第5話
希望の未来
※
三月三十一日、水曜日。
吹き抜けていく風から、真冬の厳しさがなくなっていた。春の到来は目前である。
中央大学付属病院の505号室、設置されたベッドを覗き込みながら、小さく微笑む希守の姿。黄色の瞳をやさしく細めた。
「そろそろ仕事の時間ですから。また明日顔を出しますね」
「はい、お気をつけて、フラッドさん」
「失礼します」
希守は、病室中央のベッドに横たわるパジャマ姿の母親に別れを告げ、病室を後にする。歩を進める度に、耳にかかる外跳ねの黄色い髪が小刻みに揺れていた。
廊下に出ると、手洗い場のある方から見知った人物が歩いてくる。小さく会釈。
「こんにちは、宝美さん。僕はこれから仕事、のようなものがありますから、母さんのこと、お願いしますね」
「こんにちは、天川さんは。今日もいかれるんですね? くれぐれも無理なさらずに頑張ってください」
「はい」
正面に立っているのは、母親の担当看護師である宝美。手にあるトレイの上には体温計とタオルがある。今日は腰まである髪の毛を動きやすいように後ろで縛っていた。
希守は小さく微笑み、言葉をつなげる。
「博覧会開催はこの国の希望です。今年は無理かもしれませんが、一日も早く実現させなければなりません。その力になれるのでしたら、僕は力を惜しむことはありませんよ」
年が明けてから、希守は通常業務以外の時間、博覧会会場へ足を運んでいた。爆破された多くの瓦礫が散乱しており、ボランティアとして撤去するために通っている。
最初は誰もいなかった。国全体が破壊された博覧会会場を目の当たりに、絶望に沈む状態にあったため、それを取り除こうなどという発想にならなかったのである。
けれど、希守は足繁く通った。誰もいない瓦礫の山を眼前に、無残な光景を一日も早くこの国からなくすため、そしてそこに新たな希望となる博覧会会場を再現するために、広大な面積を覆い尽くす瓦礫の山に立ち向かっていったのだ。
広大な土地の瓦礫撤去は、たった一人では無謀だったかもしれない。けれど、すぐ一人が一人でなくなった。きあ瑠と豪が賛同し、手伝ってくれるようになったのである。そうして三人で瓦礫を取り除いでいく日々がつづいていくと……今度は近所の住民が参加してくれるようになった。近隣の住人とともに瓦礫を取り除いていき、その姿がテレビで報道されると、全国からボランティアが集まってくれたのだ。今では自衛隊も協力してくれている。
そうして今では、一度なくした博覧会会場を一日も早く再現することが、この国の目指すべき希望となっていた。
「僕は頑張りますよ」
「はい、頑張ってくださいね。それでこそ天川さんです。そっちの方が、わたしも張り合いありますから」
「張り合い、ですか……?」
「ふふふふっ。こっちの話ですよ」
目を細めて、宝美は小さく笑う。『上機嫌』という言葉を絵に描いたような笑顔。
「あ、でも、くれぐれも無茶はしないでくださいね。怪我をして、また入院なんて、もういやですから」
「……それはお約束できません」
「してください」
目くじらを立てた。宝美はいつものように睨みつけるも、すぐ表情を緩める。
「それにしても、どうして天川さんはそんなに頑張れるんですか?」
「はい……?」
「国中が落ち込んでる状況で、天川さんだけが活き活きしていたといいますか……決して立ち止まることがなかったですね」
「うーん……」
希守は、投げかけられた言葉に、一瞬きょとんっとし、小さく首を傾けながら返答する。
「母さんのためですから」
希守にとって、当然のことを当然のように口にしたに過ぎない。
「僕をこの国に生んでくれました。ここまで育ててくれました。そんな母さんはこの国の平和を望んでいます」
母親は戦争を経験しているだけに、その思いはとても強い。
「だからこそ、僕はそれを成し遂げるために、いつでも尽力します。なんせ僕は、母さんの息子ですからね」
と、ここで苦笑い。
「と言っても、今は『フラッドさん』なんですけどね。たははっ」
母親の記憶障害はまだ治っていない。これまでの日々を忘れて、旦那と出逢った戦後のときのように、黄色い髪に瞳の希守のことを『フラッドさん』と呼ぶ。その眼差しも子供を見るものではなく、恋人を見つめるもの。
「とにかく、僕は母さんのために、しっかりしないといけません。やることがいっぱいありますからね、休憩している余裕なんてないんですよ。それでは失礼します」
「はい、応援してます。頑張ってくださいね。あの、もしよければですけど、わたしも時間があれば、お手伝いにいっていいですか?」
「はい! お待ちしております」
希守は今日も歩いていく。自身が信じるものを見つめて、そこに少しでも近づけるように。
自らの手で、少しでもいい方向に月絵国を導いていけるように。
また母親と一緒に暮らせる日を見据えて。
一緒に博覧会会場を訪れる日も夢見て。
「お待たせしました、きあ瑠ちゃん、豪さん。さあ、出発ですよ。今日もいっぱい体を動かしましょう!」
希守は全身に力を込めて、精一杯先の未来へと歩んでいく。
母親にとって、誰にも誇れるような息子になるために。
どんなことにも、希守はその力を惜しむことはない。
希望をその手で守りつづけていく限り。
※
地上二百五十メートルの展望室。手摺りの向こう側に、中央地区の景色を三百六十度楽しむことができた。本日は天候がよく、ビル街の遥か遠方に北地区の
大勢の人で賑わい、多くの笑い声が今ある空気をとても温かなもの。たくさんの笑顔によって構築された、とても心地がよい。
この展望室に三十七台設置されている望遠鏡は賑わう人々によって利用されており、順番待ちに三十分必要だという。
周囲を見渡すと、満月の顔にマントを翻したマスコットを見つけた。なんとも憎めない表情を振りまきながら、多くの子供たちに囲まれている。人気者。
「……ぁ」
多くの家族で賑わうこの空間に、青いワイシャツにネクタイを締めた男性の目の前、髪の毛を後ろで二つに縛った女の子が転んだ。
男性は腰を曲げて視線の高さを合わせ、声をかけていく。
「大丈夫だよね? こんなの平気だもんね?」
赤いワンピースを着た女の子は、大きな瞳にきらきらっ光る涙を浮かべていたが、男性が落ち着かせるように頭を撫でると、涙は零れることはなかった。尖らせていた唇を少しずつ引っ込めていく。
「そうだよ、こんなに楽しい日に泣いてたんじゃ、おもしろくないもんね。うん、えらいえらい」
ぽんぽんぽんぽんっと頭を叩いてあげると、にっこりと微笑んでくれた。もう大丈夫である。
「お父さんとお母さんはどこかな? えーと……ああ、あっちみたいだね。いい、転んじゃったことは二人の内緒だからね。じゃあね、ばいばい」
胸の前で手を振りながら、『ありがとね、黄色いおじちゃん。ばいばい』そう言った女の子に、男性は頬を大きく緩めていく。
「…………」
立っている場所、立てている時間……本当にこの日を迎えることができようとは……今あるものが、数年前からは夢のまた夢。あの残骸の山から、今あるこの場所を再構築することができた。そう思うと、感慨も一入である。
と、次の瞬間、男性は外跳ねの髪の毛を大きく揺らしていく。その手を力いっぱい振ることによって。
「おーい、母さーん、宝美さーん、こっちですよぉー」
その行動、男性は注目されることになるが、周囲の目なんて関係ない。今はただ、こうしてここに立っていられる喜びを噛みしめながら、大勢の子供たちを掻き分け、ゆっくりと自分の方にやって来てくれる二人の女性に手を振る。
「これが僕たちの月絵国ですよ!」
展望室から見える光景は、多くの光に満たされていた。
月の黄人 @miumiumiumiu
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