俺は、人の大切なものを……



 俺は、人の大切なものをないがしろにするやつを許すことなんてできなかった。


「どいつだ。黒エルフ族か? 土くれまみれのドワーフか? いや、人間にも卑怯なやつがいるからな……言ってくれ。殴る――のは返り討ちにされるかもしれないが、文句くらいは言ってやる」


 するとチリコは、ぷふっと吹き出した。その瞳には、すでに諦めの色が浮かんでいる。


「よく来るお客さんのひとりよ。名前も、よく知らない」

「どんなやつだ。種族は? 年齢は?」

「種族って……ただのおじさん。四十歳くらいじゃないの? 触るのはダメって言っても手を握られたり頭撫でられたりはあったけど……まあ、よくあることだし」


 声に、かすかな震えが混じった。強がりで覆い隠された恐怖。無理やり麻痺させられた感情。そんな昏いものを抱いて、チリコは日がな街を男と歩いていたのだ。


「それで、どうやって鞄を取られた?」


 注意深く尋ねると、チリコは魔道具を握りしめ、言った。


 断片的に紡がれたそれらの言葉は、先程の説明に増してわからないことだらけだった。

 ただ、なんとなくつなぎ合わせてみると――。


『シブヤ』『歩いていた』『いきなり』『抱きしめられて』『誘われた』『ニマンエン』『ホテル』――。


 単語の詳細などわからない。――が。

 俺の背中に走ったのは、間違いなく怖気であった。


 前後の文脈から察するに、ニマンエンとは、おそらく報奨だ。チリコに差し出された、希少な精石や宝玉、おそらくはそういったもの。

 そして、ホテル、とは……。


 目の前で肩を縮めて震えているチリコの顔が、すべてを語っていた。


「それで」


 乾いた舌を動かして、先を促す。気の遠くなるような沈黙の後、チリコは言った。


 逃げた、と。


「鞄は、そのときに落としたのか」


 黒髪で顔を隠したまま、チリコはうなずいた。


「……でも、連絡があって」


 握りしめられた黒い魔道具は、ランタンに照らされて光沢を放っている。


「預かってるから、おいでって……部屋の番号が」

「…………それで、おまえ……」


 絶句していると、ふいにチリコの形が崩れた。身体を丸めるようにして抱え、ちいさく、ガラス玉をこぼすように、チリコは言った。


「もう、いっかなって」


 こぼれ落ちたその言葉は、割れた破片になって俺の耳に突き刺さった。


「お客さんに触られることは、それまでもあったし。一時間も我慢してれば済むことだし。鞄も返ってくるし、お金がもらえるなら、もう……」


 疲れ切った声を聞いて、理解する。


 チリコは厳密には娼婦ではなかった。

 しかし、その心はすでに、擦り切れてぼろぼろだったのだと。


「おい、チリコ」

「でも、そしたら光に吸い込まれて」


 髪の合間から、チリコの涙に濡れた瞳が覗いた。


「こんな変な場所にきちゃった」


 俺は、唇を引き縛った。


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異世界在住の男が召喚されてきたJKを手懐ける話 ナヤ @naya_beni

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