【陸】 求職
。
一 求職
二 根無草
三 出禁
四 貍の金玉
五 美剣士
六 陰口
七 世直し
八 未完
九 反目
十 手助け
十一 告発
十二 当て擦り
一、求職
久し振りに見た草介は、以前よりも血色がよく健康そうだった。
「流行り病に
元気そうじゃないか。」
哲郎はそう云って、草介を揶揄した。
草介は例の、味彩庵の店主の所に厄介になっている。
人には、「ひと夜の男」を捜すのは
「ただの風邪だったのさ。」
草介は、訳知り顔の哲郎に皮肉な笑みを返して云った。
「そっちこそ、大変だったんじゃないのか?」
そう、確かにこちらは大変だった。
草介が、想い人に手厚い看護を受けている頃、役人の哲郎は病人の搬送に駆り出されていた。
炎天下、己も
寝る間も無く、必死で治療に当たっている者たちや、看護のかいもなく死んでゆく人々を見ると、どうにもやるせない気持ちになった。
「呉服屋の山城屋の娘が、豊国に遊山に行っていたんだが、……」
哲郎は独り言のように語り始めた。
「そこで流行り病に罹って、死んだのさ。
数日前、娘の身を案じていた山城屋のもとに手紙が届いたそうだ。
流行り病で死んだ者の遺体は、遺体を媒介に病が伝染しないよう、郊外に墓穴を掘って集団で埋葬される決まりになっている。
山城屋がな、役所にきて、『娘の遺体を引き取らせてくれ』と泣いて頼むのさ。
だが、
『どうにもならぬ』と役人の方も突っぱねるしかないんだ。
憔悴した様子で、山城屋は帰って行った。
憐れになってな、俺は追いかけて声をかけたんだ。
そうしたら、『金なら幾らでも都合を付けるから、お頼みします』と泣きつかれ、俺もホトホト弱っちまった。」
流行り病が沈静化する間、豊国へは渡航禁止になっていた。
その間に、愛娘は死亡し、異国の地で、何処の誰とも知らない者たちと共に埋められてしまっていたのだ。
娘は十七歳だった。
翌年には祝言も決まっていた。
何とも理不尽な話である。
哲郎は、せめて慰めになればと、娘が何処に埋められたかを調べ、山城屋に教えてやっていた。
──何もしないよりは幾らかマシ。
少しは役に立てたかもしれない、そう思うことで、哲郎は己を納得させたかったのだ。
哲郎の猪口が空いたので、すかさず草介は酒を注ぎ入れた。
哲郎が話す間、さすがに草介も神妙な顔つきになっていた。
「──で? 今日は何の用だ。」
哲郎は上目遣いに草介を見た。
草介が訪ねて来るのは、何か頼み事があってのことだと決まっている。
ああ、──と草介は髪を掻き上げながら、言いにくそうに口を開いた。
「何か、仕事を世話してくれないだろうか。」
哲郎は耳を疑った。
こいつがそんなことを言い出すなんて、真夏に
「宿主にな、遊んでないで
二、根無草
「人の下で働くのは、御免だ」と、草介は云った。
「役人は嫌いだ、役人になろうという奴の気が知れない」と、面と向かい、哲郎にそう云った。
「この身ひとつ、俺には何にも無い。
親父は死んだ。
お袋は俺を産んで直ぐに死んだ。
兄弟もいない。
故郷には、もう何年も帰っていない。
継ぐ筈だった家も土地も、既に人手に渡っている。
借金の形に取られちまった。
仕方がない。
大学に入れず、俺を支援してくれた者を裏切ってトンズラこいたんだからな。
帰っても、迎えてくれる者は、いない。」
酔いながら、「根なし草の草介だ」と自らを
「やりたい事も、ない。
今日一日、生きていられれば良い、──そう思うと気も楽さ。
地位も名誉も必要ない。
ましてや、後世に名を残そうなどとは思わない。
この一年、人のお零れに与りながら生きていた。
美味いものを喰いたいとか、美しい服を着たいだとか、体面を繕い、人に勝ろうなんて気を起こさなければ、案外 生きていられるもんなんだ。」
草介の
だから嘘の身の上話を疑いもしなかった。
というより、哲郎は草介に興味がなかった。
そして、こいつがこの先どうなろうが、正直知ったことではないのだ。
だが、頼まれたので取り敢えず、哲郎は草介に出来そうな事を、と考えてみた。
「お前は代筆を頼まれるほど字が上手いだろ。
字の意味にも精通しているから、寺子屋で子供相手に字を教えるのは、どうだ?」
と、勧めると。
「俺は、ガキがは嫌いだ」と、即答だ。
哲郎が閉口していると、草介は帳面を取り出し、「他には」と催促した。
これはこうした業務内容で、場所は何処で、こういう人間が働いている、──と、哲郎が紹介する職業を書き付け、上に三角とバッテンを記入した。
三角を付けた二つを眺めながら、「倉庫で資材管理、これが一番マシだが、場所が遠いな、家から通える所でないと、無理だな。」と、呟いた。
家、というのは、あの辺鄙な場所に建つ庵のことだ。
草介にとっては、業務内容より、場所と終業時刻が重要なのだ。
それで、割りのいい夜警には初めにバッテンを付けていた。
その言葉から、何よりも、居心地の良い今の宿主から離れたくない、という気持ちが窺い知れた。
「決めるなら早い方がいい。
良いものから先に無くなっていくのだからな。」
草介は、「少し考えてみる」と云い、その日は決めずに帰った。
次の日、哲郎は草介が訪ねて来るかもと考え、同じ店にいたのだが、結局、草介は現れなかった。
切羽詰まった様子ではなかったし、どうせ本気で仕事をする気もないのだろう。
多くの者が、日々の糧を得るために何らかの仕事に従事している。
哲郎は、流行り病の鎮静に尽力していた者たちと対比し、この極楽トンボに少々腹を立てていた。
哲郎には、草介が宿主の機嫌を取りたいが為に、仕事を探すフリをしている風に見えたのだ。
三、出禁
「すまんが、仕事の世話を頼む。」
哲郎は無言で見上げていた。
草介に向いた視線は冷ややかだった。
「おい、そんな顔をするなよ。
今度は本気だ。」
草介は手前に座り込み、すかさず哲郎の猪口に酒を注ぎ足した。
草介は、とある事情で蔦ノ屋を『出入り禁止』となった。
それで、僅かな収入源を断たれてしまったのだ。
とある事情、──そのきっかけは、十日ほど前のこと。
蔦ノ屋に給金を受け取りにきた草介は、捕まえられ、諭利との仲を執こく訊かれていた。
噂には尾ヒレがついてしまうものだから、滅多なことは話せない。
「高熱を出して倒れている所を助けられた。あの人は、俺の命の恩人なのさ。」
誰に訊かれても、草介は無難にこう答えていた。
蔦ノ屋の中でも、草介と年齢の近いこの男は
自らも小説を書いているのだと云い、時折、自作のあらすじを草介に話し、意見を求めることもあった。
「──あの人は、杉田屋との噂が立ってから、いろんな奴に声をかけられるようになって困っている。
中にはしつこく付き纏う野郎がいて、『始終見張られていて、気味が悪い』と云うから、俺は家に住まわせて貰う代わりに、身辺警護をしているのさ。」
草介は早々に話しを終えようとしたが、簑助は、草介が諭利の
「あんな
俺もそう思っていた。
だから、家に置いて貰う以上は、そうしたこともアリだろうと腹を決めた。
まあ、相手はあれ程の美形だ。
身だしなみにも気を使い、小綺麗にしているし、側に寄ると女みたいに良い匂いがする。
酒の勢いに任せたら、抱けるんじゃなかろうか──と、俺は考えた。
それで、一息に酒を
そうしたら、『よしてくれ、私はムサ苦しい男は好みじゃない』と、バッサリだ。
俺だって、好きこのんで男を抱こうとしたのではない。
その後、あちらさんに変に警戒されて、参ったぜ。
こちらが気を利かせたつもりが、とんだ恥をかいちまった。
で、一緒に暮らしてみると、案外居心地が良いのさ。
俺は今まで何人かの女と暮らしたが、女は厄介だ。
夜中に筆を走らせているとな、『油代もばかにはならないんだから、書き物をするなら陽のある内にしてくれ』なんて、ケチ臭いことを云うのさ。
じつのところ、女と暮らして楽しいのは初めのうちだけなのさ。
そこへいくと、男同士の方が面倒なコトが無くて気が楽だ。
面倒、というのはまあ、色々だ。
お前も一度、女と暮らしてみれば判るさ。」
番犬代わりの居候。
人の興味をそそるほどの事などないのだ。期待に添えなくて、すまんな、と、草介は笑った。
四、貍の金玉
「なあ、お前、『狸の金タマ』という菓子を知っているか」
と、草介は云った。
簑助は眉根を寄せ、「何だ、そりゃあ」と呟いた。
「黒ゴマを練り込んだ餅の中に、白餡と甘く煮た栗が二つ入っている。
女の
若い娘が菓子を求めるとき、『狸の……』と云って、顔を赤らめて言い淀むのを、店主がニヤニヤしながら眺めているそうだ。
他にも、『熊の鼻クソ』だとか、珍妙な名の菓子が売られているらしい。」
簑助は、草介が何を言わんとしているのか判らない。
「菓子の名一つで、旅の土産話になるだろ。」
そう云って、草介は続けた。
「諭利は、国に帰ってから名所巡りをしていて、旅の日記をつけているのだが、これがなかなか面白いんだ。
豊国から遊山に来ていた女二人と船で出合い、温泉へ案内したと書かれていた。
飯を奢られ、湯にも一緒に浸かったそうで、文の下に、デカい乳が湯にプカプカ浮かんでいる挿絵が入っていたよ。
役得、だよな。
女も、あの容姿にコロリと騙される。
女は色白の優男が好きだろ。
そのテの男だと思うと、警戒心が弛んで肌を晒すのも平気らしい。」
「自分の容姿を逆手に取って、利用している、ってことか。」
「そこでだ。
俺もここらで宗旨を変え、読み手の喜ぶ話を書いてみようかと思っている。
まず、女顔の優男を主人公に据えて、名所旧跡を訪ね、その土地の名物を紹介する。
それに毎度、女絡みの事件を混ぜ込んで、女が岩場で着替えをしたり、温泉に浸っているような色っぽい見せ場を作るのさ。
題して、『珠国漫遊記。
──ウけると思わないか?」
簑助は、明らさまな、嘲るような薄笑いを浮かべ、「イイんじゃないか、書いてみろよ」と云った。
この男は読者に媚びる作家が嫌いなのだ。「昨今、小説らしい小説が一つもない」というのが口癖だった。
売れている作家の新作には必ず難癖をつけ、罵倒していた。
ウける話、──というのに、簑助は、想うところがあるらしく、「なあ、織部をどう思う?」と問うてきた。
「織部宗石」は、載れば本が売れる人気作家だった。
何処の版元からも引く手あまたで、蔦ノ屋でも、「是非に」と拝み倒して書いて頂いているのだ。
物語の主人公は十七歳の美剣士。
剣客であるが決して人を殺さない。
得物は樹齢千年の御神木から作られた木刀である。
その木刀には風の精霊が宿っている。
剣士は精霊の力で、百人千人をいとも簡単に倒していく。
刀を一振り、──その風圧で人は吹っ飛び、地が裂け、大岩が砕ける。
まさに『神業』だ。
「単純明快。
子供にも分かり易い筋で、スッキリと読みやすい文章だ。」
そう云うと、簑助は皮肉げに顔を歪めた。
「だが、そこで描かれているものは、主人公の容姿の美しさや、人格がどれほど優れているかといった誉め言葉の羅列に尽きる。
これでもか、と正論を並べ立てる主人公には、正直、
五、美剣士
織部の描く主人公は、色白の美男で腕が立ち頭が切れ、と三拍子揃った上、慈悲深く人徳がある。
「強きを挫き、弱きを助く」、──人の手本のような男だ。
読み手が男なら、その理想の男を自らに投影して悦に入り、女なら、完璧な美男に愛される夢を見るのだ。
簑助は、織部の描くこの嘘臭い主人公が嫌いだった。
剣士は織部の分身だ。
言葉の端々に、小賢しさと驕りがみえる。
織部は耶蘇教に興味を持っていて、剣士は度々聖書の
織部は、裕福な士族出身で、
幼少の頃より古今東西の書物を読み、博識であり、何処か陰りのある風貌もあって、織部本人を信奉する女の読者も多いのだ。
話の筋だが、ごく普通の少年が神の啓示を受けて剣士となり、諸国を放浪しながら、権力者に不当に虐げられている民衆を救ってゆく、というものだ。
精霊の力で、
手を
剣士は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、膝を折って目線を同じにし、「私も皆と同じに、小さく弱い人間なのだ」と云い、謙虚な態度を崩さない。
神業の剣技で悪人を懲らしめた後、罪を許し、人の道を説き、見事に悪人を戒心させる。
そして、人知れず風のように去ってゆく。
この話の約束事で、敵役の権力者の陰には決まって妖艶な毒婦がいる。
その女が、民衆を虐げている諸悪の根源だった。
馬鹿な男は毒婦に操られているだけなので、剣士との圧倒的な力の差を知ると、簡単に降参する。
しかし、女は隙を見て逃げるのだ。
追って捕らえようとする民衆を止め、剣士は云う。
「放って置きなさい。
神は全てを見ておられます。
犯した罪は、いずれ自らの身を持って償うことになるでしょう。」
剣士の予言通り、女には天罰が下る。
逃げる途中、山蛭に血を吸われたり、鴉に突っつかれたり、散々な目に合う。
だが、女はこれで
挙げ句、肥溜めに落ちて溺れ死んだり、毒で顔が
「剣士は人を
人を罰しない。
そこが少々引っ掛かるな。」
と、呟き、草介は続けた。
「神の名代なら、人を罰すこともできるはずだが、決して自らの手を汚さない。
自分の目に入らぬ所で、女に罰が下るのを待っている、──これは卑怯ではないか?
そして、女には救いがない。
男は罪を詫びて許されるのに、女は戒心の余地もなく、見せしめに罰せられる。
織部は、女に手痛い仕打ちを受けた経験があるのかもな。
だから、こうして紙の上で、ささやかな私怨を晴らしているのかも知れん。」
六、陰口
「織部は女がダメなのさ」
と、簑助は云った。
「接待する時、織部の座敷には芸妓を呼ばないんだ。
『あの厚化粧には寒気を覚える、相手構わず男に媚を売る汚ならしい女だ、梅毒の媒介人だ』と毛嫌いしている。
その芸妓が、織部の贔屓でもあるんだがな、……」
呟いて、簑助は酒を煽る。
「話の中で、剣士に想いを寄せるのは、純潔な少女だ。
毎回、
何でも、織部は
そういう嗜好なのさ、と簑助は薄笑いを浮かべ、話しを続ける。
「美しい物は『善』で、醜い物は『悪』。
織部は、不具者や物乞いを平気で
語彙が少ない、といって子供を馬鹿にし、あんなヨボヨボでは生きていても仕方がない、と老人を嘲笑う。
しかし紙の上では、『誰しも昔は子供だったのだから、無知だと云って子供を馬鹿にしてはいけない。誰しもいずれは老いてゆくのだから、老人を卑下してはいけない』と
一見、謙虚さを装っているが、剣士は、『小さく弱い人間共よ』と他者を見下しているんだ。
ただの
自分には神という後ろ楯があり、必ず身を護って貰えるという保証がある。
権威を持った者が、持たざる者と同等であるわけがないんだ。
悪人が戒心するのは、言葉に感銘を受けたからではない。
剣士の後ろに神の脅威を感じ、神罰を恐れて従っているだけだ。
神から与えらえた借り物の力で得意になり、根本的な弱者の苦しみを知りもそしない者の吐く言葉など、何の意味もない。
どれほど美しい言葉を綴ろうと、俺には欠片も響きはしない。
目新しい事は一つもない。
他人の小説の良い所を切り取って、ペタペタ張り合わせたような内容さ。
剣士が語る言葉は、にわか坊主の説教より陳腐だ。
誰もが当たり前に知っていることを、さも自分が一番最初に見つけた、とでもいうような得意顔で云いやがる。
こんなモノは、
大の男が読む物じゃない。」
この会話を、店にいた誰かが聴き、織部の耳に入れたらしい。
人を介して聴くと、陰口は一層の悪意を含んで伝わるものだ。
それで、草介は「出入り禁止」となったのだ。
蔦ノ屋を辞めさせられ、簑助は昼間から酒を煽っていた。
「織部宗石、
ちょっと気に入らない事を云われただけで、裏から手を回してきやがった。」
卑怯な奴、と簑助は吐き捨てた。
「話の中でなら、百人千人は簡単に倒せるし、千人万人の人間だって簡単に救える。
紙の上で、人を救った気になって、悦に入るのは、小便臭いガキの男だ。
女々しい奴め!
『物書き』ってのは、小心で陰険な野郎が多いんだよな。
正義だ何だと云っている奴ほど、こうした下劣なマネを、平気でヤりやがる。……」
七、世直し
草介は、織部の悪口を云った覚えはない。
会ったこともない相手で、その著書についても、そつなく纏まった話だ、という以外の感想を持たなかった。
織部に対する、悪意混じりの批評の殆どは、簑助が勝手に喋ったことだ。
草介にしたら、とんだトバッチリを受けた、という思いだ。
しかし、だからといって草介は、誰かを恨む気持ちはなかった。これで、
蔦ノ屋は、以前から経営状態が思わしくなく、今回人員の削減をすることになった。
解雇者に簑助が選ばれたのは、「所帯持ちではないし、若いから、探せば働き口は幾らでもあるだろう」という理由だった。
店の中で、近々人減らしがあるようだといった噂は流れていた。
店の立て直しを図って、人気の画工を雇い、他所で書いていた売れっ子の織部に仕事を頼んだが、それも思った程の成果を得ていなかった。
簑助の解雇には、人の作為が微妙に絡んでいるようである。
『人を裁くまい、人を罰することはよそう、許そう、与えよう』
剣士は自らに、そう言い聞かせる。
けれど、この聖人の創造者は、「あなたの敵を愛し、憎む人を恵み、呪う人を祝し、悪くいう人のために祈りなさい」と説きながら、目障りな地虫は、足裏でサッと踏み潰してしまう男なのだ。
四十路間近の男が、二十歳そこそこの小僧に「男の読む物じゃない」と評され、腹を立てたのか。
それとも、小説とは関係ない当人の嗜好に触れられ、
どちらにしろ、小僧の戯言を聞き流せなかったのが、この神サマの器の程度だった。
草介は簑助から、「これを読んでみろ」と新井篤介という作家の本を借しつけられた。
小説の冒頭の、どんよりとした曇り空と、貧しい農村の風景の描写が、物語の道行きを暗示していた。
主人公はその村の男、「若い男」とだけで、個人の名は書かれていない。
ある日、──村に、「世直し」を謳った反乱軍の残党が逃げ込んで来た。
武器を持った兵に、村は占拠された。
村人は稲の刈り入れもままならず、兵の世話と戦の準備に使役された。
そして、数日の内に政府軍は村へ攻め入り、村人の殆どが死に絶えた。
戦闘の中、党首は深傷を負い、死んでしまう。
党首の死を知る者は、側近の幹部三人だけだった。
ここで主柱を失うわけにはゆかなかった。
丁度、負傷した村人の中に、党首と背格好の似た男を見つける。
その顔は誰とも判からぬほどに焼け爛れ、熱風で喉を痛めており、記憶を失っていた。
こうして男は、急場凌ぎの影武者に仕立て上げられた。
記憶を持たない男は、幹部たちの偽りの話を受け入れる以外になかった。
やがて男は、「己」を取り戻したいと願い、党首がどんな人間だったかを調べ始めた。
八、未完
「党首」は、王家の血を引く者だった。
先々代の王の意向に逆らい、野に下った者の末裔だった。
篤実な人柄で、人望があった。
反乱軍の拠点である村に着くと、男の回りを民衆が囲んだ。
「よくぞ、ご無事で」と体に取りすがって、涙を流している者があることに、男は驚き、戸惑いを覚えた。
人々は、戦で住む場所を無くしたり、年貢を納められずに土地を棄てて逃げて来た者たちだ。
しかし男は、歓迎する民の顔を、誰一人として覚えていなかった。
男は、簡単な読み書きしかできなかった。
党首は博識であり、自室には書棚に入り切らない蔵書が床に積まれてあった。
「己」を知る意味で、男は本を端から読み始めた。
知らない字も多く、書かれてある内容も理解できなかった。
それまで培って来た知識も、ゴッソリと抜け落ちていた。
民衆にとって、党首は希望の光だった。
多くの人間の未来を背負っていた。
男は人々と語り合った。
顔を焼かれ、記憶を失って尚、自分がここに在るのは、この人々との約束を果たす為なのだ、──そう考えるようになった。
男は寝る間を惜しんで勉学に励んだ。
本を繰り返し読み、書き写すうち、男の胸に「志」が生まれていた。
その頃、男と幹部たちの意見の対立が起きていた。
「大業を成す為には、ある程度の犠牲は仕方ない」と主張する幹部たちに、男は、「世直しを謳い、武器を持たない民衆を犠牲にしては、人心を得られない」と抗議する。
「飾り物」だった男が、対等に口を利くようになっていたのだ。
幹部の胸中には、「偽者のクセに」という思いがあった。男が偉そうな意見をする度、憤懣は募っていった。
そして、──遂に男が真実を知る時が来た。……
ここで文章は途切れ、小説は未完となっていた。
この新井という作家は、織部の友人であった。
織部が作家になりたいというので、新井は版元に織部を紹介した。
織部は、次第に売れ始めた。
一躍人気作家の仲間入りをした。
それに引き換え、新井は特定の読者がいるものの、人気は伸びなかった。
ある日、版元を訪れた織部は、たまたま置いてあった新井の原稿を読んだ。
「相変わらずだな」と云うと筆を取り、勝手に原稿へ手を加えた。
数分もしない内に直しを終え、「読んでみろ」と、得意顔で店の者に手渡した。
新井特有の重苦しい文面は、すっきりと纏まって読み易くなっていた。
人が書いた物の直しだから、文の完成度が高くなるのは当たり前だ。
一から話を考えるより、ずっと簡単なことなのだ。
後日、手を加えられた原稿を見た新井は激怒し、織部に詰め寄った。
新井にも自負がある。
物書きを始めたのは織部より先であるし、織部に劣っているとは思わない。
憤る新井を冷ややかに見据え、「貴様は、まるで進歩がないな」と織部は云った。
「まだ気づかないのか。
こんな物は流行らないと。
顔の焼け爛れた醜い男の話など、誰が好んで読みたいと思うのだ?」
九、反目
「
何よりも美しく、華やかな夢を見たいと望むだろう。
夢の中でなら、どんな愚鈍な男でも英雄豪傑になれるし、どんな不細工な女でも傾国の美女になれる。
『物書き』とは、人に秀でた能力もなく、己の人生では決して脚光を浴びることのない庶民に、夢を与える崇高な職業だ。」
「崇高、……」と、新井は眉根を寄せ、問い返すように呟いた。
ああ、と織部は思いつき、「同じく夢を与えるにしても、役者や
「与える」とは、随分と驕った物言いだ。
織部は神話を題材とした物語を多く書いている。
本が売れ、あちこちの版元から過剰な接待を受けているうち、己も「神」であるかのように、勘違いしてしまったらしい。
「それがどうだ、貴様が書いている話に、夢は欠片もない。
これといった取り柄もない凡夫が、自身の能力以上のことを要求され、己の無能さに苦しむ話だ。
俺には筋も読めているぞ、貴様とは長い付き合いだからな。
貴様は云っていたな、耶蘇教の信徒になるということは、『この地上で、無力であることに自分を賭けることから始まる』と。
この男は、人に騙され裏切られ見棄てられ、それでも尚、希望を失わずに立ち上がる。
けれど最後には、『世直し』を吹聴し、民衆を煽動して世を乱した大罪人として、梁に架けられるのだ。
確か、貴様が心酔している耶蘇教の『イエーシュ』とかいう男が、そういう最期を遂げるのだよな。
俺には、わざわざ異国の神を信奉する貴様の気持ちは解らんが、有り難い教えを広めるにも、先ずは売れる本を書くことだ。」
「貴様は変わったな。」
新井は織部を見据えて云った。
「己の教養の高さをひけらかし、お偉い先生と崇められたり、人にかしずかれたいがために、俺は小説を書いているのではない。」
織部は薄笑いを浮かべた。
新井の言葉は、売れない作家の負け惜しみだ。
売れっ子の自分への妬みにしか聞こえない。
「あまり人を馬鹿にするものではない。
貴様の言葉には、真心がない。
たとえ、物語自体は虚構だとしても、己の身体から出ていない上っ滑りな言葉は、必ず人に見抜かれるのだ。
俺は若い時分、進路について思い悩んでいるとき、ある物語の人物に共感し、『救われた』と感じることがあった。
俺は、その場限りに人を喜ばせるまやかし物でなく、人の心に永く残る物語を書きたいのだ。」
「──読者は、自分に都合の良い夢を用意してくれる作家を支持する。
五年後、十年後、さて、どちらが『物書き』として残っているだろううな。」
こうした経緯があり、二人は絶縁となった。
織部は売れる小説を書き続け、そして、口を開く度に新井の小説を酷評した。
織部が直接に指示をしたのではないが、版元は、織部の機嫌を伺って新井を敬遠し、実質、新井は作品を発表する場を失ったのだった。
十、手助け
当時、十代半ばだった簑助は、新井の小説を読んで目の覚めるような思いをした。
物語は、混沌としていた。
善人と悪人が判別し難く、これは正しい事なのかと絶えず問いかけられる。
新井の著書を幾つか読むうちに簑助は、自らも『こうした物語を書いてみたい』と思うようになっていた。
「この話の続きを、お前ならどう書く?」
借りていた新井の本を返した時、簑助に問われた。
草介は、「さあ、どうかな」と言を濁し、答えをさけた。
すると簑助は、「俺ならば、──」と勝手に筋を喋りだした。
「これまで、民衆に向き合ってきたのは死んだ『党首』ではなく、この男自身だ。
世直しをしたいという男の想いに虚偽はない。
男は努力をし、持てる力を全て注いできた。
そして、男は意を決し、民衆に真実を打ち明ける。
『どうか、皆と共に戦わせてほしい』と頼むのだ。」
そして簑助は、早々に世直し云々へと話を移していった。
聴きながら、事はそんなに上手く運ばないだろう、と草介は考えていた。
「あらすじ」だけなら、誰だって思いつく。それを辻褄の合った読み物に仕上げるのは根気のいる作業だ。
お前は他人の書いた話を「クズだ、クソだ」と言い捨てるが、大口を叩くなら何か一つ仕上げてから云え、という思いだった。
──男は再び『己』を失った。
幹部たちが告げた男の正体は、「ある村の農夫」ということだけだ。
村は焼き払われ、生き残った者の所在は不明である。
今となっては「己」を知る術がない。
そして男は、騙されていたと同時に民衆を騙していたことにもなる。
党首が王族であり、新たな世の王になる
民衆が、簡単に男を受け入れるとは考え難い。
主題は『世直し』ではない。
どん底に落とされた一人の男がどう立ち直るか、──そこが物語の要なのだ。
こう、言葉にしかけ、草介は止めた。
今の自分には何も語る資格がない、そう感じたのだ。
文面を見る限り、新井は独善的で融通の利かない男のようだ。
今も何処かで書き続けていることだろう。
不遇を味わった新井が、物語の続きをどう書いたのか、読んでみたい気がした。
「なあ、草介よ。」
簑助は、
「お前が初めて持ち込んだ原稿、あの政治絡みのヤツさ。
あれは面白かったよ。
『漫遊記』なんかより、お前はああいうのを、書けよ。……」
答えず、草介はうっすら笑った。
蔦ノ屋以外で、書くことはできないだろう。蔦ノ屋の大旦那が唯一、草介の原稿を読んでくれたのだ。
目を通した後、旦那は静かに草介を見据え、「あなたは、何だか訳ありのようだねぇ」と云い、「これには続きがあるのだろ、また書いて持って来なさい」と頬笑んだ。
この二年、旦那は草介に小説を書かせ、それを買い取るという形で、この「訳あり者」の援助をした。
今、草介にとって「書く」という行為が、必要であると、見抜いていたのだ。
十一、告発
帰る場所を無くしてから、草介は、誰かが隣で寝ていないと、眠ることが出来なくなっていた。
せめて灯りが
草介が、夜中に小説書いている大きな理由はそれだった。
このことを、諭利には出会った夜に打ち明けているので、一晩中灯りを点していても嫌な顔をされない。
諭利の日記から発想を得た、「珠国漫遊記」という話、無論これは口から出任せだが、喋りながら草介は、「案外、面白いかも知れない」と考えていた。
草介の心に、そんな明るい色調の話を書いてみても良いんじゃないか、といった余裕が生まれていた。
草介は、「書く」という行為によって救われていた。
虚構の中で他者を書きながら、その行動や言葉は、筆者が自ら導き出したものだ。
登場人物との間に少し距離がある分、腹の奥底の鬱屈とした想いを、吐き出すことができたのだ。
草介は発露の場を与えてくれた大旦那に感謝し、敬意を抱いている。
蔦ノ屋は、大旦那が一代で身代を築いた店だ。
老舗の版元にはない奇抜な発想で部数を伸ばした。
旦那は目利きで、将来モノになりそうな若い絵師や作家を見いだし、育てた。
その者たちが売れると共に店は大きくなり、都で一、二を争う版元となった。
それがある時、蔦ノ屋から出版された数冊の本が
実は、本の猥褻云々は口実で、真の理由は他にあった。
その頃、とある政府要人の、収賄を暴いた小説が連載されていた。
関係者の名は仮名だが、見る者が見れば誰が誰だと分かる内容だった。
これは実状を深く知る内部の者の告発だった。
旦那は三日間拘束された。
眠る間も与えない取り調べにも、旦那は、「これは、あくまでも架空の話である」として、ネタ元を吐露しなかった。
それによって身代半減と、半年間の営業停止の処罰を受けたのだった。
その間に、画工や作家は他所へ流れた。
後に規制が緩和されて、続々と新しい版元が店を開き、競争が激しくなった。
大旦那は持病の
今年の春からはすっかり若旦那に店を任せ、商売から身を退いていた。
若旦那が蔦ノ屋の立て直しを図り、作家の入れ替えを始めたので、そろそろ自分も首を切られる頃かと、草介も何となく察していた。
これはしごく当然の処置だった。
草介と織部を天秤にはかけられない。
向こうは書けば売れる人気作家サマだ。
これが、頼み込んで書いて頂いているお方と、温情で書かせて貰っている者との差だった。
奇しくも、草介は織部の小説を読み、「この程度ならば俺にも書ける」と発起して、版元に原稿を持ち込んだのだ。
酔い潰れ、簑助は眠ってしまった。
草介は店の者に断って、簑助を板間の隅に運んだ。
こいつを暫く寝かしておいてやってくれと頼み、二人分の勘定を済ませて店を出た。
十二、当て擦り
織部の連載を、哲郎は欠かさず読んでいた。
勧善懲悪もので、単純に楽しめる話だ。
結末が見えているので、誰もが安心して読め、自分の周りでもすこぶる高評だった。
織部が蔦ノ屋で書くと聞きつけた哲郎は、「織部の連載、楽しみだな。」
と、草介にやんわりと当て擦りを云った。
すると草介は、
「そんなに面白いのか?」
と感情のない口調で返し、
「無難な作りだ。
読み返してみたいとは思わないな。」
と云った。
それから、連載が四話ほど進んだ頃に一度、「どれも上っ滑りのお綺麗ごとで、芯に響いてこない。
スッと目に入る言葉はスッと出ていく、字面が美しいだけの、出来損ないの詩のようなものだ。」
と評していた。
聴きながら、「何にしても、お前の書くモノよりはマシだろう」と、哲郎は胸の
草介の小説は、読む側が苦痛を感じる陰々滅々とした内容だ。
最近まで連載していたのは、臣下の裏切りに遇い、一族を滅ぼされた主家の姫君が、蛇神の呪力を借り、奸臣の一族をじわじわと呪い殺してゆく、──といった筋立だった。
そして、物語は何とも後味の悪い幕引きをする。
復讐を果たした後、姫は、蛇神の祠にある蛇の巣穴に身を投じ、生きながらにして数千匹の蛇の餌食となるのだ。
『そんなに面白いのか?』
その言葉は、「貴様の感性は如何にも低俗だ」という意味に受け取れた。
己が良いと思う物を否定されると、暗に己を否定されているようで不愉快だ。
否定から入る、こいつのこうした所が嫌いなのだ。
智に長けた奴は何でも片っ端から否定的で、人の
小説は学問の指南書ではなく、娯楽だ。
作家が人格者である必要などない。
どんなクソ野郎でも、面白い読物を提供してくれさえすれば良い、と哲郎は思う。
だが、自分の小説を酷評した者に、卑怯な仕返しをするのような奴が書いた話だと知った後では、単純に、物語のみを愉しむことができなくなっていた。
──それはそうと、草介の仕事の世話だ。
草介が、今度こそ本気だと云うのだから、この一度に限って手助けをしてやろうと思う。そうしたところ、丁度良い具合に役所で、「帳簿付けの出来る者を探している」という話を聞いた。
草介は常々、役人は嫌いだと
「休暇で故郷に帰っていた者が、足の骨を折って戻って来れないらしい。
一月、長くて二月の間だが、やってみる気があるか?」
勤務時間は草介の望み通りだ。
仕事を終えたら諭利の店に寄って、一緒に帰ることができる。
草介は即座に、「よろしく頼む」と返答した。
翌日。
草介は経歴と身元の証明を書いた書類を持参した。
身元の引き受け人には、諭利が署名をしている。
さすがに、惚れた男の名に泥を塗るマネはできないだろう、と哲郎は思った。
。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます