの。

 連れていってくれるのは、どこも一流の店だ。

 芝居を観るにしても、あの人は私の為にいつも一等の席を用意してくれる。

 急に思い立って出かけても、店の者は必ず『邑重』に席を用意する。

 あの人は、顔が利くからね。


 お前は、私を何処かへ連れて行ってくれたことがあったかい?』


 お前の行きつけの店といえば、掛け金の少ない貧乏人相手の賭場と、あの薄汚い飯屋だものね、──出入りする店の質で男の価値が知れると、あんに諭利は云っていた。


『判るかい?

 お前があの人に張り合おうなんて、十年早いんだよ。

 お前とあの人では、男の格が違うんだ。』


 お前は、一人ではかりも満足にできない、小便臭いガキの男だ。

 私のそばに居て良いのは、選り抜きの、一流のオトコだけなのだよ。


 ──俺には、……何処へも行く場所がない。


『女の所へいけばいいじゃないか。

 今までそうしてきたのだろ。

 実入りの良い年増女を探して、飼って貰いなよ。

 

 そうだ、いっそ身分を明かしたらどうだい? 

 高貴な生まれの、不遇の御曹司、──女はそうした話が好きだからねぇ。』


 さらに芝居がかった調子で、諭利は続けた。


『叔父に騙されて領主の座を追われたが、このままではいない。

 必ず国に戻って地位を奪い返す。

 晴れて領主となった暁には、にもそれなりの見返りを与える。──


 とかナンとか云って、ダマくらかしたらイイじゃないか。

 お前も物書きの端くれだったのだから、作り話はお手のものだろ。

 せいぜい、枯れかけた年増女に、麗しい夢を見せておやりよ。』


 ──傍にいてくれよ、……俺を独りにしないでくれ。


 諭利は非情に背を向け、歩み去る。


 ──諭利、諭利!


 己の声が頭の中で木霊している。

 必死に叫んでいる筈なのに、声は出ず、縛られたように体も動かない。……





  四、畏れ  ─ おそれ─



 ガッ、と草介は目を見開いた。

 目の前に、化け物の目玉のような天井の木目が見えている。


 ──夢だ、まったく嫌な夢だ。


 草介は額に右手を置き、息を吐き出した。

 己の心中の畏れが、表れたのだ。

 云われたくない相手から、聞きたくない言葉を投げつけられた。

 夢は、己の安っぽさを、嫌というほど見せつけていた。


 ──俺は、現実から目を逸らし、逃げ回っている負け犬だ。

 今の俺は、人から敬意を払われる男ではない。

 諭利に敬われる要素は、何一つないのだ。


 己に対する、何ともいえない不快感が涌いている。


 あの時、──いかにも子供じみた復讐を思いついた。 

 諭利が取り乱す姿を見たいと考え、「祟り」と「白浜屋」の話題を持ち出した。

 おそらく、文長と諭利は過去に何らかのかいさかいがあり、今に根深い遺恨を残している。

「昔馴染み」という素っ気ない一言で、諭利が文長について多くを語らないあたり、不仲である証拠ではないか。

 便宜上、互いに友人として接している。

 ならばそこを衝いてやる。

 揺さぶりをかけ、これまでの囲碁での「敗け」を一気に取り返してやる。


 邑重に会ったことを隠していた諭利に、腹が立ったのだ。

 なに食わね顔で現れた諭利は、人の気も知らず、見当違いな気遣いをし、その上、邑重の肩を持つような発言をした。

 邑重を「尊敬できる男」と評した。

 何より、それが耐え難かった。


 人の批判をするのは簡単だ。

 批判をする側の心理には、嫉妬や羨望の念がある。

 諭利が、俺ではなく邑重を選ぶのではないか、──といった畏れが、頭の隅にあった。


 邑重に劣っている、という自覚があった。

 だから、俺があの男に勝るものは何かと考えた。

 勝るもの、──それは諭利の「特別な男」に似ているであろうこの容姿すがただ。

 男色家の邑重にきっと手管では敵わない。

 だからこの肉体からだで、諭利を繋ぎ留めておきたかった。

「俺は必要とされている、傍にいて良い」という証が欲しかった。


 冷静に捌けば、勝てた勝負だ。

 だが、勝っていたからこそ、気の弛みが生じ、そこへ嫉妬の感情が混ざり込んだ。

 カッと頭に血が上り、「どうせなら徹底的に負かしてやる」という欲が沸き、下手な小細工に走った挙げ句、自滅したのだ。


 思惑どおり、諭利は動揺した。

 しかし、それは白浜屋との仲を揶揄したからではない。

 俺が、のことを仄めかしたからだ。いつもは、誘いかけてもやんわりとかわす諭利が、昨夜は過敏に拒絶を示した。動揺を隠そうとし、いつもより強く、手を捻りあげてきた。


 他人に踏み込まれたくない、唯一の「弱み」なのだ。

 諭利が家に俺を住まわせてくれている理由は、憐憫だ。

 それも、諭利が愛すると容姿が似ているというだけで、その男のおこぼれにあずかって、ここに置いて貰っている。

 情けない次第だが、そんなものにすがってでも、俺は諭利の傍に、いたいのだ。





  五、山ゆり  ─ やまゆり ─



 草介の目の先に、山百合の花が生けられていた。

 数日前にしょうが携えてきたものだ。


「来る途中に咲いていました。

 美しいので、あなたに差し上げたいと思い、切って来たのです。」


 諭利は礼を述べ、早速花瓶に活けた。

 花は大輪で、白い花弁の中央を縦にスッと黄色の筋が入り、紅色の斑紋がある。


 諭利は、承様に頂いた花だからと、美しい形状を永く保たせるよう努めていた。


「そんなもので、いいのか?」


 きけば、諭利の身を飾る物の殆どが、誰かからの贈り物で、その一つ一つがとても高価な品だった。

 人にちやほやとされ、貢ぎ物を受け慣れている者というのは、誰にでも簡単に手に入る品物では満足しない。

 野の花など喜ぶどころか、「私の価値はこんな草と同等か」と怒るだろう。


 女が「真心を示せ」というは、「想いの深さを品物の価値で表せ」という意味だ。

 女は、贈られた物を冷静に値踏みする。

 その場で「嬉しい」と微笑んで見せたとしても、安物であったり、高価でも自分の趣味にそぐわない物であると、箪笥たんすの上にポイッと置いて、忘れてしまう。


 贈り物の水準で、男の値打ちも定まる。

 安い物を幾つも買い与えるより、高価な物を一つ贈った方が印象に残るものだ。

 つまらない物をやるくらいなら、やらない方がいい。

 だから、草介は諭利に物を贈ることをしなかった。


 野に咲く花は、一銭もかかっていない。

 こんな子供騙しが嬉しいのか。

 諭利は、本心から喜んでいるのだろうか。


「嬉しいよ。」


 諭利の指先は愛しげに、白い花弁に触れた。


「この花を見て、承様は私を思い浮かべてくれたんだ。

 私は、あの方の心遣いが嬉しいのだよ。」


 花を愛でながら諭利は云った。

 花の内に、承を想い浮かべているのだろうか。

 頬笑む横顔を草介は美しいと感じ、その花に何やら嫉妬めいた感情を懐いた。


 当初、草介は諭利を清張きよはるの「囲われ者」と見ていた。

 清張は、故郷で自分の店を持ちたいと云う愛妾の望みを叶え、資金を出して商売の真似事をさせてやっているのであろう、と。


 実際は、あの老け顔の松三しょうぞうという男が経営者で、諭利は名目上の「お飾り店主」である。

 だから、店の経営状態の良し悪しに関わらず、諭利は金の出し入れが自由にできる仕組みになっている。

 諭利は、気ままに遊山をしたり、好きな芝居を観たりと優雅に遊び暮らしながら、気の向いたときに店へ顔を出し、店主ヅラしていればいいのだ。


 しかし、実状は想像と違った。

 諭利は意外と普通に、商売に精を出している。

 店の知名度を上げ、顧客を増やそうと試行錯誤をしている。

 イケズな組合の連中とも、打ち解けようと努力している。

 積極的に町内の行事へ参加し、己の悪印象を払拭しようと努めている。


「私は、この地に骨を埋めるつもりで、帰って来たのだよ。」


 川辺を二人で散歩したとき、そう語った諭利の言葉に、偽りはなかった。





  六、恋心  ─ こいごころ ─



 良い意味で、諭利には裏切られていた。

 諭利は、単調な日常を丁寧に生きている。

 休みの日も、いつも通りに起床し、蓮沼神社へ湧水を汲みに行く。

 ゆっくりと茶を飲み、早朝の内に家の掃除をし、少し遅い朝食をとったのちに、庭の手入れをし始める。

 人を頼まず、少しずつ配置を確かめながら、自ら手を加えている。

 諭利の頭の中には、理想とする庭の形状があるらしい。


 その暮らしぶりは、慎ましい。

 例えば、衣装なども他人が考えるほどに多くはない。

 手持ちの物を趣味良く組み合わせ、着回しをしているから、傍目には衣装を沢山持っているように見えるのだ。

 極力買い足すことを避け、ほころびがあったり、型が古くなった物は仕立て直しに出している。

 諭利は、一事が万事そんな風で、良い品を永く大切に使用しているのだ。


 草介は、髪を洗う姿と同じく諭利が調理場で立ち動く姿が好きだ。

 その包丁遣いは際立っている。


 ある日、草介は庵の裏の浜で、承と釣りをした。

 持ち帰った魚を、諭利は手早く捌き、皿に美しく盛り付けた。

 承は喜んで、刺身に箸をのばした。

「二人で釣った魚です」と承は勧めたが、俺は結構、と草介は横に首を振った。

 そこへ、箸を持った諭利が加わった。

 二人して楽しそうに刺身をつつき始めた。


 その様子に、「一度、試してみようか」という気が起きた。

 草介は、白身の部分を一切れ摘まみ、茶塩を付けた。

 口に入れると、さほど生臭さも感じられず、これが意外と、食べられた。


「新鮮なものは、美味しいのだよ。」


 生魚は嫌いだ、と云っていた草介が、二切れ目を口に入れたのを見、諭利は微笑んでそう云った。


 甘い菓子にも、以前は好んで手をのばそうとしなかった草介だが、今は諭利の影響で、度々口にするようになっていた。

 諭利と同じものを食べ、「美味しい」と頬笑み合えることに、草介はささやかな喜びを感じている。


 そして、草介の目は、我知らず美しい蝶を追うように、諭利の一つ一つの動作に添って動く。

 諭利は、家に帰ると直ぐに結髪を解き、部屋着に着替えて気分を切り替える。

 けれど家に在っても、諭利のだらしない姿を、草介は見たことがない。

 だからかえって、休日の昼下がり、拭き掃除を終えた縁側に寝そべって、本を読みかけにうたた寝などしている姿に、心奪われる。

 平素が凛々としているからこそ、その一種油断した姿に胸がときめくのだ。


 書き損じの紙を取り置き、習字に使うのも、好ましい。

「物を大切にするように」と、昔、侍女に教わった。

 自分も同じように紙を取り置き、紙が真っ黒になるまで習字をした。

 諭利の言動に、侍女を想う。

 勿論、容姿は異なるが、人に対する態度や物の見方、凛とした立ち居振る舞いに、かの女の姿を重ね見る。


 諭利の、意外と庶民臭いところが気に入った。

 一緒に暮らすようになって、草介は諭利を好きになったのだ。





  七、肩書き  ─ かたがき ─



 人の心を得るのは、難しい。

 これまで、深く考えもしなかった。

 オンナには、不自由しなかった。尊徳院(大学)の制服を着ていれば、女は向こうから寄って来た。

「将来有望な名門貴族の子息」、その肩書に女は自ら帯をほどき、この腕の中に飛び込んできた。


 ──墜ちない女はいない。


 当時の俺は、かなり調子づいていた。


 人の心を得るのは簡単だ。俺はオトコとして優れている。


 『坊っちゃんは、女泣かせになりますよ』


 かつて侍女が云った言葉が、傲りに拍車をかけていた。

 俺は、女を惹き付けるすべを授かって生まれついた「特別な男」だ。


 女に愛情はなかった。

 容易く手に入る玩具に愛着を持てないように、飽きれば躊躇なく捨てていた。


 だが、ある時、俺は「肩書き」を失った。

 この国に流れ着き、俺は「草介」と名乗った。

 女からは見向きもされなくなった。

 薄汚い成りをした得体の知れぬ流れ者を、マトモな女は相手にしない。

 しかし、今度は やさぐれた俺の姿を好んで、誘いをかけてくる女がいた。

 女は寝る場所と食い物を与えてくれた。


 俺は確信した。

 やはり、女は俺を放っておかない。

 大人しく飼われてやっていれば、意外と楽に生きていられる。


 諭利に拒まれるたびに、自信がなくなる。

 拒まれた痛みは、澱のように腹の底に蓄積され、ジワジワと心を蝕む。

「特別な男」などとは幻想で、俺は平凡で、案外つまらない男だったのではないか、と思い始めていた。


 諭利にとって、所詮、俺は一夜限りの男なのだ。

 もう一度会いたいと望めば、せめて名前くらいは告げて去っただろう。


 認めたくはなかった。

 諭利が俺に懐く感情が、「憐憫」なのだと。

 諭利が俺を拒む理由は、邑重の所為ではない。

 単に、俺を恋の相手として見ていないからだ。

 一夜を共にした女は数知れず、しかし「傍に居て欲しい」と、切に乞うた女はただ一人だ。


 俺は、この国へ来て最初に抱いた女の姿を、覚えている。

 他人のオゴりで抱いたその女は、肥えた年増の安女郎だった。

 据え膳食わねばナンとやらで、俺は不承不承に醜女と交わった。

 けれど俺は束の間、そのふっくらとした体の内に、不思議な寧らぎを感じていた。


 男は、「母に似た女を妻に選ぶ」と聞いたことがある。

 それは、慈しんでくれた者の温もりを、皮膚はだが記憶しているからなのだろう。


 草介は、山百合を見つめた。

 は、常に凛々として、美しかった。

 野に咲く花は、生きることを怠けたりはしない。

 己と他人を見比べて、誇ったりねたりしない、誰に愛でられずとも、ただ静かにそこに在る。


 恋敵にもならない、と侮《《あなど)っていた承の方が、俺よりも諭利の本質を捉えているのかも知れない。……


 人の心はままならぬ。

 人の心を得るのは、容易たやすいことではなかったのだと、俺は今さらながらに知ったのだ。





  八、気遣い  ─ きづかい ─



 初出勤の前日、諭利は髪を洗ってくれた。


「期限付きの仕事だとしても、いい加減に考えていてはダメだよ。

 お前に仕事を紹介してくれた人にも失礼だからね。」


 薬湯で硬い癖毛をほぐすように洗いながら、諭利は俺に忠告をした。


「周りの人たちは、お前の人柄や仕事振りを見ているよ。

 きちんと勤めていれば、期間が終了しても『残って欲しい』と云われるかもしれないし、別の仕事を紹介してくれる人も、現れるかもしれないのだからね。」


 ガキを諭すような口調だが、少しも不快な気分にはならなかった。


「俺は、あんたの為と思う事にした。

 自分の為だと思うとやっていられないが、あんたの為と思うと、耐えられる。」


 お前は、またそんな戯れ言を、と諭利は眉を寄せたが、何にしろ、草介がやる気になったのを喜ばしくみている風だ。


 香油を手に垂らし、髪に馴染ませた。

 髪は見違えるほどの艶を帯び、軽やかにスルスルと指を通した。


「自分の領分だけでなく、頼まれた仕事は面倒がらずに引き受けるようにしなよ。」


 使い勝手の良い者は重宝される。

 諭利は、それを実践している。

 町内の美化だとか防災だとかの役を引き受け、諸々の雑事に稼業以上の時間を割いている。


「あちこちに良い顔をして、頼まれる度に引き受けていると、手が行き渡らずに一つ一つの仕事が雑になる。

 それで結果、『あいつは口先ばかりで役に立たん』と、信用を失うことにもなるんだ。


 あんたは、安請け合いし過ぎだ。

 親切心も、ほどほどにしておけよ。

 体は一つしかないんだからな。」


 諭利は草介を静かに見つめて、微笑んだ。


「ありがとう。」 


 思わぬ言葉に、草介は諭利から視線を逸らせた。

 皮肉にも聞こえる言い回しに礼を返され、照れ臭そうに顔を歪めた。

 諭利は、お前に云われずとも「分かっている」ではなく、お前の気遣いが嬉しい「ありがとう」と云ったのだ。


 その夜、髪から漂う仄かな香りに抱かれ、草介は眠った。

 翌朝は心地よく目覚め、仕事に出た。

 そして夕方、味彩庵を訪れ、予期せぬ物を目の当たりにした。

 舞い上がっていた心は、奈落の底に真っ逆さまだ。

 欺かれていた、と諭利を疑い、手前勝手に心を乱し、今に至っている。


 草介は、左の小指を目前に翳した。

 指の根に、黒い糸が巻かれている。

 諭利の仕業だ。


「短気を起こしかけたら、これを見て。」


 昨日の朝、出掛ける前に諭利は自身の髪を一本抜き取って、草介の小指に結んだ。


「気に入らないことがあっても、辛抱しなよ。

 間を置いて、息をゆっくりと吐いて、心を落ち着かせるんだ。」


「大丈夫さ。

 あんたが考えているよりも、俺は我慢強いんだ。」


 なにせ、俺は北国の男だからな、と草介は胸を張った。


「カチンと来たら、これを見て気を鎮める。だから、無事に勤めを終えたら、褒美をくれよ。」


 諭利は、「そうだねぇ、……」と言葉を濁しながら、穏やかに頬笑んでいた。





  九、夜明け  ─ よあけ ─



「ソウ、ソウ。」


 庭の方から、諭利が呼びかけてきた。


「起きているかい。

 早く支度をしなよ、二日目から遅刻だなんて、格好悪いよ。」


「ああ、起きている。」


 草介は外に聴こえるように云って立ち上がり、障子を開けた。


 澄んだ風が鼻先から首筋に流れた。

 明け方の青白い光を受け、えんの側に水桶を提げた諭利が立っている。


「おはよう。」


 諭利が笑みを浮かべて云った。

 右手でうなじの辺りをさすりながら、「おはよう。」と返す草介に、諭利は、「顔を洗っておいで。」と井戸を指差した。

 昨夜、諭利は障子を閉めた後、半刻ほど経ってから草介を部屋へ入れた。

 草介はおぼろげに、「また風邪でもひかれては面倒だ」という諭利の呟きを聴いていた。

 この辺は、夏であっても明け方は気温が低いので、諭利は眠ぼけた草介を引きずって、布団に寝かせていたのだ。


 ──俺はまだ、ここに居られる。


 諭利は俺に仕事をさせたがっている。

 だから、仕事を始めたばかりの今、放り出したりしない。

 これ迄、俺に、「仕事をしろ」と云ってくる女はいなかった。

 そこそこの容姿で、実入りの良い女にとって、男は使い捨ての消耗品だ。

 飼われたがっている野良犬は幾らでもいた。容易にすげ替えが効くのだ。


 諭利は、男を見比べ、そちらよりあちらの方が条件が良いという理由で、恋人を選びはしない。

 見返りの大きさを期待して、男の世話をしたりしない。

 打算で人を選り分けない証拠に、未だに俺を家に置いてくれている。


「しばらく、邑重には会わないよ。」


 剃刀かみそりで草介の口髭を整えてやりながら、諭利は呟いた。


 閉じていた目を見開き、草介は、「本当か」と問うように諭利の瞳を覗いた。

 諭利は、草介の顔から剃刀を遠ざけ、「本当だ」と微笑した。

 そして、「造船の件が片付いたから、邑重と会う理由もなくなったのだ」と言い添えた。


 諭利としても、思うところがあった。

 酔いに任せ、邑重に誤解を生じさせる態度をとった。

 軽はずみであったと、反省しているのだ。


 ──邑重と関係を結んでいるのなら、俺はとっくに家を追い出されている。


 悪夢を見、改めて「負け犬のままで在るのは嫌だ」と感じた。

 独り、気の狂いそうな空白を文字をつづることで埋めていた日々に、二度と戻りたくはなかった。


 草介には、「男は強くらねばならぬ」という父の教えが浸み透っていた。

 女に飼われていることに対する羞恥があった。

 人目に羨ましいと映る暮らしの裏で、人知れず、草介は苦悩していた。


 ──「立派なヒモ」になれない俺は、地道に働くしかない。


 現状、──未だ出口は見えないが、胸中に不安はない。

 雲雀ひばりは俺の頭上で啼いている。

 清らかな声は陽の当たる道へ、俺を導こうとしてくれている。

 声の示す方へ向かっていれば、事態を打開する糸口がきっと見つかる、──そんな気がしていた。





  十、処世術  ─ しょせいじゅつ ─



 その夜、哲郎は草介に会った。

 草介は、以前にも増して顔の色艶が良く、健康そうだった。


「お前、ちょっと太ったんじゃないのか?」


 哲郎が揶揄すると、「そうか?」と草介はあごの下を触り、「飯が美味いからな。」とニヤけた顔で答えた。

 問うまでもない、幸せ太りというやつだ。

 飯は、共に食卓を囲む人間こそが重要なのだ。

 よほど、今の宿主に可愛いがられているのだろう、久しく賭場への出入りもないようだし、女と遊んでいるという噂もない。

 仕事の方も、三日持たずに辞めるのではないかと危惧していたが、これが案外続いている。


 哲郎は、草介を紹介した手前、その働きぶりが気になってサグりを入れていた。

 草介が仕事を始めて五日ほど経った頃、勤め先の知人を飯屋へ誘った。


「ちゃんと仕事をしているだろうか、何かヘマをやらかしていないだろうか。

 あいつは、世間知らずの田舎者で、考えなしに思ったことが口を出る。

 無愛想で、図体がデカいから余計に態度が横柄にみえるが、根は悪い男ではないのだ。」


 哲郎は、それとなく草介を擁護し、「勤めに出るのは初めてなので、多少の失言は大目にみてやって欲しい、指導を宜しく頼む」と言い添えた。


 すると、飯を咀嚼していた四十がらみの男は、ヒラヒラと手を横に振り、汁で流し込んでから、「とんでもない」と笑い飛ばした。


「礼儀正しくて、横柄なところなど微塵もない。

 朝は一番早く来て、掃除をしている。

 良く気が付いて、人の嫌がる面倒なことも率先してやってくれる。」


 本当に良い青年を紹介してくれた、と、哲郎は礼を述べられていた。


 哲郎が、「知人がお前のことを褒めていた」と言うと、「処世術さ」と、草介はペロリと舌を出した。


 桂家は武を重んじる家柄で、礼儀作法には厳しい。

 武道では身分の分け隔てなく、初心の者は道場の雑巾掛けや、武具の手入れをするのが当たり前だった。

 草介は「孝悌こうてい」を心得ている。

 集団にいて、目上に逆らい、和を乱して反感を買うのは得策でない、と理解している。


 草介は、手始めに全員の顔と名を覚えた。

 自ら進んで声をかけ、会話の中から一人一人の特徴を掴んだ。

 諭利の忠告どおり、短期の勤めだとしても適当に遣り過ごすことはせず、仕事にも人にも努めて真摯に向き合った。


 すると、この何処の馬の骨とも知れぬ新参者へ、次第に好意を示す者が現れた。

 草介の働きを、「正確で丁寧、しかも速い」と評価をした。

 草介は、与えられた用をそつ無くこなしながら、少しずつ周囲の信用を得ていった。


 それから、意外にも、「大きな体をして、犬コロみたいに愛嬌がある」と、年長の者にも可愛いがられていた。


 哲郎は、少々複雑な心持ちだった。

 人におもねることも、やろうと思えばできるのだ。

 初めて会った時から、俺に対しては横柄だった。

 こいつは、俺をめてヤがるのだ。





  十一、前任  ─ ぜんにん ─


 草介は、その仕事ぶりと人柄を気に入られ、怪我で療養していた者が復帰した後も、引き続き役所で働けることになっていた。

 その祝いを兼ね、哲郎は草介を呼び出したのだ。


「良かったじゃないか、馴染んだ側から辞めずに済んで。」


 哲郎は草介の猪口に酒を注いだ。


「まあな。」


 草介は、哲郎の奢りだというので、軽く会釈をしてから酒をあおった。


 とはいえ、正規の採用ではないので、皆と同等に働いていても賃金は安い。

 そして明日にも、不当に解雇を言い渡されることも有り得るのだ。

 だが、そうなったらなったで、再び仕事を捜せば良いだけだ、と草介は考えていた。


「何か不満はないのか?」


 長く勤めるには、今以上に辛抱が必要だ。

 仕事をする上での支障はないのか、と哲郎は訊いている。


「特に、どうということも、」


 ない、──と云いかけた草介の脳裏を、若い男の姿が過った。


「一人、面倒な奴がいる。

 初見で、『お前は何処の大学を出たのだ』と訊いてきやがった。」


 勿論、男はが大卒でないことを承知しながら問うたのだ。


 草介はいつも通りに、「豊国の鳳崇院を目指していたが、諸事情があって諦めた」と答えた。

 すると男は、「たまに、こういう奴がいるのだ」と呟き、

「口先で『目指していました』などとは誰にだって云える。

 己を賢く見せたいがために、受験さえしていない名門大学の名を挙げ、『実力はあったのに断念せざるをえなかった』と、人に問われもしない釈明をすることほど見苦しいものはない。」


 男の、蔑むような薄笑いを思い出し、草介は皮肉げに口の端を上げた。


「まあ、云っているコトは的を射ている。

 絵空事で己の権威づけをするなど、笑止だ。

 今後、『大学を目指していた』などと口走るのは、慎むことにした。」


 草介の言い様に、哲郎は鼻白んだ。


 男が聞こえよがしに、「大男、総身(全体)に知恵が、回りかね(行き渡らない)」と云ったので、草介も胸の裡で、「小男の、総身の知恵も、知れたもの」と返しておいた。

 己を過大評価している愚か者に係わるのは、時間の無駄だ。


 男の名は大悟だいごという。

 この男こそが「怪我で休職していた者」なのだ。


 大悟は修英院を卒業している。

 珠国では、最難関の名門校だ。

 大悟は「修英院以外は大学でない」と傲っているので、三流大学出身の年長者には敬意を払わない。

 無論、三流の者が働く役所になど留まるつもりはなく、業務をそこそこに昇進試験の勉強に励んでいる。


 大悟からすれば、不本意な配属先であろうとも、そこに働く者にとって、礼儀知らずの若僧こそ、はなはだ不愉快な存在だった。


 草介が、「休職中の者はどんな奴だ」と訊ねた時、皆が冷めた表情で、「居ても居なくても、良いような奴だ」と異口同音で返したことに、合点がいった。


 しかしこれは、裏を返せば、「大悟の存在が草介に『吉』をもたらした」ともいえるのだ。





  十二、合言葉  ─ あいことば ─



「何処にでも、そんな奴はいるよな。」


 哲郎は呟き、猪口を口に持ってゆきながら、チラリと草介を見た。

 なるほど、前任が酷かったからコイツが可愛く見えたのだ。


 だが、それにしても、──と、哲郎は考えた。


「世の為、人の為、身命をして働く」とは、登用試験の際に誰もが口にする文言だが、それは多くの者にとって、門を通過するための合言葉でしかないようだ。

 一度ひとたび採用されたなら、世も人もそっち除けに、己の保身に奔走はしるのだ。


 哲郎は、額に汗して働く者より、机上で頭を巡らせている者の方がとうとばれることに不満を持っている。


 流行り病が蔓延したとき、上からの命令は二転三転した。

 現場の状況を把握せず、不確かな情報に振り回され、被害を拡大させる事態を起こした。


 試験で良い点数をとるだけの勉学に励んできた者は、不測の事態に対応できない。

「では、どうすべきか」と臨機応変に考える能力が欠けている。

 図面通りに事が進まないと、そこで思考が停滞してしまい、策を打つ時期を逃してしまう。

 その上、己の非は決して認めたがらず、姑息にも、「あいつの所為だ」と部下に責任をなすり付けにかかるのだ。


 哲郎の上司は、街に病が流行り始めたとき、人命を最優先し、指令を待たずに動いた。

 その判断で、多くの人々が救われる結果となったのだが、上司は職務違反を問われ、二ヶ月の停職処分を受けていた。


「──昇進試験に合格したとしても、あれでは出世は無理だな。」


 草介は大悟を思い浮かべ、呟いた。

 あの男はかたくなで、人付き合いが巧くない。

 強力な後ろ楯のない者は、目上の者に引き上げて貰わなければならない。

 出世をするには、人脈が不可欠だ。

 大悟の父は、一介のしがない地方役人だった。

 高額な学費の工面は容易ではなく、大悟は国から奨学金を受けて大学を出ていた。

 当人が優秀であるのは、国の審査を通過していることで明白だが、如何せん、都に権力者の知り合いがいなかった。

 自分よりも能力の劣った者が、コネで希望の部署に配属されていることに、大悟は不満を懐いている。


 それで、知り合いの口利きで役所に入った草介が気に入らないのだ。

 目上に可愛がられる草介が目障りで、チクチクと嫌味イヤミを言ってくるのだ。


「相手にしないことだ。戯言は聞き流しておけばいいさ。

『口は是れ禍の門』という。

 お前は、なまじ弁が立つのだから注意しろよ。」


 遣り込めて、恨みを買うような事態を起こさぬようにと、哲郎は忠告している。


「ありがとう。」


 草介の言葉に、哲郎は目を丸くした。酒を喉に詰まらせ、コホコホと咳き込んだ。


「色々と、世話を焼いて貰って有り難いと思っている、──本心さ。」


 礼を云われて面食らい、哲郎は話しかけたことを忘れてしまった。


 草介は、哲郎の反応を面白そうに眺め、「なあ哲郎」と問いかけた。


「お前は何故、役人になろうと思ったのだ?」







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