Ⅳ 溶けあい、奪いあうふたり
いちばん最初に奪ったのは母の記憶――
少女は生まれたその時から触れた人の記憶を奪う力を宿していた。
記憶を奪われたほうの人間は、まるで最初から何もなかったかのように、からっぽの存在となる。
その人のすべてを奪って『何者でもなく』してしまうという恐ろしい能力。
残酷な成り行きで彼女の「能力」は、科学者たちの研究の対象とされ、多くの人の『記憶』を望まず手に入れてしまった少女。
自分自身でない、あまたもの記憶が鮮明に立ち現れ、ほんとうの自分との境界がひどく曖昧な存在。
それが、『何者でもない』と名乗った女性の抱える『何者でもなさ』だった。
彼女は、研究施設から脱出を試みた。
その時立ちはだかったのが、彼女の『能力』を移植されたコピー。
生存を懸けた熾烈な戦いが、両者のあいだで繰り広げられた。
「己の危険性を知りもしない子どもが、過ぎた望みを……表に出てきてはいけない存在なんだ! おまえも……わたしも!」
「……私は! 私自身を生きたいだけなのに! 邪魔をしないでよ!」
――そう、だったのか。
わたしとあなたは、前に一度逢っていたんだね……
「……わたしの記憶が流れてきたようだね。そうだよ」
意識下に入ってきた彼女が語りかけてくる。
……ウーティスさん。
これがあなたが名前を変えて逃走していた過去だったんだね。
そして、同時に知ってしまった。
幾重にもヴェールに覆われ隠されていた、わたしの過去も。
わたしも、ウーティスさんも、おなじだったんだ。
「あの時の能力移植者がキミだったなんてね、メル・アイヴィー……できれば、こんな形で知りたくはなかった」
……わたしもだよ。
「その力が今のキミを苦しめているのなら……私がすべてを葬り去ってあげるよ」
……ウーティスさん!? なにを――!?
な、なにこれは……
わたしの中の黒い部分が、強い力で外へと引っ張られ……
「……もう大丈夫。これで、あなたに巣食う悪いものはなくなった」
ウーティスさん……!? あなたに、あの黒いものが、移って……!?
彼女は力なく倒れていたわたしの友達にも触れる。
「今は気を失っているけど……すぐにお友達も元に戻るはずだよ。こうしてキミを苦しめて、お友達にまで危害が加わるような事態になっちゃうなんてね……過去のキミの言う通りだった。私は表に出てきちゃいけなかった。ごめんね……でもこれで、最後だから」
ウーティスさん……? あなたは何を言ってるの……?
まるでこれが別れみたいな……
――!? ……ここは4階だよ!? まさか……!
「心配しなくても、私がいなくなればすべて忘れる。さっきそういう風にしたから。キミを苦しめてきたもの全部、私がなかったことにするから……」
なかったことって……やめて……お願い、やめ……
「ダメぇぇぇぇ─────────ッッ!!!」
「おはよう、メル」「おはよ~~メル」
「うん、おはよう」
いつもの登校のあいさつ。
わたしメル・アイヴィーには昔の記憶がない。
でも最近は、それでもいいかなと思っている。
「メル、昨日の路上ライブ大盛況だったじゃん」
「えっ、見てたの!? は、恥ずかしい……」
「照れることなんてないのに……ほんとに、メルはすごいよ」
「あたしたち、これからも応援するからね」
「あ、ありがとう……」
だって、わたしには……
心からの優しい言葉をかけてくれる、そんな友達がいるから。
過去を知りたいという欲求はある。
だけど、メル・アイヴィーとしてのわたしじゃなかった時を考えることからすべて逃走して、わたしの歌を聞いてくれる人、わたしを応援してくれる人たちと、メル・アイヴィーとしての『記憶』でぽっかりとした隙間を埋めていけばいい。
過去からの逃走。でもそれはポジティブな逃走なんだ。
……だけど、なんだろう。
わたしはとても大切なことを忘れてしまったような気がして、以前とは違うぽっかりした穴が開いてしまった気がしてるんだ。
――あれ? 以前、って? なんだろう、思い出せない。
すっきりしないまま、今日もわたしは歌う。
「――ありがとうございました!」
拍手と歓声が沸き起こる。
なんにもないわたしだったけど、最近は歌うことでわたしらしさを見つけられた気がする。それもこれも、言ってしまえばただのわたしの自己満足にもかかわらず集まって聴き入ってくれてる人たちのおかげだと思う。
そんな聴きに来てくれた人たちの顔をなるべく丁寧に脳裏に刻み込みたくて、人だかりの奥の方まで目を凝らす。
目に留まったのは、いちばん後ろの方で顔をヴェールで覆った――
わたしは、ひと目ですべてを思い出す。
こんな大切なことを、わたしは今まで……でも、もう。
溢れる感情を止めることはできなかった。
気づけば群がる人たちをかき分け走り出していた。
「忘れることなんて、できるわけない――!」
追いかけていた人は、立ち止まり、こちらへ振り向く。
ヴェールの奥から、雫のようなものがこぼれ落ちたようにも見えた。
「遠くで見守ってるだけでよかったのに。まったくキミは……なんで追いかけてくるんだよ……!」
わたしが胸に飛び込むのを、その人は拒もうとはしなかった。
『何者でもない』という名前のひとは、わたしにとって『ウーティス』という確かな名前だから。もう絶対に、逃してなんかあげないんだ。
OUTIS わたしたちの逃走論 コミナトケイ @Kei_Kominato
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