あのみずうみに溺れる
淡島ほたる
第1話 夏へ
「毒ね」
母が言う。どく、とつぶやくと、足許からつめたい煙が襲ってきた。寝床を持たない人間の集う地下街は、倦んだ泥の気配がした。
「毒、だから、さわらないこと」
「わかりました」
こたえる。彼女は僕の手をひいてすすむ。母の手は白かった。脆い、訣別の色をしていた。
十年前の冬、母である葵は亡くなった。
僕はおそらく泣かなかった。おそらく、というのは、式の最中をおぼえていないからだ。カーテンレールが抜け落ちたみたいに、へんな感じがした。記憶は曖昧で、そこだけが濃紺の墨で塗りつぶされたみたいだった。
白い陽光が柔らかに降りそそぐなかで、彼女の葬儀は滞りなくおこなわれた。きっと母はこんな式を望んでいなかっただろうと深く思った。簞笥からひさびさに出した礼服は樟脳のにおいが染みついていて、一刻も早く脱いでしまいたかった。
「こんなに朽ちていたなんて、私、知らなかったのよ」
日のあたらない母の部屋は夏でも寒々しかった。彼女はおそろしく光に弱く、家にいるあいだはずっと、夜を湛えたあの部屋で過ごしていた。
ある真昼のことだ。僕は熱で臥せっている母に桃を剥こうとした。包丁が見当たらず困りはてた僕が和室の襖をそっと開くと、彼女は化粧台のまえでぼうと窓をみつめていた。後ろ姿がこの世の人ではないようにみえて、しばらく声をかけるのを逡巡した。
僕は自身と母、それぞれの抱える孤独を思った。うわずみのような寂しさが、喉の奥から熱を伴ってせりあがってくる。
「葵さん」
よぶと、彼女は固い気配のまま振り返った。傷んだ長い髪の毛を隠そうともせずに、「あぁ」と、どこか訴えるような声を発した。それから「あなたは知らないままで、いつも」そう、うわごとのように告げて僕を見る。ぞっとして後ずさった僕に「逃げなさい」と、彼女はそれだけを言って激しく咳き込んだ。僕はわけがわからぬまま母の言葉にしたがって踵を返した。窓の外では白いくちなしの花が、やわらかな風に揺れていた。
「ありがとう、
僕の言葉に、彼女はゆるく首を横に振った。
「お礼なんていらない。私、うれしかったんだよ」
廉は少しだけ困ったようにほほえんだ。ごめん、と心の中で思う。いつも僕はなにかをまちがえるから、「ごめん」は日に日に溜まってゆく。
曇った気持ちを振り切るように、カーテンを思いきり開けた。窓の外に広がる晴れた秋の空は、どこまでも高く眩しい。振り返ると、廉はすでに着替えて椅子に座っていた。
彼女はするすると流れるようなはやさで服を身につける。
「すばやいね」
僕が言うと、彼女はちいさく吹きだした。
「あなたはなんだか、幻みたいだよ」
廉の笑い声がやけに優しく感じられて、僕はひどく名残惜しい気持ちになる。彼女は軽やかに椅子から立ち上がると「また必要になったら連絡してね」と、銀色の薄っぺらい端末を軽く振った。カーテンの隙間からほそく洩れる夏の夕闇は、重くしっとりとした色をしていた。
「ああ。たすかる」
たすかる、という言葉は、言ってみてからいつも軽薄な響きだと思う。綿みたいだ。彼女の若草色のシャツとスカイブルーのジーパンが、光のうしなわれた部屋で青白く映った。
「
口調にはからかいが滲んでいるのに、その声はとても大人しくて、僕は少し混乱した。廉はつやつやしたキャメル色のブーツに足をつっこんで、僕を見る。そうしていつだって、優しい温度でもって笑うのだ。おじゃましましたあ、という柔らかな声だけが、玄関に残されてゆく。
ひとこいしい。彼女の言葉をなぞって、ああたしかにそうかもしれない、と妙に納得した。
廉が絵のモデルをしてくれるようになってから数か月が経ち、僕はうまれてはじめて、生というものを感じていた。矛盾しているようだけれど、僕はいままで、生きながら死んでいたのだ。
「夾は、あのひとの子にみえないのよ」
母はしばしば僕にそう言った。
彼女は冷えたレモン水をグラスに注ぎながら、僕のうなじあたりを濡れた目でみつめた。もう長くはないと知った人間は、どうしてこうも美しいのだろう。
すいと水を飲みほす姿、ささやかに動く喉に、僕はしばしみとれた。
「……
あなたはちがう。
母は決して言わなかったが――言わないと自身に深く誓っていたようだったが、それはあきらかだった。毎回、何度でもそう締めくくった。心底ほっとしたような顔で、なのにどこかひどく落胆しながら、母はつぶやく。
乾いた彼女の指が、僕の髪にふれる。そこにはわずかな迷いや遠慮のたぐいが含まれていて、なんで、と問い質したい気持ちに駆られた。罵倒して、あなたなど嫌いだと告げて、夢を見るなと詰りたかった。
「夾は、なにも苦しまずにいてくれたらいい。なにも考えなくていいの」
彼女の言葉は呪いであり、真摯な祈りだった。だからこそ僕はそれに背いた。そうせざるを得なかった。
あのみずうみに溺れる 淡島ほたる @yoimachi
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