第五話○まりあと信じる心
「いのり先輩が……妖魔乙女!?」
かなえは叫ぶ。まりあの袖を掴んだ手は震えているけれど、震えているのはまりあも同じだった。
「うそ……いのり先輩」
「だから言ったでしょう?人を疑うことを覚えたほうがいいって」
さあっと頭から血の気が引いた。妖艶に笑い、人々の心を闇に染めていく妖魔乙女。それが、いのりのもう一つの姿だったのだ。
「じゃあ……、友達って言ってくれたのも、相談に乗ってくれたのも……」
闇色の髪を払いながらまりあの側に寄り、まりあの耳元に囁きかけた。
「やっと気づいたの? ……ふふふ、そう、全部嘘よ。私の目的はあなたを〈悪魔の手下〉にすること」
ズキンと胸を突き刺した痛みが、じわりと悲しみに変わった。いのりの唇がそっと離れていく。
いのりと仲良くなれたと思っていた。少しは心を許してくれたと思っていた。いのりの苦しみを取り除きたいと思っていた。けれど本当は、まりあはいのりのことを、何一つ知らなかったのだ。
『まりあさん!闇の感情に飲まれないで!』
『ヒヒッ、あたしはまあ、そんなこったろうと思ってたよ』
『気を強く持ってください!きっといのりさんにも事情があるんです!』
『おいおいまりあ! そいつはお前のこと裏切ったんだろ。そんな奴に構ってないで帰ろーぜ!』
ガンガン鳴る頭の上で、ローズとレイジーが必死に叫んでいる。まりあは冷や汗を流しながら身を硬ばらせることしかできなかった。
するり、と、いのりの指先ががまりあの早鐘を打つ左胸に伸びる。
「今日は失敗してしまったけれど、諦めるつもりはないわ。力づくでもあなたを堕とす。私はどうしてもあなたを手に入れないといけないの」
「いのり先輩っ!」
青ざめて呆然と立ち尽くすまりあの腕を引いて、かなえがいのりの前に立ちふさがった。
「まりあちゃんにこれ以上手出しをするなら、カナが相手です!シトラス、行きますよ! ホーリーコネクト!」
かなえはコンパクトをかざした。
「明日に夢みるよろこびを! 聖心乙女、ホーリー・ドリーミングシトラス!」
かなえの回すバトンから無数の虹のリボンが伸びる。妖魔乙女はリボンを避けながら扇子を取り出して、かなえに向ける。かなえの周囲を無数のラベンダーの花びらが覆う。
「こんなものでカナの視界は封じられませんっ!」
リボンが花びらの壁を払いのける。ひらけた
「……そうでしょうね」
花びらの中に姿を隠したいのりに向かってかなえがもう一度リボンを伸ばそうとしたその時、花びらの隙間から突然針のようなものが飛んできて、かなえの肩を切りつけた。
「きゃああぁっ」
いのりは扇子の先をうずくまるかなえの眼前に差し向けた。
「私が欲しいのはまりあなの。あなたは見逃してあげてもいいわ」
かなえはいのりを真っ直ぐ見上げて不敵に微笑んだ。
「あまりカナとまりあちゃんを舐めないでくださいね」
いのりの背後から光の矢が降り注ぐ。いのりはすぐに避けようとしたけれど、翼を掠めた矢が黒い羽を散らした。
「なっ……!」
「世界に優しき恩恵を!聖心乙女、ホーリー・ハートフルローズ!」
まりあは空に舞い上がり、かなえの隣に飛んできて肩を貸す。
「大丈夫?かなえ」
「はい、少しかすっただけみたいです」
決意の表情を固めたまりあの横顔を目にして、いのりはふっと卑屈に笑った。
「ああ、そういうこと。やっぱりあなたも本当は私を疑ってたのね。信じた人に裏切られたなら、立ち上がれるはずないもの」
いのりが翼を押さえて立ち上がると、まりあもいのりに相対した。まりあのポニーテールを風が舞い上げる。いつの間にかすっかり日が落ちて、橋に電灯が点り始めた。まりあが福祉委員会の帰りにいのりの涙を見た、あの日と同じ。けれど、今のまりあはあの時のまりあとは違う。迷うことを受け入れて、まっすぐいのりと向き合う。
「いのり先輩……私、すごく悲しいです。今も、戸惑ってます。いのり先輩は友達だって信じてたから。少しはいのり先輩と近づけたのかな、力になれるかなって、思ってたから」
まりあは胸にぎゅっと手を当てた。もちろん、悔しい。もういのりには関わらない方がいいんじゃないだろうか。いのりを救いたいなんて、過ぎた願いだったのではないだろうか。そんな思いが胸をよぎる。
けれど、まりあは、そんな迷いから目を逸らさない。何回でも迷って、何回でも決断する。
「傷ついて、迷いました。でも決めたんです。いのり先輩と今は友達じゃないなら、いのり先輩とこれから友達になれるって信じようって」
まりあは弓に矢をつがえ、引き絞った。
「そのためにも、今は闇に飲まれてなんていられない。私、正々堂々あなたと戦います!」
「……信じられないわ」
いのりは扇子を片手で開くと、まりあに向けた。
閃光が放たれ、ぶつかり合う。まりあの光の弓がパキン、と音を立てて折れる。まりあはすかさず次の矢をつがえ、思いっきり放った。
(お願い、届いて……!)
渾身の一矢は勢いよく闇を切り開いて、いのりの扇子を突き破り、そのままいのりの翼を貫いた。
「うう……っ!」
翼を失ったいのりは先ほどの私服姿に戻り、橋の上に崩れ落ちた。肩で息をしながら、それでもなお立ち上がろうとする。
「は……っ、ま、まだ……」
「いのり先輩、なにが先輩にそこまでさせるんですか」
「あなたは知らなくていいことよ、……っ」
「いのり先輩!」
ふらつくいのりにまりあが駆け寄ろうとした時だった。
(あーあ。もういいよ、いのり)
少年の声が橋にこだました。
「誰!?」
声は、いのりの変身が解けた時に側に落ちたコンパクトから聴こえていた。まりあがそれを手に取ろうとすると、いのりがすぐ奪い取った。
「触らないでっ」
コンパクトを大事そうに両手で握りしめ、声を震わせる。
「マコト……、わ、私まだやれるわ、だからお願い、見捨てないで!」
普段のいのりからも、妖魔乙女からも想像できない弱々しい姿に、まりあは息を飲んだ。
前に妖魔乙女が思わせぶりに言った言葉を思い出す。
――愛する人の為よ。
(あれは、本当だったんだ……)
静かに嗚咽を漏らしながら蹲るいのりに、胸がきゅっとつまる。いのりはきっとこのコンパクトの囁きのまま、命令されるままに、彼女は戦い続けてきたのだろう。
けれど、そんないのりと反対に、「マコト」と呼ばれたコンパクトの声は残酷なほど冷たい。
(いのりってさあ、本当に使えないよね。こんなに早くやられちゃうなんて。まあ別に最初から期待もしてなかったけど……うまくいけば、君より優秀な妖魔乙女が手に入ったかもしれなかったのに)
思いがけない言葉に、まりあは目を瞬かせ、かなえはコンパクトを睨みつけた。
「えっ、もしかしてそれ、私のこと!?」
「あなた、まさか、まりあちゃんを……!」
いのりはまりあを〈悪魔の手下〉にすると言っていた。けれど、マコトの本当の狙いは、まりあをいのりに次ぐ新たな妖魔乙女として覚醒させることだったのだ。
いのりも知らなかったのだろう。顔を真っ青にして目を見開いている。
「マコト……? どういうこと……、まりあを悪魔の手下にしたら、見捨てないでいてくれるって……」
(えぇ? そんな約束したっけ?
そもそもずっと言ってるじゃないか、僕は君を利用してるだけだって。君より使えそうな子がいたら欲しくなるのは当然だろ?)
「ひどい……」
まりあはふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じた。いのりは元々優しく、献身的な少女だ。きっと、愛する人の願いのためならと頑張り続けてきたのだろう。それを、こんな風に踏みにじるなんて。
「マコト、……マコト、私」
いのりは絞り出すように呟いた。瞳を涙が潤して、きらりと雫が落ちる。
「あなたは私以外を選んだりしないって、信じてたのに……」
(いのり、今何て言った?)
マコトの低い声を耳にして、はっといのりは口元を押さえた。
「いのり先輩、いま、『信じてた』って……」
「おかしいわ、私の〈信頼の天使〉はもう死んでいるはずなのに」
『もしかしたら、瀕死の状態で生きているのかもしれません!今ならきっと思い出せます!』
ローズの声を拒絶するようにいのりは身体を丸め首を振った。
「嫌よ! 私もう何も信じたくないの。信じて裏切られるのは、もう……っ!」
(裏切られたのは僕の方だよ。自分の天使も殺せない、出来損ない妖魔乙女)
いのりはマコトが声を発するたびに、怯えたように背中を跳ねさせた。
(でも、安心してよ。まだ君は僕の役に立てるみたいだ。今のいのりの絶望の力を媒体にすれば……)
まりあがマコトの言葉を怒りに震えながら聴いていると、ついにかなえが思い切っていのりの手元からコンパクトを乱暴に奪い、川の下流に向かって思い切り投げた。
「こんなものーっ!」
「かなえ、あなた……! わ、私、それがないと……っ」
立ち上がろうとするいのりの身体を、まりあが抱き寄せた。妖魔乙女ではないいのりは、背丈もまりあとほとんど変わらず、か細くて、思っていたよりもずっと小さな等身大の少女だった。
「いのり先輩、いい加減目を覚ましてください!私、もうこれ以上いのり先輩が自分から傷つくの、見たくないんです!」
生気なく冷え切った指先を温めるように触れる。いのりは潤んだ闇色の瞳を躊躇いがちにまりあに向け、そっと身を預けた。
「変な子ね、まりあもかなえも……、私、あなたたちにひどいことばかりしてきたのに。……私なんかに優しくするなんて」
まりあの体温を受け取って、いのりはかじかむ身体が感覚を取り戻していくのを感じた。
「信じてしまいそうで、怖いわ……」
その時だった。川の下流で爆音とともに、黒い水柱が立ち上ったのだ。禍々しい光景にまりあたちが目を見はっていると、水柱は巨大な黒い悪魔の姿になって、高らかに笑った。
(『信じる』だって? よく言うよ。お前、何人の人を騙してきた? 自分の欲のためにこの町の人を何人傷つけた? )
まりあの腕の中でいのりがひっ、と息をつめた。
(ははははは!いのりは今までと同じように、僕に従っていればいいんだよ!
さあ、僕をその体に取り込むんだ。〈不信の悪魔〉〈絶望の悪魔〉。二つの悪魔を宿した、究極の妖魔乙女の誕生だ!)
悪魔が竜巻のように渦巻く闇となって、橋まで舞い戻った。まりあやかなえごと竜巻がいのりを包む。激しい風が、まりあの腕からいのりを奪っていった。
「いのり先輩!」
「まりあ!」
いのりは渦の中にどんどん吸い込まれていく。必死に右手を伸ばすまりあの左手を、かなえが掴んだ。
「ダメですまりあちゃん、まりあちゃんまで飲み込まれたら……!」
「でも、いのり先輩が!」
まりあの届かない手の先で、いのりは闇に蹂躙される。脚を、腕を、髪を、闇が覆っていく。刺青のように闇が肌に刻まれ、いのりは姿を変えていった。
「あぁあっ! いやぁっ……まりあ、かなえ!」
いのりの叫びは竜巻の中にかき消えた。そして、竜巻が消え闇が晴れた時、そこには、燃えるように赤い瞳と歪な形の黒い翼を携えた、悪魔のような禍々しい姿の少女が座っていた。
――☆☆☆――
「いのり先輩!」
まりあがいのりに駆け寄ると、いのりは悲鳴にも似た叫び声をあげて翼を振り乱した。その声が町中に響き渡ると、町の各所から黒い煙のような闇が立ち上り始めた。
――どうしてあたしを一番優先してくれないの?
「な、なにっ!?」
――あいつら調子乗ってるけどみんなバカばっかりだぜ。
――あーあ、嫌いだなぁ。あの人、会社からクビになっちゃえばいいのに。
次々と立ち上る煙が増えるごとに、悪魔に乗っ取られた人間の声があちらこちらから聴こえだした。妖魔乙女の声が、町中の悪魔の力を強めているのだ。
気がつけば空を悪魔たちが飛んでいる。立ち上る煙はたちまち町中を包み込み、人々の悲しみや恨みの声が重なり合い、町はまるで地獄のような有様だ。
『ははははは!もうまもなくだ。悪魔だけの世界が生み出される……!』
橋の中心で妖魔乙女が気が触れたように笑い出した。いのりの声だけれど、その言葉を発しているのはいのりの身体を支配している悪魔――マコトだ。
『悪魔が支配する世界を想像してみるがいい。誰もが自分のためだけに自由に生きる。迷うことも、悲しむこともない。傷つくこともなければ、傷つけることもない。実に素晴らしいじゃないか』
「馬鹿にしないでください!」
妖魔乙女に飛びかかってリボンを飛ばしたのはかなえだった。ありったけの虹のリボンをステッキから溢れさせて、妖魔乙女を囲い込むように地面に突き刺す。
「カナは、この夢のためなら、苦しんだって不安になったって、いいんです!これがカナの覚悟なんです!」
妖魔乙女はかなえのリボンを背中の歪な翼で切り裂いていく。かなえは怯むことなくぎゅっとステッキを握りしめると、さらにリボンを妖魔乙女に伸ばした。
「うううー……っ!」
「かなえ!」
まりあはかなえの背後から矢を飛ばした。かなえのリボンで動きを封じた妖魔乙女にまりあが攻撃する。
「私の優しさなんてちっぽけで、何の役にも立たないかもしれない――でも、私が迷って決めたから、私はかなえと親友になれた。天使と悪魔がいるから、今の私がある!」
二人がかりでありったけの力を妖魔乙女にぶつける。光が妖魔乙女を包み、弾けた。
『無駄だ』
弾けた光がふつり、とか細くほつれ、消えていく。二人分の全力を一身に受けた妖魔乙女は、先ほどと全く変わらぬ姿で口元を歪ませ、橋に佇んでいた。
「な、なんで……!」
町中から上がる煙が妖魔乙女のもとに集まる。その中心で妖魔乙女が立ち上がり、穴だらけの扇子をゆらりとかざす。
『まりあさん、かなえさん、避けて!』
ローズが叫んだ時には既に、妖魔乙女を中心に爆ぜた闇がまりあとかなえを吹き飛ばしていた。
「きゃあああっ!」
林の木に背中を打ち、二人は地面に打ち付けられた。まりあがなんとか手をついて顔を上げると、橋の中心では妖魔乙女が赤い瞳を大きく開いて不気味な笑いを浮かべていた。
『今やこの町の全ての人々が生み出す闇のエネルギーが、私の味方だ。天使や聖心乙女にはなすすべもあるまい』
「そ、そんな……っ」
――どうせみんな私のことブスだって思ってるんだわ。
――あいつさえいなきゃ全部上手くいったのに!
――怖いよおおお! 助けてぇぇぇ!
町中の悪魔に乗っ取られた人々の声が、まりあの耳に届く。悲しみ、恐怖、傲慢、疑念、侮蔑……。この町の誰もが、胸の内に闇を秘めて生きていたのだ。
『ははは、苦しむ声が聴こえるぞ! 天使なんかがいるせいで苦しむのだ。天使が完全に死ねば、すぐ楽になれるのに、愚かな人間どもめ』
妖魔乙女が空を仰いで笑ったその時、けたたましい声に混じって、聴いたことのある声が聞こえた。
――せいらはかわいーけど、意外と性格悪くね?
「えっ……この声って」
それは、いのりが大事に握り締めていたコンパクトから聴こえてきたマコトの声と同じ声だった。シトラスが二人の耳元で呟く。
『もしかしたら……今いのりを支配している悪魔は、本物のまことさん――いのりさんの想い人の声や姿を借りることで、いのりさんに取り入っていたのかもしれないわね』
「じゃあいのり先輩は、偽物のまことさんのために、あんなに……」
――告白されたから付き合ってみたけど、正直スペックはいのりの方が高かったよなぁ。
女の子の声が重なった。
――まことなんてどうせ、私じゃなくてもいいんでしょ。いのりちゃんのこと気にしてるの、知ってるんだからね。
闇の中心で、突然妖魔乙女が崩れ落ち、頭を抱え出した。
『ううっ……ま、まこと……、せいら……』
顔を上げた妖魔乙女の瞳が、先ほどまでの赤ではなく闇の色をしていることに気がついて、まりあは駆け寄る。
「いのり先輩!」
『まりあ……』
瞳に赤がふつふつと灯っては消える。いのりの中で、いのりとマコトが闘っているのだ。
――せいらのことは好きだけどさあ、めんどくさいとこあるよなぁ。
――まことのことは好きだけど、ちょっと軽いとこあるよね。
『違うの、そんな風に言って欲しかったんじゃないの。二人が別れたら、なんて思ったことも、あるわ。でも……あなたを悲しませたくなんて、なかった……
私……まことのことが、好きだから』
いのりは思うようにならない震える両手を胸の前で組んだ。いのりの瞳の中に赤が侵食していく。
『まりあ……お願いがあるの』
いのりはそう言うと、一度苦しそうに唸ってから、まりあの目を見つめた。
『私ごと、私の中のマコトを――いいえ、〈絶望の悪魔〉を……その矢で貫いて』
――☆☆☆――
「そ、そんなことできるわけないじゃないですか!」
確かに、〈絶望の悪魔〉は天使のいなくなったいのりのコンパクトの中で生き延びてきたのだから、もしもいのりの命が尽きれば行き場をなくし、力を失うだろう。
けれど、いのりの命と引き換えに悪魔を倒すなんて。呆然とするまりあの頭の中で、今までで一番激しい戦いが起こっていた。ローズもレイジーも、今まで聞いたことがないほどに声を荒げた。
『まりあ、今はそうするしかねえって分かってんだろ!?』
『レイジー!なんてことを言うんですか!』
『だってそうじゃねえか!かなえと二人がかりでもどうにもなんねえんだろ。このまま世界が滅ぶのを見てろってのかよ!』
『だからって、いのり先輩を犠牲にするんですか!?』
頭が割れるように痛い。手にした弓が突然ずしりと重さを持ったように感じた。
(こんなの、どうしろっていうの……!)
苦しくなって荒く息をする。逃げ出したくて、膝がガクガク震えた。その時、そんなまりあにかなえが駆け寄って、ぎゅっと背中を抱いた。
「まりあちゃん」
「かなえ……?」
かなえの右手がまりあの弓を持つ手に重ねられた。
「まりあちゃんは一人じゃないですよ。カナだってまりあちゃんの親友で、聖心乙女なんだから」
かなえも同じ重荷を感じてくれているのだろう。重ねられた指先は震え、瞳には涙が滲んでいる。
「カナも一緒に迷います。半分こ、です」
「……かなえ」
ふっと、ローズとレイジーの声が止んだ。
(あっ、そうか)
まりあは一人で悩んできた。いつも迷った時は一人だった。だから、いつも頭の中の天使と悪魔の声に振り回されていたのだ。
けれど、まりあは一人ではなかったのだ。仲間と一緒に迷えること。仲間に頼り、一緒に道を選ぶこと。それは、こんなにも心強かったのだ。
「かなえ」
まりあはかなえと目を合わせる。それだけで、まりあの気持ちはかなえに通じたのだ。首を縦に振って、かなえはまりあを解放する。
まりあは、また赤い瞳に戻って悲鳴のような声を上げる妖魔乙女に近づくと、右手を振り上げて、妖魔乙女の頬を思い切り打った。打たれた左の目だけが、あの闇色を帯びる。
「いのり先輩!私、先輩が自分から傷つくところ見たくないって言いましたよね」
まりあは全身に力を入れていたが、すっと眼を閉じて、それから泣きそうに微笑んだ。
「もう、自分を犠牲になんて言わないでください。私、先輩も世界も、どっちも諦めない。絶対全部救ってみせるって約束します!」
妖魔乙女の瞳に、赤と闇色が明滅する。
『そんな、こと、』
『出来るわけないだろう。身の程知らずな聖心乙女め』
『まりあ、私』
『お前は決断から逃げたクズだ』
『怖い、けど』
まりあは妖魔乙女に手を差し伸べた。
「信じて、いのり先輩!」
本当は、何の手立てもない。根拠もない。あるのは不安ばかり。けれど、諦めるにはまだ早い。これもまたまりあの――まりあとかなえの決断だ。
震える手がまりあの手に伸びる。
『私……まりあとかなえを信じるわ』
その瞬間だった。川の下流、もっと遠くで流れ星のようなきらめきが迸ったのだ。
きらめきはひゅんひゅんと線を描きながら、最後には妖魔乙女の手元に落ちた。
「これって……いのり先輩のコンパクト!?」
ポンッと音を立てて、コンパクトから、ウエディングドレスを身にまとった二頭身の天使が飛び出した。
『お久しぶりですわね、いのり』
妖魔乙女がはっと目を見開いた。
『ラベンダー……!』
『もうっ。死んでしまうかと思いましたわ』
ラベンダー、と呼ばれた天使はふわりと飛んで、妖魔乙女の頬に触れる。けれど、ばちん、という音がして、すぐに跳ね返された。悪魔を二人取り込んだいのりの身体は、天使を受け入れることができないのだ。
『今更天使を一人取り戻したからといって何ができる。この町の全ての人間どもはすでに僕の手中にあるんだぞ』
俯いた妖魔乙女が顔を上げると、赤い瞳が煌めいていた。まりあとかなえはぐっと息を飲んだ。けれど、もう絶望はない。どうすれば町を、世界を救えるのだろう。考えを巡らせる。
その時だった。
「すげー友情パワーだぜ。聖心乙女のお姉さんたち!」
思いもよらない声が橋の学校側から聞こえて、まりあははっと小道の奥に目をやった。角を曲がって現れた二人はなんと、いつか小学校で戦った少年たちだった。
「トモ、ゆう!」
「おい! 悪者め! 町の全員がお前の味方じゃねーかんな!」
まりあは顔を綻ばせた。町の住人全てが悪魔に乗っ取られたわけではなかったのだ。かつて悪魔に乗っ取られかけ、聖心乙女との対話によって天使の力を取り戻していた彼らは、妖魔乙女の声の影響を受けなかったのだろう。
「おまたせーっ!」
二人に遅れて駆けつけた女性の姿に、かなえは悲鳴のような声を上げる。
「〈天使すぎる歌姫〉奏ララですっ! 天界からみんなに愛を届けにきました!」
ライトイエローのチュールが重ねられたワンピースに、キラキラ輝く星の髪飾り。〈天使すぎる歌姫〉の名にふさわしい姿のララだった。
「ララちゃん……!」
「かなえちゃーん! いつも応援ありがとう。今度は私が応援する番ね!」
町中から次々とまりあとかなえが今まで悪魔を浄化した住人たちが集まってきた。橋の両端を人々が埋め尽くした時、人々の胸の中心から光が溢れ出し、丸い形を成して彼らの手元に落ちてきた。
「な、なんだこれ! コンパクト?」
それは、まりあたちと同じコンパクトだった。トモとゆうがそれを開くと、暖かな光が鏡から溢れ出した。彼らの胸の中の天使の力が光の形になって現れたのだ。
『ララ! その光を聖心乙女にかざして! みんなの力を一つにするの!』
コンパクトから聴こえた声に頷いて、ララが鏡をまりあたちに向けた。
「聖心乙女、がんばれ!」
「わぁ……! 力が溢れてくる……!」
かなえの傷ついた翼が光を浴びて、白く美しく生まれ変わる。それを見て他の人々も、次々とコンパクトをかざした。
「誇りを失わないで!」
「俺らもついてるよ!」
光に包まれて、髪も翼も指先も、力を帯びていく。まりあとかなえは閉じていた目をそっと開けると、お互いの手を確かめ合うように握った。
「「私たちは一人じゃない!」」
光の矢と光のリボンを妖魔乙女に向かって放つ。妖魔乙女の絶叫が橋に響いた。
『ぐあああっ』
『う、ぅう……ああ……っ!』
いのりは光が与えてくれた力を振り絞って、コンパクトを持った右手を空に掲げる。霞む視界に一筋の光がきらめいて眩しい。
(一人じゃない……。なんて、心強い言葉なのかしら)
「ホーリー、コネクト!」
光が爆ぜる。いのりとマコトが切り離され、いのりはその身を光に預ける。
白いレースが幾重にもいのりを包む。ラベンダーのブーケに口づけをすると、闇色の美しい髪を純白のベールが覆う。振り返った背中に、白い翼が花開いて、いのりは愛おしげな微笑みを浮かべた。
「信じる勇気に口づけを! 聖心乙女、ホーリー・ホープラベンダー!」
「いのり先輩が聖心乙女に……!」
まりあとかなえは目を見開いて光の中のいのりを見つめた。
(ぐうう……っ!)
いのりの身体から抜け出た〈絶望の悪魔〉は、先ほどと同じ巨大な悪魔の姿で空に浮かんだ。聖心乙女の姿のいのりは振り返ると、悪魔をまっすぐ見据えた。
「今までありがとう、私のマコト。私、あなたを愛してたわ」
(馬鹿な、所詮心の弱い人間の癖に!)
「ええ、私は弱いわ。愛する人に縋り、盲目に信じることしかできない弱い女だった。でも……疑っても、泣いても、また信じていいんだって、まりあとかなえが教えてくれたから」
「いのり先輩っ!」
まりあとかなえがいのりに駆け寄るる。三人は頷きあった。
まりあが差し出した手に、いのりが静かに手を重ねる。
「疑ったその先で、私は信じる」
かなえが包み込むように小さな手を重ねる。
「諦めかけても、また夢を見る」
三人の重なる手に、まりあは想いを込める。
「優しくしたい誰かが、いつでもそこにいる!」
町の人々が放つ光を集めて、三人の聖心乙女を中心に光の輪が浮かび上がる。
「「「ホーリーアフェクション!」」」
光の輪は空に舞い上がると、〈絶望の悪魔〉を囲った。輪の中にとらわれた悪魔の前に立ち、まりあは微笑みかける。
「ねえ、あなたも、誰かの悪魔だったんでしょう? 守りたかった誰かがいたんじゃない?」
悪魔が問いかけに答えることはなかった。ただ、光の輪に身を任せ、ほどけるように消えていった。
――☆☆☆――
悪魔は光に溶かされながら、かつて守護していた人間を思い出していた。
笑顔の眩しい女性だった。恵まれない人々に希望を届けるために、彼女は世界を駆けた。
彼女は戦場の子どもを庇うために飛び出した。二人とも助かるという希望にすがり、結局二人とも助からなかった。
〈絶望の悪魔〉は、本当に大事な時に、大事な人を守れなかったのだった。
でも、本当は、絶望の真っ只中でも希望を捨てられない、そんな彼女のことが、悪魔は好きだった。
(本当に大事な人のことは、聖心乙女なんかに教えてやれるかよ)
悪魔が全て焼き切れると、光の欠片が街に降り注いだ。闇に染まっていた空は晴れ渡り、悪魔に囚われていた人々も解放され、気づけばみんな、光る空を見つめていた。
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