16話 まったく、デュラハンが現れるなんて……
まったく、デュラハンが現れるなんて、ついていなかった。
身体を温めるゼンゼルの薄切りで香りをつけた蜂蜜湯を飲んで、俺はへなへなと机に突っ伏した。チリコがいなかったら、今ごろ俺は精霊を食い尽くされた田畑で茫然自失していただろう。
ラズグリーは俺の椅子の横で丸くなっており、イルイルはどこかへ遊びに行ってしまった。
チリコは、まだ半分ほど湯が残った陶器の器で手のひらを温めている。むき出しの膝や頬は泥で汚れていたが、怪我をしている様子はなかった。本当によかった。
そして、チリコの手元には、相変わらず謎の魔道具が置いてある。
「思い出の品なんだな」
「え?」
「その魔道具だ。いつも目に見えるところに置いてるじゃないか」
「……これは」
「わかってる。ご両親の形見だろう、もう触らせてくれなんて言わない」
「はあ? 勝手に殺さないでよ。お父さんは、生きてる」
「はっ」
面食らう俺をよそに、チリコは魔道具を片手で持った。黒いガラスの部分を、親指でなぞる。
ふと、静寂が訪れた。会話の隙間に落ち窪んだ沈黙。次の言葉を選ぶまでの、迷いの時間。
「わたし、お散歩してたの」
チリコは、消え入りそうな声で言った。
俺は、瞬きをした。
「……散歩か。良い習慣だな?」
「違う。お散歩っていうバイト……仕事よ」
「仕事?」
頭が理解した途端、背中がざわつく。チリコの仕事ということは――。
「道端に立って、お客さんを待つの」
チリコの青ざめた肌からは、感情という感情が抜け落ちているように思えた。チリコは続けた。
「お客さんが取れたら、どこでもついてく」
「――――」
それは。
「……食事したり、映画観たり、カラオケしたり」
「…………」
うん?
ちょっと待て。想像していたのと、なにか違うぞ。
「エーガとかカラオケとかよく分からないが、つまり、男と街を遊び歩くということか?」
チリコはしばらく黙ったのち、「うん」とだけ言った。
娼婦というより、即席の愛人みたいなものか? 異国とはいえ、妙な商売があったものだ。
俺の困惑は顔に現れていたらしく、チリコは口早に言った。
「それでも、事務所の人はちゃんとしてたし、お給料は日払いだし。学校にもばれないように制服のリボン変えてるし、お客さんも下着欲しいとか変なこと言われたりするけど、悪い人ばかりじゃなくて、おいしいとこに連れてってもらったり、やってみると、意外に、怖くない……」
俺には、なぜチリコがそんなにむきになるのか、わからなかった。するとチリコは、ますます声を詰まらせながら言った。
「うちの事務所、身体触ったり個室の利用は禁止だから。最初に言えば、そういうのが目的のお客さんは帰ってくれる。だから……」
あ、と俺は目を開いた。
「だから、それは違う……から」
……それが伝えたかったのか。
口角を下げ、前髪で目を隠すチリコに、俺は「そうか」と答えた。師匠なら、こんなときなんて言うんだろう。上手に慰められない俺は、うなずいて、疑問を投げかけた。
「親父さんは承知してるのか」
チリコの顔に、衝撃と恐怖が走った。俺も、緊張して待つ。答えによっては、俺は、チリコの住んでいた家を見つけて父親を殴りにいかなければならない。
「し、知らないに決まってる。仕事、忙しくて……ほとんど帰ってこないもの。それに、わたしより妹のほうが荒れてるし。お給料は、おばあちゃんにもらったって言えば信じてくれるし」
俺の脳裏に、困窮した家族の姿が描きだされた。極貧の境遇で研究を続ける錬金術師の男。まがいものの金を生成したばかりに名声を失ったのだろうか。怒りと焦りの中で、研究は遅々として進まない。
いっぽう街での暮らしは、金がなければなにもできない。俺だって、貧困の惨めさは知っている。孤児院を追い出されて、雨の中で空腹を抱えてうろついていた日々を思えば――。
「家のために、稼いでたんだな」
チリコは指先が白くなるほど強く魔道具を握りしめていた。
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