最終話○まりあとかなえといのり


 一年生の頃の教室からは見えなかった桜が、窓から見える。買い換えた新品の上履きのつま先で床をなぞりながら、まりあは黒板の文字を追った。

「二年三組の合唱祭実行委員は、夢路かなえさんに決定です。次、福祉委員、やりたい人いますか?」

 勢いよく手を上げようとして、隣の席の生徒の手が上がっていることに気がつく。

「他の委員より楽そうなんで、あたしやりまーす!」

 まりあはぎょっとして上げかけた手を下ろした。その瞬間、ローズとレイジーがぎゃあぎゃあ騒ぎ出した。

『おいおいおい、他の奴が出てるぞ』

『でもあの子、「楽そうだから」なんて不真面目です。まりあさんのほうが相応しいですよ!』

『でもさあ、別にまりあが立候補しなくても……』

 座ったまま、まりあは上げかけた手を持て余して唸った。

「他にいないようなら、田中さんで決定でいいですか?」

「ま、待って!」

 まりあは慌てて声を上げた。クラス中の視線が集まる。斜め前に目をやると、かなえがまりあの顔と、立候補した生徒の顔を交互に見て、きょろきょろしている。小動物のようで可愛くて、心がふわっと軽くなった。

「私も福祉委員やりたいです!」

 まりあが思い切って言うと、斜め前で手が上がった。

「学級委員長、カナ――じゃなくて、私、白羽さんを推薦します。白羽さんが去年福祉委員頑張ってたの知ってるんです!」

 まりあが目を丸くしていると、かなえは振り返って小さくガッツポーズを決めた。かなえは可愛いけれど、やっぱり、ただの小動物なんかじゃない。


――☆☆☆――


 新学期初日は係決めと全校集会で終わり、まりあとかなえは桜の絨毯が広がる門をくぐった。

「かなえ、今度のオーディションで歌う曲は決めたの?」

「はい! えへへ……憶えてますか? まりあちゃんが私を助けてくれたときに歌ってくれた曲。あれに決めたんです」

「懐かしー!」

まりあが初めて聖心乙女に変身したときから、気がつけば半年が経っていた。かなえの歌や作曲はめきめき上達し、この間はネット配信で発表したオリジナル曲が、注目ランキングにランクインした。

「かなえ、人気者になっても私のこと忘れないでね」

まりあがしなだれかかると、かなえは眉を下げて笑った。

「なに言ってるんですか。まりあちゃんはカナの親友で、ファン第一号なんですよ?」

 かなえの夢にきらきら輝く瞳は、世界中の人々の笑顔をきっと映していた。

「まりあ、かなえ、待たせたわね」

 凛々しい声がして、三年の昇降口からいのりが現れた。相変わらず綺麗な闇色の髪をするりと手でまとめる姿に、まりあは思わずうっとりと見とれる。

「いのり先輩! 私、今年も福祉委員ですよ!」

「ふふ、私もよ。今年もよろしくね、まりあ」

 三人並んで正門を出る。普通に帰り道を行こうとするかなえといのりを、まりあは引き止めた。

「あのぅ、かなえのオーディションの練習も兼ねて、カラオケ行きませんか?」

 かなえが怪訝な目をまりあに向ける。

「まりあちゃん、気持ちは嬉しいですけど、明日の新学期テストの勉強しなくていいんですか?」

「あっ……いや、春休みそれなりに自習してたし、大丈夫かなって……」

「嘘ね」

「いのり先輩、鋭いですね……」

 いのりとかなえはまりあをじとっと見つめていたけれど、すぐに三人揃ってふき出した。

「来週までお預けにしましょう、まりあちゃん?」

「そうね。分からないことがあったら聞いてちょうだい」

「はぁい」

 まりあがため息をつくと、まりあたちの横をブレザー姿を纏った華やかな容姿の女の子が駆け抜けていった。

「まこと!」

 門の陰で待っていた男の子に飛びついて、満面の笑みを見せる。

「せいら、お疲れ。今日カラオケ行く約束だったよな?」

 聞き覚えのある声にはっといのりを見ると、いのりは目を見開いて呼吸を止めていた。

「い、いのり先輩」

 まりあが手を伸ばして触れると、いのりははっと我に返って、まりあに微笑みかけた。

「……大丈夫よ」

 まりあの頭を撫でて、歩き出す。少しずつ歩調を速めて、カップルの前に立った。

「まこと、せいら。お久しぶりね」

「いのり……」

 まことは一度目をそらした後、いのりにまっすぐ向かい合った。ずっといのりはまことを見つめていたのに、二人の視線が重なったのは初めてだった。

「いのり……、あのさ、ずっと謝りたかったことあって」

不安そうに見上げるせいらに視線をやって微笑むと、まことはもう一度いのりを見つめた。

「あの日、酷いこと言ってごめん。お前が俺のこと好きって知ってたのに、気持ち受け止めてやれなくて、約束守れなくて、……ごめん。ごめんな、いのり」

「……っ」

 いのりの姿を胸の中で、頑なだった最後の欠片がじゅわっと溶けていく。まことはいのりの泣きそうな顔を見て、切なげに微笑んだ。

「俺、せいら以外と付き合う気はない。……でも、ずっと好きでいてくれて、嬉しかったよ」

「まこと……、ありがとう」

 いのりは溢れかけた涙を拭って、精一杯の笑顔を作った。

「あなたたち二人なら幸せになれるって……私、信じてるわ」

 いのりは手を振って、二人を見送った。二人がどちらからともなく手を繋ぐのを見届けると、まりあとかなえの方を振り返って、ぎょっとした。二人は涙で顔をぐしゃぐしゃにしていたのだ。

「な、なんであなたたちが泣いてるの……?」

「だ、だってえぇぇ」

「恋って、ほろ苦いんですねえ」

 いのりはふっと眉を下げると、まりあとかなえを抱きしめた。

「ありがとう」

 いのりはずっと縋っていたものを失った。福祉委員でいる理由も、髪を綺麗に整える理由も、もうなかった。

 それでも今日も髪を梳いて、福祉委員に立候補するのは、それで笑ってくれる大事な後輩がいるからだった。


――☆☆☆――


 家の扉を開け、革靴を脱ぎ捨てる。

『靴を揃えなさいっ』

『いーよ揃えなくて、誰も困んねーし』

まりあはもったりと振り返って、靴のかかとをなんとなく揃えた。階段を駆け上がって、部屋に飛び込むと、目に入るのはベッドと、勉強机。

『勉強机、ですね』

『ベッドだろ』

 まりあはぱたん、と後ろ手でドアを閉めると、しばらくドアに寄りかかって迷った。

『ちょっと昼寝しようぜ。久々に学校行って疲れたしさあ。人間には休息も大事だよ』

『なに言ってるんですか。まりあさん、今寝たら絶対に晩ごはんまで寝っぱなしですよ!』

「うーん……」

 なかなか次の行動を決められない。まりあは相変わらず優柔不断だ。でも、そんな時まりあは、かなえといのりの顔を思い浮かべることに決めていた。


『テストの時、後悔するのはまりあちゃんなんですよ?』

『あなたならできるわ、まりあ』

「……はいはい。はーあ」

 まりあはため息をつきながらも、その口元は笑っていた。

(なんか、頭の中に新しい天使を二人飼い始めたみたい)

 勉強机の椅子に座ると、まりあは勢いよくノートを広げた。

「よし、やりますかっ!」

 天使の歓声と悪魔のブーイングが、聴こえた気がした。

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聖心乙女まりあ 鈴穂(すずぽん) @suzuho

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