彼女は孤独な夜の女王

藤光

彼女は孤独な夜の女王

 She is a lone Mistress in Darkness.....


 彼女は孤独な夜の女王だ。これまでそうだったし、これからもきっとそうに違いない。





 一


 『静かの海』という海があるのを知っているかと訊くので、静かな海の間違いじゃないのかと聞き返すと姉は「ちがうよ渚。静かの海。静かの海は月にある海なんだよ」と言って、二段ベットの上段から手を伸ばし、部屋のカーテンを引いた。


 厚いカーテンの向こうには大きな窓かあって、そこに雲ひとつない濃紺色の夜空に浮かぶ白い月が隠れていた。途端に冴えざえとした月の光がわたしたちの部屋に差し込んで、三つの影を冷たいリノリウムの床に落とした。白光園の未就学児童の部屋には、わたしたちのほかにも何人かの子供たちが暮らしていたけれど、目を覚ましていたのはわたしたち双子と仲良しの悠太だけ。施設の廊下も食堂も、ほかにいくつかある子供部屋も真っ暗で人の起きている気配はなく、大洋の深海に沈んでしまったかのように音もなかった。


 ――きれいだなあ。


 わたしと二人、下段のベットから頭だけを出して月を見ていたひとつ年下の悠太が、姉を見上げて小さくそう言ったのを私はいまでも鮮明に覚えている。そう。月明かりに浮かび上がった静の横顔は、妹の私が見ても美しいと思えた。


 わたしたちは双子だ。色白で小さな顔も、やせっぽちの体からすらりと伸びる手足も、まっすぐでつやのある黒髪もそっくり同じ二人なのに、光の中の静はわたしとは全然違って見えた。彼女は月に愛された子供なんだとわたしは思った。


 その時はまだ気づかなかったけれど、思えばもうそのときに、月へゆくという想いが静の中に芽生えていたのに違いない。静は言ったのだ。


「静かの海――。わたしの海を見てみたいな」


 そして、まだ幼かったわたしと悠太が抱き合うようにして布団に潜り込んでも、静はひとりベッドから身を乗り出して青白い月を仰ぎ見続けていた。月が窓の庇を上って見えなくなるまで、ずっと。






 わたしたちがまだ母と三人、小さなアパートで暮らしていた頃、世界は、六畳の間と台所と小さな便所、そしてわたしたちで完結していた。狭くてちいさな世界。


 幼い静はこの世界と対峙していた。

「お母さんのこと大嫌い」と口にすることで。


 母はだらしない人だった。彼女に仕事はなく、わたしたちの家にお金はなかった。そのくせ家事をしようとしないので、アパートはいつもごみであふれていた。他人に頼りきりで、いつも寂しがっており、毎晩違った男をそのごみごみしたアパートに引き入れていた。


 わたしたちの小さな家で、母と男たちが行なっていたことを幼いわたしたちが理解していたわけではないけれど「どうせろくでもない」ことをしているのだという確信はあった。わたしと静はその度ごとに廊下へしめ出されるのだから。


 ――ガチャリ。


 幼い子供たちが頼るべき母親によって家を追われ、目の前で玄関に鍵をかけられる。このときの情けなさは大人となった今でも忘れることができない。


 わたしは決まって「お母さんドアを開けて」とべそをかきながら懇願するのだけれど、そのことでドアが開かれたことなど一度もなかった。それでもわたしは、わたしのちいさな世界と母親にしがみつこうとするのをやめなかった。うす汚れていやな匂いのする部屋でも暖かい我が家だったし、気まぐれでだらしない人ではあったけれど優しい母だったから。


 でも、静は口を固く引き結んだまま閉じられたドアをにらみ続けていた。そして、小さいけれど断固とした声でいうのだ。


「渚、泣くな」


 そして泣き疲れたわたしが廊下で一人遊びをはじめても、そこに立ち尽くしていた。やがて母との行為を終えた男がアパートから出てくるそのときまで静はそうしているのだった。


「お母さんのこと、大嫌い」


 辛辣な言葉を母と男に浴びせるために。


 ――なんだ。薄気味の悪いガキだな。


 気味悪がられるだけならまだましで、子供を殴りつけることをなんとも思わない種類の男には容赦なく殴られていた。それでも静は泣き声を上げたことなど一度もなかった。強情に口をひき結んで一言も発しなかった。そして、そのことに可愛げがないとさらに殴られるのだった。


 そんなとき、母は決まってそのことを見ないようにしていた。男に逆らえない弱い人なのだ。


「渚、おうちに入ろう」


 男から殴られている幼い娘を助けようともせず、わたしの手を引く母の掌から、悲しみとも苛立ちともつかぬ感情が流れ込んでくるようで戸惑ったのは、まだ五歳を迎える前だっただろうか。


 そんなある夜を境にして母がアパートに帰ってこなくなった。だらしない母だったけれど、母親は母親だ。わたしたちはとても心細くて信じられないくらいお腹を空かすことになった。


 やがて冷蔵庫が空になり、わたしたちの垢じみた身体が臭いはじめても、母は戻らなかった。


「お母さん。帰ってきてよ」


 わたしが寂しさに耐えきれず泣き出しても、静は口をひき結んでそれに耐えていた。日とともに痩せていく顔貌の中で、その目だけがきらきらと輝いていた。


 何日かして、留守にしていた母が帰ってこないうちに、遠いところに住む母の姉がやってきてわたしと静をアパートから連れ出した。


「どこへ行くの」


 夜の街を押し黙ったまま、ふたりの手を引く伯母の返事はなかった。彼女はとても怒っており、どうして怒っているのか尋ねてもついに答えてはくれなかった。幼いわたしは、大きくて丸い月が三人の影をアスファルトの路上に落としながらずっとついてくるのが不思議に思えたことばかりを覚えている。それ以来、母とは会っていない。




 ☆





 我が国の政府はこの年、今世紀前半のうちに有人の月探査機を月面へ送り込む計画を数年のうちに策定すると発表した。前年に朝鮮半島、インド・パキスタン国境でそれぞれ勃発した、いわゆる『非核化戦争』が泥沼化の様相をみせるなか、開催中止が決まった二〇二〇年東京オリンピックに代わる巨大国家プロジェクトの発表だった。






 二

 

「静かの海は、最初に人類が月に降り立った場所なんだって」


 悠太や他の子供たち数人とボードゲームで遊んでいるわたしのところへ頬を紅潮させた静がやってきてそう言ったのは、十歳くらいのとき、施設の講堂でのことだったと思う。その手に隣町の図書館から借りてきた子供図鑑を持っていた――『第四巻 地球と宇宙』


「へえ、そうなんだ」


 みんなとボードゲームを楽しんでいたのでわたしは気のない返事をした。変わり者の姉は邪魔なので、静にはひとりで本を読んでいてほしかった。部屋の隅にいてほしかった。


「渚。アメリカのアポロ11号が人類を初めて月に送り届けた場所が、静かの海なんだって。アポロには三人の宇宙飛行士が乗っていて……。聞いてる?」


 わたしがゲームの手を止めないので、だんだん静が不機嫌になっていくのがわかった。

 聞いていたよ。でも、そのときのわたしはみんなとゲームをしていたかった。月は――静かの海はどうでもよかった。


「渚!」


 静が子供図鑑をゲームの盤面に放り投げた。大きな音を立てて駒が飛び散る。子供たちの悲鳴があがった。


 わたしたちのボードゲームを台無しにした子供図鑑には、月面図とずんぐりした宇宙服をまとった宇宙飛行士が見開きページいっぱいに描かれていた。静の頭の中もこうしたものでいっぱいなのだろう。こんなもので――。


「静ちゃん」


 一緒に遊んでいた六年生の女の子が立ち上がった。優しくて子供たちの面倒見もよい女の子だった。


「みんなに謝って。ゲームが台無しになったじゃないの」

「いやよ」


 静は女の子と目を合わそうともしない。まっすぐわたしを見たまま。


「どうして? みんなが迷惑したのよ」

「そんなの関係ない。わたしは話しかけた、でも渚は答えない。これは、わたしと渚の問題。みんなは関係ない」


 自己中心的で身勝手な論理だ。


「関係なくないでしょ? みんなでゲームをしていたのに、静ちゃんがめちゃくちゃにしたんじゃないの」

「渚と話してるの。ほかの誰も関係ない。あんたも――」


 そう言ってはじめて女の子に向き合った静は言い捨てた。


「関係ないんだから、どっか行って」


 女の子は真っ青な顔をして立ち尽くし言葉もなかったが、ぷいと顔を背けるようにして講堂を出ていった。


 恥ずかしいやら情けないやら、わたしはぱっと立ち上がると、静の手を取ってみんなの間を縫うように駆け、自室へ飛び込んだ。


 ――ごめんなさい。みんなごめんなさい。わたしの姉がこんな人でごめんなさい。みんなのゲームを台無しにしてごめんなさい。


 わたしは絶望的な気持ちでベッドに身を投げ出しながら、この次にゲームするときにみんなはわたしを仲間に入れてくれるだろうか、仲間はずれにされはしないだろうかとばかり心配していた。なぜって、ここ以外にわたしの居場所はないのだから。家族のないわたしには、どこにも行くあてがないのだから。


「渚、アポロはね……」

「信じられない!」


 わたしには信じられなかったが、静は平気なのだった。自分の行為が大勢の子供たちに迷惑となること、そのことで妹が悲しんでいること、あの子は変な子だと後ろ指を差されること、いずれについても無関心でいられた。


「どうして静は、そんななの?」


 姉には子供らしくみんなと同じにしてほしかった。目立たないでいてほしかった。


「そんなの関係ない。わたしは間違ってないよ」

「関係なくない。いつも一人で本ばかり読んで。子供はみんなと一緒になって仲良く遊ぶものだよ。それなのに、さっきはみんなに迷惑をかけて。」


 それも一度や二度ではない。静は自分のしたいように振る舞うことで、しょっちゅうトラブルの元になっていた。


「わたしは自分のしたいようにしてるだけ」


 それは知っている。分かっていた。


「ほかの子だってそうじゃない。みんなで遊びたいから遊んでる。みんなはそうしたいことをできるのに、わたしがしたいことをできないのはおかしいよ。わたしはやりたいことをやってるだけ。それはみんなと同じ」


 理屈は合っているように聞こえるけれど、静はみんながほかの子たちを気遣いながら、ほかの子のやりたいことと自分のやりたいことをすり合わせ、折り合いをつけながら遊んでることに気づけない。――それとも気づかないふりをしていただけだったのだろうか。


「わたしはあなたと話してるの。渚」


 わたしの目を見て話す静は、そのまっすぐな視線とは裏腹に捩れて見えた。そんなはずはないのに、細い体が胸から腰にかけて捩れてた。わたしはそのことに気付きながら、口にすることは憚られた。直截に告げるべきだったのかもしれない。静は捩れてるよ、それはおかしなことなんだよと。


 でも、わたしはそうしなかった。それはもう疲れていたから。もう施設では、静は変な子と理解され始めていたから。ただでさえそっくりなわたしたち。静と関わり続けて同じように変な子と見られるのはごめんだった。


「あのね、アポロはね……」


 わたしがよく覚えているのはここまでで、あとはよく覚えていない。記憶に残っているのは子供図鑑、まん丸な月面の地図と宇宙飛行士、静かの海に描かれた星条旗だけ。この時にわたしは、たったひとりの家族である姉と距離を置くことに決めた。


 夕方、わたしたちを食事を知らせにきた悠太は困ってしまったと思う。頭から布団に被ってもぐりこんでふてくされているわたしと、ひとり図鑑を読んでいる静が、お互いに一言も口をきかなくなっていたから。




 ☆




 この年、JAXA(宇宙航空研究開発機構)から有人月探査計画『MIKAZUKI』が公表された。我が国が、自国民からのみ構成される宇宙飛行士によって有人月探査を成功させようとする、野心的な計画であった。計画には二十年後までに宇宙飛行士を載せた探査機を月面に送り込むことが明記されていた。






 三


 スマホに静からの着信があったのは、いつものように、いつものメンバーでファミレスに集まっている時だった。着信音にスマホの画面を確認したわたしの表情が曇ったのを見てとったのだろう。同級生のソヒョンが言った。


「どうしたの」

「べつに」


 画面をタップして電話を切ると、ウーロン茶をすすった。夕方にここへやってきてドリンクバーを注文し、五時間、わたしのお腹はオレンジジュースやジンジャーエールばかりでいっぱいだった。


 時計を見ると夜の十一時半。郊外のファミリーレストラン、車道をゆく車も減って大きなガラス窓には明るいの店内が映っているけれど、そこにはいるのは、椅子にだらしなく身体を預けてくっちゃべっているわたしたち四人だけ。深夜になっても帰ろうとしない中学生に迷惑顔の店員にも慣れっこになってしまっているようだった。


「あんたの姉さんからでしょ。確か、シズカだっけ?」


 ソヒョンの嗅覚は鋭い。中学の成績は落ちこぼれだけど頭が悪いわけじゃない。ただ少しだけ複雑な家庭環境のなか、共働きの両親とうまくいっていなくて拗ねているだけだ。


「知ってる。双子の姉ちゃんだろ、ナギサと違っていつもダサい格好してる」


 ソヒョンの彼氏、シンジ。高校二年生。どうしようもないロクデナシ。自分のことを良く見せることと女のことしか頭にないこの男は、こんなときもテーブルの下でわたしの脚に触れてくる最低なやつだ。この頃、やくざな先輩の腰巾着として暴力団の事務所に出入りし始めていた。


「静はダサいわけじゃないよ……」


 わたしの隣で何本目かのタバコに火をつけた悠太は、中学二年になっていた。わたしの『年下の彼氏』ということになっている弟分は、あろうことかこのシンジに心酔していた。悪ぶって髪を赤く染め、タバコを吸って学校をさぼっていた。そのことをカッコいいと勘違いしていた。


「あら、ユウタはナギサよりシズカの方が好みのタイプなの?」

「そういうんじゃねえよ」


 照れ隠しにかぶりとグラスの水をあおるようにして飲む。この子は昔から変わってない。悠太が好きな女の子は、いまも昔も変わらない。それは静だ。


「だよな。ありえねー、あんなダサい女。妹はこんなイイ女なのになあ」


 冗談めかしてそういうシンジの目は、絡みつくようにわたしの顔と胸元の間を上下した。そんな目でわたしを見るな、わたしに触れるな、思い出しただけで虫酸が走る。


「だから、そんなんじゃねーんだよ。シンジさん」


 困ったようにわたしの表情を窺う悠太のしぐさは中学生となっても変わらなかった。そんな悠太の様子を見ながらも、わたしはその顔の向こうに静の姿を探してしまう。ダサい静、垢じみた服で平気な静、いつも本を読んでいる静、子供の頃から変わらないままでいる双子の姉。


 ソヒョンたちの話題は次の週末の話へと逸れていったけれど、わたしは静のことを考え続けていた。静は中学生になっても真剣に月を目指していた。


 思春期を迎えるとだれしも自分の容姿や身なりを意識するようになる、十五歳の女の子なら尚更だ。この頃、わたしの周囲にも大人の女性を意識した服装で誇らしげに街をゆく友達が幾人かいた。わたしはそこまで思い切ることはできなかったけれど、いままでのように子供こどもした格好ではいられないと思いはじめて、薄く化粧してみたり、女性らしさを強調するため肌の露出の多い服を試してみたりしていた。その点わたしとソヒョンは似ていた。色々なことに臆病で、でも変わってゆく自分を不器用ででも受け入れなきゃって思っていた。そのことがシンジのような男を誘っているように思われるのは不本意だったけれど。


 しかし静は違った。学校のある日は一日中学校の制服で過ごして平気だったし、休日はいつも同じTシャツに色褪せたジーンズ、化粧っけはなく、無造作に束ねた髪を背中に垂らしていた。静の視線はまっすぐ遠くを見ていて、それは子供の頃から揺るぎもしなかった。


 宇宙飛行士となるには少なくとも大学を卒業していなければならない――。そう知った静は時間さえあれば、本を読んで過ごすようになった。学校でも、施設でも昼も夜も。わたしたちは施設の子供だ。クラスメイトのように放課後、塾に通えるわけではない。家族のサポートのないわたしたちが大学へ進学するためのハードルはとても高い。宇宙飛行士だなんて、夢物語なのだ。


 ただ、静は本気で夢を見ていた。月へ行こうとしていた。


 確かに静はダサい。でも、口さがない同級生たちに笑われている姉のダサい姿は、わたしに突きつけられたナイフの切っ先だった。脇目も振らずに夢を追い求める静は、自分の外見を飾ることに興味がなかった。大切なのは他人からどう見られるかではなく、自分がどうありたいかだ。静のダサい格好は雄弁にそのことを主張してはばからない。「あなたはそれでいいの?」双子の姉はそう言いはしないけれど、わたしは静の姿が視界に入るたびに胸がざわついて落ち着かなくなってしまう。


 友達と同じような格好をして同じように振る舞う。大人ぶって悪ぶって自分の立ち位置を確かめる。施設の子と馬鹿にされないように見栄を張る。わたしはみんなと同じでいたかった。仲間はずれになるのはいやだった、わたしはひとりになりたくなかった。


 ――あなたはそれでいいの?


 いくら化粧をしてみても、流行りの服を着てみても、自分をごまかせそうになかった。それは静がいたから。そうなるべきだったのかもしれない自分自身が飾り気のない姿で視界に入ってくるから。なにしろ、わたしたちは同じ遺伝子を分けた双子の姉妹なのだから。


 ファミレスの自動扉を通って、制服姿の中学生が入ってきた。外は真っ暗で、白い夏制服は照明に照らされてよく目立つ。静だった。


 スカートの裾を翻し、つかつかと靴音も高くわたしたちのテーブルのそばへやってくると「ねえ」とわたしに話しかけてきた。まるでソヒョンやシンジはその視界に入らないかのようだった。


「電話。無視しないで。メールにも返事しなさいよ」

「しらない」

「帰るよ、渚。職員さんが呼んで来いって。悠太も」


 静にきっと見据えられて、悠太が首をすくめる。


「帰らない」

「そう――。悠太は?」

「あ、あの……。おれ……」


 困ったように、わたしと静の表情を交互に見比べて、悠太は言い淀んでいるところに、ソヒョンが割り込んできた。


「硬いこと言わずに、シズカも混じってけば? 夜中のファミレスに制服でやってくるなんて、度胸あるじゃん。補導されちゃうよ?」


 へらへら笑って袖を引くようなそぶりで静を誘う。ばか、この子はそういうのが嫌いなのに。


「わたしが混じる?」

「そっ」


 静のことを認めるような、からかっているようなソヒョンの態度には、底意地の悪さが透けて見える。本当はそんな感じの悪い子じゃないのだけれど、自分を傷つけそうな相手には露悪的に振る舞ってしまう。わたしにはそれが分かるし、だからこそ、この子とつるんでいるのだ。


「わたしをあんたのような、拗ねた子供と一緒にしないで」


 言い捨てた静の言葉の冷たさとは裏腹に、さっとソヒョンの顔に赤みが差して息を呑む気配がした。


「おい」


 立ち上がったシンジだった。手を伸ばして静の肩を掴む。


「このブス、調子に」


 乗るなと続ける前に、ぱんと乾いた音ががらんと人気のないファミレスの店内に響いて、シンジは口をつぐんだ。静に頬を張られたのだ。


「黙れ、クズ男」


 わたしたちを取り巻く空気が、つかの間しんと冷えた。シンジの生っ白い頬がほんのり赤かった。


「渚と悠太を返してもらうからね」

「なにを」

「あんたのような外面ばかり飾って、中身のない男は大嫌いだ。自分が何者でもないことに気付きながら、何者かであるようなふりをする、卑怯者だ」


 張られた頬だけでなく、シンジの顔全体が真っ赤になっていった。


「少しばかりかっこいいからって、悪ぶって、やくざなふりをして、拗ねてみて。あんたになびく女なんてあんたと同じ、何者にもなれない中途半端な女なのよ。知ってるんでしょ、気づいてるんでしょ、だから同類哀れんで夜中ファミレスにたむろするんでしょ……」


 ごつんと音がした。止める間もなかった。拳を固めてシンジが静の顔を殴りつけた音だった。


「クソ女。利いたふうなこと言うんじゃねえよ!」


 テーブルの上に、たたっと赤い雫が走るように落ちた。血だ。見ると静の白い制服の胸元も赤く染まっていた。


「殴ればいい」


 滴る鼻血を拭おうともせず、静はシンジを睨め返した。


「女なんて殴って黙らせればいい。そしてあんたの思い通りにすればいい。無様な男」

「こいつ」


 鈍い音がして、静の鼻血が更に細かく飛び散った。見ていられない。


「やめて!」


 やめてよ静、そんなふうに本当のことを言うのは。ナイフをわたしたちの胸に突き立ててえぐり出し、その心臓を手に眺めるようなことは。あなたのためにならないし、むしろあなたを傷つけるだけなのだから。


「やめてくれよ、シンジさん」


 悠太が抱きかかえるようにしてシンジを制止した。


 それからのことはあまりよく覚えていない。激昂したシンジが何度も静を殴って、それを悠太が必死に止めても止まらなくて、ファミレスの店員と一緒にわたしたちが二人を引き離した時には、駐車場に警察がやってきていた。


 赤い回転灯にちらちら照らされながらパトカーに乗り込むシンジと静を見ていて「ああ」と息を漏らすように呟いたことだけはしっかりと覚えている。これから警察で色々と尋ねられるのだろうと。本来なら警察からあれこれ問いただされるべきはわたしや悠太なのではないか、静はなにも悪くないのにと考えながら。

 その日、静は帰ってこなかった。長い夜になった。




 ☆




 朝鮮半島及び印パ国境における一〇年間にわたった『非核化戦争』が終結したこの年は、『MIKAZUKI』計画が本格的に動き始めた年としても記憶されることとなった。一月に有人月面探査に先駆ける有人観測機「さきがけ」が月周回軌道に、十二月には無人探査機「つくよみ」が静かの海に、それぞれ送り込まれ観測を開始しはじめた。美しい月面の観測画像が、次々に我々の元へ届けられるようになっていった。






 四


 ポスターには、濃紺の夜空に浮かぶ三日月と、虚空を疾走する白銀の探査機、そしてそれらを見つめる黒髪の女性の横顔が描かれている。『MIKAZUKI』計画の広報ポスターだ。


 そのポスターは発表されるなり、世間の話題となった。センスのいいポスターデザインと、初めて公開された有人探査機のディテールが注目を集めた。そして謎めいた表情を投げかける女性――この女性はだれだろうと。

 ほどなく、彼女がタレントやモデルなどではなく、JAXAに採用された一般の女性職員であると分かるとマスコミはこぞって「美しすぎるJAXA職員」を取り上げるようになった。


 成海静 二〇歳。

 東京都出身 都立空城高校卒業。

 二〇三三年、一般職員としてJAXA(宇宙航空研究開発機構)入庁。翌年、『MIKAZUKI』計画広報啓発ポスターに職員モデルとして採用される――。






 夕刻、西の空に低く架かる三日月は、再生と成長のシンボルらしい。高校を卒業後、ソウルの大学へ入る道を選んだソヒョンから送られてきたメールにそうあった。この時期にあの国へ戻ろうとするだけで、大変な困難と勇気を必要としたけれど、戦争のひどいありさまにじっとしていることができないと彼女は故国へ戻った。


 ソウルの空に三日月を見上げる度、この空は懐かしい日本まで続いているのだと思えて、涙が出てくる――メールの文面から立ち現れるソヒョンは、思いのほか感傷的な女だった。


 テレビの気象予報が、関東の木枯らし一号を予想していたこの日の帰宅は遅くなった。午前二時、いつものように深夜営業の定食屋で悠太と待ち合わせ、遅い夕食をとる。座りの悪いテーブルに肘をついてほうれん草のお浸しをつつきながら、ソヒョンからのメールを見せると「頑張ってるじゃないか」とにこにこしながら、揚げ出し豆腐を頬張っていた。


 この春、高校卒業と同時に施設を出た悠太と、一年早く社会人となっていたわたしは一緒に暮らし始めていた。惚れたとか腫れたとかそういうのじゃなくて、二人でいるのが自然に思えてどちらからということもなくこうなった。悠太はいいやつだし、将来、結婚してもいいなと思う。


 いま、悠太は宅配運送のドライバー、わたしはスナックのホステスとして働いている。悠太は朝早くから夜遅くまで忙しく、水商売であるわたしの仕事も終わるのは毎日深夜になる。ふたりでいられるのは、こうして夜遅くに定食屋で夕食をとるときだけだ。


「仕事どう?」

「どうって何」


 半ばとぼけたように悠太は応じる。


「大変?」

「そうでもないさ」


 そうでもない訳はない。宅配のドライバーは、どこ会社でもとても忙しい。その割に低賃金で割のいい仕事とはいえない。非核化戦争が終わるとともに、戦争特需からくる好景気も雲散霧消した。いまは朝鮮半島から戦争を逃れてきた人と日本人が、不況のなか仕事を奪い合っているのが現状だ。


 せめて大学へ進学できていればと思わないこともなかったけれど、高校を卒業すれば施設を退所し、経済的な援助がなくなるわたしたちにとって、大学進学と経済的自立を両立することはとても難しいことだった。


「静だって、進学は諦めたんだしな」


 ぽつりと悠太が呟く。箸を止めた視線の先、煤ぼけたテレビの隣の壁にあのポスターが張られていた。志望の大学に合格するための学力は十分と言われていた静も、経済的な理由から進学はしなかった。それが今では、このポスターのおかげですっかり有名人だった。一年中、学校の制服ばかり着ていて「ダサい」という言葉の見本のようだった女の子が「美しすぎるJAXA職員」だなんて、あのシンジは今どういう思いでいるのだろう。


 ポスターの中の静は、白いシャツにジーンズというラフな服装でこちらに背を向けている。腰まで届く長い髪を揺らして視線を月の方へ投げかけている。


「きれいだよな、確かに」


 わたし以外の女性を、悠太が褒めるのを聞くといらっとするっていうのは嫉妬なのだろうか。でも、確かにポスターのなかの姉はきれいだった。


「ねえ」

「うん?」


 ずっとむかし、わたしたちが施設に入ったばかりの頃、子供部屋の二段ベッドから月を見上げる静を見て、きれいだなと言ったことを覚えているかと聞いてみた。


「覚えてるよ」


 悠太は、最後に残った鶏の唐揚げに箸を伸ばした。


「最初の記憶なんだ。おれは、まだ小さいうちに施設に預けられただろ。両親の記憶はないんだよ。いちばん古い記憶は渚とふたりベッドの中で、月を眺める静をきれいだねって話したことさ」


 だから、渚と静は特別なのだと悠太はいう。どういう風に特別なのかと訊くと少し考えから「家族、みたいな?」と首を傾げていた。


 夕食後、自宅のアパートへと辿る道には、冷たくて強い風が吹きつけていた。上着の襟をしっかり合わせないと冷気に身体がさらわれそうな夜だった。明日は出勤前にマフラーと毛糸の帽子を出しておこう。


 アパートへ続く道は、水銀灯がぽかりぽかりと等間隔に並んでいて、アスファルトの路面を白っぽく照らしている。電線をわたる北風がひょうひょうと鳴って、わたしたちは互いに互いの身体を抱くようにして家路を急いだ。


 駅から歩いて十五分、ようやく見えてきたアパートは、ずんぐりとしたシルエットをようやく傾きかけた満月のかかる夜空に投げかけていた。もう三時になる。どの部屋の明かりも消え、アパートは都会の夜よりずっと真っ黒だった。


 月明かりを頼りに、赤錆の浮いたアパートの外階段を足音を忍ばせて上ると、吹きさらしの二階廊下にだれかがうずくまるようにしゃがんでいるのが見えた。


「だれ?」


 長い黒髪が揺れて、コンクリートの廊下に零れ落ちた。女だった。


「渚……?」


 小さな声でわたしの名を呼んだ。でもわたしは凍りついたように動けなくて、駆け寄ったのは悠太だった。


「静じゃないか!」

「悠太……」

「こんな寒い所に座ったりして、どうし――」


 手を差し伸べた悠太が、静を助け起こそうとした姿勢のまま言葉に詰まり動かなくなった。逆に、月の魔法が解けたのか、動けるようになったわたしが悠太の肩越しに覗き込むと、青白い顔をした静の顔と、彼女がベージュ色のコートの下に抱いている小さな赤ん坊が見えた。その赤ん坊は、静と悠太とわたし、三人の視線を集めて穏やかな寝息を立てていた。






 1Kの六畳間に、ちゃぶ台を囲んで大人三人が座ると少し狭い。押入れから出したばかりの石油ストーブに火を入れ、ホットココアを飲むとようやく気分が落ち着いてきた。赤ん坊は目を覚ますこともなく、悠太の布団で眠っている。静は湯気を立てているマグカップをじっと見据えたまま黙りこくったまま。部屋に入ってから一言も口を聞こうとしないわたしと静に、だんだんと悠太がオロオロしはじめた。


「寒かっただろ、ココア飲めよ。あったまるぞ」

「……そっか。悠太、渚と一緒になったんだ。びっくりした」

「一緒っていうか……、なあ」


 わたしたちのことをなんと話したものか、悠太は持て余し気味だ。わたしの顔色を伺って口ごもる。


「いいよ。悪いことしてるわけじゃないんだし。そう、一緒に暮らしてんの」


 そう言うと「そうなんだ」と呟いて、はじめてわたしの目を覗き込むようにみた。その目に強い光がこもっていた、わたしのよく知っている静の目だった。


「ココア飲みなよ、それから話そう」

「うん」


 温かいマグカップを抱くようにしてゆっくりココアを飲み干すと、静はわたしと悠太に赤ん坊を預かって欲しいと切り出した。


「預かるって言ったって……」

「そもそも、だれの子なの?」


 いま静が話したことについて、悠太はその戸惑いを、わたしはその核心をそれぞれ口にした。


「わたしが戻るまで、わたしの子をあなたたちに預かって欲しいの」


 何を自明なことを聞くのかと言わんばかりに静は言った。


「この赤ん坊、静の子なのか!」


 すやすやと眠る赤ん坊を見て信じられないという表情の悠太。わたしもまさかとは思う。でも、もっと気になったのは別のことだ。


「戻るまでって、静?」


 戻るまでということは、静はどこかへ行こうというのだろう。そのどこかというのは、もちろん――。


「もちろん、わたしが月から戻るまでの間ってことよ」


 ほんの少しの沈黙。

 それから、「どういうことだよ突然やってきて無茶苦茶だよ。ちゃんと説明してくれよ」と怒りというよりは困惑しきった様子で悠太が吐き出すように言った。気持ちはよく分かるし、わたしも同感だ。でも、静ならそういうことがあるかもしれない。わたしはアパートの廊下にうずくまってわたしたちを待っていた彼女を、ひと目見たときから予感していたのかもしれない。


 おかわりを淹れてあげたココアのカップを手に静が話してくれたことは要するにこういうことだった――。






 中校生の頃から、静は大学生に混じってJAXAの公開講座を受講していた。当時から物理学、宇宙工学に関する知識は抜群で、講師たちの間で「すごい中校生がいる」と一目置かれる存在だったという。宇宙飛行士の募集要項に「自然科学系大学を卒業していること」とあるため、大学進学を目指したが、児童養護施設「白光園」では高校卒業と同時に施設を出ていかなければならないと分かり進学を断念、本来なら短大卒業以上の資格が必要なJAXAの一般事務職に特例で採用された。

 ここまではわたしたちも知っていたことだった。


 JAXAに採用された静が配属されたのは、第三宇宙技術部門第二有人探査研究所月面探査班――いわゆる『MIKAZUKI』プロジェクトチームだった。チームリーダーである白崎准教授の強い要望で実現した異例の人事である。


「白崎准教授?」


 悠太にはぴんとこなかったようだが、わたしにはすぐ分かった。


「ほら。月観測機『さきがけ』の機長だった人よ」

「月観測のシラサキって――宇宙飛行士じゃないか!」


 そう、白崎准教授は現役の宇宙飛行士なのだ。JAXAのロケットではじめて宇宙に飛び出した宇宙飛行士のひとりであり、『MIKAZUKI』計画発足当初からの主要メンバーだ。五年前の「さきがけ」による月観測が成功して以来、プロジェクトの若きチームリーダーとしてメディア露出も多く、JAXAの広告塔ともいえる存在だ。


「彼は、わたしの能力をとても評価してくれてる。『君なら月へ行ける』そう言ってくれたの」


 白崎は、まだ中学生だった頃から、静に目をかけてくれていたという。


「わたしも彼のためだったら、なんでもするわ」


 熱を帯びた静の言葉は、わたしには「月へ行くためなら、なんでもする」と言っているように聞こえてならなかった。


 JAXAのポスターに静を起用することを主導したのも白崎だった。自身が頻繁にメディア露出するうちに、白崎はマスメディア――ひいては大衆が宇宙開発に何を求めているのか、理解するようになりはじめた。そして『MIKAZUKI』計画には、それが欠けていた。


 科学者の白崎には理解し難いことだったが、メディアを通じて理解した大衆が宇宙開発に求めているものとは、知的好奇心を満たすことではなく、科学的真理を探究することでもなかった。大衆が欲するのは、ロマンに満ちたドラマであり、月を目指す人々の織りなす美しい物語だった。人跡未踏の月世界、壮大な宇宙開発計画、科学の粋を集めた有人探査機――舞台は整った、あとはだれがその物語を演じるかだった。


「それを静にさせようというの?」

「まさか」


 悠太はにわかに信じられないといった様子だったが、白崎のメディア戦略は当たった。『MIKAZUKI』計画の広報ポスターは、まずモデルである静の透明感ある佇まいがメディアの注目するところとなり、次いで、この女性がJAXAの正規職員であること、高校卒業の資格しかないにも関わらず類い稀な宇宙工学に関する知識をもつ秀才であること、事情により大学進学は叶わなかったが特例によりJAXAに採用されたこと――メディアは次々に暴いていった静の生い立ちに物語を見いだし、『MIKAZUKI』計画のヒロインとして持ち上げ始めた。大衆受けを狙って、静を「かぐや姫」になぞらえるテレビ局まで現れている。


「わたし、もうすぐJAXAの一般職から研究職へ異動になるの」

「それって……」


 それは白崎の狙いどおり、そして静の望みどおりだったはずだ。


「そう。プロジェクトチームのメンバーに入るのよ。わたしは月へ行くの」

「すげえ」


 すごい。本当にすごい。ずっと月を目指してきた静は、宇宙飛行士となるまであと一歩のところまでやってきている。


 JAXAの思惑と大衆の願望の一致点に、静は存在している。月面へ人を送り込むのには巨額の費用が必要となる。そうまでして月を目指すためには、これを負担する人々の理解が不可欠だ。白崎の広報戦略により大衆のヒロインとなりつつある静を宇宙飛行士に据えれば、『MIKAZUKI』計画に対する国民の理解は格段に進むに違いない。

 いま、悠太の布団で眠っている赤ん坊さえいなければ。






「この子さえいなければ、ね」


 静の赤ん坊を見る眼差しには、母親らしい温かさが欠けていた。背筋が薄ら寒くなるほどに。


「そんな言い方よせよ」


 もう部屋は寒くないはずだが、いやな思いを振り払うように身ぶるいして悠太が言った。


「この子の父親は?」


 わたしの問いかけに、答えを用意してこなかったのか、珍しく静が言い淀んだ。


「……白崎よ」

「ええっ!」


 なおさらこの子はどうにかしなければならない。著名な宇宙飛行士でもある白崎は妻帯者だ。このことが表沙汰になれば、スキャンダルのため白崎と静の思い描く未来図は吹き飛ばされてしまうだろう。


「それで、この子をわたしたちに預けたいと」

「そう」


 そして居ずまいを正すと、静は手をついて深々とわたしたちに頭を下げた。


「お願い。わたしは月へ行かなければならないの」


 困惑しきった様子で悠太がわたしの顔色を見た。無理もないと思う。異常だ。普通ならこんなこと、思っていても口にしようとは思わないだろう。でも、静なら――。


「ほかに頼める人はいないの」


 それはそうかもしれない。思い返せば子どもの頃から、静はなにをするにもわたしを頼っていた。わたしに話しかけていた。ふたりっきりの家族であったし、彼女には頼るべき友達がいなかったから。それは今も変わらないのだろう。


 いままではそれでもよかった。わたしたちはふたりっきりで、双子のわたしたちは、お互いにとってのもう一人の自分に甘えていたと思う。そう甘えていたのは静だけではない、わたしもそうだ。


「静――。わたしね、あなたの思うとおりにしてあげたい」


 驚いた顔で、なにか言いたそうにする悠太をわたしは目で制した。


「でも、わたしももう一人じゃなくて悠太がいる。いまは赤ん坊のこの子だって、いずれは大人になる。わたしたち家族はふたりっきりじゃなくなるんだ」


 顔をあげて静は黙って聞いている。今日こそは話さなければならない。わたしがあなたのことをどう思っているのか。そして、わたしが何をしようとしているのか。


「わたし、子供の頃からずっとあなたのことが嫌いだった。


 いつも自分のやりたいことをやりたいように振舞って、周囲の人たちを振り回してるのに、静はどこ吹く風と知らん顔だった。言いたいことを言いたいようにずけずけ言って人を傷つけたり、みんな一緒に何かをやろうとしても、ひとり知らん顔で別のことをやっていたり――。いろんな人から静の悪口や嫌味を聞かされて、わたしがどれだけ迷惑したかあなたは知らないでしょう。あなたの妹であることが嫌だった」


 話を切ると、夜の底に沈んだアパートは静かで、ただ赤ん坊の寝息が聞こえるだけ、静はすぐ前の畳の上に、悠太は押入れの襖に、それぞれ視線を向けて、私の話を聞いている。


「今もそう。自分勝手で好きなことだけをやって、周囲に迷惑をかけ続けて。それが月へ行く? 現代のかぐや姫? ふざけるんじゃないわよ。そんなこと聞かされるわたしの身にもなってよ。


 施設では、誰からも好かれるようにしようって教えられて、自分でもみんなと同じように頑張ろうって思って、でもそんなには上手くいかなくて、施設の子だからって後ろ指さされたり、いじめられたり――。高校はなんとか卒業したけど、水商売なんかやってて、お客から『君、ポスターの子に似てるね』なんて言われるわたしの気持ちを考えたことある? ないよね。静はそんなことできないよね!」


 胸にこみ上げてくるものがあった。知ったことか。身体が吐き出そうとするものがあるなら、言葉だって涙だって――なんだって吐き出すよ。


「渚――」


 背中に悠太の温かい手を感じる。あれ、ホントに涙が出てきた。


「わたしは平凡で普通なの。どうしようもなくそうなの。妹なのに、双子なのに、どうやったって静のようにはなれない。いつも正論を口にして、他人がどう言おうが、正しいことを思った通りに実行する静のことは本当に嫌だった。夢だって言ってたことを、次々と実現してしまうあなたのことを認めたくなかった。


 静のことを認めてしまったら、惨めじゃない? かわいそうじゃない? わたしなりに頑張ってるわたし自身が――。


 だって、わたし自身が一番、だれよりも静のことをすごいなって思ってしまうんだもの。静みたいになれたらいいなって考えてしまうんだもの」


 ぽたぽた。涙が頬を伝って畳に落ちると音がする。涙の理由とはうらはらな楽しげな音だ。ぽたぽたって。


 静はそんなわたしをただ見ていて、何も言わなかった。何か言って欲しかった訳じゃない、言葉が欲しいんじゃない、全然そういうんじゃない、ただ静らしいなって思った。






 静の子供はわたしたちが預かることにした。悠太と話してそう決めた。


 ――家族が月へ行くって、こんな素敵なことはないと思う。そんな人たちは、世界中探したってそうそういるもんじゃあない。静が家族でおれたちはラッキーだよ。


 その夜は、子供の頃以来、久しぶりに三人――赤ん坊を入れて四人が狭い六畳間に布団を並べて寝た。小さな赤ん坊を挟むようにしてわたしと静が並んで横になった。窓ガラスを照らす月明かりにぼんやりと浮かぶ赤ん坊の顔は白くて小さかった。


「この子に名前は?」

「……環」

「そう。いい名前」


 静かな寝息を立てて眠っている環。繊細で壊れてしまいそうな、まだ新しい家族。


「可愛いね。おめでとう――静」


 ぽたぽた。柔らかい布団に落ちる涙に音はないけれど、その夜のわたしには聞こえるような気がした。ぽたぽたぽたぽた――静の涙は。


 まだ環の眠っているうちに静はアパートを後にした。石の巨人のような駅前のビルをミルク色の霧が隠してしまっていて、道をゆく静の後ろ姿がだんだんと霞んで見えなくなる。その日は寒い朝だった。




 ☆




 この年、JAXAは有人月面探査計画『MIKAZUKI』の詳細を発表した。チームリーダーは先の月観測機「さきがけ」の機長でもあった宇宙飛行士、白崎顕。注目された月面探査機「みかづき」の乗員には若干二十歳だった成海静宇宙飛行士ほか二名が選出され、世情を賑わせた。打ち上げは五年後――。二〇三九年三月三日と発表された。






 五


 ソウルの秋は早い。十月、抜けるような青空に刷毛ではいたような白い雲が何日か現れたかと思うと、風が急に冷たくなって山々の木々を赤や黄に塗り替え始めた。いま、吐く息も白く振り返って見る北漢山も、やや傾きはじめた日差しをいっぱいに受けて紅葉が鮮やかだ。


「もう! 環ったらかくれんぼしてたかと思ったら、公園の木に登ろうとするんだもの。とんだおてんば娘になりそうね」


 四歳になる娘を追って駆けてきたソヒョンが大きく肩で息をついた。毛糸の帽子を被った彼女の頬が赤い。旧ソウル特別市を一望できる高台に人影は少なかった。もっともソヒョンによると、五年前はこの公園を訪ねる人などまったくいなかったらしい。


「環! 戻ってきなさい」


 ひとり花壇の脇を続く赤煉瓦の道を駆けてゆく環を目で追うと、抜けるように青く広い空と、その下で午後の太陽を照らされる旧市街が視界に入ってくる。


 旧市街――十年前の国連平和維持軍が指揮した最終作戦ジ・エンドが失敗に終わり、その報復として受けた核攻撃で市街地の三分の一が消滅、残る三分の二も爆風による壊滅的な被害を受けたソウル特別市の高層ビル群は、大量の土砂と瓦礫で堰き止められた漢江の流れが形作るダム湖の下に沈んでいる。いまはきらめく湖面の上にいくつかのビルが、灰色の墓標のように姿を見せているのが、ここがかつて大都会であったことをわずかに示しているだけだ。


 四年前、わたしたちは、一度は地上から人の姿がなくなってしまったこの街にやってきた。静の言葉を借りるなら、三日月――再生と成長への希望を追って。


「見える?」

「まだよ」


 徹底的に破壊され、放射能に晒されて立入制限区域となったソウル特別市の旧市街と南部一帯には、休戦協定の後、再び人々が集まり始めていた。首都の再興を目指す韓国の人々と、この国の復興需要を当て込んで流入した他国の労働者だ。わたしたちはもちろん当て込み派だ。


「打ち上げは?」

「そろそろかな」


 戦争によってこの街はすべてを失い、あとに瓦礫の山と復興への課題と再生への希望が残された。日本で息詰まるような毎日を送っていたわたしたちは、その希望にかけることにしたのだ。


「悠太も早くこないと、『みかづき』が通り過ぎちゃう」


 わたしと悠太が訪ねるとソヒョンは喜んでくれた。友達がいてくれるのは心強いよねって、それはそのまま口にすることがてきないわたしの台詞だった。


 この街にはまだ何もない、取り戻せていない。でも、何もかも揃っていても、それがわたしたちの手の届かないところに陳列されているようなのわたしの国より、この街の方がずっと思いのままのわたしでいられる気がする。






 二〇三九年十月二〇日、午後四時五八分。二度の打ち上げ延期と、四度にわたる機器トラブルを乗り越えて種子島宇宙センターから月探査機『みかづき』は打ち上げられた――。






 打ち上げ時刻までには悠太が公園に姿を見せた。遊び疲れた環をおんぶしている。大きく傾き始めた日差しは金色を帯びてソウルの街と湖の水面を照らし始めていた。


「静は大丈夫かな」

「平気よ」


 静なら平気。

 青から藍色へ深まりゆく夕刻の空を見上げる。気象条件が良ければ、打ち上げ後『みかづき』はソウルの南の空を低くかすめるように飛ぶのが見えるらしい。ほかにも空を気にしている人影が何人かいるのは同じように『みかづき』を見つけにきたのかもしれない。


「珍しくメールを送ってきたの」


 どれどれと悠太、ソヒョンがわたしの携帯端末を覗き込む。悠太の肩越しに小さな環も。


「珍しいね」

「どういう意味なんだろうな」


 まだ文字の読めない環は「なんなの、なんて書いてあるの」と悠太の背中で体を揺すっている。


 そんな午後五時――。


「きた」


 南西の空低く、傾いた太陽の光を受けてきらきらと輝く光点が南の空に向かって飛ぶのが見えた。


「みかづきだ!」

「みかづき、みかづき」

「ほんとに見えるのねえ」


 わたしたちと同じように空を指さす人たちがほかにもいる。公園にいるすべての人が空の一角に目を凝らす。いま静は、何万、何十万もの人々の祈りにも似た思いを受けて、三十八万キロの虚空を月へと向かう旅に出かけたのだ。なんだか涙がでてきた。


『みかづき』はほどなく視界から消えて、公園には虚脱感のような白々しい静けさと日常の光景が戻ってきた。悠太とソヒョンもすごかったねと話しながら、下の街へ続く階段に向かっていた。


 手元に視線落とし、携帯端末に届いたメッセージを読み返す。







《いままで、ありがとう。あなたたちがわたしの家族でいてくれてよかった。わたし、ほんとはあなたのようになりたかったの。じゃあ行ってくるね》







 いってらっしゃい、静。気をつけてね。夕陽に赤く染まった西の空に、白い三日月が現れたよ。今日という日にぴったりだ。

 地球へ戻ってきたら、月と宇宙の話――そしてメッセージの訳を聞かせて。あなたを迎えに行くから。

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彼女は孤独な夜の女王 藤光 @gigan_280614

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