【漆】 味彩庵



  一  味彩庵  ─ あじさいあん ─

  二  彫刻画  ─ ちょうこくが ─

  三  嫉妬  ─ しっと ─

  四  指南役  ─ しなんやく ─

  五  習字紙  ─ しゅうじがみ ─

  六  露店  ─ ろてん ─

  七  鎮守神  ─ ちんじゅしん ─

  八  地主神  ─ じぬしがみ ─

  九  仏の某  ─ ほとけのなにがし ─

  十  青色  ─ あおいろ ─

  十一 酩酊  ─ めいてい ─

  十二 花びら  ─ はなびら─





  一、味彩庵  ─ あじさいあん ─



 風に乗り、爽やかな茶の薫りが通りの端まで漂っていた。


 草介は、仕事帰りに味彩庵あじさいあんを訪れた。

 暖簾を払い、店に入ると、「いらっしゃいませ。」と、明るい娘の声に迎えられた。


「草介さま、ですよね。」


 ああ、と草介が応じると、娘は、「どうぞこちらへ。」と微笑んで、奥へ促した。


 草介の特徴は、くせ毛の長髪に口髭、──「まあ、とにかく図体のデカい男だから、すぐに判るよ」と、娘は諭利から伝えられていた。


 諭利は裏で仕事をしている。

 待つ間、草介は長椅子に座り、店の隅々を見回した。

 団栗どんぐり色を基調とした調度品が配置され、さし色に若葉色が使われている。

 二階建てだった建物の天井を打ち抜いて、吹き抜けにしてある。

 上方の、明り取りの小窓から柔らかな光が差し込んで、森林の中にいるような、心地の良い空間となっていた。


 茶葉は、高額な品であっても、少量からの量り売りをしている。

 店には茶の試飲ができる場所が設けてあり、そこには試食用の菓子がおいてある。

 それらは諭利が食べ歩きをして、見つけたものだ。

 客に問われたら丁寧に菓子店の場所を教え、遠方の店からは取り寄せもしていた。


 味彩庵は、商店街の入り口付近に位置している。

 場所柄から、観光客に名所を聞かれることも多く、諭利は、地図を印刷したものを店の入り口に置き、誰にでも手に取れるようにしていた。


 茶を啜りながら、草介の視線は一点に定まっていた。

 正面奥の壁面に、屏風一隻分はあろうかという彫刻画が飾られてある。

 紫陽花と百合、──店と店主の名にちなんだ花がえがかれていた。

 以前、店を覗いた時には無かった物だ。

 これ程の品を贈ってくる者は、清張か杉田屋あたりだろう。

 それが在るだけで、店の品格が上がるように感じられた。


「なかなか、良いな。」


 独り言のように呟く草介に、「あれは、邑重さまからの贈り物なのですよ。」と、娘は誇らしげに教えてきた。


「邑重さまが、自ら彫られたものなのです。

 素敵ですよね。

 届いた翌日から、店に立ち寄るお客さまの数が増えたのですよ。」


 贈り主を知った途端、草介は眉を顰めた。


 ──あの野郎、諦めていなかったのか。


 諭利の店とは、盲点だった。

 まさか、こんな所に布石を打たれているとは思いもしない。

 先程とは違う想いで、草介は彫刻画を凝視した。

 己の特技を活かし、諭利の気を引こうという魂胆が見え見えだ。

 邑重の念がこもる品だけに、もう素直に賞賛する気にはなれなかった。


 明らかに、草介は差をつけられていた。

 邑重には地位も名誉もある、珠国では名を知らぬ者のない船大工の棟梁だ。

 その仕事ぶりは天下一品、邑重に船を造らせたいと望む者は多い。


 草介に彫刻画など造れやしない。

 悲しいかな、一文無しの草介は、「形あるもので、諭利の心は動かせないのだぞ」と、胸のうちで小さな抵抗を試みるのみだ。





  二、彫刻画  ─ ちょうこくが ─



 草介は、ここ数日の出来事を思い返していた。


「これが届いたのは、いつだ?」


 娘には、草介の表情は見えなかった。


「たしか、──月の初めの、三日でした。

 お客さまの評判が良く、旦那さまも大層お喜びで、『何をお返ししたらよいだろうか』と、ずっと考えておいででした。」


 三日は、邑重が島に渡った翌日だ。

 諭利へ彫刻画を贈ったのは、「私は、あなたを諦めていない」という意思表示だ。


「邑重は、島から帰って来ているのか?」


「ええ、七日前に戻られたそうで、ほどなく旦那さまはのお礼の品を携え、造船所をお訪ねになりました。」


「何日だ?」


 草介は、二人が会った正確な日付けを問うた。


「二十一日です。」


 その日、諭利の帰りは夜半になった。

 事前の予定であれば、諭利は必ず言い置きをする。

 とすると、造船所へ礼に行った際に食事へ誘われたのだ。

 夕方、小鈴が夕食を持ってきた。

 諭利から、家へ遣いがあり、「夜は仕事の相手と会食をするので、草介の夕飯を頼む」と伝言があったと云っていた。


 その夜、──草介は縁側で碁の手筋を考えながら諭利を待った。

 闇も深まり、柱に背を預けて目を閉じていると、ふと気配を感じた。


 碁盤を眺め、人影は草介に続けて石を置いた。

 人影は、煙草の匂いと、仄かに果実の甘い香りを纏っていた。

 目を開いて問うと、「これは、林檎の香りだよ。」と、諭利は答えた。


「『いち』で会食をして、話しが弾んだので、もう一軒と付き合って『享楽亭』へ行ったんだ。


 葉巻をたしなむ方でね、香りと合うからと林檎の蒸留酒を勧めてくれたよ。」


 リンゴ、と聞いた草介は、諭利が与えてくれた絞り汁を思い出し、「林檎が食いたいな。」と、のんきに呟いた。


「まだ、林檎の実る時期ではないよ。」


「──この前はあったよな。」


 ああ、と諭利は気づき、「あれは贈答用に、清張さんに頼んでいた物でね、──」と話し始めた。


 異国から船便で輸入している物で、運ぶ途中で腐らせないよう、青いうちに摘み取って船の上で熟成させているのだという。

 味は少し落ちるが、季節外れで珍しいから喜ばれるのだ、──と、諭利は云った。


 そこから、話題は清張の家業へと移った。

 魚のツボに針を打ち、仮死状態にして活魚を運ぶ方法があると聞き、草介は いたく感心した。


 この時、会食相手の名が伏せられていたことに、草介は疑念を持たなかった。


 邑重、──そのうえ「享楽亭」だ。

 店主の紫蝶と邑重は親密な仲だと聞いている。

 そんな場所へ諭利が足を踏み入れていたのを、不覚にも見過ごしていた。


 草介が、邑重を警戒する根拠はあった。

 邑重には、諭利が好意を懐く要素があるのだ。

 それは、諭利が承を気にかけている理由とも、草介を家に置いている理由とも、関連する。


 邑重が島にいた間、諭利は彫刻画を眺め、お礼の品を考えていた。

 ここ数日、諭利の頭の片隅には、「邑重」が存在していた。


 ヒリヒリと、胸が焦げる思いだった。





  三、嫉妬  ─ しっと ─



 喉の奥から鼻へ、うっすらと焦げた匂いが立ち昇るように感じた。

 俺は、妬いているのだ。

 目が眩むほどの、嫉妬だ。


 あの時、邑重の思考はどう動いたのか。

 諭利の家を訪れ、共に暮らしている男の存在を知った。

 視線がカチ合った。

 瞬時、──その男がただの居候ではなく、おそらくは親密な仲であろうと察した。

 邑重は明らかに動揺していた。

 鼻面にガツンと拳を喰らわされ、送り狼は尾を巻いて退散した、──そう、見えた。


 それがどうだ。

 あの野郎は、決まった相手のいる男を平気で奪いに来た。

 恋敵の存在に、闘争本能を掻き立てられたのか。

 それとも、俺を敵にもならない小僧だと侮っているのか。


 『旦那さまは、大層お喜びで。』


 耳の奥に、娘の弾むような声音が甦った。

 途端、和やかな笑みを湛え、彫刻画に賛辞を述べる諭利の姿が浮かんできた。


 ハン、──と、草介は雑念を払うように吐き出した。


 ──勝手に贈って来た物に、礼を返す必要はないだろう。

 大体、こんなデカい物を、相手の承諾もなしに送りつけるなど、常識ハズれにもほどがある。

 諭利は恩義ある清張の為に交渉を引き受けているのだから、邑重の機嫌を損ねる態度はとれない。

 そうだ、──たとえ気に入らなくとも、店の何処かに飾らざるをえないのだ。


「待たせたね。」


 現れた諭利は、やけに涼しい顔をしていた。


 ──何でだ!


 草介は咎めるような視線を向けた。

 理由は判っている。

 邑重の名をだせば、余計な勘繰りをされて執こく問いただされる。

 だから、諭利は敢えて「誰と」を曖昧にしておいたのだ。

 嘘はついていない、──が、不都合な事柄は伏せておいたのだ。


 ──いつもこうだ、あんたは肝腎のところを、俺に話さないんだ。


 草介は饅頭を掴み、口に放り込んで噛みしめた。

 口を開けば、問わずにはいられない。

 今は動揺を悟られないよう、閉じているのが精一杯だ。


 邑重は間違っても、「あの男とは、どういう間柄だ」と訊くような、不粋なマネはしなかっただろう。

 あんな若僧のことなど気に留めていない、あなたへの想いは少しも揺らいではいないのだ、──と、言葉ではなく態度で示したに違いない。

 それに引き替えコイツは、──そう、諭利は無意識のうちに、俺と邑重を比較しているだろう。


 経験上、女は他に想う男が現れると、体を許そうとしなくなる。

 俺は、諭利に拒まれ続けている。

 一つ屋根の下に暮らし、一度は肌を合わせた仲でもあるのに、諭利は一向に手をのばしてこようとしない。

 諭利が共寝を拒む裏に、邑重が関係しているように想えてならない。

「疑われるような事はない」と、否定する諭利の言葉と、その行動の間には微妙なズレがある。


 ──疑い始めると、キリがない。


 諭利は目をパチクリとした。

 何故、草介がこちらを睨んでいるのか、判らない。


「ソウ、お前宛てに、手紙が届いているよ。」


 差し出された封筒を、草介は無言で懐に納めた。





  四、指南役  ─ しなんやく ─



 暖簾をしまい、諭利と娘は手早く店内の片付けをした。


「さあ、帰ろうか。」


 娘は、「はい。」と応じ、草介もそれに合わせて腰を上げた。


 先ほど、諭利の現れたところから店の裏へ入ると、隅の机で四十歳くらいに見える男が書き物をしていた。


松三しょうぞうさん、戸締りを頼みますね。」

 諭利が声をかけると、「お疲れさまです。」と男は穏やかに会釈した。

 物腰柔らかで所作が落ち着いているのと、額が禿げ上がっているのとで老けて見られるが、実年齢は諭利より三つだけ上なのだそうだ。


 松三は、店の立ち上げの際、商売の指南役として清張きよはるが寄越して来た者だった。

 多忙な清張に代わり、諸国に点在する店の視察をして回る者のうちの一人で、各店舗の状況を把握し、改善に努めるのが仕事だ。

 清張が、趣味が興じて始めた茶の商いをながらく手伝っていた。

 十代の小僧の頃から、清張の下で働いている。

 当然、茶の湯の諸々に通じているし、商いに必要な知識と情報を豊富に持ち合わせている。

 そして松三は、以前、諭利が清張の屋敷の離れに住んでいた事情も承知している。


 味彩庵は、あくまでも諭利個人の店であり、清張の傘下ではない。

 店の開店資金の出所は、清張の友人であり兄とも慕っていた とある人物だ。

 その人物が諭利に遺した金を、清張が預かり運用している。

 諭利には、慎ましく暮らせば生涯困らない分だけの蓄えがあるのだ。


 清張が松三を寄越してきたのは、単に善意からだ。

 閉塞的な土地柄、身近にあって相談できる者が必要であろうと考えてのことだが、一方では、将来は自身の片腕ともなる松三の見聞を広げるという意味合いをも兼ねていた。


 松三は、半年ほどこの地に留まり、後は定期的に様子を伺いに来る予定でいる。


 ちなみに、店番の娘の名は紗和さわという。

慈照じしょう院」(孤児院)から雇い入れた子だ。

 今年十五歳になる。

 以前より、諭利は店の手伝いをしてくれる者を施設から雇いたいと考えていて、芙啓ふけいに、「愛嬌があって働き者の子を一人、世話して欲しい」と頼んでいた。

 帰郷してから、諭利は時折施設を訪れ、子供たちと雑談をしながら商売に向いていそうな子を探していた。

 目に留まった娘が、紗和だ。


 帰りの道すがら、草介は娘の素性を聞かされた。

 正直、草介は店番の小娘などに興味がない。

 諭利が「サワ」と呼ぶので、それが名だと思った程度だ。

 自分から、わざわざ尋ねてみる気にはならなかった。


 遠回りをして、沙和を慈照院まで送った。

 夕刻、帰路の途中の辻で少女が見知らぬ男に連れ去られそうになったという事案があり、諭利はこうして特別な用事がない限り、沙和を施設まで送り届けるようにしていた。


「ソウ、役所で、何か嫌なことでもあったのかい?」


 沙和と別れ、二人きりになったところで、諭利が機嫌を伺ってきた。


「別に。」


 草介は呟き、しかめっ面で隣りを歩いていた。





  五、習字紙  ─ しゅうじがみ ─



 草介は、縁側から紙飛行機を折っては諭利の背中を目掛けて飛ばし続けていた。

 諭利の周りには、既に二十以上の折り紙が散乱している。


 諭利は夕食を終え、小鈴を家に送り届けた後にしばらく仕事をし、湯を浴び、それから承が持って来た教本を開いて勉強を始める。「読み書きを教えてくれ」などと、承に気を向けさせる目的の虚言だと思っていたのに、諭利は毎夜こうして生真面目に課題をこなしているのだ。


イタッ!」


 飛行機の軌道が上に逸れて、先端がコツンと後ろ頭に当たった。

 諭利は手を頭に添え、後ろを向いた。

 先端が歪んだ紙飛行機を拾いあげ、草介に焦点を合わせた。


「おい、いつまでヤっているんだ。

 あんた、今から科挙でも受ける気か?」


 苦情を言われる前に、すかさず不満を主張する。

 この男は、居候のクセしてかまってやらないとねるのだ。

 人並み以上にデカい図体で、中身は五歳いつつの童と同程度だ。


「ソウ、紙の無駄使いはヤめて。」


 諭利は冷たく云い、飛行機の先端を整えると、縁側に向けてはなった。


 ヨッ、と草介は頭を右に傾け、おどけた様子で飛行機をけた。

 飛行機は庭の端のほうまで飛んで、闇に紛れた。


「よく飛ぶだろ。

 折り方を教えてやろうか。」


 無言の諭利に、草介は悪戯っ子みたいな したり顔で返した。

「見ろよ。

 それは全て書き損じの紙だ。」


 諭利の側に落ちている飛行機には、所々に文字が見てとれる。


「習字に使おうと思って、取って置いたものなんだよ。

 だから、これを全部キレイに開いて、元通りに重ねておいてね。」


 へいへい、と呟きながら、だるそうに体を横にしかけた草介に、今すぐにだよ、と諭利がキツい視線を向けてきた。

 草介は、縁側から のそのそと這い寄って、一つ一つ紙を広げ始めた。


「なあ、せめて仕事は昼間のうちで終わらせておけよ。

 店番も雇ったことだし、家に持ち帰る必要はないだろう。」


「ここは私の家だ、何をしようと私の勝手。

 お前に文句を云われる筋合いはないよ。


 それに、『客』は、店に来るお客様だけではないんだよ。」


 杉田屋の友人の紹介で、受注がポツポツと入っていた。

 商品は吟仙(清張)の店から仕入れているから品質に間違いはない。

 そこから一人でもお得意様があらわれてくれたら、口伝えに新たな客を呼ぶことになる。


 当然のことながら、店を構える事が最終の目的ではない。

 清張の支援の上に胡座あぐらをかいていてはいけない。

 人任せに、全てが順当に運ぶ夢など描いていては、商売は途端に立ちゆかなくなってしまう。

 松三に指摘されていたことだが、草介にも「道楽」と揶揄され、諭利としても、気を引き締めねばと思い直したところだ。


 良い品を揃えていても、知られていなければ店に足を運んで貰えない。

 先ずは、より多くの人に店の名と場所と、扱っている商品の品質を確かめて貰うことが重要なのだ。





  六、露店  ─ ろてん ─



 時々、諭利は荷車を引いて港へ行く。

 味彩庵とは別に、昼前の数時間だけ露店を出しているのだ。


 鼻歌を歌いながら店の準備を始めると、何処からともなく童が寄って来る。

 童たちは、指示をせずとも慣れた様子で諭利を手伝う。

 童たちの親は、それぞれ港で露店を出している。

 諭利が商売を始めた日に知り合って、来る度に手伝いをしてくれる。

 初めは二人だったけれど、いつの間にやら十人ほどに増えていた。


「三粒ずつ、お取りよ。」


 白い手の平には、菜の花色の金平糖こんぺいとうがのっている。

 童たちは一斉に手をのばし、口々に数を数えながら片方の手の平へ移す。

 諭利も摘まんで、口へほうる。

 ゴツゴツとした粒が舌に転がると、滲んでくる優しい甘味に自然と顔が和む。


 そうして、湯が沸いた頃合いで、諭利は作業用の黒い衣服から鮮やかな翡翠色の衣装に着替える。

 通りへ立つと、呼吸を調え、よく透る澄んだ声で歌をうたう。

 口上を述べ、続いて流麗な所作で茶を淹れる。


 一連の動作は一つの演目だ。

 こうして人を呼び込み、淹れたてのお茶を勧める。

 茶の風味を確かめて貰うのがこの場の目的、──観客の胸に鮮やかな印象を残せればそれで良い。

 これは、いずれ活きてくる布石。

 次へ繋げる為に、今、出来る事をしている。


 稼業は順風満帆とはいえない。

 諭利は、杉田屋と親しくしていることで、「桃華会」の者に反感を持たれている。

 興味本意の噂に尾ひれが付いて、「色子上がりの芸人崩れだ」とか、「ある豪商の囲い者であった」だとか陰口を叩かれ、一部では「堅物の杉田屋を籠絡した、手練手管に長けた男」などと、揶揄からかい混じりの賛辞を贈られていた。

 店が開店してから連日、噂の男の顔を拝んでやろうじゃないか、といった冷やかし客が大半を占めていた。


 民衆の目に、「味彩庵の店主」はいかがわしい者と映っているようだった。

 だから、誤った情報を修正するために、諭利は町内会の行事や地域の慈善活動などには積極的に参加するよう努めているのだ。


 筆を置き、諭利は教本を閉じた。


 稼業以外の用が増え、仕事終わりの会合の件数も多くなっていた。

 思えば、最近は帰宅時刻が深夜になり、草介とゆっくり碁盤を囲んで語らう時間が削られている。

 どんなに帰宅が遅くなっても、草介は縁側で諭利の帰りを待っている。

 薄明かりのなかで迎える草介は、フッと一瞬、幼子のような安堵の表情を向けるのだ。


 ──私を待つ者がいる。


 諭利の頭の片隅には、頼りなげに哀しい表情を泛べた図体のデカい童がいる。


 もう一度、諭利は穏やかな口調で草に問いかけた。


「役所の人たちはどんな感じだい?

 働き易そうな雰囲気かい?」


「どう、という事はない。」


 碁盤を見据え、草介は右手に石をもてあそびながら云った。


「『蔦ノ屋』と大した違いはないさ。

 タカが、ひと月ふた月の間だ。

 多少イヤなことがあったとしても、適当に遣り過ごすさ。」





  七、鎮守神  ─ ちんじゅしん ─



「あんたの方こそ、どうなんだ。

 杉田屋に贔屓されて、『桃華会』の奴らにイビられているんじゃないのか?

 そうやって、あんたが毎晩せっせとお勉強をしているのも、奴らと対等に渡り合う為なんだろ。」


 実のところ、露店での営業は老舗しにせの旦那連中に「大道芸」と嘲笑わらわれている。

 文長ふみたけ(白浜屋)が、「店の品格を落とす行為はめるべきだ」と、ふみを寄越してきたくらいだ。


「あんたの店、タタられているらしいな。

 確か、『地主神』がドウトカ、ってのは、解決済みじゃなかったのか。」


 文長の手紙の中には、諭利の店がいつ潰れるかが、商売の組合の内で賭けの対象となっていると書かれていた。

 潰れる、という前提の賭けが成立する。

 その根拠が、いわゆるというものだ。

 世の中には、立地条件は悪くないのに借り主の入れ替わりが激しい、といった店舗が存在する。

 諭利の店も、そんな因縁付きの物件であったのだ。


 しかし、諭利が手付金を払った時点では何ら悪い噂はなかった。

 祟りなどとは論外で、店主の商売の仕方に問題があり結果として経営が行き詰まった、というだけの話だ。


 それから程なく、ちまたに流れ始めた噂の仔細を、諭利は杉田屋から知った。

 杉田屋は、諭利が店を開こうとしている場所を確認すると、「正式に契約をしていないのなら、考え直した方が良いのでは」と助言をくれた。


 店は八年前の大火の後に建てられ、三度、借り主が変わっていた。

 どれも三年と保たずに暖簾を畳んだ。

 偶然であるにしろ、立て続けに三度となれば、あの土地には何かあると人は勘繰り、それに見合う原因をこしらえる。


 借り主は三人とも珠国の者ではなかった、そこで、「地主神が余所者の台頭を忌まいましく思い、祟りを起こしている」という理由付けがされたのだ。


 諭利は珠国の生まれだというが、慈照院(孤児院)にいた以前の出生については定かでなく、余所者も同然だ。


「他に場所を探すなら、手伝いましょう。」


 そう、杉田屋は申し出たが、諭利は首を横へ振り、「これもと思い、受け入れます」と 答えた。


「あなたが考える以上に、人は縁起や吉凶にこだわるのです。

 根拠のない風評で、経営が傾いてしまう事例は幾らもありますよ。

『次も、永くは持たないだろう』と世間に思われているのは、良いことではありません。」


 杉田屋は、人の悪意が店を潰す方へ向かわせると、危惧しているのだった。


「あなたが、是非にとあの場所を望むなら、それなりの対処をしておきましょう。」


 杉田屋の勧めで、諭利は店の改装をする前に神事をおこなった。

 土地に宿る「地主神」に祟りを起こさせないよう、その神霊よりも霊威の強い「鎮守神」を新たに勧請し、祀ったのだ。


 草介は、皮肉げに呟いた。


「つまらん噂の出所は、そいつらなんじゃないのか?」





  八、地主神  ─ じぬしがみ ─



 杉田屋の鶴の一声で、諭利を商いの組合に入れるという通達があってから、老舗の旦那衆の宴席は、「味彩庵の店主」の話題で持ちきりだった。

 まあ、はある事ない事ない交ぜだ。


「どうだね、一つをしようじゃないか。」


 宴も終盤となり、一同かなり酔いが回った頃合いで、ある者が云い出した。


「例の男の店、私は二年以内に潰れると見ているよ。」


 男は、潰れると見当を付けた理由として、立ち消えになりかけていたを上げた。


「古くから土地に住まう神が、余所者の神に、簡単に従属すると思うかね?」


 その昔、──諭利の店が建つ辺りの土地は、一面に蜀黍モロコシの畑が広がっていた。

 畑の側には、農耕の神である稲荷神のほこらがあった。

 時を経て、一帯の畑は商業地となったが、祠はそこに残り、以降、稲荷神は商売の神として永く祀られいた。

 それが、大火事の後、街の美観と災害時の避難経路を確保する目的で施行された区画整理で、祠は移動を余儀なくされた。


 男の持論は、稲荷神は人の都合で転居させられたことが不満であるし、元の縄張りを余所者が所有していることも不愉快である、というものだ。


「しかし、あの男の後ろには杉田屋が控えているだろう。

 あの男に、神事をするよう入れ知恵したのは、杉田屋だ。」


 これを聴いて、男は声をひそめ、したり顔で云った。


「聞くところによると、近々、杉田屋は組合の長を辞するそうだ。

 青底翳あおそこひ(緑内障)で、医師から失明の危険があると診断を受け、家業も息子に譲って養生するつもりでいるらしい。」


 隠居、となれば、杉田屋のがいつまでも効力を発揮してはいない。

 次の組合の長は、諭利を心良く思っていない桃華会の連中の誰かだ。


 地主神は鎮守神に従属し、活動を補佐する役目を担うが、ときには抵抗し、祟りを起こすこともあるという。


「そうですね、が祟るとコワいといいますからなぁ。」


 やっかみと賭けの利害が絡み、再び祟りを吹聴する者が現れた。

「らしい」と語尾に足せば、当人は責任を取る必要がないので噂は容易に拡散する。


 諭利は、噂の飛び火を食い止めるため、更に対策を打った。

 店の柱に呪符の紋様を施し、店が鎮守神に護られているのを人目に印象づけた。

 効力を保たせるよう、年に一度は塗り替えをしなくてはならないが、手間を惜しまないことで店主の心がけを世間に示せる。


「ゲスな野郎ほど、外面を飾ろうとするモンさ。

 商人は、人の不幸も銭勘定だ。

 飢饉になりそうだ、と聞けば作物を買い占めにかかり、災害だ、と聞けば品物を荷車に積んで出張ってゆく、──人の弱味に付け込んで、一銭でも多く儲けようとする。


 妙な噂を流しているのは、案外、身近な人間だったりするんだぜ。

 親切ぶって手紙なんぞ寄越して、余計に波風を立たせようってのが、魂胆じゃないのか?」





  九、仏の某  ─ ほとけのなにがし ─


「そうだ、なかでも一番のクセ者は、聖人ヅラした、謙虚で親切な人間さ。

 世間で『仏のナニガシ』と呼ばれるヤツには用心した方がイイ。

 世間に人格者とあがめられている奴は、人に施しをして神サマ気取りだ。

 得意になって、宗教書なんぞ拾い読みして、悟りを開いた境地になってやがる。


 こいつは、謙虚なクセに、輪の中心に己を置いてくれないとねるから、へりくだってチヤホヤと持ち上げてやっているに限る。」


 諭利を見ず、草介は独り言のように喋り続けた。


「ああ、そいつの話しに誤りがあったとしても、安易に訂正なんかするなよ。

 些細な言動で逆恨みし、巧妙な手口で嫌がらせをしてくるからな。


 その場では、

『教えて頂いてありがとうございます。

 私もまだまだ勉強が足りません。

 これからも誤りがあれば、遠慮なくご指摘くださいね。』

 と、殊勝にのたまうが、内心は『恥をかかされた』と腹を立てている。

 自尊心が強く、自惚れも相当なものだから、他人に誤りを指摘されるのが大嫌いなのさ。

 己は神で、周りの奴らは愚かな地虫だ。

 虫けらが分をわきまえずに小賢しいことをヌかすと、虫けらのクセに神に物申すか、と怒りが涌くのさ。」


 ──仏の白浜屋。


 文長の父親はそう呼ばれている。

 草介は、文長が噂の出所だと推測しているらしい。


 いつぞや、諭利と草介が連れ立って歩いていると、未通女おぼこのような若い芸者を伴った、ほろ酔い加減の文長とすれ違った。

 草介は文長に会ったことがなく、諭利と商人風の男が、顔見知りらしく互いに会釈を交わすの見て、歩き去る男を横目に追った。


「あれは誰だ?」


「白浜屋さんだよ。」


 諭利が答えると、「イケ好かねぇ、野郎だなぁ。」と、草介は苛立たしげに呟いた。


「俺を、あんたの情夫イロだと思ったらしいぜ。」


 草介の目には、和やかに会釈を交わした後、肩越しに、「これから、その男とお楽しみか」と、あからさまに蔑みの視線を注ぐ文長の姿が映っていた。


 これで草介は、この二人は世間に認知されているような「友人」という間柄ではないのだと、知ったのだ。


 だが、文長が自分を苦境に陥る小細工をすると、諭利は考えていない。

 文長は自尊心が強い。

 周囲に「友人」と認知されている以上、「つまらない友人を持っている」と、世間の笑い者に成りたくはないはずだった。


「無用な進言か。」


 草介は碁盤から顔を上げ、意味ありげに諭利を見つめながら呟いた。


「釈迦に説法、だな。

 嫌味の一つや二つ、あんたは涼しい顔で聴き流すだろう。

 お大尽だいじんサマだろうが、破落戸ゴロツキだろうが、適当に話しを合わせてやれる。

 人を手玉に取るのは、あんたの十八番(おはこ)だもんな。」


 悪い意味じゃない、誉めているのだ、と草介は皮肉げに微笑した。


 他でもない、不満の原因は私にあるようだ、と諭利が気づいたところで、草介は本題に入った。





  十、青色  ─ あおいろ ─



「なかなかイイよな。」


 謎かけのように、草介は言葉を投げてきた。


「ほら、店の奥に飾っている、あのデカい彫刻画さ。

 届いた翌日から、店に立ち寄る客が増えたんだって、店番の小娘が自慢げに喋っていたよ。」


 草介は、数日前の会食の相手が「誰」であったかを知ったらしい。


「邑重は、葉巻をたしなむのだろ。」


「そうだよ。」


 表情を変えず、諭利は答えた。


「あの時に限って、あんたは誰と会っていたか云わなかったよな。

 そうして隠されると、やましいコトでもあったんじゃないかって、疑っちまうぜ。」


「夜も更けていたし、飲み慣れない酒を飲んだせいで、だいぶ酔いが回っていた。

 早く体を休めたいと思っただけだよ。」


「ああ、──確かに。

 珍しく酔っぱらっていたな。

 あんた、色っぽい目をしていたよ。」


 草介は探るような視線を向け、続けた。


「まあ、仕方がないよな。

 立場上、急な呼び出しにも応じなきゃならない。

『もう一軒』と誘われればムゲには断れない。

 勧められれば葉巻を吸うだろうし、飲みたくもない酒も飲むだろう。」


「──邑重は、」


 と、草介の言葉を遮るように諭利は云った。


「己の仕事に誇りを持っている。

 仕事と個人的な感情を混同する人ではないよ。

 礼儀正しくて、細かな気遣いをしてくれる。

 話していて楽しいし、とても尊敬できる方だ。」


 冷静な口調で、諭利は邑重を弁護している。

 諭利の口から邑重の名を聞くと、腹が立つ。


「それで? あんたはの礼に何を返したんだ。」


「硯と筆。

 他に、絵を描かれる方なので顔料をお贈りしたよ。」


 邑重は、休日は誰にも会わずに過ごすのだと云っていた。

「邑重」の名を継いでから、造船所に隣接する先代の屋敷で寝起きをしているが、独りになりたい時には浜辺の小屋へ行く。

 放置されていた漁師小屋を譲り受け、手ずから改装して使っている。そこで気の向くままに、読書をし、彫刻をし、琵琶を奏で、独りの時間を楽しむ。

 時には浜辺に座り、風景を写生するのだという。


 諭利が、「描いたものを見てみたい」と云うと、邑重は次に会ったときに自筆の絵を数枚携えてきた。

「手慰みですが」と謙遜したが、さすがに一流の職人、余技も並み以上の腕前だった。

 殆どが墨絵だが、最後に手渡された一枚だけは色彩があった。

「吸い込まれてしまいそうな、深い水色ですね」と、諭利が感想を述べると、邑重は青色が好きで、自分で素材を探し、顔料を試作しているだと云った。

 青色の顔料は高価で、絵師でも気軽に扱えるものではない。

 遊吉も、自ら試行錯誤し、独自の「色」を編み出していた。諭利は、遊吉が使っていた青色の素材について、入手し易そうなものを邑重に教えた。

 諭利の口から遊吉の名を聴いた邑重は、以前、船を造った礼に、ある豪商から遊吉の屏風絵を贈られたことを話した。


『今度、絵を見にお越しになりませんか?』


 諭利は、家に来ないかと誘われていた。





  十一、酩酊  ─ めいてい ─



 実は、既に船を造ることを邑重は承諾し、清張にその旨を手紙で伝えていた。

 しかし、すぐには取りかかれない、「今は、先代から請負っていた大仕事の最中で、それが一段落つくまでお待ち願いたい」と断りを入れていた。


 諭利は使者の役目を終え、邑重と個人的な付き合いをしている。

 距離を保ち、諭利は邑重と接している。

 一方、邑重も、好意を示しつつも強引に間を詰めてこようとはしない。


 その夜、「帰る」と云えば引き留めない邑重が、「もう少しだけ、側にいて貰えないだろうか」と憂いを含んだ目で請うてきた。


「久しぶりに、故郷の話しなどしたものだから、しんみりとしてしまって、……独りでいたくないのです。」


 邑重がこの国に来るまでの経緯を、本人の口から聴くのは初めてだった。

 邑重の心中を想うと無下ムゲに断るのも心苦しく、諭利は享楽亭へ付き合った。


 店内には、厳かな琴の音が流れていた。

 邑重に従って地下へと降り、薄暗い広間を奥へ進んだ。 

 その場には数人の男女が座っていたが、店の者が気を利かせ、邑重の為に席を用意した。

 邑重は空いた席を諭利に勧め、自らも当然のように腰を下ろした。


 そこへ、給仕の少年が蒔絵の箱を提げて来た。

 隣に座りかけた少年に、邑重は無言で顎をしゃくり、と命じた。

 少年は、ムッと眉間に皺を寄せたが、直ぐにおどけた表情を造り、立ち去った。


 享楽亭の給仕は二十歳前の男女で美形揃い。

 気に入れば二階に上げて楽しむことが出来る。

 特定の念者イロを持たない邑重の相手はもっぱら享楽亭の給仕だそうだ。

 今し方の少年は寵童の一人だろう。


「私の好みに調合してあります。」

 邑重は手順を示し、葉巻を諭利に渡した。

 琴の音、葉巻の香り、林檎酒、──三つ巴が酩酊を促し、時折、諭利は軽い目眩に襲われていた。


 ──邑重の唇は、林檎酒の味がするのだろうか。


 舌で酒を転がしながら、つい淫らな空想をしていた。

 すると、心を見透したように邑重は顔を間近に寄せてきた。

 よろしいですか? ──と、切れ長の目が問うていた。

 唇が重なるさまを描き、諭利は誘うように薄く口を開いた。

 けれど、林檎の香りの唇は、揶揄からかうように頬へ落ちた。


 ──随分、余裕だな。

 以前、家に招いた時の仕返しなのかしら。……


 邑重は、胸の前で手の平を上に向け、熟れた果実がポトリと落ちて来るのを待っている。

 手を延ばし、無理にもぎ取ろうとはしないのだ。


 しかし、機を逃せば誰かに奪い去られてしまうこともあるのだ。

 頂けるモノは頂いておいた方が良いのに、……と、他人事のように諭利は思った。


 会食の相手の名を、故意に隠そうとしたのではない。

 頬に口づけされたぐらい、大したことではない。

 けれどその時、諭利は邑重を受け入れた。

 有り体に申せば、「二階へ上がってもよい」と思った。

 それ故、後ろめたいという意識が、相手の名を伏せさせたのだ。





  十二、花びら  ─ はなびら─



 諭利が帰ったあと、邑重は享楽亭に泊まったはずだ。

 邑重が少年を二階に伴うのを、咎める気持ちは諭利には なかった。

 諭利の心を占めていたのは、縁側で帰りを待つ草介の姿だ。


「あの野郎は、あんたとなにを話すんだ?」


「仕事柄、やはり海や船に関することが多い。

 航海術や天文学、星にまつわる異国の神話なども、語ってくれる。」


「──天文のことなら、俺だって知っている。」


 言ってから、つまらない張り合いをしたと草介は恥じた。

 呆れたのだろう、諭利は無言でこちらを見ている。


「一度寝てやったくらいで情人オトコ気取りか、ってツラだよな。

 わかっているさ、あんたにとって俺はただの居候だ。」


 笹くれ立った感情が、口を突いて出た。

 逢っている、と考えるだけで胸糞悪くなる。

 あの切れ長の、瞳の色の薄い蛇みたいな目で、舐めまわすように諭利を見ているのだと思うとムカムカとしてくる。


「それでも、口は挟むぜ。

 俺はあんたが好きだ。

 だから、あんたがあの野郎と会うのは嫌だ。

 我慢がならん。」


 草介は最後に語気を強めた。

 我慢がならん、──これが草介の偽らざる本心だった。

 使と思えばこそ、耐えている。

 使者という名目がなければ、恋敵に会わせたりしない。


 諭利は静かに草介を見つめている。

 明け方、──足音を忍ばせ、草介は諭利の蚊帳を剥ぐって入ってくる。

 寝ている諭利の側に屈み、うなじの辺りの髪を掻き分けて、白い首筋に小豆色の吸い痕を残す。


 所有の印、──「これは俺のもの」という証だ。


 諭利は、仕事の時は髪を結いあげる。

 邑重に会うときもそうだ。

 襟首の境目あたり、紅梅の花弁のような唇の跡を、邑重の目は見逃しはしない。

 花弁に残る秘め事の香りを、敏感に嗅ぎとるだろう、──そう、考えてのことだ。


 邑重に、己の存在を誇示している。

 自信がない、だから子供じみた小細工をするのだ。


 されど、──儚く花は散る。

 花弁は青く変わり、黄色くなり、輪郭が薄れかけたころ、草介は ふたたび同じ場所に跡を残しにやって来る。

 諭利は、行為を黙認している。

 それで草介の不安が和らぐのなら、と。


「もう一度。」


 草介は言った。


 心が乱れ、読みを誤った。

 序盤の攻勢は、大敗に終わっていた。


「次だ、──次に俺が勝ったら、あんたを抱く。」


「そんな勝負はしないよ。」


 言って、諭利は立ちあがりかけた。


「今夜はこれでお仕舞い。

 私は先に休むよ。」


「邑重と関係がないのなら、いいだろ?」


 草介の手は、諭利の足首を捕らえ、夜着の裾を荒々しく捲りあげた。

 草介の服の袂に凪ぎ払われ、碁盤からザッと石が流れ落ちた。


 諭利の太股ふとももに頬をこすりつけ、上目遣いに草介は窺う。


「そろそろれてきた頃じゃないのか?

 そうして突っぱねているから、今さら『抱いてくれ』とは、言い出しにくいんだろ。

 だから、俺はあんたに言い訳を与えてやっているんだ。

 勝負に負けたから仕方なく、お前に抱かれてやるのだ、──とな。」







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