17話 たぶん、それは、ちがう……



「たぶん……それは、ちがう」

「?」


 不意にチリコがそんなことを言い出したので、俺は首をかしげた。


「家には、お給料の半分くらい入れてたけど、金額的にほんのちょっとだし……。あんまり足しになってなかったと思う」


 チリコは、魔道具の黒いガラスの奥に視点を固定したまま、目を細めた。


「……むかし親に、大学はだめって言われて、大喧嘩して。家を飛びだして、帰りたくなくてうろついてたら、事務所の人にスカウトされたの。出勤時間も服装も自由で、お金はその日のうちにもらえる。好きなときに働けばいいから、勉強の時間も作れる。稼ぎながら勉強して、奨学金もらって大学に行けばいいって」

「ちょっとよくわからないが……、それ、おまえ、なにか騙されてないか?」

「そんなことない」


 小さな声ではあったが、チリコの否定は鋭かった。


「事務所の人はいい人だった。奥さんとかもいて、身元もちゃんとしてるみたいだったし、フレンドリーで話しやすいし、たまにジュースもおごってくれるし……。わたしみたいなのでも、ちゃんと面倒みてくれる……」


 チリコの口に何度ものぼるジムショという名――それがどうも娼館(らしきもの)の名前らしい。チリコは信用しているようだが、なんとも怪しい存在である。きっと悪徳なエルフ族の一派が運営しているに違いない。やつらは口八丁で悪びれもなく善人を陥れるのだ。


「最初は不安だったけど、試しにやってみたら、その日のうちにお給料って五千円もらって……」


 不意にチリコの声がぽそぽそとか細くなる。


「お店に行って、そのお金で、ストラップ……買ったの。親はスマホしか買ってくれなくて、お小遣いももらえなかったから、わたしの鞄、なんにもついてなくて」


 話しぶりから解釈するに、はじめての給金で鞄に飾りをつけたということか。

 チリコは、囁くようにつぶやいた。


「そしたら、なんか、はじめて皆と同じになった気がした」

「…………」


 俺は反射的に蜂蜜湯の器をとろうとした。もうそれは空だった。

 しかし躊躇せず口をつけ、ぐっと唇で器の縁を噛んだ。そして、頬からしたたり落ちるものを隠そうとした。


 チリコが、眉を跳ね上げる。


「ちょ、ちょっと、なんであんたが泣いてんのよ」

「……だって」


 ローブの裾で鼻を押さえてすする。

 感情のぶつけ先を見つけられないまま、器で顔を隠してうつむく。


 ――わかる。その気持ち。わかるのだ。


 街で暮らしていたころの俺は、今と同じく、羽織るローブはただ黒い糸を織っただけのものだった。


 しかし、街の裕福な魔法使い見習いは、ローブに刺繍をつけるのが普通であった。様々な幾何学模様を組み合わせた、美しい刺繍。高位になればなるほど彼らは金糸や銀糸を使って、豪華な刺繍をローブに縫い付ける。刺繍の柄で二つ名が決まることだってあるのだ。


 でも、俺はつけられなかった。金がなかったから。


 ただの糸の模様。それでも、俺にとっては心を絞られるほど羨ましかった。ひとり真っ黒のローブを着ていると、まるで、自分だけが、人間ではないような気になった。


 チリコにとっては、疎外感の原因が鞄の飾りだったのだろう。働いて手にした金でそれを買ったとき。こいつはきっと、はじめて世間につながったと感じたに違いない。


 チリコはただ、『普通』になりたかっただけなのだ。

 俺がかつて、そうであったように――。


「やだ、えっと……大丈夫?」


 いかん。感極まってずいぶん泣いてしまった。


「ああ……問題ない」


 テーブルの端にあった布巾で顔をごしごし拭く。


「だが、チリコ。なら、その飾りをつけた鞄とは、大切なものだったのだろう。あちらの国に置いてきてしまったのか?」


 もしそうなら、師匠に頼んでなんとかして見つけてもらわないと。

 そう思って訊いたのだが、チリコは椅子の背もたれに身体を預け、力なく首を振った。


「たぶん、もう捨てられた」

「は……? どういうことだ。そんな酷いことを、だれが……!?」


 チリコは気まずそうに視線を泳がせている。なんだ。まだ話していないことがあるのか。

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