【陸】 求職



  一  求職  ─ きゅうしょく ─

  二  根無草  ─ ねなしぐさ ─

  三  出禁  ─ できん ─

  四  貍の金玉  ─ たぬきのきんたま ─

  五  美剣士  ─ びけんし ─

  六  陰口  ─ かげぐち ─

  七  世直し  ─ よなおし ─

  八  未完  ─ みかん ─

  九  反目  ─ はんもく ─

  十  手助け  ─ てだすけ ─

  十一 告発  ─ こくはつ ─

  十二 当て擦り  ─ あてこすり ─





  一、求職  ─ きゅうしょく ─



 久し振りに見た草介は、以前よりも血色がよく健康そうだった。


「流行り病にかかったと聞いたが。

 元気そうじゃないか。」


 哲郎はそう云って、草介を揶揄した。

 草介は例の、味彩庵の店主の所に厄介になっている。

 人には、「ひと夜の男」を捜すのはあきらめたと云いながら、なに食わぬ顔でその男と暮らしているのだ。


「ただの風邪だったのさ。」


 草介は、訳知り顔の哲郎に皮肉な笑みを返して云った。


「そっちこそ、大変だったんじゃないのか?」


 そう、確かには大変だった。

 草介が、想い人に手厚い看護を受けている頃、役人の哲郎は病人の搬送に駆り出されていた。

 炎天下、己も何時いつ病に侵されてもおかしくない状況下で、黙々と職務を遂行していたのだ。


 寝る間も無く、必死で治療に当たっている者たちや、看護のかいもなく死んでゆく人々を見ると、どうにもやるせない気持ちになった。


 猪口ちょこを揺らし、哲郎中の酒を回した。


「呉服屋の山城屋の娘が、豊国に遊山に行っていたんだが、……」


 哲郎は独り言のように語り始めた。


「そこで流行り病に罹って、死んだのさ。

 数日前、娘の身を案じていた山城屋のもとに手紙が届いたそうだ。

 流行り病で死んだ者の遺体は、遺体を媒介に病が伝染しないよう、郊外に墓穴を掘って集団で埋葬される決まりになっている。

 山城屋がな、役所にきて、『娘の遺体を引き取らせてくれ』と泣いて頼むのさ。

 だが、すでに埋められちまった後だし、法は破れない。

『どうにもならぬ』と役人の方も突っぱねるしかないんだ。


 憔悴した様子で、山城屋は帰って行った。

 憐れになってな、俺は追いかけて声をかけたんだ。

 そうしたら、『金なら幾らでも都合を付けるから、お頼みします』と泣きつかれ、俺もホトホト弱っちまった。」


 流行り病が沈静化する間、豊国へは渡航禁止になっていた。

 その間に、愛娘は死亡し、異国の地で、何処の誰とも知らない者たちと共に埋められてしまっていたのだ。

 娘は十七歳だった。

 翌年には祝言も決まっていた。

 何とも理不尽な話である。


 哲郎は、せめて慰めになればと、娘が何処に埋められたかを調べ、山城屋に教えてやっていた。


 ──何もしないよりは幾らかマシ。


 少しは役に立てたかもしれない、そう思うことで、哲郎は己を納得させたかったのだ。


 哲郎の猪口が空いたので、すかさず草介は酒を注ぎ入れた。

 哲郎が話す間、さすがに草介も神妙な顔つきになっていた。


「──で? 今日は何の用だ。」


 哲郎は上目遣いに草介を見た。

 草介が訪ねて来るのは、何か頼み事があってのことだと決まっている。


 ああ、──と草介は髪を掻き上げながら、言いにくそうに口を開いた。


「何か、仕事を世話してくれないだろうか。」


 哲郎は耳を疑った。

 こいつがそんなことを言い出すなんて、真夏にひょうでも降るんじゃなかろうか。


「宿主にな、遊んでないで堅気マトモな仕事をしろと云われたのさ。」





  二、根無草  ─ ねなしぐさ ─



「人の下で働くのは、御免だ」と、草介は云った。

「役人は嫌いだ、役人になろうという奴の気が知れない」と、面と向かい、哲郎にそう云った。


「この身ひとつ、俺には何にも無い。

 親父は死んだ。

 お袋は俺を産んで直ぐに死んだ。

 兄弟もいない。

 故郷には、もう何年も帰っていない。

 継ぐ筈だった家も土地も、既に人手に渡っている。

 借金の形に取られちまった。

 仕方がない。

 大学に入れず、俺を支援してくれた者を裏切ってトンズラこいたんだからな。

 帰っても、迎えてくれる者は、いない。」


 酔いながら、「根なし草の草介だ」と自らを嘲笑わらっていた。


「やりたい事も、ない。

 今日一日、生きていられれば良い、──そう思うと気も楽さ。

 地位も名誉も必要ない。

 ましてや、後世に名を残そうなどとは思わない。


 この一年、人のお零れに与りながら生きていた。

 美味いものを喰いたいとか、美しい服を着たいだとか、体面を繕い、人に勝ろうなんて気を起こさなければ、案外 生きていられるもんなんだ。」


 草介の法螺ホラには、真実が混ざっている。

 だから嘘の身の上話を疑いもしなかった。

 というより、哲郎は草介に興味がなかった。

 そして、こいつがこの先どうなろうが、正直知ったことではないのだ。


 だが、頼まれたので取り敢えず、哲郎は草介に出来そうな事を、と考えてみた。


「お前は代筆を頼まれるほど字が上手いだろ。

 字の意味にも精通しているから、寺子屋で子供相手に字を教えるのは、どうだ?」


 と、勧めると。


「俺は、ガキがは嫌いだ」と、即答だ。


 哲郎が閉口していると、草介は帳面を取り出し、「他には」と催促した。


 これはこうした業務内容で、場所は何処で、こういう人間が働いている、──と、哲郎が紹介する職業を書き付け、上に三角とバッテンを記入した。


 三角を付けた二つを眺めながら、「倉庫で資材管理、これが一番マシだが、場所が遠いな、家から通える所でないと、無理だな。」と、呟いた。


 家、というのは、あの辺鄙な場所に建つ庵のことだ。

 草介にとっては、業務内容より、場所と終業時刻が重要なのだ。

 それで、割りのいい夜警には初めにバッテンを付けていた。


 その言葉から、何よりも、居心地の良い今の宿主から離れたくない、という気持ちが窺い知れた。


「決めるなら早い方がいい。

 良いものから先に無くなっていくのだからな。」


 草介は、「少し考えてみる」と云い、その日は決めずに帰った。


 次の日、哲郎は草介が訪ねて来るかもと考え、同じ店にいたのだが、結局、草介は現れなかった。

 切羽詰まった様子ではなかったし、どうせ本気で仕事をする気もないのだろう。


 多くの者が、日々の糧を得るために何らかの仕事に従事している。

 哲郎は、流行り病の鎮静に尽力していた者たちと対比し、この極楽トンボに少々腹を立てていた。

 哲郎には、草介が宿主の機嫌を取りたいが為に、仕事を探すフリをしている風に見えたのだ。





  三、出禁  ─ できん ─



 一月ひとつきも経った頃、ふらりと草介が現れた。


「すまんが、仕事の世話を頼む。」


 哲郎は無言で見上げていた。

 草介に向いた視線は冷ややかだった。


「おい、そんな顔をするなよ。

 今度は本気だ。」


 草介は手前に座り込み、すかさず哲郎の猪口に酒を注ぎ足した。

 草介は、とある事情で蔦ノ屋を『出入り禁止』となった。

 それで、僅かな収入源を断たれてしまったのだ。


 とある事情、──そのきっかけは、十日ほど前のこと。

 蔦ノ屋に給金を受け取りにきた草介は、捕まえられ、諭利との仲を執こく訊かれていた。

 噂には尾ヒレがついてしまうものだから、滅多なことは話せない。


「高熱を出して倒れている所を助けられた。あの人は、俺の命の恩人なのさ。」


 誰に訊かれても、草介は無難にこう答えていた。


 蔦ノ屋の中でも、草介と年齢の近いこの男は簑助みのすけといい、草介の書く怪談話を好んで読んでくれていた。

 自らも小説を書いているのだと云い、時折、自作のあらすじを草介に話し、意見を求めることもあった。


「──あの人は、杉田屋との噂が立ってから、いろんな奴に声をかけられるようになって困っている。

 中にはしつこく付き纏う野郎がいて、『始終見張られていて、気味が悪い』と云うから、俺は家に住まわせて貰う代わりに、身辺警護をしているのさ。」


 草介は早々に話しを終えようとしたが、簑助は、草介が諭利の情人イロだと勘ぐっているので、「本当のところを云えよ』と催促してきた。


「あんな容姿みてくれだから、そのテの男だと思うよな。

 俺もそう思っていた。

 だから、家に置いて貰う以上は、そうしたこともアリだろうと腹を決めた。


 まあ、相手はあれ程の美形だ。

 身だしなみにも気を使い、小綺麗にしているし、側に寄ると女みたいに良い匂いがする。

 酒の勢いに任せたら、抱けるんじゃなかろうか──と、俺は考えた。


 それで、一息に酒をあおり、迫ったのさ。

 そうしたら、『よしてくれ、私はムサ苦しい男は好みじゃない』と、バッサリだ。

 俺だって、好きこのんで男を抱こうとしたのではない。

 その後、あちらさんに変に警戒されて、参ったぜ。

 こちらが気を利かせたつもりが、とんだ恥をかいちまった。


 で、一緒に暮らしてみると、案外居心地が良いのさ。

 俺は今まで何人かの女と暮らしたが、女は厄介だ。

 夜中に筆を走らせているとな、『油代もばかにはならないんだから、書き物をするなら陽のある内にしてくれ』なんて、ケチ臭いことを云うのさ。

 ナンにも解っちゃいない、俺は夜の方が頭が冴えるんだ。


 じつのところ、女と暮らして楽しいのは初めのうちだけなのさ。

 そこへいくと、男同士の方が面倒なコトが無くて気が楽だ。

 面倒、というのはまあ、色々だ。

 お前も一度、女と暮らしてみれば判るさ。」


 番犬代わりの居候。

 人の興味をそそるほどの事などないのだ。期待に添えなくて、すまんな、と、草介は笑った。





  四、貍の金玉  ─ たぬきのきんたま ─



「なあ、お前、『狸の金タマ』という菓子を知っているか」


 と、草介は云った。


 簑助は眉根を寄せ、「何だ、そりゃあ」と呟いた。


「黒ゴマを練り込んだ餅の中に、白餡と甘く煮た栗が二つ入っている。

 女のこぶし位の大きさで、形は陰嚢フグリのようで、手触りも丁度そんな感じだ。

 若い娘が菓子を求めるとき、『狸の……』と云って、顔を赤らめて言い淀むのを、店主がニヤニヤしながら眺めているそうだ。

 他にも、『熊の鼻クソ』だとか、珍妙な名の菓子が売られているらしい。」


 簑助は、草介が何を言わんとしているのか判らない。


「菓子の名一つで、旅の土産話になるだろ。」


 そう云って、草介は続けた。


「諭利は、国に帰ってから名所巡りをしていて、旅の日記をつけているのだが、これがなかなか面白いんだ。


 豊国から遊山に来ていた女二人と船で出合い、温泉へ案内したと書かれていた。

 飯を奢られ、湯にも一緒に浸かったそうで、文の下に、デカい乳が湯にプカプカ浮かんでいる挿絵が入っていたよ。

 役得、だよな。

 女も、あの容姿にコロリと騙される。

 女は色白の優男が好きだろ。

 そのテの男だと思うと、警戒心が弛んで肌を晒すのも平気らしい。」


「自分の容姿を逆手に取って、利用している、ってことか。」


「そこでだ。

 俺もここらで宗旨を変え、読み手の喜ぶ話を書いてみようかと思っている。

 まず、女顔の優男を主人公に据えて、名所旧跡を訪ね、その土地の名物を紹介する。

 それに毎度、女絡みの事件を混ぜ込んで、女が岩場で着替えをしたり、温泉に浸っているような色っぽい見せ場を作るのさ。


 題して、『珠国漫遊記。

 ──ウけると思わないか?」


 簑助は、明らさまな、嘲るような薄笑いを浮かべ、「イイんじゃないか、書いてみろよ」と云った。


 この男は読者に媚びる作家が嫌いなのだ。「昨今、小説らしい小説が一つもない」というのが口癖だった。

 売れている作家の新作には必ず難癖をつけ、罵倒していた。


 ウける話、──というのに、簑助は、想うところがあるらしく、「なあ、織部をどう思う?」と問うてきた。


「織部宗石」は、載れば本が売れる人気作家だった。

 何処の版元からも引く手あまたで、蔦ノ屋でも、「是非に」と拝み倒して書いて頂いているのだ。

 物語の主人公は十七歳の美剣士。

 剣客であるが決して人を殺さない。

 得物は樹齢千年の御神木から作られた木刀である。

 その木刀には風の精霊が宿っている。

 剣士は精霊の力で、百人千人をいとも簡単に倒していく。

 刀を一振り、──その風圧で人は吹っ飛び、地が裂け、大岩が砕ける。

 まさに『神業』だ。 


「単純明快。

 子供にも分かり易い筋で、スッキリと読みやすい文章だ。」


 そう云うと、簑助は皮肉げに顔を歪めた。


「だが、そこで描かれているものは、主人公の容姿の美しさや、人格がどれほど優れているかといった誉め言葉の羅列に尽きる。

 これでもか、と正論を並べ立てる主人公には、正直、虫酸むしずが走る。」





  五、美剣士  ─ びけんし ─



 織部の描く主人公は、色白の美男で腕が立ち頭が切れ、と三拍子揃った上、慈悲深く人徳がある。

「強きを挫き、弱きを助く」、──人の手本のような男だ。

 読み手が男なら、その理想の男を自らに投影して悦に入り、女なら、完璧な美男に愛される夢を見るのだ。


 簑助は、織部の描くこの嘘臭い主人公が嫌いだった。

 剣士は織部の分身だ。

 言葉の端々に、小賢しさと驕りがみえる。

 織部は耶蘇教に興味を持っていて、剣士は度々聖書の文言もんごんらしき説教を口にする。


 織部は、裕福な士族出身で、四十路よそじ間近の色白の優男だった。

 幼少の頃より古今東西の書物を読み、博識であり、何処か陰りのある風貌もあって、織部本人を信奉する女の読者も多いのだ。


 話の筋だが、ごく普通の少年が神の啓示を受けて剣士となり、諸国を放浪しながら、権力者に不当に虐げられている民衆を救ってゆく、というものだ。

 神憑かみがかりなので、特別な修業をすることもなく、木刀を手にするだけで、百戦錬磨の剣豪も赤子扱いだ。

 精霊の力で、やぐらまで飛び上がったり、水の上を歩いたりできるのだ。

 手をかざし、めしいの少女に光を与えるなど、数々の奇跡を目の当たりにした民衆は、「あなたこそ、生き神様でございます」と云い、平伏する。

 剣士は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、膝を折って目線を同じにし、「私も皆と同じに、小さく弱い人間なのだ」と云い、謙虚な態度を崩さない。

 神業の剣技で悪人を懲らしめた後、罪を許し、人の道を説き、見事に悪人を戒心させる。

 そして、人知れず風のように去ってゆく。


 この話の約束事で、敵役の権力者の陰には決まって妖艶な毒婦がいる。

 その女が、民衆を虐げている諸悪の根源だった。

 馬鹿な男は毒婦に操られているだけなので、剣士との圧倒的な力の差を知ると、簡単に降参する。

 しかし、女は隙を見て逃げるのだ。

 追って捕らえようとする民衆を止め、剣士は云う。


「放って置きなさい。

 神は全てを見ておられます。

 犯した罪は、いずれ自らの身を持って償うことになるでしょう。」


 剣士の予言通り、女には天罰が下る。

 逃げる途中、山蛭に血を吸われたり、鴉に突っつかれたり、散々な目に合う。

 だが、女はこれでりたりはしない。余所の土地で、似たような悪事を繰り返すのだ。

 挙げ句、肥溜めに落ちて溺れ死んだり、毒で顔がただれ、自死に追い込まれたり、悲惨な最期を遂げるのだ。


「剣士は人をあやめない。

 人を罰しない。

 そこが少々引っ掛かるな。」


 と、呟き、草介は続けた。


「神の名代なら、人を罰すこともできるはずだが、決して自らの手を汚さない。

 自分の目に入らぬ所で、女に罰が下るのを待っている、──これは卑怯ではないか?

 そして、女には救いがない。

 男は罪を詫びて許されるのに、女は戒心の余地もなく、見せしめに罰せられる。


 織部は、女に手痛い仕打ちを受けた経験があるのかもな。

 だから、こうして紙の上で、ささやかな私怨を晴らしているのかも知れん。」





  六、陰口  ─ かげぐち ─



「織部は女がダメなのさ」


 と、簑助は云った。


「接待する時、織部の座敷には芸妓を呼ばないんだ。

『あの厚化粧には寒気を覚える、相手構わず男に媚を売る汚ならしい女だ、梅毒の媒介人だ』と毛嫌いしている。

 その芸妓が、織部の贔屓でもあるんだがな、……」


 呟いて、簑助は酒を煽る。


「話の中で、剣士に想いを寄せるのは、純潔な少女だ。

 毎回、めしいだの聾唖ろうあだのあしなえだの、か弱い、心の清らかな少女が登場する。

 何でも、織部は七歳ななつになる姪っ子を大層可愛いがってるってぇ話しだ。」


 そういう嗜好なのさ、と簑助は薄笑いを浮かべ、話しを続ける。


「美しい物は『善』で、醜い物は『悪』。

 織部は、不具者や物乞いを平気で嘲笑わらう。

 語彙が少ない、といって子供を馬鹿にし、あんなヨボヨボでは生きていても仕方がない、と老人を嘲笑う。

 しかし紙の上では、『誰しも昔は子供だったのだから、無知だと云って子供を馬鹿にしてはいけない。誰しもいずれは老いてゆくのだから、老人を卑下してはいけない』とのたまうのさ。

 一見、謙虚さを装っているが、剣士は、『小さく弱い人間共よ』と他者を見下しているんだ。

 ただの憑坐よりましのクセに、笑止千万だ。

 自分には神という後ろ楯があり、必ず身を護って貰えるという保証がある。

 権威を持った者が、持たざる者と同等であるわけがないんだ。


 悪人が戒心するのは、言葉に感銘を受けたからではない。

 剣士の後ろに神の脅威を感じ、神罰を恐れて従っているだけだ。

 神から与えらえた借り物の力で得意になり、根本的な弱者の苦しみを知りもそしない者の吐く言葉など、何の意味もない。

 どれほど美しい言葉を綴ろうと、俺には欠片も響きはしない。


 目新しい事は一つもない。

 他人の小説の良い所を切り取って、ペタペタ張り合わせたような内容さ。

 剣士が語る言葉は、にわか坊主の説教より陳腐だ。

 誰もが当たり前に知っていることを、さも自分が一番最初に見つけた、とでもいうような得意顔で云いやがる。


 こんなモノは、オンナ子供の読物だ。

 大の男が読む物じゃない。」


 この会話を、店にいた誰かが聴き、織部の耳に入れたらしい。

 人を介して聴くと、陰口は一層の悪意を含んで伝わるものだ。

 それで、草介は「出入り禁止」となったのだ。


 蔦ノ屋を辞めさせられ、簑助は昼間から酒を煽っていた。


「織部宗石、ケツの穴の小せぇ野郎だ。

 ちょっと気に入らない事を云われただけで、裏から手を回してきやがった。」


 卑怯な奴、と簑助は吐き捨てた。


「話の中でなら、百人千人は簡単に倒せるし、千人万人の人間だって簡単に救える。

 紙の上で、人を救った気になって、悦に入るのは、小便臭いガキの男だ。


 女々しい奴め!

『物書き』ってのは、小心で陰険な野郎が多いんだよな。

 正義だ何だと云っている奴ほど、こうした下劣なマネを、平気でヤりやがる。……」





  七、世直し  ─ よなおし ─



 草介は、織部の悪口を云った覚えはない。

 会ったこともない相手で、その著書についても、そつなく纏まった話だ、という以外の感想を持たなかった。

 織部に対する、悪意混じりの批評の殆どは、簑助が勝手に喋ったことだ。

 草介にしたら、とんだトバッチリを受けた、という思いだ。

 しかし、だからといって草介は、誰かを恨む気持ちはなかった。これで、ただちに生活が困窮することもないし、所詮、小説の執筆などは手慰みだから、未練はなかった。草介が、簑助のように怒りや焦りを感じないのは、頭の隅に、今の自分には居場所がある、といった確信があるからだ。


 蔦ノ屋は、以前から経営状態が思わしくなく、今回人員の削減をすることになった。

 解雇者に簑助が選ばれたのは、「所帯持ちではないし、若いから、探せば働き口は幾らでもあるだろう」という理由だった。

 店の中で、近々人減らしがあるようだといった噂は流れていた。

 店の立て直しを図って、人気の画工を雇い、他所で書いていた売れっ子の織部に仕事を頼んだが、それも思った程の成果を得ていなかった。

 簑助の解雇には、人の作為が微妙に絡んでいるようである。


 『人を裁くまい、人を罰することはよそう、許そう、与えよう』


 剣士は自らに、そう言い聞かせる。

 けれど、この聖人の創造者は、「あなたの敵を愛し、憎む人を恵み、呪う人を祝し、悪くいう人のために祈りなさい」と説きながら、目障りな地虫は、足裏でサッと踏み潰してしまう男なのだ。


 四十路間近の男が、二十歳そこそこの小僧に「男の読む物じゃない」と評され、腹を立てたのか。

 それとも、小説とは関係ない当人の嗜好に触れられ、しゃくに障ったのか。

 どちらにしろ、小僧の戯言を聞き流せなかったのが、この神サマの器の程度だった。


 草介は簑助から、「これを読んでみろ」と新井篤介という作家の本を借しつけられた。

 小説の冒頭の、どんよりとした曇り空と、貧しい農村の風景の描写が、物語の道行きを暗示していた。

 主人公はその村の男、「若い男」とだけで、個人の名は書かれていない。


 ある日、──村に、「世直し」を謳った反乱軍の残党が逃げ込んで来た。

 武器を持った兵に、村は占拠された。

 村人は稲の刈り入れもままならず、兵の世話と戦の準備に使役された。

 そして、数日の内に政府軍は村へ攻め入り、村人の殆どが死に絶えた。


 戦闘の中、党首は深傷を負い、死んでしまう。

 党首の死を知る者は、側近の幹部三人だけだった。

 ここで主柱を失うわけにはゆかなかった。

 丁度、負傷した村人の中に、党首と背格好の似た男を見つける。

 その顔は誰とも判からぬほどに焼け爛れ、熱風で喉を痛めており、記憶を失っていた。

 こうして男は、急場凌ぎの影武者に仕立て上げられた。

 記憶を持たない男は、幹部たちの偽りの話を受け入れる以外になかった。

 やがて男は、「己」を取り戻したいと願い、党首がどんな人間だったかを調べ始めた。





  八、未完  ─ みかん ─



「党首」は、王家の血を引く者だった。

 先々代の王の意向に逆らい、野に下った者の末裔だった。

 篤実な人柄で、人望があった。

 反乱軍の拠点である村に着くと、男の回りを民衆が囲んだ。

「よくぞ、ご無事で」と体に取りすがって、涙を流している者があることに、男は驚き、戸惑いを覚えた。

 人々は、戦で住む場所を無くしたり、年貢を納められずに土地を棄てて逃げて来た者たちだ。

 しかし男は、歓迎する民の顔を、誰一人として覚えていなかった。


 男は、簡単な読み書きしかできなかった。

 党首は博識であり、自室には書棚に入り切らない蔵書が床に積まれてあった。

「己」を知る意味で、男は本を端から読み始めた。

 知らない字も多く、書かれてある内容も理解できなかった。

 それまで培って来た知識も、ゴッソリと抜け落ちていた。


 民衆にとって、党首は希望の光だった。

 多くの人間の未来を背負っていた。

 男は人々と語り合った。

 顔を焼かれ、記憶を失って尚、自分がここに在るのは、この人々との約束を果たす為なのだ、──そう考えるようになった。


 男は寝る間を惜しんで勉学に励んだ。

 本を繰り返し読み、書き写すうち、男の胸に「志」が生まれていた。


 その頃、男と幹部たちの意見の対立が起きていた。

「大業を成す為には、ある程度の犠牲は仕方ない」と主張する幹部たちに、男は、「世直しを謳い、武器を持たない民衆を犠牲にしては、人心を得られない」と抗議する。

「飾り物」だった男が、対等に口を利くようになっていたのだ。

 幹部の胸中には、「偽者のクセに」という思いがあった。男が偉そうな意見をする度、憤懣は募っていった。


 そして、──遂に男が真実を知る時が来た。……


 ここで文章は途切れ、小説は未完となっていた。

 この新井という作家は、織部の友人であった。

 織部が作家になりたいというので、新井は版元に織部を紹介した。

 織部は、次第に売れ始めた。

 一躍人気作家の仲間入りをした。

 それに引き換え、新井は特定の読者がいるものの、人気は伸びなかった。


 ある日、版元を訪れた織部は、たまたま置いてあった新井の原稿を読んだ。

「相変わらずだな」と云うと筆を取り、勝手に原稿へ手を加えた。

 数分もしない内に直しを終え、「読んでみろ」と、得意顔で店の者に手渡した。

 新井特有の重苦しい文面は、すっきりと纏まって読み易くなっていた。

 人が書いた物の直しだから、文の完成度が高くなるのは当たり前だ。

 一から話を考えるより、ずっと簡単なことなのだ。


 後日、手を加えられた原稿を見た新井は激怒し、織部に詰め寄った。

 新井にも自負がある。

 物書きを始めたのは織部より先であるし、織部に劣っているとは思わない。


 憤る新井を冷ややかに見据え、「貴様は、まるで進歩がないな」と織部は云った。


「まだ気づかないのか。

 こんな物は流行らないと。

 顔の焼け爛れた醜い男の話など、誰が好んで読みたいと思うのだ?」





  九、反目  ─ はんもく ─



一時ひととき、人は浮世の憂さを忘れる為に小説を読むのだ。

 何よりも美しく、華やかな夢を見たいと望むだろう。

 夢の中でなら、どんな愚鈍な男でも英雄豪傑になれるし、どんな不細工な女でも傾国の美女になれる。

『物書き』とは、人に秀でた能力もなく、己の人生では決して脚光を浴びることのない庶民に、夢を与える崇高な職業だ。」


「崇高、……」と、新井は眉根を寄せ、問い返すように呟いた。


 ああ、と織部は思いつき、「同じく夢を与えるにしても、役者や絵師えかきとは格が違う。小説は、馬鹿では書けないのだからな。」と嘲笑わらった。


「与える」とは、随分と驕った物言いだ。

 織部は神話を題材とした物語を多く書いている。

 本が売れ、あちこちの版元から過剰な接待を受けているうち、己も「神」であるかのように、勘違いしてしまったらしい。


「それがどうだ、貴様が書いている話に、夢は欠片もない。

 これといった取り柄もない凡夫が、自身の能力以上のことを要求され、己の無能さに苦しむ話だ。


 俺には筋も読めているぞ、貴様とは長い付き合いだからな。

 貴様は云っていたな、耶蘇教の信徒になるということは、『この地上で、に自分を賭けることから始まる』と。

 この男は、人に騙され裏切られ見棄てられ、それでも尚、希望を失わずに立ち上がる。

 けれど最後には、『世直し』を吹聴し、民衆を煽動して世を乱した大罪人として、梁に架けられるのだ。

 確か、貴様が心酔している耶蘇教の『イエーシュ』とかいう男が、そういう最期を遂げるのだよな。

 俺には、わざわざ異国の神を信奉する貴様の気持ちは解らんが、有り難い教えを広めるにも、先ずは売れる本を書くことだ。」


「貴様は変わったな。」


 新井は織部を見据えて云った。


「己の教養の高さをひけらかし、お偉い先生と崇められたり、人にかしずかれたいがために、俺は小説を書いているのではない。」


 織部は薄笑いを浮かべた。

 新井の言葉は、売れない作家の負け惜しみだ。

 売れっ子の自分への妬みにしか聞こえない。


「あまり人を馬鹿にするものではない。

 貴様の言葉には、真心がない。

 たとえ、物語自体は虚構だとしても、己の身体から出ていない上っ滑りな言葉は、必ず人に見抜かれるのだ。


 俺は若い時分、進路について思い悩んでいるとき、ある物語の人物に共感し、『救われた』と感じることがあった。

 俺は、その場限りに人を喜ばせるでなく、人の心に永く残る物語を書きたいのだ。」


「──読者は、自分に都合の良い夢を用意してくれる作家を支持する。

 五年後、十年後、さて、どちらが『物書き』として残っているだろううな。」


 こうした経緯があり、二人は絶縁となった。

 織部は売れる小説を書き続け、そして、口を開く度に新井の小説を酷評した。

 織部が直接に指示をしたのではないが、版元は、織部の機嫌を伺って新井を敬遠し、実質、新井は作品を発表する場を失ったのだった。





  十、手助け  ─ てだすけ ─



 当時、十代半ばだった簑助は、新井の小説を読んで目の覚めるような思いをした。

 物語は、混沌としていた。

 善人と悪人が判別し難く、これは正しい事なのかと絶えず問いかけられる。

 新井の著書を幾つか読むうちに簑助は、自らも『こうした物語を書いてみたい』と思うようになっていた。


「この話の続きを、お前ならどう書く?」


 借りていた新井の本を返した時、簑助に問われた。

 草介は、「さあ、どうかな」と言を濁し、答えをさけた。

 すると簑助は、「俺ならば、──」と勝手に筋を喋りだした。


「これまで、民衆に向き合ってきたのは死んだ『党首』ではなく、この男自身だ。

 世直しをしたいという男の想いに虚偽はない。

 男は努力をし、持てる力を全て注いできた。


 そして、男は意を決し、民衆に真実を打ち明ける。

『どうか、皆と共に戦わせてほしい』と頼むのだ。」


 そして簑助は、早々に世直し云々へと話を移していった。

 聴きながら、事はそんなに上手く運ばないだろう、と草介は考えていた。


「あらすじ」だけなら、誰だって思いつく。それを辻褄の合った読み物に仕上げるのは根気のいる作業だ。

 お前は他人の書いた話を「クズだ、クソだ」と言い捨てるが、大口を叩くなら何か一つ仕上げてから云え、という思いだった。


 ──男は再び『己』を失った。


 幹部たちが告げた男の正体は、「ある村の農夫」ということだけだ。

 村は焼き払われ、生き残った者の所在は不明である。

 今となっては「己」を知る術がない。

 そして男は、騙されていたと同時に民衆を騙していたことにもなる。

 党首が王族であり、新たな世の王になるのぞみがあればこそ、付き従っていた者も多い。

 民衆が、簡単に男を受け入れるとは考え難い。


 主題は『世直し』ではない。

 どん底に落とされた一人の男がどう立ち直るか、──そこが物語の要なのだ。

 こう、言葉にしかけ、草介は止めた。

 今の自分には何も語る資格がない、そう感じたのだ。


 文面を見る限り、新井は独善的で融通の利かない男のようだ。

 今も何処かで書き続けていることだろう。

 不遇を味わった新井が、物語の続きをどう書いたのか、読んでみたい気がした。


「なあ、草介よ。」


 簑助は、呂律ろれつの回らない様子で云った。


「お前が初めて持ち込んだ原稿、あの政治絡みのヤツさ。

 あれは面白かったよ。

『漫遊記』なんかより、お前はああいうのを、書けよ。……」


 答えず、草介はうっすら笑った。

 蔦ノ屋以外で、書くことはできないだろう。蔦ノ屋の大旦那が唯一、草介の原稿を読んでくれたのだ。

 目を通した後、旦那は静かに草介を見据え、「あなたは、何だか訳ありのようだねぇ」と云い、「これには続きがあるのだろ、また書いて持って来なさい」と頬笑んだ。


 この二年、旦那は草介に小説を書かせ、それを買い取るという形で、この「訳あり者」の援助をした。

 今、草介にとって「書く」という行為が、必要であると、見抜いていたのだ。





  十一、告発  ─ こくはつ ─



 帰る場所を無くしてから、草介は、誰かが隣で寝ていないと、眠ることが出来なくなっていた。

 せめて灯りがともっていないと、不安で堪らないのだ。

 草介が、夜中に小説書いている大きな理由はそれだった。

 このことを、諭利には出会った夜に打ち明けているので、一晩中灯りを点していても嫌な顔をされない。


 諭利の日記から発想を得た、「珠国漫遊記」という話、無論これは口から出任せだが、喋りながら草介は、「案外、面白いかも知れない」と考えていた。

 草介の心に、そんな明るい色調の話を書いてみても良いんじゃないか、といった余裕が生まれていた。


 草介は、「書く」という行為によって救われていた。

 虚構の中で他者を書きながら、その行動や言葉は、筆者が自ら導き出したものだ。

 登場人物との間に少し距離がある分、腹の奥底の鬱屈とした想いを、吐き出すことができたのだ。


 草介は発露の場を与えてくれた大旦那に感謝し、敬意を抱いている。


 蔦ノ屋は、大旦那が一代で身代を築いた店だ。

 老舗の版元にはない奇抜な発想で部数を伸ばした。

 旦那は目利きで、将来モノになりそうな若い絵師や作家を見いだし、育てた。

 その者たちが売れると共に店は大きくなり、都で一、二を争う版元となった。


 それがある時、蔦ノ屋から出版された数冊の本が猥褻わいせつであるとして、公儀よりお咎めを受けた。

 実は、本の猥褻云々は口実で、真の理由は他にあった。

 その頃、とある政府要人の、収賄を暴いた小説が連載されていた。

 関係者の名は仮名だが、見る者が見れば誰が誰だと分かる内容だった。

 これは実状を深く知る内部の者の告発だった。


 旦那は三日間拘束された。

 眠る間も与えない取り調べにも、旦那は、「これは、あくまでも架空の話である」として、ネタ元を吐露しなかった。

 それによって身代半減と、半年間の営業停止の処罰を受けたのだった。

 その間に、画工や作家は他所へ流れた。

 後に規制が緩和されて、続々と新しい版元が店を開き、競争が激しくなった。

 

 大旦那は持病の消渇しょうかつ(糖尿病)が悪化し、昨年の暮れからとこに臥す日が増えた。

 今年の春からはすっかり若旦那に店を任せ、商売から身を退いていた。

 若旦那が蔦ノ屋の立て直しを図り、作家の入れ替えを始めたので、そろそろ自分も首を切られる頃かと、草介も何となく察していた。


 これはしごく当然の処置だった。

 草介と織部を天秤にはかけられない。

 向こうは書けば売れる人気作家サマだ。

 これが、頼み込んで書いて頂いているお方と、温情で書かせて貰っている者との差だった。

 奇しくも、草介は織部の小説を読み、「この程度ならば俺にも書ける」と発起して、版元に原稿を持ち込んだのだ。


 酔い潰れ、簑助は眠ってしまった。

 草介は店の者に断って、簑助を板間の隅に運んだ。

 こいつを暫く寝かしておいてやってくれと頼み、二人分の勘定を済ませて店を出た。





  十二、当て擦り  ─ あてこすり ─



 織部の連載を、哲郎は欠かさず読んでいた。

 勧善懲悪もので、単純に楽しめる話だ。

 結末が見えているので、誰もが安心して読め、自分の周りでもすこぶる高評だった。


 織部が蔦ノ屋で書くと聞きつけた哲郎は、「織部の連載、楽しみだな。」

 と、草介にやんわりと当て擦りを云った。

 すると草介は、

「そんなに面白いのか?」

 と感情のない口調で返し、

「無難な作りだ。

 読み返してみたいとは思わないな。」

 と云った。


 それから、連載が四話ほど進んだ頃に一度、「どれも上っ滑りのお綺麗ごとで、芯に響いてこない。

 スッと目に入る言葉はスッと出ていく、字面が美しいだけの、出来損ないの詩のようなものだ。」

 と評していた。


 聴きながら、「何にしても、お前の書くモノよりはマシだろう」と、哲郎は胸のうちで呟いた。


 草介の小説は、読む側が苦痛を感じる陰々滅々とした内容だ。

 最近まで連載していたのは、臣下の裏切りに遇い、一族を滅ぼされた主家の姫君が、蛇神の呪力を借り、奸臣の一族をじわじわと呪い殺してゆく、──といった筋立だった。

 そして、物語は何とも後味の悪い幕引きをする。

 復讐を果たした後、姫は、蛇神の祠にある蛇の巣穴に身を投じ、生きながらにして数千匹の蛇の餌食となるのだ。


 『そんなに面白いのか?』


 その言葉は、「貴様の感性は如何にも低俗だ」という意味に受け取れた。

 己が良いと思う物を否定されると、暗に己を否定されているようで不愉快だ。


 否定から入る、こいつのこうした所が嫌いなのだ。

 智に長けた奴は何でも片っ端から否定的で、人のあらをあげつらい、他者をおとしめることによって己がいかに高尚であるかを示そうとする。


 小説は学問の指南書ではなく、娯楽だ。

 作家が人格者である必要などない。

 どんなクソ野郎でも、面白い読物を提供してくれさえすれば良い、と哲郎は思う。

 だが、自分の小説を酷評した者に、卑怯な仕返しをするのような奴が書いた話だと知った後では、単純に、物語のみを愉しむことができなくなっていた。


 ──それはそうと、草介の仕事の世話だ。


 草介が、今度こそ本気だと云うのだから、この一度に限って手助けをしてやろうと思う。そうしたところ、丁度良い具合に役所で、「帳簿付けの出来る者を探している」という話を聞いた。

 草介は常々、役人は嫌いだとかしているが、哲郎は一応「どうだ」と訊いてみた。


「休暇で故郷に帰っていた者が、足の骨を折って戻って来れないらしい。

 一月、長くて二月の間だが、やってみる気があるか?」


 勤務時間は草介の望み通りだ。

 仕事を終えたら諭利の店に寄って、一緒に帰ることができる。

 草介は即座に、「よろしく頼む」と返答した。


 翌日。

 草介は経歴と身元の証明を書いた書類を持参した。

 身元の引き受け人には、諭利が署名をしている。


 さすがに、惚れた男の名に泥を塗るマネはできないだろう、と哲郎は思った。







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