第4話


 未来への希望



       ※


 十二月二十三日、水曜日。

 中央大学付属病院505号室に、天川あまかわまもはいた。背広の下には青色のワイシャツに同色のネクタイ、深茶色のコートはパイプ椅子の背もたれにかけてある。

 中央にあるベッド脇で中腰となり、濡れタオルを手にした。

「母さん、今年ももう終わりですね。この前年始の挨拶をしたと思ったら、もう年末ですよ。一年なんてあっという間ですね。って、こんなこと毎年言ってる気がしますけど」

「もー、いやですよ、ったら。また私のことを、そんな変な呼び方して。うふふふっ」

「あ、いや、その……」

「変なフラッドさん」

 パジャマ姿の女性はベッドに横たわったまま、天井からの明かりに照らされる鮮やかな髪の色を見つめ、皺の数を増やしていく。

「そうですね、また新しい年がやって来るんですね。はてさて、来年はいい年になるのかしら?」

 喋り相手に向けられた視線は、一度外へ。真っ白なカーテン越しに、白い粉雪が舞っているのが見えた。手を伸ばそうとして、しかし、うまくいかないことに瞬き。首を傾ける。

 建物の向かいには大きな公園があり、生えている多くの木々は、降り注ぐ雪で白化粧をしている。もちろんベッドに横たわったままでは眺めることができないが。

 どういった意味があるのか定かでない息を『はぁー……』と吐き出した。暖房がきいているこの部屋ではそれが白くなることはない。

 ベッドに横たわる女性は視線をゆっくりと戻していき、すぐ傍にいてくれる大切な人へと声をかけていく。

「フラッドさん、あの、お仕事はいいんですか?」

「あ、はい、そうですね……これが終わったら失礼します」

「もー、さっきからどうしたっていうんですか? 随分と仰々しい言い方をするんですね? まるで会ったばかりの頃みたいです」

「あ、いや、そんな……」

「本当に変なフラッドさん。心ここにあらずといった感じがしますよ。もしかして、もう私のことなんてどうでもいいんですか?」

「い、いえ、そんなことは、全然……」

 希守は、パジャマから出た母親の二の腕を濡れタオルで拭いている。少しでも力を入れると、枯れ木のようにぽきっと折れそうな細い腕を、時間をかけて丹念に、丁寧に拭いていく。

 そこに希守の温もりを擦り込むようにして。

「はい、もういいですよ。お疲れさまでした」

 希守は小さく鼻から息を吐き、タオルを脇にあるプラスチックの桶に入れ、それを持って病室を出た。

(…………)

 通路に出ると、エレベーターとは反対向きに歩を進める。今は誰もいない給湯室に隣接する手洗い場で桶の湯を流し、蛇口から出る水でタオルを洗う。室内なので水の冷たさは気にならない。

「……はあぁー」

 したくもない特大の溜め息が出てしまう。それは断じて蛇口から出ている水が冷たいことに対してのものではない。

 タオルを濯いで、力いっぱい絞っていて桶に戻す。作業の終了とともに首を左右に倒していくと、こきこきこきこきっと音が鳴った。そしてもう一度息を吐く。

(…………)

 入院している母親に異変が起きた。一時は症状悪化による意識不明の重体となり、ベッド周囲で稼働する医療機器によって延命するしかない危険な状態になった。しかし、大京だいきょう商事ビルが爆破された翌日、何の予兆もなく意識を取り戻したのである。けれど、深い眠りから目覚めた母親は、これまでの母親でなくなっていた。

 母親は、黄色い髪に黄色い瞳の希守のことを、『フラッドさん』と呼ぶようになる。深い眠りから目覚めることで、息子と旦那の区別もできなくなったみたいに。結婚前の恋人同士のように接して。その目で『フラッドさん』を見つめ、幸せそうな笑みを『フラッドさん』に向けて、少女のように話しかける。

 意識を取り戻した母親には、記憶障害が起きていた。自分の息子も認識できないぐらい強力な……現状としては、もう母親の認識に息子である希守の存在がなくなっている。意識を失う前には存在した世界がなくなったみたいに。深い眠りが母親の記憶を新しい方から順番に消していき、希守が生まれる前に戻したみたい。

 つまり母親は、眩いばかりに輝いている過去の世界に身を置いているのだ。

(…………)

 意識不明や記憶障害が発症していることからも分かるように、症状は悪化の一途を辿っていた。意識を失う前までは手足の先が痺れる程度で、ベッドで上半身を起こす動作はできていたのに、今は痺れが全身に行き渡ったようで、自分の意思ではほとんど体が動かせなくなっている。

 そんな極度の症状において、さらに厄介なのは週に一度のペースで高熱が出ること。顔を真っ赤に腫らして寝込む日々がつづいているのである。今日は調子がいい方だが、だからといって明日も大丈夫だという保障はない。以前のように突如として意識を失う恐れだってある。なんせ、犯されている病魔が今の医学では解明できていないのだから。

 そんな母親の容態、希守では見守ることしかできず、ただ闇雲に時間だけが過ぎていく。

 とうとう覚悟する時期がきたのかもしれない。世界で一番大切な人との別れを。世間が騒がしいこの時期に、絶頂の悲しみが訪れるその日を。

 母親を失ってしまう瞬間を。

「……はあぁー」

 蛇口から水が出しっぱなしになっている。『いけないいけない』と希守は首を小さく横に振り、置かれている石鹸水で念入りに手を洗う。がらがらがらがらがらっ、うがいを五回した。警察官として病気で倒れるわけにはいかず、予防として手洗いもうがいも習慣となっている。水を止め、タオルの入った桶を持って505号室へ。

「……ああ、宝美さん」

 入ろうとした505号室の前、前ボタンの純白なナース服に身を包んだ看護師、とりますたからが立っていた。腰まである髪の毛が重たそうに見えたのは、相手というより、見ている希守の気持ちが快調とは程遠いからだろう。

「外は雪が降ってますね、寒いはずです。僕はこれから仕事ですから、母さんのこと、お願いしますね」

「…………」

「なんたって最近忙しくてですね、いろいろ処理しなくちゃいけないことが山積みでして。で、気がつけば明日はもう二十四日なんですよね。ちっとも年末って感じがしないですよ。はははっ」

「…………」

「えーと……その、ので、母さんのこと、よろしくお願いします」

「……天川さんは、明日、いかれるんですか?」

「えーと……」

 かけられた言葉が、いつもの宝美と違い、どこか静かな声。表情からはあまり覇気が感じられない……そんな相手の様子に、希守は一度大きく瞬きするも、小さく頷く。

「それが僕の義務ですから。今度という今度こそ、です。こんなこと、毎回言ってるんですけどね」

「その、天川さんも、怪盗トレジャーがあんなひどいことをしたって本当に思っているんですか?」

「……残念ですが」

 怪盗トレジャーはこれまで多くの罪を重ねているが、決して人を傷つけるようなことはしなかった。だから希守は、どこかライバルのような友情のような、他の犯罪者にはない友好的な部分を感じていたのだが……しかし、かえで美術館全焼事件で管理人が死亡、先日の大京商事ビル爆破事件により多大な被害が出てしまっている。今まで抱いてきた感情が、すっかり消え失せていた。

「宝美さんも、最近は忙しいですよね?」

 大京商事ビル爆破事件により、病院もてんてこ舞い。希守もあの事件で右肩を負傷し、腫れがひどくて暫くまともに動かせなかった。普段なら『出戻り扱い』で入院するところだが、あの事件による重症者の数が多く、病院では収容することができなかった。おかげで入院を回避できたのだが……ともあれ、現在、中央地区は混乱状態にある。ビルが爆破された映像、老人の口からは『まるで戦争に戻ったみたい』と零れるほどに。多くの国民が不安を募らせていた。

 すべては、怪盗トレジャーのせい。

 この中央地区で、あの爆破事件を起こしたことで。

「絶対許せませんね、つきこくの治安を脅かす行為は。重ねてきた罪の重さを自覚させ、必ず償わせてみせますよ」

「……やっぱり」

 宝美は伏し目がちに視線を落とし、口を小さく動かす。それは目の前に立つ希守を直視できないように。

「……世間一般にはそう思われているかもしれませんが、わたしには怪盗トレジャーがこんなことをやるとは思えないんです。だって、こんなことして何になるんですか?」

「それは本人を捕まえてからいてみます」

「天川さん!」

 伝えたいことをうまく伝えられず、唇を噛みしめたかと思うと、宝美は距離を縮めて希守の肩にもたれかかるように頭をつけた。

「今では怪盗トレジャーは凶悪犯罪者として扱われ、忌み嫌われています。けど、天川さんも同じ考えなんですか? あの悲惨な事件を、怪盗トレジャーがやっただなんて?」

「……あの、宝美さん?」

「わたしは違うと思います。怪盗は怪盗です。罪は犯すかもしれませんが、決して人殺しなんてやりません。ましてやあんな……ずっと追いかけてきた天川さんなら分かるはずです」

「…………」

「お願いです、世間の声に流されず、天川さんだけでも信じてあげてもいいんじゃないですか? 怪盗トレジャーは人の命を軽く見るような行為はしません。断言できます。天川さんは今までいったい怪盗トレジャーの何を見てきたっていうんです?」

「…………」

 希守は、すぐに返答できなかった。視線を落とし、胸の前に持つ桶を見つめて……チャイムとともに館内放送が流れた。入院患者を呼び出すもので、きっと元気な患者が病室を抜け出したのだろう……希守は、肩を小さく上下させて息を吐き出す。

「僕はこの月絵国の平和を維持するのが役目です。誰であれ、それを脅かすのなら、絶対に許すことはできません」

「きー君!」

 荒げた声。変えた呼び名は、これまで抑えていた感情のリミッターを一つ外した証。

「お願いだから、無茶しないで、きー君!」

「きー、くん……?」

 希守に届けられた言葉は、ずっと稼働することのなかった記憶回路のスイッチをオンにする。目の前に、過ぎ去った光景を浮かび上がらせていった。

 幼い頃の。

 一冬の思い出を。


       ※


 十八年前のこと。


 鳥升宝美。七歳。小学校一年生。

 宝美は寂しかった。十一月二十日の今日、めでたく七歳になったのに、祝福してくれる両親が家にいない。一緒にケーキを食べる約束したのに。

『お父さんもお母さんも仕事が忙しいんだよ。ごめんな、宝美』

 そう祖父に頭を撫でられたところで、納得いかないものは納得いかない。約束を守らないと駄目だと教えてくれたのは父親と母親なのだから。家にメッセージカードと大きな熊のぬいぐるみが届いたところで、ちっとも嬉しくなかった。

 だから、宝美は寂しかった。静かな家にいたくなかった。使用人の目を盗んで家を出た。近所を当てもなく歩き、神社に辿り着いた。

 泣いた。人気のない境内に生える銀杏は色を染め、地面も黄色く染めつつある。宝美は賽銭箱の横、木造の柱に背を向け、膝を抱えて泣いた。

 寂しかったから。悲しかったから。誕生日に両親と一緒にいられないことが。宝美は自分が世界で一番不幸だと思った。

『大丈夫かい?』

 声がした。顔を上げる。刹那、体がびくっとするぐらい驚いた。

「妖精さん……?」

 周囲には銀杏の黄色が目につく。逆光に立つ目の前の存在が、この世のものとは思えなかった。口から出た言葉が『妖精さん』になったのも、驚きを表すには的確だったかもしれない。

 目の前にきれいな銀杏の人がいた。黄色い髪の毛に黄色いきれいな瞳。とてもとてもきれいだった。

 宝美は暫く見惚れることとなる。今まで泣いていたこと、すっかり忘れて。

「パパもママもお仕事で家にいないの。お誕生日、パパもママも一緒じゃないの。一緒にいてくれるって約束してくれたのに……」

「じゃあ、ボクが一緒に遊んであげるよ」

「ホント?」

 それから二人で遊ぶようになった。宝美にとって、それが『きー君』との出逢いであり、外で遊ぶはじめての友達。


 きー君と遊ぶのはいつも神社の境内で、鬼ごっこが一番楽しかった。宝美が鬼のときはすぐ捕まえられるのに、きー君は宝美のことを捕まえられない。それがとっても楽しかった。

『次こそ。次こそたーちゃんを捕まえてみせるよ』

 きー君はそう言って、結局夕方を迎えることになる。

 いつものこと。


 きー君とは同い年だったが、通っている小学校は違った。きー君が通っているのは近所の小学校で、宝美が通う学校は車で二十分の場所にあったから。放課後はいつも送迎の車で学校の友達とは遊べなかったが、きー君と出逢ってからは早く帰りたかった。早く帰って家を抜け出し、また神社で鬼ごっこをしたいから。

 雪が降る日もあった。でも、関係ない。遊んでいれば、いつだって体はぽっかぽか。宝美は逃げて、きー君は相変わらず鬼のまま。


 きー君はよく顔や腕に絆創膏を貼っていた。話を聞くと、クラスメートとよく喧嘩をするのだという。『そんなの駄目よ。ちゃんと仲よくしないといけないんだから』そう伝えても、次の日は新たな傷を作っていた。服に穴を空けたりして。

 きー君と遊ぶこと、とても楽しかった。ずっとずっと遊んでいたかったし、いつも神社だったから、一度家に連れていったことがある。たまたま家にいた祖父に会わせたが……もう二度と家に連れてきては駄目だと言われた。『子供は外で遊ぶものだからね』と。『お父さんとお母さんにきー君のことを言っちゃ駄目だよ』と約束もさせられた。不思議に思ったが、宝美はそういうものかと素直に頷く。結局、きー君のことは祖父以外に話すことはなかった。

 そういった経緯もあり、きー君と遊ぶのはいつも神社の境内。雪が降ろうが北風が冷たかろうが、関係ない。相変わらずきー君は宝美のことを捕まえることができなかったが、楽しかった。

 宝美は、この境内で、このままずっときー君と鬼ごっこができるものだと思っていた。『次ことは捕まえてみせるからね』って息を弾ませながら笑うきー君の顔を見るのがとても楽しかったし。

 だがしかし……別れは突然だった。


 季節が移り変わる。厳しい冬が過ぎ去り、気温が上がって草花は芽吹き、桜が色をつけはじめた季節……突如として宝美には悲しいことが起きた。きー君が神社にこなくなったのである。

 宝美は小学校の二年生に進級し、ちょっとお姉さんになった。だから、『そろそろきー君に捕まってあげようかな?』なんて心の広さが生まれつつあったのに。残念。

 きー君はその次の日、また次の日も……結局二度と会うことはできなかった。『また明日遊ぼうね』そう約束したのに。約束は破ってはいけないのに。

 きー君に会えないこと、寂しくて寂しくて、また誰もいない境内で泣いてしまった。家に帰ってから顔を上げることができず、そんな姿を見兼ねた祖父に相談し、捜してもらうことにした。

 祖父曰く、きー君はとても遠い場所に引っ越したという。きー君の父親が亡くなったことが関係しているらしい。

 知らなかった。きー君がそんな大変なことになっていたなんて。『約束破っちゃいけないのに』なんて思って、申し訳ない気持ちになった。

 宝美はきー君の力になりたくて、手紙を書く、電話をする、会いにいく……提案したすべてを祖父に首を振られた。『今はそっとしておいた方がいい』と。

 どうしたらまた会うことができるか尋ねると、『宝美がいっぱい勉強して、いっぱい運動して、元気で毎日過ごしていたら、いつかまた会うことができるよ』と教えてくれた。

 だから、頑張った。また会いたかったから。きー君と鬼ごっこ、またしたいから。

 学校の勉強を頑張る。学校以外にピアノを習う。陸上に体操に取り組む。とにかく毎日を懸命に過ごしていく。『いい学校』とされる中学校に入ることができた。ピアノのコンクールで優勝することができた。陸上でも体操でも全国大会に出ることができた。毎日がとても充実していたと思う。

 けど……けど、まだきー君とは会うことができなかった。


 季節はどんどん流れていって……宝美は高校三年生になっていた。

 さすがに十八歳は純粋無垢ではいられない。きー君が自分とは違って『黄人き じん』の血が流れていることは分かった。敗戦から随分時間が経っているとはいえ、まだまだ月絵国では疎ましく思われていることもちゃんと知っている。

 だからこそ、祖父に詰め寄った。あの頃は知ることができなかった、きー君がいきなり引っ越すこととなった真相を。

 きー君が引っ越すこととなった契機は、父親の死……きー君の父親は、酔っ払いのいざこざを仲裁しようとして、殺されたのだという。それも現職の警察官の手によって。当時は黄人に対する風当たりが強く、警察官は酔った勢いもあって、激情のままに命を殺めたのだ。

 事件について、敗戦国の人間が大国の人間を殺したなどと、国際問題に発展しかねない。警察は事件を隠蔽しようとした。条件として、きー君と母親の安全を保障するとして。

 きー君の母親は息子の身を案じ、警察の隠蔽話に乗った。そうして北地区の人里離れた山間へと引っ越したのである。

 宝美は事実を知り、憤りが溢れんばかりだった。同時に、自分は断じてそうならないと心に誓う。髪の色や瞳の色が違ったところで、差別することなく『人』として接しようと。

 宝美は大学進学だった予定を変更し、看護学校に入学した。これからは貿易が盛んになり、きっと多くの外国人が月絵国にやって来るだろう。そんな外国人が安心して医療を受けられるように、と。


       ※


「……驚きました。宝美さんが、『たーちゃん』だったんですか?」

 病院の通路、告げられた事実に、希守は黄色い瞳を丸くする。

「お久し振りですね。っていうのは、ちょっと変ですか」

 頭を掻き、はにかむ希守。

「あの頃は誰も友達いませんでしたから、たーちゃんと遊べて嬉しかったです……って、友達がいないのは今も同じですけどね」

 すべては黄色い髪をしているばかりに。

「あの時はちゃんとお別れが言えなくて……父さんが亡くなってショックだったし、いきなりの引っ越しでばたばたしてて、たーちゃんの住所も知らなかったからお手紙も書けませんでしたし……なんか、突然のことで混乱しちゃってますけど、でも、嬉しいです。こうしてまた会えたこと。ずっと覚えてくれたことも」

「当然です。ずっとずっと友達なんですから」

「ありがとうございます」

「だから」

 宝美は視線を潤ませる。思いを込めて。

「せっかく再会できたんですから、またお別れなんていやです。いやなんです。このままだと、また遠くにいってしまいそうで……」

 明日という日を迎えることで。

「お願いですから、やめてもらえませんか? もう天川さんが危ない目に遭うの、見ていられません」

「……ごめんなさい。それは、できません」

 希守は首を横に振る。そうする以外、選択肢はない。

「月絵国では大勢の人が懸命に働いています。生きています。なら、僕はそれを守らないといけない。使命ですから」

 例え、髪の色が違ったとして。

「宝美さん、母さんのこと、お願いします。失礼します……」

 希守は505号室に入っていき、桶を所定の棚に戻してから、ベッドで横たわる母親に別れを告げた。今から博覧会の目玉であるセントラルタワーに向かうために。

 そこに決死の覚悟を秘めて。


 怪盗トレジャーから予告状が届けられている。明日、十二月二十四日という日を指定して。


       ※


 宝美が打ち明けた過去。そこには伝えていないつづきがあった。

 祖父は社長職を息子に譲り、現役を退く。そんな祖父に、宝美は希守に関する情報を教えてもらった。希守が警察学校に入ったこと。警察官になったこと。母親の病気を治すため、中央地区に戻ってくること。

 希守に関して、宝美の望みは二つあった。

『きー君と鬼ごっこのつづきがしたい』

『きー君の手伝いをしたい』

 希守が中央地区に戻ってくるなら、また一緒に遊びたい。

 希守が警察官になるなら、活躍してほしい。

 二つの望みは、祖父の助言を得て現実させることにした。

『男なら、好きな女ぐらい捕まえられんでどうする!?』

 祖父は、希守の父親の事件を突き止めたことで、警察に強い影響力がある。犯罪の情報なら、好きなだけ得られた。

 そんな祖父から、宝美は最近起きている事件を入手。希守にその解決を導くため、加えて、鬼ごっこのつづきをするために、顔に大きなゴーグルをつけた。陸上と体操で得られた身体能力を駆使して、夜の中央地区を疾走する。

 祖父は祖父で、そんな宝美の活き活きとした姿を見るのが楽しみだった。だから、いろんな発明品を渡したり、裏から情報操作をしたりして……月絵国で祖父だけが宝美の味方だったのである。

 祖父の協力を得て、ゴーグルをつけた宝美は、希守を導いていく。犯罪者へと、犯罪者が潜む基地へと、未解決事件の糸口に誘導するために。

 鬼ごっこ。いつまで経っても捕まえることができないきー君に、いつも追いかけられながら。あの頃のように。


 もし十二月二十四日、希守がセントラルタワーに向かうというなら、宝美だって迷うことはない。


       ※


 十二月二十四日、木曜日。

 多くの思いが交錯する日。


 月絵国中央地区に建造されたセントラルタワーは、全長四百メートルの電波塔。銀色の鉄骨に月光を表した金色に塗装されていた。

 タワーの下部は四本の脚部がアーチ形で組まれ、すべて溶接されたボルトで接合されている。そのアーチが最初にぶつかる箇所、地上五十メートルの場所に第一展望室、タワーはそこからほぼ直線に空に向かって伸びていた。先端に向かってどんどん細くなっていき、地上百五十メートル地点に第二展望室、地上二百五十メートルに第三展望室がある。そこから地上四百メートルまで吊し上げられた長いアンテナが生えているのだった

 そんなセントラルタワー……構想段階では、台風による強風と、大地震に遭遇した際の危険度が問題視されたが、研究者による度重なる実験と検証により、安全性の特化した構造計算書が導かれ、三年前に着工に至る。

 ただ、工事着工から完成までに順調に漕ぎ着けたかといえば、そうではない。付近住民からは飛行機の衝突の危険性や工事による交通渋滞、観光客のごみの増加や環境の悪影響など、反対の声も多かった。またその逆に、タワー西部にある発展地区からは、駅からタワーへと向かう客の経済効果を期待された。

 建設途中、残念な事故が起きる。地上五十五メートルで作業していた作業員が強風に煽られ、転落死したのだ。作業の安全性を見直すこととなり、着工から完成まで二年としていた予定が大幅に遅れ、丸三年という歳月を経て、お目見えすることとなる。

 開業は来年六月に開催される博覧会からで、一般人にはタワーはおろか博覧会会場に近づくことも許可されていない。だからこそ、来年の博覧会の開業を待ちきれない人間の不法侵入が数十件検挙される状態にあった。

(うわー……)

 そんな月絵国民の話題を独占するセントラルタワーの足元において、間抜けにも半分開けられた口をどうすることもできず、ただただ呆然とタワーを見上げている希守がいる。警察官。

(…………)

 何度見上げても凄いとしか言い様がなかった。タワーに近過ぎて、組まれた鉄骨と第一展望室の下部しか見えないが、そうするためには首をほぼ直角に曲げないといけない。

 あまりにもタワーが希守の思想を超越していたため、『よく建造できたものだなー』と、感心するばかり。

(……いよいよだ)

 西の空に傾きつつある太陽は、少しだけ茜色を滲ませている。十二月下旬に吹く風はとても冷たい。しかし、昨日降った雪がどこにも見ることができず、今日一日ですっかり溶けていた。

 セントラルタワー周辺には、博覧会用の建物がいくつも建てられている。一番近くにある白い壁が特徴的な『未来館』では、タイムマシンに乗って未来の月絵国へいくことができるという。巨大なスクリーンを使った映像による演出を行うのだとか。また、向かいにある水色の建物は『水の館』で、盛大な噴水ショーが予定されている。まだ詳細は発表されてないが、建物内にある池が真っ二つに割れる演出があるようで、早くも話題になっていた。他にも『不思議な緑館』『工学ファンタジー館』『世界樹の館』『月光館』『飛行館』『大京の館』などなど、どれも開催前から話題を呼ぶものばかり。

(…………)

 現在、このセントラルタワーはもちろんのこと、博覧会会場はすべて立ち入り禁止。博覧会関係者も例外ではなく、今この敷地内にいる人間は、中央警察の人間だけだった。

 希守は、自分に敬礼してくる制服警官に小さく会釈し、セントラルタワー一階ロビーを潜り抜ける。建物はすでに完成しているが、中は真っ白な壁しかない。意識すると、いかにも『新築』といった感じのセメントの匂いが漂っていた。

 希守は、天井からの柔らかい照明に照らされながら、中央のエレベーターへ向かう。一階からは第一展望室と第二展望室へのエレベーターがあり、希守は第二展望室の方に乗り込む。

(…………)

 三十人は乗車可能な大きなエレベーターは、希守たった一人を乗せてゆっくりと上昇。床と天井以外はガラス張りであり、タワーをぐるぐるっ囲んでいる階段を見ることができ、奥には茜色に変化しつつある中央地区の風景を眺められた。近くにある博覧会会場がどんどん小さくなり、顔を向けている西部にはコンクリートの建物の向こう側に小高い場所があり、楓緑地公園であることが分かる。ここからだとボールペンのキャップのように細い棒だが、展望塔も確認できた。見えた瞬間、十一月に怪盗トレジャーを追いかけて屋上から飛び下りた記憶が蘇り……瞬時に、身が引き締まる思いに体が震え、目つきの鋭さが増していく。

(今日こそ)

 なんとしても今日で終わりにしなければならない。今中央地区は、爆破事件に多くの国民が見えない恐怖に怯えている。突如として建物が爆破される世界は、まるで無作為に人間の命が散る戦中に戻ったようで、多くの人の生活を脅かせていた。一刻も早く解決しなければならない。白羽の矢が希守に立てられている以上、必ず解決してみせると鼻息荒く意気込んでいる。

 希守の両拳には自然と力が入っていった。小さく震わせながら。

「……ご苦労さまです」

 地上百五十メートルの第二展望室に到着した。エレベーターの扉が左右に開くと、捜査協力を依頼している咲牙の姿があった。いつものように薄茶色のソフト帽を被り、手には探偵七つ道具が入っているアルミケースを持っている。

 この第二展望室も白い壁があるだけで、展示物や装飾は来年に入ってから。ただ、一部の売店はすでに塗装されていて、博覧会マスコットである『ムーン伯爵』が描かれていた。満月の顔で意味深長な笑み、背には大きなマントを翻している。

「咲牙さん、トレジャーはどこから現れるでしょうか?」

「うーん、地上から、という確率もありますが……」

 周囲にセントラルタワーと背を競う建物はなく、一番近い『未来館』も距離が離れており、跳び移ることは不可能。

「パラグライダーのようなもので上空から現れるか、大京商事ビルのときのように別の場所に警備を陽動し、手薄になったところを侵入、というのが確率として高いと思います。なんにしろ、行動を起こすのは日が沈んでからでしょうね」

 西の空には、太陽が顔を傾きかけたところ。これから徐々に茜色を強め、その鮮やかな色が闇色へと呑み込まれていく。

「これ以上好き勝手させるわけにはいきませんから、今日こそ捕まえないといけないです。でないと、大変なことになってしまう」

 もしこのセントラルタワーまで爆破されては、国民が恐慌状態に陥り、最悪の場合、この国の機能が全面ストップすることも考えられる。

「常に気を張らなければなりませんよ。小さな異物、異音、変化、どんな些細なことも見落とさないようにしないと」

「セントラルタワーはみんなの希望です。絶対に破壊させるわけにはいきません」

 一週間前に予告状が届けられた。十二月二十四日にセントラルタワーを破壊するというもの。これまでは『盗難』という予告しかなかったが、今度ははっきりと『破壊』の二文字を使っていた。楓美術館、大京商事ビル破壊につづき、今度はこのセントラルタワーを狙う、と。

 希守たちは昨日からずっとこのタワーの点検を行っている。それもタワーの足元から先まで念入りに。結果、午後五時までの段階で爆発物は確認されなかった。しかし、どういった手段で破壊されるか分からない以上、気は抜けない。希守たちの予測を軽く超越するような方法……例えば建設する際に硬化させた地盤の底にすでに爆発物がセットされていたら、もう手の打ちようがなかった。

 現時点の希守にできることといえば、いつ現れるとも限らない怪盗トレジャーに、神経を尖らせて警戒することのみ。

「しかし、どうしてトレジャーはこのセントラルタワーの破壊を目的としているのでしょう? このタワー、今ではこの月絵国の希望といっても過言じゃないのに」

 いやなことがあったとき、仕事で失敗したとき、友達と喧嘩したとき、悲しみに暮れるとき……沈んでいた気持ちでふと顔を上げると、天空に向けて聳えるセントラルタワーが悠然と聳えている。この中央地区のどこからでも眺めることができ、住民はタワーを目にすることで、その雄大さと、そこを通して見る空の色に、疲弊した心の傷を癒していく……この月絵国の技術の粋が凝縮されたセントラルタワーを、誰もが自分のことのように誇らしく思い、挫けそうだった心を踏ん張り、次の一歩を踏み出そうとする勇気をもらっている……このタワーは、それを見つめる中央地区の人間に『やればできる!』という希望を与えていた。

『あんな大きなタワーが本当にできたんだ。だったら、自分だってもっとできるはず!』そう誰もが前向きになれるのである。

 そんなみんなの希望、セントラルタワーを、あろうことか破壊するなど、言語道断。

「咲牙さんの話だと、前の二件は盗みによる痕跡を消す効果があるということでしたが、今回は盗むものも痕跡もありません。どうして破壊しようと考えているのでしょうか?」

「怪盗トレジャーがやっていることは、もはや怪盗ではありませんから、その辺はなんとも予測できませんね。もしかしたら、今では破壊を楽しむ凶悪犯になっているのかもしれません。いや、待ってください。もしかするとですが……」

 咲牙は口髭に指を当て、十秒ほど何もない虚空に視線を彷徨わせた……何か思い当たったようにゆっくりと口を上下させる。

「……これがになるのかもしれませんね」

「火種、ですか?」

「はい」

 咲牙はこの第二展望室のガラス越しに、東方を見つめる。そちらは先日破壊された大京商事ビルがある方角。今でも周囲一帯は通行止めとなっている、瓦礫撤去はまだ完了していなかった。

「こうした爆破事件が頻繁に起きれば、この国の警戒は内部にしか向けられなくなる。当然ですよね? 内側が次々に壊れていくのです、そこに対応せざるを得ません。では、そうした状況で、他国から目を向けられたとしたらどうなると思いますか?」

 内部情勢にばかり気を取られている月絵国は、突然の開戦に陥ったとき、敵国の侵略を易々と許すだろう。

「こんなチャンス、そうそうあるわけではありません。考えたくはありませんが、狙っている外国があるとすれば、格好の標的ですね」

「えっ……? そ、そんなことが起きるんですか? 終戦の際の国際平和条約があるんですよ?」

 世界の主だった国々で結ばれた条約は、国際連盟に加盟するすべての国で世界の治安を監視していくもの。もし破った国があれば、全世界から報復される。つまりは全世界を敵に回す事態となるのだ。

「あの条約がある限り、そんなこと起こるはずがありません」

「確かに条約があれば、机上では絶対に戦争は起きることはありませんね。ですが、よく思い出してみてください。人類にはこれまでの歴史があります。紐解いてみると、これまで三十年もの間、争いが起きなかったことがありましたか?」

 国内においても、『天下統一』という歴史はこれまでに四度起きている。それはつまり、統一された天下がその回数分崩壊したことを意味していた。また世界規模において、人類の歴史は戦争の歴史といっても過言ではない。年表には短い争いの記述が乱立している。

 客観的にみて、この星に住む人間は、常に敵を見つけて、激しい争いを繰り返していることになる。

「確かに終戦した際に結ばれた条約はあります。ただ、そんなものは紙切れでしかありません。爆弾の雨が降っているなかを『これは条約違反だぞ!』と叫んだところで、どうにもなりませんね」

 そんな姿、滑稽でしかない。

「さらには、この国には侵略するだけの価値がある。そもそも前の大戦だって、この国が保有する月絵ダイトの所有権を独占していたばかりに起きたものです」

 主にこの国で発掘されていることで名づけられた『月絵ダイト』は、とても貴重なレアメタルであり、月絵国が全世界の九十五パーセントを占めていた。

「月絵ダイトは世界から見ても貴重な希少金属です。放射性同位体としてγ線源として、医療分野で使用されていますし、工業用にも活用できますね」

 月絵ダイトは高温でも摩耗しにくく、腐食に強いため、ジェットエンジンや溶鉱炉、石油化学コンビナートの装置にも使われていた。

「ただ、月絵ダイトは使い方を間違えると、とんでもないことになります。聞いたことはないですか、『月絵ダイト爆弾』という存在を」

 月絵ダイト爆弾は、まさに全世界破滅の最終兵器。核反応により放出される中性子を取り込み、より強力なγ線を放射させる。その汚染は広範囲に及び、被災地の被害はもちろんのこと、使用した味方にも被害が及ぶ、まさに悪魔の兵器であった。

「他の放射線と比べて、γ線は防護することが困難ですからね、そんな爆弾を使われたら……世界は滅亡です」

 α線は紙一枚を通過できず、β線も一センチのプラスチックで遮断することができる。しかし、γ線は十センチもの鉛板を用いなければ遮断することができないのだ。

 もし月絵ダイト爆弾が実用された場合、果たして周囲を十センチ以上の鉛板で遮断できる設備がどれだけあるかといえば、皆無に等しい。あるとしても、せいぜい自衛隊基地に実験用の建物ぐらい。しかし、それは外からの防護が目的でなく、あくまで内部実験用のもの。現在の月絵国に放射能を防ぐ施設は存在しなかった。

「やはり月絵ダイトは世界的にまだまだ希少価値が高いですからね、それを狙って敵国が攻めてきてもおかしくありません。そんな状況だとすれば、怪盗トレジャーによる一連の騒動は、敵につけ入る隅を与えてしまいます」

 咲牙が一瞬、宙に視線を漂わせて、それから小さく零すように次の言葉をつなげた。

「そうか、もしかしたら怪盗トレジャーはどこかのスパイなのかもしれません。そう考えれば、一連の行動も納得できます」

 月絵国内を混乱させ、攻め込む機会を作り出す、敵国のスパイ。怪盗トレジャー。

「どうしてこのことに気づけなかったのでしょう」

「トレジャーが、虎視眈々とこの国を狙っている敵国のスパイってことですか……」

 伝えられた突飛な言葉は、国家間を股に挟む、あまりにも膨大な話。希守では瞬時に理解できず、ゆっくりと咀嚼するしかなかった。苦虫百万匹が凝縮された飴を舐めるような苦悶の表情を浮かべてから、時間をかけて息を出していく。

 ふと、母親が話してくれる戦中のことが頭を過る。凄惨な世界。

「……僕はこの国が再び戦地になるなんて思いたくないし、それに、今回で終わりにしてみせます。今日こそトレジャーを捕まえてみせますから。これ以上、罪を重ねさせないためにも」

「さすがは天川君です、実に頼もしいですね。そうです、怪盗トレジャーが敵国のスパイであったとしても、今回で終わらせれば問題ありません。必ずや捕まえましょう」

 咲牙はにっこりと微笑み、視線を外に向けていく。

「しかし……改めて感心するといいますか、本当にこんな高い建造物ができるものなのですね? 以前の耐震技術ではこうはいなかった。科学の進歩はめまぐるしいものがあります」

 以前の耐震技術は、とにかく広い土地に大きな建物を作り、地震が起きても建物の重量で上から押さえつけること。主に長方形を横にした建物である。今でも十階建ての警察署やデパートはそういった建物となっている。

 に対して、二十階建てだった大京商事ビルは、土地はそれほど広くないのに、縦長の建物が建造できていた。長方形を縦にした建物である。それを可能としたのは、耐震技術が進歩したから。以前のように上から押さえつけるのでなく、地震が発生した際は、揺れとともに建物も揺れるような構造に変わったのだ。建物内部に大きな振り子があり、それが揺れることで振動が中和される仕組みである。同じものがこのセントラルタワーにも採用されていた。

「さて、私はちょっと見回ってきますね。じっとしていることは性に合いませんし、用心に越したことはありませんから」

「あ、はい、お願いします」

 にっこりと微笑み、探偵の七つ道具が入っているアルミケースを持って外の階段に出ていく咲牙を見送って……希守はその目を展望台のガラスの向こう側にある外の景色に向けていく。

「…………」

 外は茜色に染まっており、もうすぐそのすべてが漆黒へと沈んでいくだろう。

 見えている光景、それは守るべき世界。

 そこにある病院には、希守の最愛の母親もいる。

 希守はそこにある世界すべてをなんとしても死守しなければならない。その使命を帯びてここに立っているのだから。


       ※


 午後八時。

「…………」

 希守はずっと地上百五十メートルにある第二展望室にいた。周囲には制服姿の警官が五人いる。どれも緊張感ある引き締まった表情を浮かべているが、今はそれが強く、少し引き攣りつつある。それもそのはず。爆破予告されたタワーにこうして警備しているのだ、死と背中合わせなら、緊張の色も濃くなるだろう。

 今回の警備に関して、警察関係者の多くがすっかり尻込みしてしまい、警備には大京商事ビルのときの五分の一も配置できていなかった。配置された人間も、この任務から外されたいと願っているのは明白である。けれど、それでも参加してくれている。責任者である希守にとって、ありがたい話だった。

「…………」

 日はすでに沈んでいる。展望室にあるガラスは角度によって鏡のように希守のことを映し出した。深茶のコート姿に、鮮やかな黄色い髪に瞳……改めてこの月絵国の人間とは違うことを認識。けれど、半分大国の血が流れていようとも、月絵国の人間である。この希望のタワーをなんとしても死守しなければならない。

(んっ……)

 扉が開かれた。階段への扉である、地上百五十メートルの。強風とともに、誰かが入って来た。視線を向けてみると、そこに希守の見知った人物が立っている。

「きあ瑠ちゃん……?」

「天っちょ警部ぅ、元気だったりしちゃいますかぁ?」

 扉からこちらに真っ直ぐ向かってくる人物は、青を基調とした白色の制服姿の加賀屋かがやきあであった。今日も肩にかかる髪には十個以上のカラフルなヘアピンをつけている。外は強風だが、それだけピンをつけていれば髪の毛が乱れることはないだろう。

「なかなか動きがなかったりしちゃいますね。あと四時間で今日が終わっちゃうっていうのに。うむー、考えてみると、今日はクリスマスイブですよ、クリスマスイブ。うむー、この状況、まったくもって色気なかったりしちゃいます」

「あははっ、まったくその通りだね。けどさ、考え方によっては、最高のクリスマスかもしれないよ。だって、まだ開業前のセントラルタワーから夜景を眺めることができてるんだから」

「そうかもしれなかったりそうじゃなかったりしちゃうようなしちゃわないような気がしないこともないです」

「……どっち?」

「その判断は、天っちょ警部の好きなようにしてもらえればよいです、でよかったりしなかったりしちゃいます。きゃはははっ」

 にこっと小さく歯を出し、特徴的な少し高い声で笑っていた。その声が第二展望室に反芻する。緊迫状態なのに、きあはとても表情穏やかで、手摺りに掴まる希守の横に立った。

 眼前には、中央地区に輝く赤やオレンジ色の人工的な明かりが多い。視線を上げれば星々の少ない空に、ちかちかっと点滅している光がゆっくりと北へ移動しているのが見えた。方向からして、月絵国北地区から南地区へ飛行している定期便に違いない。

「天っちょ警部天っちょ警部、あそこ見てくださいよ。あそこです。あれって、もしかしてもしかして、サンタクロースだったりしちゃうかもしれませんよ。なんたって今日は大忙しのはずです。うむー、サンタさん最大の見せ場だったりしちゃいますね」

「あー、うん、かもしれないねー。サンタクロースかー……ああ、だったら、いい子にしてるから、是非とも僕のとこにもきてほしいな。プレゼントはね、うーんと……そうだな、疲れてるせいか、ちょっと甘いものがほしくなってきちゃった」

「きゃはははっ。あたしもですあたしもですー。いい子ですから、きっとサンタさんはきてくれるはずだったりしちゃいますよ。こんな目立つとこにいるんですから、見つけてくれること間違いなしなようでそうじゃないような予感がいっぱいですね。きゃはははっ。おおーい、サンタさーん、ばっちりここだったりしちゃいますよー」

 きあ瑠は大きく頬を緩めて、無邪気に両腕を振った。そうして疲れるまでぶんぶんぶんぶんっ振ってから、ゆっくりと腕を下ろしていく。

「あの、天っちょ警部……質問があるんですけど、よかったりしちゃいます?」

「えーと、これまで僕が、きあ瑠ちゃんからの質問を断ったことがあったかな? 仮に断ったとしても、きあ瑠ちゃんのことだから気にせず話しはじめちゃうんでしょ? どうぞ」

「きゃはははっ。あのですね、一連の爆破事件、天っちょ警部は本当に怪盗トレジャーが犯人だと思ってるんですか?」

「……どういうこと?」

 目をぱちくりっ。

「きあ瑠ちゃんは違うって思ってるの?」

「本部でもそう騒いでいますし、マスコミもそう決めつけて報道してるみたいですけど、本当にそうだったりするんでしょうか? あたしはもっと別の何か……怪盗トレジャーを隠れ蓑にしている真犯人がいるんじゃないかと思ったりしちゃってる気が満々です」

「ふーん、トレジャーを隠れ蓑にね……さすがはきあ瑠ちゃん、おもしろい考え方だね。さきさんにも聞いてもらいたいぐらいだ。もしそうだとした場合、一連の事件はどうなるかな?」

「うむー。どうなると言われると困っちゃいますけど……」

 唸るように眉の間に皺を寄せ、なんとも難しい表情をしながら腕組み。きあ瑠は視線を下げたまま、言葉をつなげていく。

「怪盗トレジャーは怪盗です。盗みはやっても、ビルを壊しちゃうような破壊行為はやらないというか、意味がないと思ったりします。美術館のときも大京商事のときも、まだ高価な展示品はたくさんあったりしました。なら、壊しちゃうのは怪盗の仕業とは思えなかったりします。怪盗だったらそういったものを壊すんじゃなくて、ちゃんと盗まないといけないと思ったりします」

「ああ、実はね、僕も同じことを考えたことはあるよ。なんで貴重な展示品を壊しちゃうんだろう? って。もったいない」

「だったら!」

 きあ瑠は勢いよく顔を上げた。自分と同じ意見を持った人間の存在が嬉しくて、つい頬を緩ませる。

「それってのは、怪盗トレジャー以外に、真犯人がいると考えてもいいってことだったりしますよね?」

「うーん、それはどうだろう?」

 問われたことに、希守は首を捻る。

「それについては、咲牙さんが教えてくれたんだ。怪盗トレジャーは、自分が欲しいものはすでに手に入れているって」

 楓美術館のときは『女神の肖像』を、大京ビルのときは『太陽の石』を。

「楓美術館も大京商事ビルも、破壊されたのは怪盗トレジャーが盗み出してから。自分がほしいと思ったお宝さえ手に入れれば、他に用はない。うん、きあ瑠ちゃんの考えは通らなくなるね」

 いくら貴重な美術品や宝石が保管されていても、興味がなければ盗もうとはしない。建物とともに破壊したところで問題ないはず。

「建物を破壊した理由はね、建物内に残したであろう、自分の痕跡を消し去るため。僕にはそれがうまく想像できないけど、指紋だったり所持品だったり、何か自分の正体につながるものをきっと残したんだろうね。だからああして破壊しなくちゃいけなくなった」

「うむー、そうですか? そんなことなかったりあったりするかもしれないかもだと思ったりしますけどね」

「ふーん、あくまできあ瑠ちゃんは、一連の爆破事件の犯人はトレジャーじゃないって考えなんだね?」

「はい」

 きあ瑠は即答する。一瞬の迷いなく、そうすべき明確なものを持っているみたいに。

「絶対違ったりします。怪盗トレジャーがこんなことするはずありません。怪盗はやっぱり怪盗だと思います。盗みはしますが、破壊はしません。天っちょ警部はそう思ったりしちゃいません?」

「本音を言うと、僕もそう思いたいよ。トレジャーがこんなひどいことをするわけないって……けどね、それ以外に犯人が思いつかないんだ。トレジャーが盗みに入った楓美術館、大京商事ビルが破壊されている。それも自衛隊基地から盗み出した爆発物で」

 大京商事ビルは破壊部分が三階で、すでに崩壊したために検証は困難を極めていたが、楓美術館の方は検証結果が出ている。それによると、火災は爆発物が使用されたものと断定でき、爆心には直径二十五センチ、深さ八センチの穴が確認された。それは自衛隊が紛失した、敵軍侵攻を食い止める道路破壊用の二十ポンド爆弾である。

「もうこれ以上トレジャーを野放しにするわけにはいかない。一刻も早く逮捕しないと、いつまでもこの中央地区が混乱状態のままだ。それはとても危険なことなんだよ」

「で、でも、怪盗トレジャーはこのセントラルタワーを破壊する意味はあったりしちゃいます? 天っちょ警部の説明だと、前の二つは盗みをやった後の証拠隠滅だったかもしれないけど、ここにはまだ盗みにも入っていないんですよ。だとしたら、壊しちゃう意味がなかったりしちゃうと思うんですが?」

「確かにそれは僕にも分からないな? うーん……真実を知るためには、直接トレジャーに訊くしかないね」

 そう口に出してから、希守の喉がごくりっと鳴った。

「だからさ、きあ瑠ちゃん」

 希守は神経が昂っていることが分かる。緊張のために体温が低下し、脇の下には冷たい汗がつぅーっと流れていくことが気持ち悪い。

 極度の緊張のために身震いを止められない希守は、横にいる相手ではなく、正面のガラス越しに中央地区に発せられる大量の明かりを見つめながら、次の言葉を口にする。

?」

 言い切った。隣にいる相手に、その問いかけを。

「きあ瑠ちゃん?」

「……そ、それは、どういうことだったりしちゃいます?」

「深く考えることはないし、他意もない。単純明快なまでにそのままの質問。このタワーを壊す理由は、そうしようとする人間に訊くしかないって言ったね? だからそうしているわけさ」

「……だから、それをどうしてあたしにだったりします?」

「本人だからだよ」

 希守は、当たり前のことを当たり前のことのように口にする。吐息して、自分の肩ぐらいまでしかないきあ瑠の方に振り向いた。

 相手は虚を突かれたように、その表情を強張らせている。普段のほほんとしているきあ瑠とはとても同一人物とは思えない。

 希守は手を伸ばせば届く距離にいるのに、きあ瑠のことを真っ直ぐ見つめたまま。

「今回はかなり危険な任務となるからね、僕はきあ瑠ちゃんにごうさんと一緒にいるように命じたんだ」

 けれど、ここに豪の姿はない。希守たち以外にいるのは制服姿の警官が五人ほど。

「なぜきあ瑠ちゃんがここにいるにも関わらず、豪さんがいないのかな? いや、そうじゃないな……なぜきあ瑠ちゃんが豪さんと一緒じゃないのかな?」

「そ、それは、あたし、天っちょ警部のことが心配だったりしちゃったから……だから、こうして様子を」

「それがおかしいんだよ」

 希守は口元を緩めていく。

「いいかい、きあ瑠ちゃんはね、とても素直ないい子で、いつも僕の命令には忠実に従ってくれる。僕に許可をもらって豪さんの元を離れるならともかく、自分勝手に離れることはしない」

 けれど、こうして離れている。では、なぜそんなことが起きたのか?

「豪さんが突然倒れて病院に運ばれたため、一人になった? 違うね。その場合、きあ瑠ちゃんは豪さんと一緒に病院にいくはずだから。『豪さんと一緒にいて』っていうのは、そういうことだよ。まっ、あの豪さんが倒れるとは思えないし、万一そうなったとしても、僕に連絡があるはずだね」

 希守は笑みを浮かべるも、しかし、その視線は隣にいる『きあ瑠』に向けられている。強く、鋭く、二度と視線を外さないように。

「つまりは、豪さんと一緒ではないきあ瑠ちゃんは、その時点できあ瑠ちゃんじゃないんだ」

 偽物。

「だよね?」

「…………」

 俯いて、これまでが信じられないぐらい静かになったきあ瑠。五秒間そうしていて、閉じていた口を開けると同時に視線を上げた。

「……そ、そんなことなかったりします。本当に天っちょ警部のことが心配で、あたし、我慢できなくて……そうですよ、あたし、ちゃんと豪ちょびにも相談して、ここにいるんですから」

「もういいよ、そんなことは。君はきあ瑠ちゃんじゃない」

 絶対きあ瑠であるはずがない。

「だってね、外から入ってきたよね? きあ瑠ちゃんがよりにもよって外から? どうしてそんなことしたのさ?」

 ここは通常の建物ではなく、地上百五十メートル地点にある第二展望室。外から入ってくるには、外の階段を上がってこなければならない。地上からずっと。

「きあ瑠ちゃんが、地上から階段上がってくるわけないよね。だって、エレベーターがあるんだから。ちゃんと動いてるんだよ。けど、君は外から入ってきた。それはさ、闇に紛れるようにしてハングライダーでここまでやって来たからなんでしょ? だから外から入ってこれたんだ。いや、外からしか入ってこれなかったというか」

 こんな爆破予告されている重大な日に、呑気に地上から階段を使ってくるはずがない。ましてや希守のことを心配している人物なら、尚更。

「どうかな、この推理? まったく当たりじゃないにしても、そんなに的外れってこともないでしょ? ねっ、トレジャー?」

「……そうかもしれませんこと」

 きあ瑠の特徴的な高い声が、一気にトーンダウン。

「この辺りは、さすがは天川警部といったところかしら?」

「ぁ……」

 姿こそ同じなものの、すっかり雰囲気が変わった相手に、希守の双眸は大きくなった。口は一定の隙間を作ったまま、そこに浮かんでいる表情を漢字一文字で表すとすると『驚』でしかない。

「わっ、当たっちゃった? 凄い……」

 繰り返す瞬き。

「あ、いや、ほんとはね、仕事中だろうがなんだろうが、いつもお菓子食べてるきあ瑠ちゃんが何も持ってなかったから、『あれ、おかしいなー。きあ瑠ちゃんらしくない』って思ったんだけど……」

 なんとなくの感覚を追求した結果、今がある。仰天。

「もしかして、最近ずっと咲牙さんと一緒にいるから、少しは推理力がついたってことかな? だったら嬉しいな。この分だと、ぱぱぱっと難事件を解決できそうな気がするよ。うんうん」

「……か、鎌をかけられた!? よりにもよって、わたしが天川警部に鎌かけられたっていうわけですの!? きいぃ!」

 金切り声とともに、『きあ瑠』の制服から野球のボールぐらいの白い球が床に落ちた。一メートルだけ大理石の床を転がり、白い煙が噴き出していく! その量は尋常でなく、あっという間にこの第二展望室を白煙で覆い尽くしていく。

『うわぁ! ば、爆弾だぁ! 爆発するぞぉ! 逃げろぉ!』

 すっかり真っ白となった第二展望室に響き渡る声。それは希守の声だが、断じて希守が発したものでない。ただ、希守はこの現場の責任者で、偽物が発したものとはいえ、避難指示があったなら、五人いた制服警官は血相を変えて外へと飛び出し、我先にと階段を下っていく。命の危険なのだ、それはもう死ぬ気になって地上まで駆けていくことだろう。

 空間が真っ白になった第二展望室。開けられた扉から少しずつ外へ排出されているものの、まだまだ深い白色が充満している。すぐ前も見えないぐらいに。

「おや、天川警部は逃げないみたいですわね」

「そりゃね。いつもの煙玉だってこと、知ってるから」

 相手とは五メートルも離れていないが、視界が真っ白になっている以上、姿を見ることはできない。

「きあ瑠ちゃんに変装したときもそうだけど、その技術というか、声帯模写は見事だよね。テレビに出れば、一生食べていけるんじゃないかな? 怪盗なんてやってないで、タレントとして生きればいいのに。あと、変装できることは知ってたけど、まさか身長を縮められるなんてびっくりだ」

 きあ瑠は小柄であり、身長は百五十センチ。怪盗トレジャーの推定は百七十センチ。しかし、さきほどの『きあ瑠』も普段希守が見るきあ瑠と同じ高さに頭があった。であれば、頭から地面に向かって無理矢理押し潰したとしか思えない。

「いったいどうやって背を縮めたの? 膝でも曲げてたとか?」

「ふふふっ。企業秘密ですことよ。教えてしまっては、商売にならなくなってしまいますわ。それにしても、今日はいったいどうしてしまったんです? いつもなら後先考えずに、目の色を変えて突進してきますのに、随分と落ち着いているといいいますか、動きがないといいますか……元気がないのですか? それはいけませんね、せっかくのクリスマスイブだっていうのに」

「元気は元気だよ。ただ、僕がここにいるのは、いつもみたいにトレジャーを追いかけるために、ってわけじゃないからね。最重要項目から順番に処理していかないと、僕がここいる意味がなくなっちゃう」

 いつもは怪盗トレジャーを逮捕することが目的だが、今日は違う。今日は爆破予告されたセントラルタワーを守るために存在する。

「じゃあ、そろそろ教えてもらおうかな? どうしてこのタワーを破壊しようとしてるんだい?」

 まだまだ視界の白さが消えることはない。その白い闇をじっと見つめ、言葉をつなげる。

「いったいお前の目的は何なんだ? なんでこんな馬鹿げたことをしようとする?」

 あの大京商事ビルが崩壊していく光景は、希守は経験がないものの、母親から聞かされていた戦争を思い起こさせるものがあった。

 不安は一気に中央地区に増殖していき、今では多くの住人が漠然とした見えない恐怖に怯えている。恐慌状態に陥っているといっても過言ではない。

「そして今度は、あろうことかセントラルタワーを破壊するだなんて。このタワーはみんなの希望なんだぞ」

 セントラルタワーは、来年の博覧会の目玉であると同時に、少しずつ組み立てられていく姿に、多くの人間が勇気をもらっていた。中央地区の住人は皆、着工段階から見てきて、日々その背が伸びていく姿は、まるで我が子の成長を温かく見守る心境である。

「お前は、この中央地区から希望を奪おうとしているのか?」

 全員の子供を奪おうというのか?

「トレジャー!」

「希望を、奪うですか? わたしが怪盗だけに……ちっともおもしろくないですこと」

 声は少し不機嫌そうに尖っている。

「国民の希望なんて、そんな大きなもの、わたしの風呂敷には入りませんわ」

「お前の狙いはいったい何なんだ?」

「狙い? ふふふっ。それを考えるのが天川警部の仕事だと思いますけど。ただ、ヒントぐらいは差し上げてもいいですことよ」

 ここにきて白い煙の濃度が、薄まってきている。その分、怪盗トレジャーの声が空間に大きく響く。

「わたしはある明確な目的を果たすために、ここにいます」

「そんなの、予告状通り爆弾をセットするためだろうが。徹底的に調べたが、どこにも爆発物は見つからなかった。今日このタワーを破壊するには、どこかから持ち込む必要がある」

「ここにいる理由、わたしが爆弾をセットするため、ですか? 見当外れもいいとこですわ。あー、そんな陳腐な発想しかできないなんて、天川警部にはがっかりですこと」

 地上百五十メートルの風が強いこともあって、空気の循環速度は地上よりも速い。さきほどまで目の前もまとも見えなかった視界は、しかし、今は二メートル先ぐらいまで見えるようになった。この分なら、あと五分もしないうちに視界良好となるだろう。

「わたしがここにきた理由は、ですわ」

「見てみたかった……? 何をだ?」

「そんなの決まってますわ。このセントラルタワーを、大胆にも破壊しようとしている人間の顔を」

 怪盗トレジャーは声を上げて笑う。けれど、その響きは物凄く苦々しいものを口に入れたみたい。

「よりにもよって、このわたしに罪を着せようとする輩がいようとは、とても見過ごすわけにはいきませんことよ」

「な、何を言っている!?」

「いいですか、よーく思い出してみてください。わたしが大京商事ビルを破壊したと世間で騒ぎ立てているみたいですが、その日、その場所で、あなたはわたしのことを見ましたかしら?」

「ああ、それはもちろん、僕はこの目でちゃん、と……」

『見たとも!』とつづくはずだった言葉は、しかし、半端な語勢を残して消えていく。

(あの日は……)

 記憶には怪盗トレジャーの姿がある。あるが、あれは……風に靡く白いローブに、顔につけた大きなゴーグル姿。それは大京商事ビルの向かいにあるビル屋上に設置された人形。『首が取れた』という衝撃的な記録は、今も脳裏に焼きついている。

(あれ……?)

 あの日、希守は怪盗トレジャーの姿を見ていない。向かいの屋上へ移って、怪盗トレジャーと思っていたのがマネキンだと知る。直後に大京商事ビルから白煙が発せられ、急いで展示室に戻ると、すでに『太陽の石』は盗まれていた。ショックに惚けていたところ、咲牙が機関室に爆弾を見つけたとやって来たため、急いで全員を退避させる。付近にいる野次馬や警官の避難を誘導していき、そんな慌ただしい最中でビルが爆発した。

(見てない……)

 見ていない。いつも事件のとき、逃走するその背中を追いかけていたのに、あの日に関しては怪盗トレジャーを見ていなかった。

「……け、けど、それは逃走を許した後のことで、お前のことだから、きっと得意の変装で逃げたに決まってる」

「周りに惑わされるのでなく、天川警部が見てきたもの、感じてきたものを信じて思考を巡らせるといいですわ。いいですこと、楓美術館を破壊した理由が『証拠隠滅』だとした場合、どうしてあんなに遅れて爆発させたのでしょう?」

 怪盗トレジャーが楓美術館から『女神の肖像』を盗み出したのは十一月一日。に対して、全焼したのは二十五日。もし本当に証拠隠滅を望むなら、間隔を空ける意味がない。

「さっきお伝えいたしました、わたしに罪を着せて裏で動いている真犯人がいると。わたしはそいつの顔を拝んでみたくなり、こうして馳せ参じたわけです。クリスマスイブの夜、天川警部のいるこのセントラルタワーに」

「そ、そんなの、騙されないぞ。もしそれが本当だとしたら、それこそ直接僕に言えばいいじゃないか。けど、お前はきあ瑠ちゃんに変装して、僕を騙そうとした。そんなの信用できるはずがない」

「あらあら、随分とおかしなことを仰いますわね。わたしが直接天川警部の前に出たら、こちらの話を聞く前に目の色を変えてわたしのことを追いかけてくるのではなくて?」

 それは毎回のこと。

「それでは話になりません。ですから、ああしてあなたの部下に変装し、真実を伝えようとしたわけです」

「そ、それは……」

 的確な指摘に、反論するどころか、ぐうの音も出なくなる希守。

「…………」

「わたしはね、危惧しているのです。わたしの陰に隠れて、何か大きな陰謀が渦巻いているんじゃないかと。けれど、その『何か』が分からない。知っているのは、この事態を起こしている張本人しかいないわけです。直接本人に問いただしてやろうと思いまして。加えて、勝手にわたしの名前を語った罪を報いていただく予定でもありますわ」

「名前を語った罪?」

「どうして天川警部がここにいるのですか? 予告状が届いたからではなくて? けれど、わたしはそんなもの出しておりません」

 換気されていく空気に、さきほど怪盗トレジャーから発せられた白煙は、ほとんど残されていなかった。

「まあ、わたしはわたしで今回の犯人を見つけてみせますわ。天川警部は天川警部の考えで動くといいです。他者に惑わされないように、自身の信じるものを貫いて」

「ちょ、ちょっと待て、トレジャー……」

 希守の視界から、白煙が完全になくなった。見えるのは中央のエレベーターの扉と、何も装飾されていない真っ白の壁。これまで言葉を交わしていた怪盗トレジャーの姿はなくなっていた。

(…………)

 白煙を爆弾だと思い込んだ警察官はすでに避難しているため、誰もいなくなった第二展望室にぽつんっと残されることとなる。全身に激しい脱力感を得ているような、奇妙な感覚を得て。

(他者に惑わされないように……)

 ここには怪盗トレジャーからこのセントラルタワーを守るためにいる。なのに、ここで交わされた会話は、希守がここに立っている意味が不成立であることを示していた。

 つまりは、一連の爆破事件の犯人が怪盗トレジャーではないこととなる。そう本人から告げられた。

 だとしたら、いったいこの事件はどうなるのか?

 怪盗トレジャーの言う通り、真犯人が別にいるのではないか?

(僕は、いったい……)

 月絵国のマスコミも警察本部も、ましてや捜査を依頼している咲牙も、怪盗トレジャーが犯人であると提示した。けれど、怪盗トレジャーは自分以外に真犯人がいると主張する。

 果たして真実はどこにあるという?

(僕は……)

 分からない。まったくもって分からない。これまで見てきたものがで、これまで見ていたものは実は絵の裏側で、真実が描かれている表面はまだ一度も目にできていないような……本件の真実は希守どころか、まだ誰にも認識できていない地の底で蠢いている奇天烈さに直面している……これまで感じたことのない気持ち悪さが、胃酸を逆流させんばかりに希守の体を蝕んでいた。

(…………)

 見つめる装飾されていない真っ白な壁には、針の動いている丸時計がかけられている。時刻は午後八時三十分を少し回ったところ。

 タワー全体の最終チェックをしたのが午後五時で、爆発物は仕かけられていなかった。これは間違いない。工事関係者にも協力を要請し、徹底的に行ったから。

 もしあの予告状通りに今日このセントラルタワーが破壊されるとすれば、午後五時以降にこのタワーにいる人間にしか、爆弾をセットすることができないことになる。

(…………)

 ここにいる人間、それが黒幕……怪盗トレジャーももちろん含まれるが、それ以外といえば、希守を含む警察関係者のみ。あまり身内を疑いたくないが、工事関係者はすでに帰らせているし、それ以外の人間はセントラルタワーどころか博覧会会場にも近づけない。

 だがしかし、よくよく考えてみれば、確かにここにいるのは警察関係者だが、そもそも爆弾をセットするには、爆弾をこのセントラルタワーに持ち運ばなければならない。けれど、希守がチェックしていた限り、誰もそれらしいものを持っている者などいなか──。

(……っ!?)

 いた! 思い当たる人物がいた。その事実、落雷の直撃を受けるような衝撃である。なぜなら、その人物は、大京商事ビルが破壊された日もあのビルにいたのだ。

 希守の喉がごくりっ! と大きく鳴る。同時に体温が急激に冷えていく錯覚を得た。それはこれまでに感じることのない、鋭い刃物を首元に突きつけられるような驚異の感性。

(…………)

 事実に気がついてみると、抱いてきた発想すべてが、天地が引っ繰り返る脅威につながる。もしかしたら、希守は今日まで間違った思考を繰り返してきたのかもしれない。

 いや、正確には、ある人物によってそう誘導されてきた。

 いいように、手の上で踊らされて。

(……いかなきゃ)

 希守は力を入れて足を前に踏み出す。その未来にどういった真実が待っているか、現時点では定まっていない。しかし、目を覆いたくなるような凄絶さが待ち受けていようとも、断じてセントラルタワーを破壊させるわけにはいかない。今やこのタワーは中央地区に暮らす人間、いや、月絵国民の希望なのだから。

 それを守ることができるのは、希守のみ。


       ※


 希守はエレベーターに乗って一階に到着。さきほど第二展望室で怪盗トレジャーが使用した白煙の影響もあり、多くの警察官が避難していた。しかし、全員がそうしたわけでなく、十人程度の制服警官が不安そうな顔で玄関ロビーに残っている。

 そこには、希守の部下二人の姿もあった。

「きあ瑠ちゃん、は本物だよね? ああ、ううん、なんでもないよ。あのね、どうやら爆弾が仕かけられたみたいなんだ。これから手分けして捜したいところなんだけど、協力してくれるかな?」

「よかったりよくなかったりしちゃいますけど、本格的によかった方にしちゃいたい気分ではあります」

「うん、ありがとう」

 きあ瑠の隣にいた豪も無言のまま頷いてくれたこと、希守は自然と頬を緩めていた。

 と、その時、玄関ロビーが勢いよく開き、雪崩れ込むようにして全身黒づくめの集団が現れた。ヘルメットに防護服、手にはライフルを持参。そして、瞬く間に包囲された。

 その姿に、希守は目が点。

「特殊部隊がどうして……?」

「天川君、危険だから避難するといい」

 黒づくめの特殊部隊から、八神秀一郎が現れた。八神は希守が所属する特別捜査部の部長。身長は希守と変わらないが、横幅が異常に広いために、今日も着ている背広はぱつぱつっであった。

「さきほど怪盗トレジャーがセントラルタワーに現れたという情報を受けた。すでに爆弾がセットされている危険性が高い。だから、ここは放棄して避難するんだ。時間がないぞ。急げ」

「ま、待ってください。爆弾がセットされているなら、それを見つけて、解除するのが我々の役目です」

「それは許さん。儂は大事な部下を死なせるわけにはいかん。さあ、早く避難するんだ。ほら、一刻も早く」

 八神がそう周囲に指示を出すと、黒ずくめの特殊部隊は残っている警察官を外に誘導していく。

 この一階玄関ロビーに残ったのは、八神と特殊部隊、そして希守ときあ瑠と豪だけとなった。

「何をしとる、急ぎたまえ、天川君」

「できません」

 希守は小さく首を振る。

「僕はトレジャーを逮捕しなければなりませんし、仕かけられた爆弾も解除しなければなりません。セントラルタワーは希望なんです。壊させるわけにはいきません。それに、爆弾はトレジャーが仕かけたものじゃないかもしれないんです。一連の爆破事件には真犯人がいたんですよ。それを突き止めるためにも、僕はここに残ります」

「馬鹿なことを言ってはいかん。犯人は怪盗トレジャーで、セントラルタワーはもうすぐ爆発するんだ。ほら、早く避難するんだ。じゃなければ、力ずくということになるぞ」

 特殊部隊が希守たち三人を囲み、その輪が小さくなっていく。

「これは命令だ」

「現場責任は僕です。僕はこのタワーを守ります。真犯人だって必ず捕まえてみせます。だから、残らせてください」

「上司の命令に逆らうつもりか!」

「すみません!」

 希守は背を向けた。命令であろうと、希守は自身の手でセントラルタワーを守らなければならない。上司の命令であれ、邪魔をするのなら、断じて従うわけにはいかない。

「僕、上に戻ります」

「聞き分けの悪い……ならば、このタワーとともに死ぬがいい!」

 そう八神の声が響いた瞬間、控えていた特殊部隊が希守たちに襲いかかっていく。それは保護するような甘いものでなく、この世から抹消させるもの。

 希守ではとても太刀打ちできない。そのまま命を奪われ、ここで息絶えることとなる……のだが、そうはならなかった。なぜなら、ここにいるのは希守一人でないから。

 刹那、光が一閃する。同時に、特殊部隊が一人、倒れていく。

 その光景に、八神の表情が歪んだ。

「お、お前まで邪魔をするというのか!?」

「天川殿……貴殿は自分の信じた道を進むのである。それこそが正義であると小生は信じるのである」

 いつものように青い袴姿の豪は、希守を背中に木刀を構えた。さきほどの一閃により特殊部隊を床に横たわらせたのである。

 さらにその木刀が二度と宙を切ると、その数だけ特殊部隊が床に横たわっていく。

 豪の剣術、月絵国に右に出る者はいなかった。

「天川殿、ここは小生に任せるのである」

「ありがとう、豪さん。きあ瑠ちゃんのことをお願いします」

 希守は、特殊部隊に取り囲まれて、一触即発という緊迫した状況だというのに、相変わらず呑気に棒つきのキャンディーを銜えているきあ瑠に微笑みかけ、背中を任せることができる豪を頼もしく思いながら、エレベーターに乗り込んでいく。

 このセントラルタワーを守るために。

 この国の希望を守るために。


       ※


 セントラルタワー第三展望室は、地上二百五十メートルに位置する。こちらもまだ真っ白な内壁で、閑散とした雰囲気。飾りつけは年明けから急ピッチで進められていくのだろうが、果たして本当に六月の博覧会に間に合うのか? いらない杞憂を抱いてしまう。

 そんな第三展望室に辿り着いた希守。エレベーターから一歩足を踏み出すと同時に、吐き出された息が展望室に真っ白に広がっていく。電気系統は正常に作動しているが、暖房の電源は切られているため、立っているだけで足踏みしたくなるほど寒かった。

「お一人ですか?」

 希守は、照明に照らされた正面にいる人物に話しかける。絶頂の緊張をその身に帯びながら。

「避難されなかったのですね、さっき爆弾騒ぎがあったのに?」

 他の警察官は地上に避難している。第二展望室での怪盗トレジャーの白煙によって。

 けれど、その人物はここにいた。三つある展望室の一番上に位置する、第三展望室に。

「あなたがすべての黒幕だったわけですね」

 そう口に出した言葉には一切迷いがない。

 に対して、相手は中央のエレベーター前にいる希守に背を向けている。届けた言葉にも微塵も動じる様子なく。

 希守は相手から五メートルほど距離を取り、帯びている緊張に全身を強張らせながら、しかし、その眼光に力を込めて真っ直ぐその背中を見据えていく。すべてを射抜くように強く、激しく。

「あなたは自衛隊基地から爆発物を盗み出し、楓美術館と大京商事ビルを破壊した。今度はこのセントラルタワーを標的としている……いったい目的は何だっていうんです?」

 希守の視界にいる人物は、いつものように薄茶色のソフト帽を被って黒いコートに身を包んでおり、手は後ろで組んでいた。

「教えてください。あなたがいつも手にしていた探偵の七つ道具が入ったアルミケースは、どこに置いてきたんですか?」

 事前の点検で異常を発見できなかった以上、今日このセントラルタワーを破壊するには、最後に点検を行った午後五時以降に爆発物を持ち込むしかない。しかし、ここは警察関係者以外立ち入り禁止で、爆発物を裸で持ち込めるはずがなく、入れ物が必要となる。鞄や段ボールといったものを持ち込んだ人物は、希守には一人しか思い当たらなかった。

「咲牙さん!」

 希守が見ている人物は、咲牙あたる、探偵。

「楓美術館のときも大京商事ビルのときも、あなたなら自由に行動できましたからね」

 楓美術館のときは調査する名目で、あくまで警察関係者として現地を訪れている。であれば、通常は客が入らない事務所や配電室にも潜り込むことが可能だっただろう。そんな場所、深夜の見回りをする管理人も立ち入ることがないため、仕かけられた爆発物は発見されなかったに違いない。

 また、大京商事ビルも同様に、希守たちの協力要請に乗じて探偵の七つ道具が入っているとされたアルミケースを持ち込み、独自で行動している間に機関室に潜り込むことができたはず。事実、爆破一時間前から『見回り』という名目で、希守の監視下にいなかった。

「大京商事ビルのとき、向かいのビルにトレジャーに似せたマネキンを置いて僕たちを展示室の前から動かしたのも、展示室で白煙を発生させたのも、全部咲牙さんだったんですね?」

 混乱に乗じて、咲牙は機関室に侵入。まんまと爆弾の入ったアルミケースをセットしたのである。

「あなたなら可能ですよね? あなたは以前、僕の上司であるがみ部長の指導員だったことを理由に、僕の協力者として雇うように命じました。そうして警察の情報を逐一得ると同時に、現場にも自由に立ち入れます」

 特異な立場だからこそ、手にしていたアルミケースも点検されることがなかった。咲牙にはそれだけの信頼があったから。

「咲牙さん、あなたはいったい、この中央地区をどうするつもりですか? なんでこんな馬鹿なことをするんです?」

「……凄いものですね。ほら、こんな高い場所に床を作ってしまうのですから。天川君、ご覧なさい、夜景はとてもきれいですよ。あそこに見えるのが警察署ですね。下からは見上げるばかりだった十階建ての建物が、あんなにも小さく見えてしまう」

「咲牙さん!」

「……私はね、天川君」

 咲牙は、羽織っている黒いコートが一切揺れないほど、ゆっくりと後ろを振り返った。

「この国を誰よりも強く愛しているのです」

『この世に生を受けた月絵国を誰よりも愛している』それは濁りのない響きで、口に出した咲牙の本心。

「この国を愛しているからこそ、現在の多くの国民には見えていない、この国の根底を構築するを排除したいのです」

 断固たる意思を含ませ、咲牙は希守を鋭く見つめる。

「誤った土台の上に、大罪を積み重ねていくこの国の現状を正したい。そのためには、現状の土台の上で起きていることを訴えたところで埒が明かない。本当にこの国を正そうとするには、根底ごとまっさらな状態にしなければなりません。そう、それはまるで戦争に敗れたばかり頃みたいに」

 敵軍によって次々と投下された大きな爆弾で一面焼け野原となり、これまで戦ってきた人間の死体が山のように積まれた、あの敗戦の日のように徹底的に今を壊さなければならない。信じてきたものすべてを投げ出そうとする、あの絶望。

「現在のこの国の人間にとって、来年開催される博覧会の目玉、このセントラルタワーが未来へと歩む希望だとすれば、まずはそれを破壊しなければなりません」

 こんな誤った社会の未来など、迎えるわけにはいかない。

「希望を失い、目の前を闇に閉ざされる絶望的な状態となったとき、この国の歪みを明るみにし、正しき方向へと導いていく必要があるのです」

「ちょ! ちょ! ちょっと待ってください!」

 言葉の単語としては意味を理解できる。しかし、理解できる単語のつながりが、希守にはさっぱり理解できない。

 この国の歪み?

 戦後からやり直す?

 戦後と比べて、この国はこれほど豊かになることができたのに?

 もう誰も空腹で泣く子供はいなくなったのに?

 これを、破壊する?

 この平和を、破壊する?

「さ、咲牙さんは、戦争をなくしたこの世界が、間違いだっていうんですか? それを否定する意味なんてないじゃないですか」

 平和だからこそ、もう戦争が起きることはない。空からいきなり爆弾が落ちてくる理不尽な死もなくすことができている。そればかりか、戦後月絵国は発展に発展を重ねていき、今では世界でも五本の指に入る金持ちになることができた。

「戦後に戻す必要なんてありません」

「いえ、天川君にはこの国の表面しか見えていない。今を生きている天川君だからこそ、過ちに気づけていないのです」

 咲牙は、希守が見ているもの、信じているもの、それを全否定するように静かに首を横に振る。

「天川君が生まれる少し前まで、私たちは戦争をしていました。当時は『敵兵を一人でも多く殺すこと』それが唯一の正義でしたね。私たちは銃を手に取り、敵兵に立ち向かっていきました」

 命じる国王のため、国のために、命を投げ出してでも敵国を殲滅すること、それが戦中の咲牙たちが生きた二十九年前の月絵国。

「けれど、敗戦したとき、残されたのは多くの仲間の死体、そして投下された多くの爆弾によって大地が燃え尽くした焼け野原でした。愕然としましたね。自分たちがやってきたことの結果が、あのような惨たらしいものだったのですから。目の当たりにして、我々はようやく過ちに気がつくことができたのです」

 正しいとされてきた戦争を行うことで、悲惨な光景を作り出してしまった。戦っている間、そんな世界を望んだわけでないのに……その瞬間、現実を前にして、自分たちの正しいとして命を懸けてきたことすべてが間違いであることを痛感した。

「我々は銃を捨てました。もう国のために戦うことをやめました。これからは国のためでなく、自分たちの幸せを求めていく。そのために必要なこと、それはまず国を豊かにすること。貧しいがばかりに争いが起きる。貧しいがばかりに多くの命が消えていく」

 国を発展させるため、豊かにするために、焼け野原で銃を捨てた国民は一所懸命仕事に汗するようになる。敗戦のショックを仕事に熱中することで忘れようと考えたのかもしれない。とにかく我武者羅に働いて、働いて働いて働いて働いて……あの焼け野原を目の当たりにしてから二十九年という年月で、世界でも屈指の豊かな国となった。それは戦後の月絵国民が望んだ成果に間違いない。ただ一所懸命仕事することによって築き上げた世界なのである。

「戦中は戦うことが正義でした。そう擦り込まされてきましたから。ですが、信じ込まされてきた正義は、未来の自分たちに否定されます。それは、とても辛いことなのですよ」

 今見ているもの、信じているもの、その思考に行動……すべてが未来に拒絶されるなどと、誰だって考えたくはないだろう。でなければ、いったい何を見て、聞いて、考えて、信じて、生きていけばいいのは分からなくなってしまう。

 なぜなら、今の正義がのちには大罪になるのだから。

「天川君はまだ気づいていないでしょうが、この月絵国では、その過ちが今も繰り返されようとしています」

 犯した過ちをもう一度、この国はまた繰り返してしまう。

「現在の世界は、後の世界に拒絶されることでしょう」

 この現代が、そこで形成されている世界が、後の未来に拒絶される。戦中の正義を戦後に拒絶されたように。

「そんな理不尽なこと、あっていいわけがありません。そう思いませんか? 今の頑張りを未来から疎まれるのですよ? だからこそ、そうなる前にこの世界の歪みを正しておかなければなりません」

 間違えた道をそうと気づけずに歩みつづけている、現代の月絵国を更正させるために。

 正しく導いていくために。

「今のこの歪みを正すには、すべてをやり直すしかないじゃありませんか。この時代をあの焼け野原から」

 大量の爆発物を要して、この国を破壊しなければならない。戦中を拒絶した敗戦の絶望を再現させるために。

 そうしてこの時代の歪みを消し去っていく。

「天川君のように、今の月絵国が正しい国であると思っている人間には、気づくことができないのですよ。それは一人でも多くの敵兵を殺すことに躍起になっていた戦中の我々のように」

 しかし、咲牙は一度経験している。戦中に信じ込まされてきた正義の罪を。

「できることなら、天川君にも気づいてほしい。そして、私に協力してほしい」

 一緒に月絵国を再生する手伝いをしてほしい。

「お願いすることはできますか?」

「いいえ」

 即答。最初から決まっていたように、迷いなど一切含ませることなく。希守は真っ直ぐ相手を見据えたまま、自身の信念を貫くように、伝えるべき言葉を吐き出していく。

「僕には咲牙さんの仰っていることが理解できません。僕の能力不足で、そうなのかもしれませんが……確かに僕には今しか見えていません。今の正しさこそが正義です。咲牙さんが仰っていることに、僕はまったく気づけていないことでしょう。だから、もしかしたら今の時代が後の未来から拒絶されるかもしれません」

 一呼吸分空けて、つなげる。

「ですが、僕は絶対にあなたに協力することはありません」

 警察官である以上、この月絵国の治安を守る使命。であれば、どのような理由があろうとも、それを阻む者が現れたのなら、その前に立ちはだかるしかない。

「僕はこんな髪と目の色をしていますが、それでも月絵国の国民なんですよ。どれだけ醜い世界だったとしても、正すべきことが往々にしてあったとしても、その解決方法として自分が暮らす世界を破壊しようとは思いません。もしすべきことがあるとすれば、今を壊すのでなく、時間をかけてでも今を正していくべきだと思います」

「そんな悠長なことを言っている場合ではないとしても、ですか?」

「はい」

「それは残念です……」

 一拍分の静寂が訪れるが、それはすぐに破られる。

「天川君としても、悠然と構えるといいますか、それほど時間が残されているとは思えませんがね」

 意味深長に頬を緩め、咲牙は円形となっているこの第三展望室の曲線に沿って歩を進めていく。十歩分進むと、足を止めて外を指差した。そこはタワー北側。

「あそこにおられる天川君のお母上が、と分かってもですか?」

「っ!?」

 希守の体がびくっと反応した。ただ入院している母親のことを言われただけなのに、感情を大きく乱すような動揺がその体を縛り上げていく。

「そ、それはどういうことですか?」

「他意はありませんよ、そのままの意味として受け取ってください。君のお母上はこの国に殺されるのです、この時代の歪みによってね」

 咲牙は手で外を示し、そのまま扉を開けて出ていく。

「少し外の空気を吸うことにしましょうか」


       ※


 地上二百五十メートル。吹きつける風はとてつもなく強く、咲牙は被っているソフト帽を飛ばされそうになる。右手で押さえながら、空に僅かに点在する星々のきらめきと、眼下に広がる数多くの人工的な明かりを目に、吐き出した息が白くなる前に風で掻き消されていくのを視認した。

 第三展望室を出ると、そこから上は関係者以外立ち入り禁止エリア。電波塔としての役目を担うアンテナが地上四百メートルの高さまで伸びており、アンテナを保護するように鉄骨が頑丈に組まれている。よく見ると、鉄骨には足場があった。工事する際、そして定期点検を行う際に利用するものだろう。アンテナ頂上に航空障害灯の赤いランプが点滅しているのが、かろうじて確認できる。その頂上部分には三角形を逆さまにしたような細長い避雷針があった。同じものが第三展望室の屋根にも設置されている。国はタワーのそれぞれの高さの風や揺れを定期的に調査しているので、探せば風向計や風速計といった計測機器を見つけられるだろう。

 手摺りに挟まれた足場を咲牙はゆっくりと歩を進め、第三展望室上部へと辿り着いた。

 黒いコートは強風に煽られて、ばたばたばたばたっと音を立てながら強く靡いている。いくつもの細い鉄骨である手摺りに背中を預けるようにして、後ろからついてきた希守のことを振り返った。

「さすがに寒いですね。雲は見当たらないみたいですが、この分だとまた雪が降るかもしれません」

「……教えてください。母さんがこの国に殺されるとは、いったいどういう意味なんですか!? 僕はいったい何に気づけていないというのです!?」

「戦後たった二十九年です。そんな短い間に、月絵国は戦前よりも遥かに発展しました。国を豊かにするために国民が懸命に働いてきたからです。ただひたすらに」

 国を豊かにすること。工業や産業、あらゆる職種の人間が国内製品の性能をひたすら上げることに目の色を変え、そうして価値を高めた製品の生産性を追求していくことで、他国を追い抜く成果を得られた。今では月絵国産の電機機器や医療機器などを数多く輸出しており、世界では必要不可欠となっている。その要因として、月絵国で採取されるレアメタル、月絵ダイトが大きく影響していた。

「しかしですね、国を豊かにすることを優先するあまり、多くのものを犠牲にしてしまいました。森林伐採はその一つですね」

 森林には多くの植物や動物によって構成されている生態系があり、そこを通る川や地下水によって酸素を多く含んだ栄養分が海へと流れ込んでいく。そして海では陸地からの栄養分と酸素が多くの生態系を助け、そんな海上では雨を含んだ雲が発生し、地球上の熱をコントロールしながら、やがて雨や雪となって森林を潤していく。森林と海にはそういった循環機能が存在し、地球上の温度と大気のバランスを保っている炭素吸収源である。

 だがしかし、戦後の月絵国は木材の利用や大量の火力エネルギーを得るため、多くの森林を伐採してきた。循環システムの機能はどんどん低下し、この星の温度を高めている。

 また、自動車などの排出ガスによる浮遊粒子状物質や二酸化窒素、工場などからの排煙による亜硫酸ガスや揮発性有害化合物、廃棄物の廃却排ガスによるダイオキシンといった物質が大気汚染を起こしていた。特に工場地域では煙とも霧ともつかないスモッグが発生し、空一面を覆う日も珍しくはない。このような状態では人間の呼吸器系統への障害が発生する危険性が極めて高い。

「戦後の我々は、戦中の過ちを取り返そうと豊かにすることばかりに囚われ、多くのものを犠牲にしてきました。しかも、まだその事実に多くの人は気づけてすらいない。これはもう愚かだとしか言い様がありませんよ」

 咲牙は、哀れみを含ませて静かな瞳を浮かべた。

「ご一緒した楓美術館の近くにも工場地帯がありましたね。工業用排水がたくさん垂れ流されていたことは覚えていますか? 確か、その一つに化学工業がありました。廃液としてはタリウムやマンガンといったものがありますが、そこに水銀も含まれています」

「…………」

「水銀は、神経系を破壊してしまう恐ろしい物質です。摂取すると、頭痛や手足の痺れ、狂騒状態から意識不明となる。重度となると死亡することでしょう」

 けれど、通常人間が水銀を口にすることはない。だからこそ、その恐ろしさを知る者は皆無といっても過言ではない。

「ですがね、工業より排水された水銀は、流された工業排水用の人工的な川から海へと流れ、魚介類などに蓄積されます。人間は水銀を直接口にすることはありませんが、魚介類なら食べますね。では、いったいどうなるでしょうか?」

 水銀が蓄積された魚介類を食べた人間は、日常の生活では摂取することのない水銀を体内に含むこととなる。

「体は異常を訴えることでしょう。頭痛に手足の痺れ、記憶障害や意識不明……おや、どこかで聞いた症状ではありませんか?」

「…………」

 告げられた言葉に、希守は背筋が凍りつく錯覚を得た。もちろん屋外ということの冷たさを肌で感じているが、しかし、今のは内側から自身を凍りつかせていく鈍さがある。

「……母さん……」

 入院している母親。頭痛や手足の痺れに悩まされ、果てには意識不明に陥った。意識はどうにか回復したものの、現状では記憶障害が起きており、息子と夫の区別もつかなくなっている。

 その症状、まだ現代医学では原因不明ということになっていた。全世界でも最先端にある月絵国の医学を持ってしても、解明されていないのである。

「……母さんが、この国に、殺される」

「私はね、これまで世界各地を旅してきました。大国の工業地区で同じことを聞いたことがあります。やはり化学工場が関係していましたね。廃液としては、水銀も垂れ流されていました」

「だ、だったら」

 希守は握る両拳の力を強めていく。その強さにかけがえのない母親を思う気持ちを乗せて。

「そうと分かっているのなら! 咲牙さんはそうと分かっていながら、なんで告発しないんですか!?」

「それはもちろん、ですよ」

 問われたことに、当然のことを当然のように口にしたように、咲牙はあっけらかんとしている。

「あなたのお母上は『原因不明の病』で倒れています。つまりは国に認知されていません。そんな状況で告発しても、この国の隠蔽体質によって、事実そのものを揉み消されてしまう」

「そ、そんなことない。あるわけがない! 事実を隠蔽するだなんて、この国がするはずない!」

「いえいえ、現にあったじゃないですか?」

 自衛隊基地から爆発物が紛失した際、その事実はずっと伏せられてきた。理由は『国民に対して、余計な混乱を防ぐため』だったが、実際は国が隠蔽したのである。正義感の強い自衛隊員の密告があるまで。もしその自衛隊員がいなければ、一生闇の中だっただろう。現場から採取された火薬の照合が一致していたとしても、意味はなかったはずである。

「大京商事もそうですね。爆破現場から裏カジノに通じる設備が見つかっているのに、今は爆破事件のみで、そちらを蔑ろに扱っています。そうしていつの間にかなかったことになってしまうのですね」

 爆破事件に隠れ、水面下で捜査を進めていき、煙に巻こうとしている。大企業である大京商事が裏カジノとつながっているのが露呈すれば、国政にも影響が及んでしまう。

「この国はいつもそう、隠蔽体質が蔓延しています。思い返してみると、開戦のときもそうでした。大戦の契機は我々から仕かけたもので、あれは大成果と呼べるものでしたね、大国に大打撃を与えることができましたから」

 空母から大国の海岸基地を破壊した。月絵国の大勝利となったのである。そしてそれこそが大戦の火蓋を切った。

「しかしですね、我々にはちゃんと宣戦布告をした上で大国に大打撃を与えたものだと伝えられたのですが……」

 事実は違う。攻撃を開始した段階では、まだ宣戦布告はされていなかった。書類の手続きにトラブルがあり、実際に書面として提示されたのは、あろうことか攻撃した翌日だったのである。

「結果からすれば我々の作戦は宣戦布告前の『騙し討ち』となりました。しかし、それでは軍の士気が下がってしまう。そこで国は騙し討ちの事実を伏せたのです」

 戦中は一部の人間以外、その事実を知る者はいなかった。それが明らかになったのは敗戦後のこと。

「この国の根底部分にある歪みは、今も昔も変わることがありません。しかし、現在は平和であるために、より陰湿で悪質なものへと変貌している」

 詳細が発表されることのない税金の流れ。申告されることのない政治家の帳簿。次々に破壊されていく自然の実態。環境汚染による人体への影響。法律改定に含まれる一部の特権階級の至福。

「残念ですが、この国は根底部分から腐っている。皺寄せは未来に押しつけられ、このままでは滅びの道を歩むことでしょう。そうして現代は、未来から拒絶されるのです。そんなの、報われないじゃないですか?」

 だからこそ、壊す。今を壊して新たな今を築き上げていく。

「天川君だって、この国にお母上が殺されていくのを、みすみす指を銜えて見ているつもりはないでしょう? だったら、我々に協力してほしい。この国を正すために」

「……それはつまり、こうやってこの国を破壊しようとする咲牙さんに協力する人間がいるわけですね?」

「もちろんです。でなければ、自衛隊基地から大量の爆発物を盗み出すことなどできませんからね」

「そうですか……」

 咲牙から届けられる数々の衝撃的な言葉に、希守の視線が下がりっぱなしであった。

(…………)

 地上二百五十メートルに吹きすさむ風はとても強烈で、希守の耳にかかる外跳ねの髪の毛を乱暴に乱していく。含まれる厳しさに、出ている耳は凍りつきそう。

 希守は、視線を下げて熟考したような、深く苦悩した時間を経て、顔をゆっくりと上げる。そこに、ある純粋な決意を持って。

「僕は母さんがとても大切です。母さんが誰かに殺されるなんて、そんなの黙っているわけにはいきません」

「それは、私に協力してもらえると受け取ってもいいですね?」

 咲牙は口元を大きく緩んでいった。卑怯な手段かもしれないが、母親のことを引き合いに、説得に成功したと認識したから。足を前に踏み出して、握手を求めるために右手を差し出す。

 しかし、五秒経っても、十秒経っても、咲牙の手が希守とつながることはなかった。

「……天川君?」

「僕では母さんを助けてあげることはできません。ですが、母さんの望みは、できるだけ叶えてあげたいと思っています。それが僕にできるせめてもの親孝行ですから」

 希守の母親が望んでいること、それは、

「この国の平和を守ることは、僕の使命です」

 今ある平和を守ること。

「僕は警察官ですから」

 月絵中央警察特別捜査部特別捜査G、天川希守警部。

「僕はあなたを逮捕します」

 それが希守である。それ以外の選択肢など存在しない。

「咲牙さん、観念してください」

「おやおや、これは驚きですね。まさかこの状況で、私を逮捕しようとするとは。よりにもよって自分の母上の命を奪うこの国のために。正気の沙汰とは思えませんね」

「あなたに惑わされたりしません。僕は僕の信じたものを信じます」

 黄色の瞳に強い光を宿す希守。希守が正しいと認識するものがこれからする自分の行動となり、過ちと認識するものが目の前の咲牙という存在。

 だからこそ、逮捕する。けれど、その前に急いで確認しなければならないことがあった。

「さあ、教えてください。爆弾をどこにセットしたんですか?」

 咲牙の手からアルミケースがなくなっている以上、このセントラルタワーのどこかに仕かけられたことは明白である。早くしないと手遅れになってしまう。

「咲牙さん!」

「……まったく、これは予想外でしたね、天川君がここまで強情だったとは。少し見込み違いをしていたかもしれません。おかしいですね、やっぱり天川君は特別なのですかね?」

 咲牙は顔を大きく縦に揺らし、吹きすさむ強風に向かって息を吐き出した。その動作と連動するように両肩を大きく上げる。それは『降参』を意味するような仕草に似ていた。

「敵いませんね、天川君には。仕方がありません、特別にチャンスを差し上げることにしましょう」

 今ではこの月絵国民の希望となっている、このセントラルタワーを守るチャンス。

 咲牙はコートのポケットからアンテナがつけられた四角いプラスチック製の箱を取り出した。一見すると黒いトランシーバーのよう。

「これはですね、このタワーに仕かけられた爆弾を爆発させる、もしくは爆発を解除させる装置です」

 表面をスライドさせ、人差し指と親指で赤と青のコードを出した。

「ここにある二本のコード、どちらかは『爆弾を起動させる線』で、もう一方は『爆弾の起動を停止させる線』です。つまり、どちらか一方を切れば爆弾は停止させることができます。一方を切れば爆弾は起動することになります。そうですね、爆弾のスイッチと考えればいいかもしれません」

 爆発させるスイッチと、停止させるスイッチ。

「確率は五十パーセントです。天川君の運次第で、このセントラルタワーは守ることができます。けど、天川君の運次第で、このセントラルタワーを破壊します。さあ、これで天川君の信念を見せてくれませんか?」

「…………」

 咲牙から爆弾のスイッチを渡された。電動髭剃り程度だが、今は手が沈みそうになるほどどっしりと重たく感じる。

(これで、守ることができる……)

 ごくりっと喉が鳴る。瞬間、重圧によって、外にいる寒さも感じられなくなっていた。

「咲牙さん、どちらも切らないっていうのは、どうなるんですか?」

「時間がきたら、どっかーんっ! ですよ。えーとですね、残り十分です」

「十分んん!?」

 双眸がまん丸に。そんな切羽詰まった状況に迫られていることに、動悸は早鐘のよう。

 どくどくどくどくどくどくどくどくっ!

「わざわざそう口にされたということは、どうあっても十分じゃ見つけられない場所に爆弾を仕かけたということですね?」

「ご明察です。そうそう、線を切るのにこれをどうぞ」

「ご丁寧に、ありがとうございます」

 手渡された小型ニッパーを受け取りつつ、希守はコートのポケットからトランシーバーを取り出す。多くの人間は怪盗トレジャーが使った白煙によってタワーから避難していると思うが、念のために正式に全員の避難指示を出した。影響を考慮して、今回はタワーではなく博覧会会場から避難するように命じて。相手からの返答を待たずに一方的に連絡し、希守はトランシーバーのスイッチを切る。

(……しかし、やっぱり咲牙さんは凄いな)

 爆弾の起動スイッチを持っているだけならともかく、こうして線を切るニッパーまで用意していた。まるで最初からこうなることを見通していたみたいに。

(さっきの話といい、咲牙さんの目は、僕なんかじゃ一生かかっても見られない世界の隅々まで見通せているんだろうなー。まだ明るみになっていない、この国の歪みか……他の人ならともかく、咲牙さんが言うなら本当のことかもしれないな)

 咲牙の言葉にはどれも説得力があった。世界中を見て回ったということで知識も豊富だし、多くの経験もしている。もしかしたら原因不明の母親の病気の治療方法を知っているかもしれない。

 けれど、だからといって賛同するわけにはいかない。この国を破壊することに力を貸すなどと。

 平和は壊すものでなく、守るためにある。

(なんとしても、食い止めなくちゃ!)

 それができるのは、希守のみ。命運をまさにその手の中にある。

(…………)

 脈拍が異常なほど昂進した。滲む汗は、内側からくる強烈な熱によるもの。けれど、気にしている場合ではない。

 手にしている爆弾のスイッチ。見えている赤と青の線。

(赤か、青か)

 どちらかが爆弾を起動させる線。どちらかが起動を停止させる線。

 爆発させる線と爆発を停止させる線。

(どっちだ!?)

 頭から煙を出すほどに熟考している間、正面からは『残り五分』という声。希守の全身が絶頂を貫くほどに強張り、ただ今は二色の線を睨みつけるように見つめていく。

(爆発させる線を切れば、爆発を防ぐことができる。逆に、爆発を停止させる線を切ると、爆発してしまう)

 二者択一。

(赤か、青か)

 その耳に『残り三分』という声。もう時間がない。

(どっちだ!? どっちを切ればいい!?)

 赤と青。爆発と停止。

 コートの袖で額の汗を拭う。茶色が濃くなった。

(起動させる線と、起動を停止させる線……んっ?)

 究極に追い詰められた精神状態において、考えに考えて考えることに存在そのものを費やしている今の思考回路では、数箇所でばちばちばちばちっと火花が散っている非常に危険な状態……だが、どうすることもできないお先真っ暗な闇に、一筋の輝きを見た気がした。すぐにでも消えそうなほど小さなものだが、この状況下では太陽にも勝る輝きを有している。

 閃き。

(そうか! そうなんだ! この二本の線は、爆弾を起動させる線と、起動を停止させる線なんだ!)

 息を吐き出すとともに、コートの袖を額の汗を拭う。

「咲牙さん、分かりましたよ」

「分かった……?」

 突然かけられた声に、咲牙は瞬きを繰り返す。何を言われたのか、理解できないように。

「分かったんですか? 五十パーセントの確率が、分かった?」

「はい」

 信じられないように双眸を丸めている咲牙の前で、希守は、左手に二色の線を、右手にニッパーを持った。

「これでセントラルタワーを守ることができます」

 この国の希望を守ることができる。

「これで!」

 希守は、二色の線を掴むと、ニッパーの歯を当てる。と次の瞬間、ニッパーを握る右手に力を入れ、

 赤と青、両方同時に。

 二本とも。

「僕にはどっちが正解なのか分かりませんでした。赤が正解だったかもしれないし、青が正解だったかもしれません」

 そんなの分かるはずがない。確率五割の世界なのだから。

「ですが、分かったんです。どちらか一方が『爆弾を起動させる線』で、もう一方が『起動を停止させる線』なら、こうしてしまえば、確実に『爆弾を起動させる線』を切ることができます」

 それが、考えて考えて考え抜いた先に辿り着いた唯一の結論だった。相手から提示された五割という不確定な確率に従うのでなく、自身で導いた新たな可能性を絶対だと信じて。

「仮に『起動を停止させる線』を切ったところで、同時に『爆弾を起動させる線』を切ってしまえば、爆弾は起動することがなくなりますからね」

 理屈の話。『起動を停止させる線』を切れば、爆弾の起動を止めることができなくなる。もう一方の『爆弾を起動させる線』を切れば、爆弾が起動することがなくなる。なんせ起動しなくなるのだから。

「もしかして、僕を試すための引っかけ問題だったんですか? 明確な答えがあるのに、わざと五十パーセントの確率問題に見せかけて。意地が悪いですね、咲牙さんは。物凄くどきどきしましたよ」

「くっ! くくくくくくくくっ!」

 正面から発せられた希守の発言、そしてその行動に、咲牙はとても信じられないものを目の当たりにしたみたいに目を丸くさせた。同時に、腹を抱え、大声を出して笑う。笑う笑う。それはとても愉快なものに直面したかのごとく。

「くはははははははははははははははははははっ!」

 爆弾の前に、咲牙の感情が爆発した。この世のすべてが愉快であり痛快であるように、時間も場所も忘れて、咲牙は笑うことに自身のエネルギーを費やしている。

「ははははははははははははははははははははっ!」

「あ、あの……咲牙さん?」

「ははははははははははははははははははははっ! ああ、い、いや、申し訳ない。くくくくくっ! さすがは優秀な天川君だと思いましたよ。のですから」

 崩れた表情をなかなか整えられない咲牙は、出てきた涙を手の甲で拭いつつも、ぽかーんっと口を間抜けに開けた希守が手にしている爆弾のスイッチを指差した。

「確かに、天川君の考えなら、爆弾は起動しないことになりますね。けど、それはあくまで天川君の考えでしかありません。なぜなら、から」

 赤い線と青い線が同じ回路につながっているなら、希守の出した結論も効果がある。しかし、二色の線は、別々の回路として配線されていた。

「説明が不足してしまいましたね。その線はそれぞれが独立しています。二種類の回路があると言った方が分かりやすいでしょうか」

 一つ目の回路、初期状態では爆弾をONするようにつながっていて、線を切るとONがOFFになる。もし何もしなければ爆弾はそのままONし、爆発する。

 二つ目の回路、初期状態では爆弾はOFFするようにつながっていて、線を切るとOFFがONになる。もし何もしなければ爆弾はOFFの状態のまま爆発することはない。

 爆弾の初期状態、二つの回路はONとOFFの状態にあった。ONの状態をOFFにすれば、回路は二つともOFFとなり、爆弾が起動することはない。反対にOFFの状態をONにすると、回路は二つともONとなり爆弾は爆発してしまう。何もしなければ二つの回路はONとOFFで、ONしている回路がある以上、爆発する。

 爆弾を止めるには、初期状態のONとOFFの状態を、OFFとOFFにするしかなかった。けれど、希守は線を二本とも切ってしまった。それは一つ目の回路をONからOFFにすることができるが、二つ目の回路をOFFからONにしたこととなる。

 つまり、爆弾の起動を止めることはできなかった。

「残念ですが、どうやら天川君はたった一度のチャンスをふいにしたみたいです。これが愉快でなくて何だというのですか? しかも、私が予想もしなかった行動に出てまで。実に素晴らしい」

「そ、そんな……」

 愕然とする希守。茫然自失。よりにもよって、自らの手で爆弾を起動させただなんて。

 それも五十パーセントあった確率をふいにして。

 直後、大気が大きく揺れていった。

 次の瞬間、地鳴りのような振動が足元を襲う。ここは地上二百五十メートルの高さであり、その揺れ幅は凄まじく、まるで荒れ狂う海上のよう。

(わっわっわっわっわっ!)

 腹の底を震撼させる爆音が轟く。角度的に下の方を見るのは難しいが、それでも暗闇に炎の色を目にすることができた。

 刹那、がくんっ! と強烈に足元が傾いていく。希守は慌てて近くの鉄骨にしがみついた。そのせいで、今まで持っていた爆弾のスイッチとニッパーが、すぐ下の第三展望室の屋根へ落ちていく。鉄骨に何度かぶつかり、音を反響させた。

「ば、爆弾がぁ!?」

 爆発した。今も、タワーは爆発の衝撃によって大きく震えている。

 すべては希守がコードを二本切ったがために。

 このセントラルタワーは、崩壊する。

「ど、どうすれば!?」

「さてさて、これで私のすることはなくなりました。あとはこのタワーが崩れていくのを待つばかりです」

 咲牙は、目の端に僅かな憂いを滲ませるような視線を下げて、ゆっくりと歩を進める。

「このタワーが倒れていく光景を目の当たりに、多くの人が絶望することでしょう。それで、少しでもこの国が抱えている歪みに気づいてくれればいいのですが……」

「咲牙さん!」

 希守の視界にいる咲牙は、激しい揺れが起きているのに、そんなこと感じさせないしっかりとした足取りで、第三展望室の方へと向かっていった。希守はそちらに腕を伸ばして追いかけるようにして……けれど、また下で爆発が起きたらしく、思うように立っていられない。出そうとした足をすぐ引っ込める。

(くそぉ!)

 体感として、僅かに建物全体が傾いているように思えた。激しさを増す振動に加え、視界に黒煙が映るようになる。足元が熱く感じられ、ハンカチで口を覆うも、喉が痛い。

(くそぉ! くそぉ!)

 超絶な悔しさが心の奥底から込み上げてくる。

 結局希守ではどうすることもできなかった。もっと能力があれば、セントラルタワーを守るができたはずなのに。今はただ崩壊するセントラルタワーとともにその命を焼き尽くすことしかできない。

 悔しい。

 あまりにも情けない。

(くそぉ! くそぉ! くそぉ! くそぉ!)

 また足場がぐらりっ! と大きく傾いた。今の衝撃により、見えなくても分かってしまう、自分が立っているタワーが途中部分から折れ曲がり、北側へと少しずつ倒れていくことが。

(くそおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!)

 極めて危険な状況下、一刻も早く避難しなければならないだろう。けれど、それでも希守は、咲牙を追って第三展望室へ向かっていく。

 斜めになる床、揺れる視界にも歩を止めることなく、手摺りに掴まりながら、着実に歩を進めていく。一歩、また一歩、黒煙にけほけほっ噎せながらも、足を踏み出していく。

 自身が信じる前へと。

 希守はトランシーバーを手にした。

「きあ瑠ちゃん。きあ瑠ちゃん」

『うわっはーい、呼ばれちゃってたりしますよ。その声は、天っちょ警部だったりしちゃいますね』

「みんな無事に避難できたかな? 博覧会会場からも出るんだよ」

『避難状況は、順調だったり順調じゃなかったりしちゃいます』

「お願い、今ははっきりして」

『うむー、順調だったりしちゃいます。ただ、さっき豪ちょびが黒い服の人たちと部長を気絶させちゃったみたいで、運ぶのが大変だったりしちゃいます。それはそうと、天っちょ警部はどこですか?』

「うん、僕ももうちょっとで避難できるよ。あのね、豪さんに代わってもらえるかな?」

『ちょっと待ってたりするといいですよー。おーい、豪ちょび、天っちょ警部が呼んでたりしちゃいますよ……天川殿、無事であるか?』

「あ、豪さん。はい、大丈夫です。部長を気絶させちゃったんですね、あの状況では仕方なかったのかもしれませんが……」

 後日のことを考えると、気が重い希守。『後日』がちゃんとあれば、の話だが。

「あの、ちょっとお願いがあるんですがいいですか? その、これからもきあ瑠ちゃんのこと、お願いしたいんです」

『な、何を言っているであるか!? ま、まさか、天川殿、まだ避難できていないというのであるか? 大変である。今から小生が迎えにいくのである』

「僕なんかのことより、豪さんにはきあ瑠ちゃんことを任せたいんだ。豪さんが一緒なら、きあ瑠ちゃんも安心できると思うから」

『っ!? 天川殿!? もしや死ぬ気なので──』

「……さすがに鋭いな、豪さんは」

 揺れる足元。その大きさにまともに立っていることもままならない。しかし、希守にはまだしなければならないことがある。電源を切ったトランシーバーをその場に残し、一度空を見上げた。そこには真ん丸に近い月が浮かんでいる。

 希守は目に映ったものを心の大切な部分に焼きつけてから、第三展望室へ。

「……咲牙さん」

 厚いガラスはすべて割れ、震える床に散乱している。すでに電力線が切れているらしく、天井からの照明は消えているが、外から入ってくる月明かりにより、床に散らばったガラス片はきらきらっと反射していた。

「僕はあなたを逮捕します!」

 途端、揺れ幅の大きくなった足場に転倒。落ちていたガラスに手を切ったが、関係ない。希守は立ち上がる。

「か、観念してください」

「おやおや、これはまたびっくりしましたね。さきほどといい、天川君には本当に驚かされてばかりです」

 咲牙は心底驚いた様子で瞬きを増やしていた。希守の行動が自分の理解を超越していたから。

 咲牙は、激しい爆発に大きな揺れ、崩壊しつつあるタワーに身を置いている状況にもかかわらず、一切動じることなく、ゆっくりと左頬にある深い古傷に触れている。

「天川君、早く避難しなくてはいけませんよ。でないと、本当に死んでしまいます」

「避難はします。けど、その前に、あなたを逮捕します。そして、あなたとともにこのタワーから脱出してみせます」

 咲牙に近づいていこうとして、大きくなった揺れにまたバランスを崩し、転倒。近くには掴まる手摺りがなく、立ち上がることもままならない。揺れ幅は、まるで床の上を大きな大蛇がその身をうねらせながら這っているみたい。

 希守はしゃがみ込んだまま、それでも這うようにして咲牙に近づいていく。すべては自身が信じる正義のために。

「咲牙さん、あなたを逮捕します」

「これはこれは、こんな時でも仕事熱心なことですね。ちなみに、どうやって脱出するっていうんですか?」

「そ、それは……」

 口籠もるしかない。そんなの、考えてあるわけでないから。考えたからといって、手段が思いつくとも思えない。それ以前に、そのこと自体、不可能なことに思えている。

 けれど、そこにある信念を曲げることはない。

「それはあなたを逮捕した後に考えます」

「くくくくくくっ。さすがです」

 咲牙は、視界に黒煙が充満し、床は常に大きく震える不安定なものなのに、いつもと変わらない歩調で希守の元まで向かっていく。

「実はですね、私はもう長くないのです」

 咲牙は自分の頭を指差す。

「動脈瘤です。いつ動脈が膨らんで破裂するかも分かりません。だから、時間がありませんでした。世を正すためにこんな方法しか思いつきませんでしたが……けど、よかったです。こうして天川君に出逢うことができましたから」

 微笑み。

「あなたは本当に、私の予測をことごとく上回ってくる。あなたなら、絶望したこの国を変えてくれるかもしれません。最後の最後に、その可能性を見つけることができました。本当によかったです」

 希守のすぐ前。

「ありがとうございました」

「っ──」

 瞬間、希守の体に衝撃が走った。それは希守をここに存在させる線を断ち切るような……力という力が喪失していく。

 希守の瞼が強制的に閉じられる。

 穴の開いた風船から空気が漏れるように、みるみると全身から力が抜けていき……けれど、それでも歯を食い縛り、唇を血で染めた。

 その胸からは、ただただ悔しい思いが止めどなく溢れてくる。

(────)

 できなかった。

 セントラルタワーを守ることができなかった。

 犯罪者を逮捕することができなかった。

 できないままに、無残にもこの地点で終わってしまう。

(──  )

 もう少し自分に力があったら、守ることができたのに。

 力がないばかりに、与えられた使命を果たすことができなかった。

 悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。

 魂の奥底より、自身の力不足を呪わずにはいられない。

 存在の希薄さを認めざるを得ない。

 こんな自分であったがばかりに。

 もっと違う自分でいれたなら。

(    )

 存在を支配する絶頂の激情は、そのまま双眸より溢れ出た。

 ごめんなさい。

 こんな自分で、ごめんなさい。

 守ることができなくて、ごめんなさい。

 抱いた感情は希守という命に深く刻み込まれ、未来永劫消えることはない。


       ※


 爆発によって大きく揺れる全長四百メートルのセントラルタワー。第三展望室。咲牙は希守の目の前まで歩を進めていき、こちらを睨みつけながら声をかけてくるその首筋へ、目にも止まらぬスピードで手刀を叩き込んだ。

 希守の体ががくっと膝から崩れていく。

 咲牙は、自身の一撃で気絶する希守の顔を見つめる。

「あらあら、涙でぐちゃぐちゃじゃないですか? そうですか、このような事態に陥った自分が許せないのですね? タワーを守ることができなかった自分自身のことを」

「…………」

「天川君のことを見ていますと、その……少し名残りができてしまったかもしれませんね。避難せずに私のことを追いかけてくるような、それはもう馬鹿としか思えない行動をするなんて。さすがにあの時の黄人の息子だけのことはある」

 咲牙は元警察官ということもあり、一度見た顔、特徴は忘れることがない。疾走する黒暴走ライダーのシルエットだけで、らいかけだと見抜けたように。それは十八年前に起きた事件の被害者も同様で……希守の父親が喧嘩の仲裁をした際に警察官に殺された日から、咲牙はその顔を忘れることがなかった。自身が社会の歪みとなり、事実を揉み消すことになる激しい葛藤も含めて、強く胸に焼きついていたのである……そして今、その面影がこうして目の前にある。逃れることのできない『因果』というものを強く感じた。

 黒煙が立ち込める空間、咲牙は歯を出して笑っていく。

「はははっ、あなたのような人がいると知っただけでも、少しはこの国のことを今の人間に託すことができたのかもしれません」

 もう希守の瞳は閉じられている。意識を失ったのだろう。

 咲牙は、相手が気絶したからこそ、次の言葉を紡ぐ。

「私はね、あのミッドゥルースで地獄を見ました。そして、極限状態で、自らが生き残りたいがために、のです」

 その事実、国としては闇に葬り去られているが……決して本人から消えることはない。今も尚、あの悪夢にうなされている。

「あの島で、私は人として大罪を犯しました。だからこそ、私は誰よりもこの国のことを考えていると自負しています。誤った方法に進もうとしているなら、全力で食い止めなければなりません。この身に消えていった仲間のためにも」

 咲牙は大きく息を吐き出していき……気絶した希守の顔を、そしてその黄色い髪を見つめる。

「私は嬉しいのですよ、あなたという存在に出逢えたことが」

 咲牙は希守を両腕で抱える。皺を増やしてにっこり微笑んだかと思うと、抱えている希守を第三展望台の外へと放り出した。

 それから、近くの黒煙の包まれる場所に顔を向ける。

「ごめんなさいね、今まであなたの名前を無断で借用して。隠れ蓑を用意しておかないと、一連のことはうまく運べないと思ったものですから。天川君のこと、よろしくお願いします」

 咲牙は、これまでになかった白色が一瞬視界に映ったのを確認し、小さく頭を下げた。そうして再び第三展望台へ戻っていく。

 その命を、崩壊するこのタワーとともにするように。

「一度は捨てかけたバトン、渡すことができたでしょうか……」


       ※


 全身が鉛のように重たく感じる。体が麻痺したみたいでうまく動かせない。心はとても冷たいもの。絶望の闇で、自身の力ではどうにもできず、崩壊していく世界を目の当たりにするしかなかった。

 唇を強く噛みしめて、自身の弱さを痛感する。

 魂という弱く柔らかい部分が、今はとてつもなく痛かった。

「……っ」

 電源が入ったように、ぱっと瞼を上げる。目覚めにより、すぐ前に、数が多いとはいえない星々が点在する空があった。本日の夜空である。丸い月は変わらずにそこで世界を照らしてくれている。

(……あれ?)

 疑問でしかない。天井のない場所でこうして寝転がっている。そんなことをした記憶、これっぽっちもないのに?

「……ここ、は?」

「これはこれは、随分と遅いお目覚めですこと、天川警部」

「っ!? トレジャー!?」

 視界に入った光景の衝撃に、思わず目が白黒。

 目の前に、全身を真っ白なローブで身を包み、顔に巨大なゴーグルをつけた怪盗トレジャーが立っていた。これが驚きでないなら、世界が崩壊しても驚きはしないだろう。

「ど、どうしてトレジャーがここに!?」

「相変わらず無茶しますこと、天川警部は。爆発するセントラルタワーから脱出しようともしないなんて。呆れを通り越して、意味もなく感心してしまいましたわ。きっと『無謀』という言葉を具現化した姿が、天川警部なのでしょうね」

「もしかして……トレジャーが助けてくれたってこと?」

 怪盗トレジャーは、背中に巨大なハンググライダーをつけている。もしあの崩れていく地上二百五十メートルから命を拾ったのなら、目の前の人物に助けられたとしか説明がつかない。

「そうだ、セントラルタワーはどうなったの!?」

「後ろですことよ」

「っ……!?」

 希守は示された方角に勢いよく振り返り、瞳に飛び込んできた光景に、仰天境地に身を置く。

 近くに給水塔が見えることから、どうやらここはどこかのビルの屋上のようだが……見えた光景は、いくつもの巨大な炎が世界を覆い尽くす、まさに地獄図の世界。

 燃えている。世界を焼き尽くさんばかりに、炎が世界を支配する。それは、空から多くの爆弾が投下された戦中の月絵国みたいに。

 炎に覆われている場所、セントラルタワーを中心とした、博覧会会場であった。目測だが、二キロメートルも離れていない。

 残念ながら、その視界にセントラルタワーを確認することができなかった。この中央地区ならどこからでも見えたのに、それがすっかり消えている。

 つまりは、セントラルタワーが破壊されたことを意味していた。

「…………」

 結局、守ることができなかった。希守ではこの月絵国の希望であるセントラルタワーを守ることができなかった。

 自分の不甲斐なさ、泣けてきてしまう。

「…………」

「どうやら爆弾は、あのタワーだけに仕かけられていたわけでなかったみたいですね」

 怪盗トレジャーは爆発の一部始終を見ていた。セントラルタワーから炎が上がり、ゆっくりと中央部分より折れて倒れていくのと同時に、博覧会会場の数箇所で爆発が起きたのである。会場そのものを跡形もなく消し去らんばかりに。

「凄いことをやる人もいたものですわね。そんな人間の相手をしなければならないのですから、今回は大変でしたね、天川警部」

「…………」

「にもかかわらず、こうして生き残ることができている。天川警部は本当に運がいいですこと」

「…………」

 希守は眼前の炎を瞳に映しながらも、頭では懸命に気絶する前のことを思い出そうとしていた。

 映像として思い出せた記憶の最後は、あのセントラルタワー第三展望室で咲牙を見た光景。追いかけていくと、なぜだか相手に笑われ、嘆息された。と思ったら、一気に距離を詰められ、首筋に強烈な衝撃を受ける。一切抵抗できなかった。

 遠のいていく意識では、ただ自分の無力さを痛感するしかないのだが……あんな絶体絶命な状況下でも、命を拾うことができている。怪盗トレジャーが言う通り、『運だけで異例の飛び級で警部に昇進できただけのことはある』と自身の運のよさを自覚していた。

(なら、しっかりしないと)

 眼前の世界は炎の海。いくつもの火柱が上がっている。真っ暗な天をも焼き尽くさんとする膨大な炎が、夜を照らす光になっていた。圧倒的なまでの破壊力を有していて、そこにあるものすべてを燃え尽くさん勢いで今も存在をこの世界に主張する。

(咲牙さんは、あの中か……)

 結局、希守ではどうにもできなかった。いいように操られ、利用されて。

 やはり希守には力がない。この国を守れるだけの力が。けれど、だからといって何もできないわけではない。立とうと思えば立ち上がることができるし、前に進もうとすれば進むことができる。であれば、いつまでもこんな場所で座り込んでいる場合ではない。

 立ち上がらなければ。

 前に進まなければ。

 少しでもこの国の治安を守っていくために。

 できることを成していく。

(僕には僕のやれることを)

 希守は視線を横に逸らしていく。そこにいる命の恩人へと。

「トレジャーはこれからどうするんだい?」

「さすがに天川警部を警察署まで送り届けるような義理はないですから、ここで失礼することにいたしますわ」

「そうか……今回は見逃してあげるけど、次は絶対に逮捕してみせるからね」

「あらあら、今回は見逃してもらえるのですね? うふふふっ。そんなことじゃいつまで経っても逮捕することができませんことよ」

「いいよ、ほら、いったいった」

「早く捕まえてほしいものです。その日を今か今かと待ち侘びておりますわ、

「…………」

 希守の目の前から、怪盗トレジャーはビルの屋上から飛び立っていった。背中のハンググライダーで暫く上空を大きく旋回してから、東の空へと消える。もう希守の視界では捉えることができない。

(この国の歪み、か……)

 珍しく、というのは変だが、事件が発生しているのに、体は無事だった。少し頭痛がある程度で、ほぼ万全といっていい。

(まずはきあ瑠ちゃんと豪さんに合流しなくっちゃ)

 立ち上がり、燃え上がる炎を背中にして、足早に給水塔の横を通って階段に向かっていく。

(んっ……?)

 ふと怪盗トレジャーが最後に残した言葉が引っかかった。

『きー君』

 それは、希守の記憶を深く刺激し、ある思い出へとつながって……いかなかった。目の前に、今やるべきことがたくさんあるから。

 中央地区は今、戦後最大の混乱状態にあるだろう。あの炎が覆い尽くす世界を目の当たりに多くの人が恐慌しているに違いない。放心して、呆然と立ち尽くす人も大勢いるに決まっている。博覧会会場は炎上し、セントラルタワーは崩壊したのだから。

 そんな混乱状態の錯乱状態にあるなら、希守のすべきことは山のようにある。この国の平和を守るため、治安を維持するため、その身をなげうつ覚悟である。それこそが希守に与えられた使命だから。

(頑張らないと!)

 次の一歩にこれまでにない力を入れて、希守は勢いよく階段を下っていくのだった。

(いくぞぉ!)


       ※


 セントラルタワーが爆破され、崩壊していく映像は、月絵国中にテレビ放送された。来年予定していた博覧会は国を挙げの一大イベントだっただけに、国民の傷心は言葉では語り尽くせないものがある。精神的に塞ぎ込み、病院に運ばれる国民が続出した。

 また、博覧会会場爆破事件では、またしても重軽傷者が出してしまう。希守の避難指示が爆発十分前ということで、退避に余裕がなかった点が大きかった。けれど、博覧会会場にいたのは警察官だけで、その前に起きていた大京商事ビル爆破事件で逃げ腰だったことと、怪盗トレジャーの白煙で多くの警察官が博覧会会場外に自主避難したことが幸いし、被害者は二桁にも及ばなかった。

 主犯格とされる咲牙あたるの死体は、博覧会会場の瓦礫から見つかる。希守は『勝ち逃げされた』と思った。そうさせてしまったこと、自身を深く責めることとなる。

 博覧会会場からは、偽札を印刷したであろう印刷機が大量に発見された。爆破犯人は、博覧会会場を破壊するとともに偽札印刷所の破壊を目的として行ったという見立てもある。博覧会会場は開業まで人の出入りは関係者しかなく、そこを闇組織は利用したのだろう。地下では日夜偽札が作り、軍資金に一連の破壊活動を行ったものと推測された。それだけ大規模な組織を咲牙は作り上げていたのである。

 そうして月絵国民を絶望のどん底へと追いやった博覧会会場爆破事件により、年末は沈痛な時間が流れていく。年末年始の各種イベントが自粛され、静かな年明けを迎えた。

 新たな年を迎えると、主犯格である咲牙の協力者が、続々と検挙されていく。咲牙の事務所から闇組織に関する資料が発見され、次々と検挙に至ったのだ。海外に逃亡した者もいたが、国際警察に協力要請を打診したため、近く身柄を確保されるだろう。逮捕された中には警察関係者も大勢含まれており、希守の上司である八神部長もその一人だった。


 そして、この月絵国が年明けから大きく変わったことがある。最後までこの国を憂いでいた咲牙の望みが全国に広がっていったみたいに、国は重たかった腰を上げ、環境問題について取り組むようになったのだ。元々水質調査や環境への影響は行っており、水面下では問題視されていたが、発表すると、国の機能が麻痺する恐れがあった。しかし、博覧会会場の瓦礫の山を目の当たりに、まるで敗戦を迎えた際の焼け野原を見るように……役人は重い腰を上げたのである。

 そこには、とある一人の真っ直ぐな眼差しを持った警部の熱い訴えが影響したのだが、それは月絵国民の多くが知らないこと。

 そうして月絵国は、一時は深く沈む絶望の淵から、月絵国は少しずつ自らの足で立ち上がり、新たな道を歩みはじめていく。

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