第3話


 現実の崩壊



       ※


 十一月三十日、月曜日。

 つきこく中央地区にある中央大学付属病院、202号室。毎日交換される真っ白なシーツがかけられたベッドの上に、天川あまかわまもは腰かけていた。つい十分前まで着ていた前ボタンのパジャマから青いワイシャツに着替え、同色のネクタイを締めている。左腕を石膏で固めた上に包帯を巻き、肩から三角巾で吊るした状態で。

「……しかし、三週間は、ちょっと長かったなー。こんな所でいつまでもぼやぼやしてる場合じゃないのに……あー、随分体が訛っちゃってるよ、しっかり取り戻さないと」

 今から三週間前、探偵のさきの助言もあり、狭い路地に黒暴走バイクを追い詰めることができた。しかし、追い詰めた黒暴走バイクに、あろうことか真正面から撥ねられ、今日まで入院する羽目となったのである。それは前回退院した翌日ということで『出戻り扱い』を病院関係者に受けていた。もはや苦笑するしかない。ただでさえ色眼鏡で見られているのに、髪の色とは違う意味合いで冷たい目で見られている。もしかしたらブラックリストに載っているかもしれなかった。穴があったら一目散に飛び込んで、蓋をした上をコンクリートでがちがちっにしてもらいたい心境である。

 怪我は重症という扱いを受けた。バイクに撥ねられたときに折れた左腕と、吹き飛ばされてコンクリートの壁に強打した背中の痛みが、病院に着いて意識を回復したら怒濤のごとく襲ってきて、暫く歯を食い縛りながら涙を瞳に浮かべることに。当時はこれから一生その痛みに苦しめられると、珍しく後ろ向きになるぐらい。

 バイクに正面から撥ねられるという怪我をした状況に関して、客観的にみると『無謀』という言葉がぴったりだが、本人は『不運』という言葉で処理し、ただただ自分の運のなさを呪ったものである。『運悪く重傷になってしまった』と。

 そして入院してから三週間経過した本日、まだ折れた左腕は完治していないものの、業務に支障ないとの医師の判断もあり、退院する運びとなった。

「またお世話になってしまいましたね。えーと……そうか、『また』というよりは、『またまたまたまたまた』ぐらいですかね。たはははっ……面目ないことです」

「まったくもってその通りです。なんでそうも入院を繰り返すんですか? あれ、もしかして、趣味なんです? だとしたら、随分と無茶なことがお好みなんですねー」

 露骨に呆れた表情を浮かべながら、大きく吐息する女性、看護師のとりますたから。希守の担当看護師。

「まったく、毎回担当になるこっちの身にもなってください。仕事ですから、ちゃんと対応しますが、だからって喜んで手当てしているわけじゃありませんからね。病院に運ばれてくる天川さんを見る度、どれだけ心を痛めてきたか……わたしのそんな気持ち、一度でも考えたことがありますか? きっとないんでしょうね」

「…………」

「まったくもう!」

 宝美は、看護師としての制服である前ボタンの純白なナース服に身を包み、三週間前から希守の顔を見る度に何度も何度も吐息して、今も吐息する。語彙に力を入れ、いかにも不機嫌さを表すように腰まである長い髪を乱暴に揺らした。

「これからは天川さんの担当、断ろうかな?」

「そ、そう仰らずに」

「……それって、また入院する気でいるってことですか!?」

「ああ、いや、そ、そんなことはありません。ただ、その、なんといいますか……宝美さんの言い方に棘があるといいますか……そういうの、ちょっと寂しい気がしましたから」

「入院を繰り返している人の相手をさせられる方が寂しい気持ちになりますよ。ようやく送り出したと思ったら、またすぐ戻ってくるんですから」

 希守の担当は毎回宝美になっている。しかし、それは宝美が率先しているという理由と、他の人間が希守に関わろうとしないことが大きな要因だった。そればかりか、病院関係者の大部分が希守もこの病院の入院患者なのに、腫物を触るようにして、遠ざけている節がある。その理由はもちろん、希守が敗戦をした敵国である大国の黄色い髪と瞳の持ち主だから。

 戦後二十九年となっても、この月絵国には大国の人間は珍しく、もちろん希守は月絵国籍であり断じて大国の人間でないが、そんなことは関係なく、すべては外見の問題である。

 だからこそ、最初に希守がこの病院に運ばれてきたとき、ほとんどの看護師が敬遠した状況で、宝美が自ら手を上げた。

 宝美はもちろん二十九年前の戦争を知らず、大国人を恨むような感情はない。そして、孤立する人を見ると、率先して手を差し出すように心がけている。ということもあり、今ではすっかりこの病院関係者に『天川希守担当』と認識されていた。

『ほら、またあのじんさんが運ばれてきたよ。鳥升さん、出番』

 希守が運ばれてくる度に、看護長に顎で指示されるのである。

「とにかく、もう絶対に無茶なことはしないでください。って、そんな当たり前のこと、毎回言ってる気がしますけど……何回言っても、言っても言っても言っても言っても、無茶しちゃうのはどうしてなんでしょう? ああ、不思議です。今世紀最大の謎ですね」

「はい、それは実に不思議な話ですね、いったいどうしてなんでしょう? 僕にもさっぱり見当がつきません」

 希守は真面目な表情をし、がっちりと腕組み。

「僕だって無茶しようとして無茶してるわけじゃなくて、すべきことがあって、真っ直ぐ突き進んでいるだけなんですが……ただ、後から振り返ってみると、ちょっとだけ無茶だったのような気がするような気が、って程度なんですけどね」

「その意識の薄さが問題なんですよ、天川さん!」

 宝美の目くじらが凄まじい勢いでパイプ椅子から立ち上がった。そして病室の壁を楽々貫通させるレーザービームでも発射するように、じーっと相手の顔を睨みつけ、睨みつけて睨みつけて睨みつけて睨みつけて……全身の力を抜くように大きく息を吐いていく。

 その表情、凄まじい疲労の色が滲んでいた。

「どうせこんなこと言ったって、結局は無駄なんでしょうねー。ああ、そうですよ。どうせ天川さんのことだから、また無茶して、ここに舞い戻ってくることでしょう。一切悪びれることなく」

「あの、宝美さん……怒ってます?」

「ます!」

「…………」

 砂糖たっぷりのカフェオレだと思って飲んだらレモン汁だった衝撃を表すように唇を窄め、希守は『これはいったいどうしたものか?』と虚空を見つめる。

「……えーとですね、その、勘違いされていたら困りますので一応伝えておきますけど、断じてこの状況を本人が望んでるわけじゃありません。僕は僕なりに懸命に職務を全うしているだけで、その結果がですね、たまたま運悪くといいましょうか、怪我をしてしまいまして、宝美さんのお世話になる、ということになっている次第でして……断じてこうなろうとしてるわけじゃありません」

「当たり前です!」

 喝。

「『無茶しないでくださいね』、と言っても虚しく響くだけでしょうし、凄まじく高い確率で無茶するんでしょうから……せめて無茶したときはすぐ病院にきてください。放っておいて取り返しのつかないことになったら、わたし、お母様にどう説明したら……」

 宝美は、半端なところで口を止めた。本来であれば『お母様にどう説明したらいいか、毎回胸が苦しくなるんですからね』とつづくところだが、今回は咄嗟の判断により止めた。

 そうして宝美が口を止めたことで、急に訪れた沈黙。病室は気まずい空気に包まれていく。

「……天川さん、もっと自分の体を大事にしてください。せめてそれだけは約束してください」

「はい、それはもちろん、これからばっちり肝に銘じておきます。今日までお世話になりました。でもって、今後も母さんのこと、よろしくお願いします」

 着替えの入ったスポーツバッグを持って、顔を背けた宝美を残して病室を後にする。

 廊下の壁にかけられている時計は午後二時。これから職場に顔を出す予定だが、その前に同じ病院に入院している母親に顔を見せにいく。エレベーターに乗って五階へ到着。パジャマを着ている入院患者と白衣を着た医師が話しているのを横目に廊下を歩いていき、505号室の扉の前。ノックして入っていく。

「母さん、今から退院します」

 そうやって病室中央にあるベッドに声をかけたところで、返事はない。それを承知した上で希守はベッドに近づいていく。眠っている母親の顔を見るために。

「今回は三週間もお世話になってしまいました。さっき宝美さんにきつくお説教されてしまいましたよ。たはははっ、面目ないといいますか、宝美さんにはもう頭が上がりません」

 枕元を覗き込むと、鼻にパイプを突っ込んだ母親の顔があった。その瞼はぴったりと閉じられており、普段かけている縁なしの丸い眼鏡は脇に置かれている。

 ベッド脇では小さな箪笥ほどの医療機器が稼働していた。『ぴっ……ぴっ……』という電子音を耳に、希守は頬に額にかかっている髪の毛を横に流す。

「…………」

 希守が名誉の負傷によってこの病院に戻ってきた三週間前……母親の容態が急変した。高熱が出たと思ったら、痺れが全身に回っていき、言葉がままならなくなったのである。そして、数時間後には、消えるようにして意識を失った。

 それまでも類似の症状はあった。急に言葉がたどたどしくなったと思ったら、体の痺れが大きくなっていって、上半身を起こすこともできなったこともある。

 今回はそういった症状が強くなったのだろう。襲いくる高熱と苦痛に、意識は耐えることができず、刈り取られるようにして失われた。

「…………」

 三年前に母親が倒れてこの病院に入院することとなったが、現在でも病名は不明のまま。突然平衡感覚を失ったり、全身が麻痺したり、微熱を繰り返す日々がつづいて……母親の体を蝕んでいる症状は、現代の医学では解明できていない。月絵国の最先端の医学が集約する中央地区ですらその状態なのである。それは、月絵国内ではどうすることもできないことを意味していた。

 月絵国内が無理なら、他国に向けるしかないが、月絵国より医学が進んでいる国など数えるほどしかない。『世界でもこの治療方法は確立されていない』というのが担当医の見解であった。

「…………」

 最先端の医学を有するこの病院ですら手にあまっている母親を、医学の心得のない希守ではどうすることもできない。情けないやら、悔しいやらで、毎晩眠る前に唇を噛みしめている。自分の母親の苦しみをただ見ていることしかできないのだから。

(…………)

 仕事を放り出してでもこのまま傍らについていてあげたい……けれど、希守がそれを選択することはない。希守には、この月絵国の治安を維持するという使命がある。それが戦争を生き抜いた母親の望みでもあり、希守ができる唯一の恩返し。

「また来ます」

 希守は、印象として深く記憶している母親と比べて、随分と皺の増えたベッドで眠りつづける母親の頬にそっと触れ、布団をかけ直してからゆっくりと踵を返していくのだった。


       ※


 骨折した左腕を三角巾で吊るしながら退院した、その日の夕方。すでに西の空に浮かぶ太陽が鮮やかな茜色に染まっている。一日の幕引きはすぐそこで、冷たい風が太陽のある方角から流れてきた。

「…………」

 希守はフードのある深茶色のコートに身を包み、すっかり建物が燃え尽き、残骸となったかえで美術館の前に立ち尽くしている。耳にかかる黄色の髪を風に靡かせ、焼け焦げた建物を黄色の瞳で見つめながら。

 首からぶら下げた三角巾で骨折している左腕を支え、その足は地面に根を張っているように動くことがない。

「……何も残ってませんね」

 目の前にあるのは残骸の山。木造建てだった美術館が一晩にして全焼し、焼け焦げた木材が無残にも点在している。楓美術館は洋館のような豪華な建物で、中央には大きな鐘が吊るされていた。設定された時刻になると周辺にきれいな音色を奏でたのである。その大きな鐘も今は瓦礫に埋もれていた。

(…………)

 希守はこの中央地区出身で、何度かこの美術館を訪れたことがあった。外観は白塗りの三階建てで、正面玄関を入るとすぐに吹き抜けの階段が来客者を待っている。その階段、今から四週間前には、怪盗トレジャーを追いかけて疾走した場所。なのに、目の前には見る影もなく、すべて燃え尽きていた。

 残骸が積み上げられている横には三台の重機が停車している。連日の撤去作業がつづいていて、どうやら本日の作業が終了したみたい。白いヘルメットに茶色の作業着姿の三名が、それぞれの重機の点検をしていた。

 この楓美術館は緑地公園内にあり、周囲には多くの木々が生えている。美術館を全焼させた火事が飛び火しなかったことがせめてもの救いかもしれない。消防隊の活躍に敬意を示す必要がある。

(…………)

 楓美術館には、月絵国の国宝や重要文化財を約三千件も所蔵されていた。そういった貴重な美術品がすべてが燃え尽きている。たった一夜にして。今にして思うと、四週間前に怪盗トレジャーに盗まれた『女神の肖像』だけが、燃えなかった唯一の美術品ということになる。表も裏にも競売に流れたという情報はないので、現在もまだどこかに存在するのだろう。

「確かさきさんは、えーと、先週でしたっけ? ここを訪れているんですよね? この惨状、どう思います?」

「言葉になりませんね……私も独自に消防関連やいろんな方面から情報を集めていますが、やはり自然発火とは思えません。状況として意図的に火を点けられたものだと推測します」

 人為的に美術館が燃やされたという見解の咲牙。

「少ないですが、目撃証言を得ることができました。火が上がったというよりは、突然爆発したかのように火柱が上がったらしいです」

「火柱ですか?」

「目撃証言と、吹き飛んだ際の屋根の一部が五十メートル先まで飛んでいることから、爆発物が仕かけられていた確率が高いですね。詳細は現場検証の正式な発表を待つしかありませんが……爆弾のような爆発物を使用されたのですからね、死者一人で済んだところが唯一の救いだったのかも……あ、いや、今のは失言でした。一人でも死者が出てしまっていること、まったく救いなりません……」

「発火は深夜でしたから、そんな時間に美術館にいる人間といえば、管理人か、美術品を狙う怪盗か、はたまた建物を燃やそうとする放火魔か……どういった事情で建物が燃えたのか分かりませんが、管理人が巻き添えとなったこと、本当に悔しく思います。それも僕が入院している間にだなんて……」

 希守が入院していなかったとしても、この事態を防げたとは思えない。思えないが、希守は後味の悪さを感じている。特に瓦礫と化した惨状を目の当たりにしては尚更。『自分がもっとしっかりしていれば、この件は回避できたかもしれないのに』と強く噛みしめて。

「どうしてこんなことになったんでしょう? 僕はあまりそういった方面には明るくないですが、ここにあった貴重な美術品がすべて燃えて、世界的にもかなりの損失になると思いますが」

「さきほど申し上げましたが、火柱が上がったぐらいですからね、今回の件は爆発物を使用した確率が非常に高いです。そして、爆発物を使った以上、そこには爆発させた犯人がいて、犯人がいるということは建物を爆発させなければならなかった理由が存在します。では、それはいったいどういったものだったのか?」

「世界的にも貴重な美術品を燃やすのに、理由が存在するんですか? うーん……僕には思いつきませんね」

「もしかすると、芸術を志す若者がいて、過去の美術品がいつまでもこの世に存在するがために、現代美術の評価が低く、それを恨んで燃やしたのかもしれません」

「ああ、なるほど。作者は死んでも、作品はいつまでも残りますからね。大切に保管されたのでは、新たな作品を展示することはできないってことですか。美術品は一生現役だから」

「だからといって、若手の芸術家志望を片っ端から取調べるなんてのは、少し安直ですね」

 一呼吸置き、咲牙は探偵の七つ道具が入っているアルミケースを持ち直し、言葉をつなげる。

「考え方を少し変えることにしましょう。美術品というより、建物があっては都合が悪い、ということはないでしょうか?」

「建物がですか……?」

 希守にはいまいち理解できなかった。

「それは、美術館を破壊することが目的だってことですか?」

「確率の問題ですがね」

 黒いコートに薄茶色のソフト帽を被った咲牙は、それが本人の癖であるかのように、戦中についた左頬にある深い傷に触れながら、作業を終えて帰宅するための準備を進めている作業員を見つめる。

「私がこの美術館を訪れたのは、つい先週のことです。今のところ、怪盗トレジャーが最後に盗みをした場所がここなので、今後のためにも見ておきたかったのですが……それが翌週にはこうして燃え尽きてしまっています。なんともやり切れない思いがありますね」

「そうですね……」

 本日退院したばかりの希守は、警察署に着いた早々に新聞ですでに知っていた楓美術館の様子を見にいくことにした。すると、現場で探偵の咲牙とばったり。話を聞いてみると、咲牙も気になって訪れたという。三週間前の黒暴走バイク事件も協力いただいているので、意見交換をしようと、並んで残骸の山を眺めているのが現状である。

「さきほど咲牙さんは建物自体があってはまずいようなことを仰っていましたが、放火だとした場合、美術館そのものに恨みがあった者の犯行ということになりますね? もう建物も見たくなくなるような激しい憎悪を持っているような」

「そうですね、確かにそういった考え方もできますね。私も調べてみたのですが、ここの館長はかなりの資産家で、政界にも随分顔がきくみたいです。そしてですね、美術館に展示されていた美術品を、どうも強引な手を使って収集していたという噂があるみたいで。そういった点からも恨みを買っていた面はあると思います……しかしながら、恨みを晴らす意味で美術館を燃やしても意味がありません。館長は保険金を手に入れ、同じことを繰り返すはずですから」

 全焼である以上、満額の保険金を手に入れることとなる。

「だとしたら、その保険金目当てであったかもしれない。けれど、管理人を殺してまでやるようなこととは思えません」

「他には……無差別な放火魔ってことも考えられますが、二年前に逮捕して以来、その手の事件は起きてませんね」

 二年前の放火魔も、他の事件を追いかけているときに希守が偶然発見し、逮捕した。中央地区を震撼させた連続放火魔で、事件の被害は両手では数えることができなかった。警察は夜の警備を増員させて警戒するも、まんまと犯行を重ねられてしまう。

 そんな警察の手を焼く放火魔を運よく逮捕できた功績により、希守は異例中の異例といえる飛び級で警部に昇進したのだった。

「どうしたところで、人為的にと言いますか、悪意を持ってここを燃やしたのだとしたら、絶対に許せませんね。この月絵国の治安を維持するため、逮捕しなければなりません」

「おやおや」

 咲牙の口元が小さく緩んでいく。

「中央警察で一番優秀な天川君にそう思わさせたなら、放火魔逮捕まで時間の問題ですね?」

「い、いやだな、咲牙さん。僕はそんなに優秀じゃありませんよ」

「その発言とこれまでの実績が、相反していますけど」

「そんなことないですよ。実績だって、本当に偶然が積み重なって、よく分からないままに事件を解決していたんですから。本当に運でしかないんです」

 風が吹いた。太陽は西の空に真っ赤になっているこの時期の風は、冷たさと厳しさを含んでいる。希守はコートの襟を立てた。

「ちょっと冷えてきましたね。作業も終わったみたいですし、僕たちも戻りましょう。あまり遅くなると、署で待ってるきあちゃんやごうさんが心配……なんてあの二人はしてないんだろうな」

 思い当たる二人の姿といえば、呑気に事務所で幸せそうな笑みを浮かべてお菓子を食べているきあ瑠と、外で般若の形相で木刀を振るっている豪。とても本日退院してすぐ事務所を後にした希守のことを考えてくれているようには思えないが……しかし、どうあれ希守はあの部下二人のことを考え、心配かけることが少しでもあるなら、それは解消しておかなければならない。

「僕は一度署に戻りますが、咲牙さんはどうされますか? なんにしろ駅まではご一緒することになると思いますが」

「……やっぱり、ここにあった美術品というよりも、美術館そのものを破壊することに意味があったような気がしてきましたね」

「はい……?」

 問いかけた内容とは違う返答に、希守を振り返る。

「どういうことです?」

「現在得られている情報を吟味して、その上で思考に思考を重ねていくと、やはりこれが一番真相に近いように思います」

 咲牙が示した可能性は『美術品を目的としたものではなく、美術館そのものを消し去ることが目的』というもの。

「犯人からすれば、美術館そのものがあっては都合が悪い。だから爆発物を利用して破壊した。そこに残した証拠を隠滅するために」

 咲牙はすでに燃え尽きた残骸に背を向けている。そうして足を前に踏み出しながら、口を動かしていく。

「美術館に盗みに入り、まんまと姿を晦ました怪盗トレジャーがいるわけです」

 今回の美術館全焼の件に対して、咲牙は『怪盗トレジャー』という明確な名称を口に出した。

「盗みに入ったとき、もしかしたら美術館のどこかに触れたのかもしれません。その指紋を消すために破壊した」

「うーん、それはどうでしょうか? 仮に指紋があったとしても、犯罪歴のある人間しか特定できませんよ」

「指紋でなくても、自分を示す何かを落としたのかもしれない。後になってそれに気がついた。考えられる場所を探したが見つからない。だから、落としたと思われる美術館そのものを爆破した」

「ということは、えっ? 咲牙さんは、トレジャーが破壊したっていうんですか!? うーん、それはちょっと考えが飛躍してるんじゃないかと。世界的に貴重である美術品が展示された建物を壊すわけありませんよ。トレジャーからすれば宝の山なんですから」

 宝を目の前にして、それを燃やしてしまうような怪盗はいないというのが希守の指摘。

「思い過ごしじゃありません?」

「いえいえ、一概にそうとは言い切れませんよ。怪盗トレジャーは目的のものをすでに盗み出していますから」

 四週間前、怪盗トレジャーは美術館から中世の肖像画である『女神の肖像』を盗み出している。

「必要な美術品はすでに手に入れています。なら、世界的に貴重な美術品が展示されていたとしても、もう用済みですね」

「そう言われると、確かに……」

「手違いによって自分を示すような証拠を残してしまった。だとしたら、怪盗トレジャーがすることといえば、証拠ごと美術館を爆破する……さほど無茶な考え方でないと、私は思うのですが」

「そ、そんな……」

 愕然とする希守。提示された状況に、希守も思わず納得しそうになったがために、余計に落胆の色が濃くなり、がっくりとうなだれていく……しかし、ぱっと顔を上げ、ゆっくりと首を横に振る。

「確かにその考え方はあると思います。辻褄も合っていますし。少なくとも僕では綻びを見つけることができません。ただ、あくまでトレジャーは怪盗です。盗みはやりますが、誰かを傷つけたり、建物を破壊するようなこと、これまで一度もやってません」

「仰りたいことはよく分かりますよ。その通りです。つまりは、『これまで』はですね」

 これまでは怪盗として盗みしかしてきていない。それは咲牙も認めるところである。ただし、それは『これまで』のこと。

「所詮は犯罪者です。いつその本性を出しても不思議ではありません。美術館に自分の正体を示すような致命的な証拠を残したのだとすれば、なり振りなど構っていられないはずです。夜に忍び込んで爆弾を設置し、美術館ごと破壊する」

 どかーんっ!

「これは状況証拠とこれまで得られた情報を踏まえて、あくまで確率の問題を示しているに過ぎませんが……ですが、今のところそれが一番真実に近い気がします」

「そうですか、トレジャーが……」

 頭を垂れると同時に、希守は小さく息を吐く。

(…………)

 希守にとって怪盗トレジャーは、この月絵国を騒がす犯罪者で、逮捕すべき対象。ではあるが、だからといって誰かを殺すような人外的に凶悪なこと、一度も起こしたことはなかった。だから希守は、犯罪者ではあるが残虐的凶悪犯として捉えていない。

 そういった相手だからこそ、こちらも懸命になって追いかけることができたのである。スポーツマンシップに近い気持ちで。それが残虐的凶悪犯と怪盗トレジャーとの最後の一線だったはず……だというのに、今回は美術館が炎上し、死者まで出ている。こうなった以上、怪盗トレジャーの認識を変えなければならないかもしれない。

(トレジャー……)

 けれど、まだ怪盗トレジャーがやったとは断定できない。まだそこには怪盗トレジャーを擁護できる材料だってあるはず……しかし、咲牙の仮説以外に、美術館を破壊する理由が思い当たらなかった。

 だがしかし、やはり希守は信じたい。願わくば……死者が出ている今回の件で不謹慎かもしれないが、美術館全焼は自然発火であってほしかった。やはり怪盗トレジャーを人殺しとして追いかけたくない。直接触れ合ったことはないが、空気を伝わる相手の感触が、凶悪犯罪者とは一線を引いていると感じている。

 ただ、だからといって、私情を挟まずに客観的に状況を鑑みると……そうそう都合よく美術館が自然発火し、爆発が起きるとは思えない。爆弾を保管している倉庫ならともかく、貴重な美術品を展示している場所で爆発など起きるわけないのだから。

(…………)

 吹いてくる風が、今はなんだかやけに冷たく感じた。今の希守には、心の芯まで冷え切ってしまいそう。

(…………)

 希守たちが歩いている楓緑地公園は、中央地区の西部に位置する。電車で十駅分という距離はあるが、ここからでも博覧会会場に建造された、天空に向かって聳えるセントラルタワーを眺めることができた。全長四百メートルの巨大な電波塔は、銀色の骨組みに月の明かりを表した金色の塗装をしている。西の空へと沈みいく太陽によって茜色に染めながら、近くにあるビルの間に悠々と聳えていた。

 そんなセントラルタワーは来年の戦後三十年を祝した博覧会の目玉で、建物自体はすでに完成している。今は駆動系の総点検が行われている段階で、年明けには政府関係者を招いたお披露目会が予定されていた。そして、いよいよ六月には博覧会開催である。

 セントラルタワーの着工が三年前。希守は地区パトロールをしながら、ふと顔を上げては、それぞれ角度の違うタワーを眺めてきた。月日が流れるにつれて徐々に高さを増していき、その過程に思わず胸をときめかせたものである。土台の部分だけだったとき、本当に地上四百メートルもの高いタワーができるのか疑問視したものだが……こうして完成したものを見てみると、そこに存在していなかった光景が思い出せないほど、中央地区の風景に溶け込んでいた。

 そういった感情は、この中央地区にいるほとんどの人間が抱いている。タワーを眺めては、『今日はどれぐらい高くなったか?』と言葉を交わすように。これまでの中央地区の人間は、高いビルやマンションに囲まれて、ただ前だけを見るしかなかった。なのに、セントラルタワーの工事が着工してから、どんなに落ち込んでいるときでも、空を見上げることで、近い将来そこに訪れる巨大なタワーを空想しては表情を緩めていく。そうして次への一歩を踏み出す勇気がもらっていた。

(…………)

 希守は小さく息を吐き出し、踏み出す次の一歩に力を込める。

(……いよいよ、来年か)

 戦後三十周年を記念する博覧会が開催される期間、きっと希守たちは警備として大忙しになるだろう。海外の人もたくさん訪れて、馬車馬のように働かなくてはならなくなるに違いない。それでも国を挙げての一大イベントに、希守は月絵国民として今から胸を高鳴らせているのだった。

(……ぁ)

 遠くの風景は固定されたままなのに、周囲の風景はどんどん変わっていく……楓緑地公園を出ると緑が失われ、多くの煙が空を覆う工場地帯。黒い煙を出す煙突が、セントラルタワーを隠していく。

 希守は一度大きく瞬きし、視線を正面に戻した。片側二車線あるこの道の延長線上に存在する駅へと向かっていく。

「…………」

「この辺りは、工場が多いですね」

 希守に並んで歩く咲牙は、首を小さく動かして塀に囲まれた多くの建物を見渡していく。見ている視界だけで、何十本という煙突を確認できた。すべてに黒煙が上がっている。

 月国の中心である中央地区とはいえ、郊外ということで商業施設はあまりなく、商業施設へ製品を出荷する多くの工場が建造されていた。どの工場からも煙がもくもくと排出され、思わず鼻を塞ぎたくなるような異臭が漂うこともある。

 どの工場も周囲を取り囲む塀があり、高さ二メートルほど。上には有刺鉄線が張られていた。塀越しに見える光景は、三角屋根がずっとつづいている工場もあれば、スチール製の建物の周囲に階段があり、何かを圧縮するのに使用する機械の稼働音が響いてくる。

 と次の瞬間、近くにある巨大な管から、ぷしゅぅーっ! という大きな音が出た。建物と建物を何本もの配管がつないでおり、一本から白い蒸気が一気に吐き出されている。ずばーずばーっ! と大量の蒸気が吐き出される。空気中に白色と黒色が混じり合った色が漂ったかと思うと、刹那には透明色に溶け込んでいった。

 塀に沿って歩いていくと、工場と工場の間に網目の柵が目につく。覗き込むと、工場内に敷かれている線路を見えた。その線路上を建物から出てきたばかりのトロッコが移動していく。乗車している作業者は薄緑の作業着を腹部から膝にかけて真っ黒に汚しており、石炭を奥の大きな建物へと運んでいった。延長線上には何本もの大きな煙突があり、そこでも黒煙が空に昇っていく。敷地内にはフォークリフトや多くのトラックが行き交い、もうすぐ日が沈むのに、誰一人として作業の手を止めることはなかった。

「ほら、天川君、見てください。あそこは石油工場みたいですが、ああして余剰に発生したガスを燃焼させて排出しているのですよ。昼に通りましたが、その時からずっと、ごおぉーっ! という音がなくなることはありませんね」

 時刻は午後五時を回っているが、工場からの機械音がなくなることはなく、敷地内からも出てくる従業員を見かけない。一般の会社であればそろそろ終業時間だというのに。

「これは大国でも四半世紀前にあったことですが、繁忙期といいますか、現在の月絵国の急激な発展は『高度成長期』と呼ばれるものだそうです。とにかく誰もが我武者羅に働き、国を発展させることにまっしぐらです。それこそが今のこの国の正義なのでしょうね。国内や海外から必要とされる物をたくさん生産することで国が発展していく。特に月絵の製品は安くて質が高いですから、世界的にも評判がよく、特に大国に向けて多く輸出しています」

 現状、月絵国で生産される車も電機機器も繊維も薬品も、作れば作るほど売れる。それは国内に留まらず、海外へも。在庫など抱える暇もなく、完成した一週間以内には船に乗り、海外へ輸出されていくのだった。

 製品を売るためには当然作らなければならず、工場に勤める作業者が休みなしで毎日長時間作業しなければならない。でなければ、供給が需要に追いつくことができないから。工場は毎日眠ることなく、次々に製品を出荷し、国は潤い、発展していく。

「月絵国の人にとっては、とにかく今は働くことなのでしょうね。それこそがこの国の人であるといっても過言ではないほどに」

「そういうものなのでしょうか?」

「天川君にはこれが当たり前だから、ぴんっとこないかもしれませんが、私にはこの月絵国にこのような現在が訪れようとは、今でも信じられませんよ。これが大国に敗戦し、一度は焼け野原となった国の姿とはね。あの頃には想像できなかった」

 工場の塀沿いに歩いていって、赤白の鉄橋に辿り着いた。橋が架けられている川は自然にできたものではなく、工場からの排水用に建造された人工的な川。

 咲牙は橋の上からその川を指差していく。

「見てください。ああして工場排水が吐き出されていくんです」

 咲牙が示しているのは工場から顔を出している排水管で、そこから川へと大量の水が注がれていた。工場で発生する排水がそのままこの川へ流されているのである。

「あそこの工場は化学工業ですね。だとすると、廃液としてはマンガンやセレン、タリウムや水銀が発生していることでしょう。そういったものを排水として、外に流しているわけです。凄まじい光景ですね。川がこれほどまでに淀んでいる。人工的に作られた川とはいえ、これでは魚も生きていけないでしょう」

 コンクリートに挟まれた川の水は高低差を利用したもの。大量の工場排水が下流へと流れていくが、隅の方には黒いヘドロのようなものがへばりついている。とてもではないが命が生まれ、育まれる環境に思えなかった。

「その水がこのまま下流へと流れ、たくさんの排水を含みながら、やがては海へと注がれていきます。この状況を目の当たりにしますと、こう、なんと申しましょうか……これが現状の月絵国なのでしょうね。こうすることが、唯一の正義といいましょうか」

「正義、ですか?」

「月絵国民みんなが競うようにして働き、国を発展させるために生産性を高め、少しでも製品を出荷することで、敗戦による貧しかった国を急激に成長させることができました。いえ、これが現在も継続しているわけです。もう飢えで苦しむ子供はいません。こうして二十四時間稼働する工場がある限り、月絵国は貧しさとは無縁になりました。我々はその土台の上で生きているのです」

「僕は苦しかった時代である戦後というものを知りませんが……けど、豊かになることはいいことですよね? そういう世界にすることができたわけですから、やはり月絵国は優秀なんですよ」

 そう口にする希守は、誇らしい気持ちになった。

「平和な時代に育った僕が言えたことじゃないかもしれませんが、貧しいから人々は苦しみを得てしまう。争いが起こり、憎しみが新たな憎しみを生んでしまう。そんなこと誰も望んでいないのに、命を奪い合い、大勢の人間が絶望に沈んでいく……戦中のこと、よく母さんから聞かされました。とても悲惨なものばかりです。あんなこと、二度と起こしてはいけません」

 希守の心に一瞬、悲しみが宿る。母親のことを思ったら、意識不明である現状に、胸が痛んだ。

 包まれた気持ちを振り払うよう、希守は首を横に振る。

「けど、今は違います。これほど月絵国は豊かになりました。争いだって回避することができます。みんなが笑顔で暮らしていくことができます。そう分かった月絵国は、もう同じ過ちを犯すことはないと思います。戦争がなくせない国もありますが、この国はそんな愚かな行為は二度と繰り返しません」

「そうですね、月絵国はとても豊かになりました。豊かさはみんなの心にゆとりを与えます。ですが、よく考えてみてください。この国は発展に発展を重ねていって、ついには世界でも五本の指に入るほどのお金持ちになりました。来年には大々的に博覧会を開催するまでに至ったわけです」

 博覧会は、世界への絶大なアピールとなる。この国がいかに裕福であるかを。

「これほど豊かになった社会で、もう誰も飢えで死ぬ人間がいなくなったこの月絵国において、犯罪をなくせていますか?」

「それは……」

 口籠もるしかない。これほど豊かさに溢れている社会なのに、犯罪がなくなることはないのだから。

「……僕は、まだ力が足りません。真の平和を勝ち取るためにも、もっとしっかりしないといけません」

「いえいえ、天川君はよくやっていると思いますよ。原因はきっと別にあるのでしょう。明確には私にもよく見えていないのですが……貧しかった頃には貧しかった苦しみがあり、豊かになった社会には、豊かになったがためのというものが生じています」

 もう飢えで死ぬ人間がいなくなった平和な国だというのに、今でもこの月絵国では犯罪が絶えることはない。偽札、大麻、武器売買、裏カジノ、売春斡旋……それらは、国民が平和を求めて命を捧げていた戦中にはなかった犯罪である。

 戦後……敗戦による死者の山を前に、戦いの愚かさに気がついた国民は次々に手にしていた武器を捨てた。今度は一人でも多くの敵兵を殺すことから、働いて国を豊かにするために力を注いできた。

 そんな国民主体で築き上げてきた社会に、戦中にはなかった多くの罪や深い憎しみが生じている。それが現状社会の歪みであった。

「歪んだ心を持つ者はいつの時代でもいるみたいで、いくら天川君が取り締まりを強化したところで、そういった人間は僅かな隙間を潜り抜けていくものです。いたちごっこといいますか、なかなか収拾がつかないですね……こうした社会を目の当たりにしますと、働くことによって貧しさを排除した結果が表れているわけです。戦後に働くことで国を発展させるように精を出してきた我々の行い、疑問に感じます」

 あの焼け野原から他を顧みずに、ここまで懸命になって築き上げてきたからこそ、そこに思わぬ歪みが生まれた。それも自らの手で作り出した社会において。

「もしかすると、我々はまた過ちを繰り返しているのかもしれません。敵兵を一人でも多く殺そうと躍起になっていた戦中と同じように、今は働くことに躍起となり、知らず知らずにこの国に歪みを生じさせてしまっているのかもしれません……どうでしょう、天川君はそう思わないですか?」

「そんなことありませんよぉ!」

 問われたことに対して、躊躇なく声を荒げる希守。現代社会を目の当たりに、迷いが生じている相手に、希守はそれを断ち切るように力を込めて首を横に振った。

「咲牙さんたちがやってきたことは決して間違ってなどいません。そりゃ、悔しいですけど、現在も犯罪がなくならないことは事実です。多くの人が涙を流すこと、とても許しがたいことです。僕だって、悔しい思いでいっぱいですから」

 希守は下唇を噛みしめる。

「しかしですね、咲牙さんたちが懸命に働いてきてくれたからこそ、いきなり空から爆弾が落ちてくるような理不尽な死をなくすことができました。そんな、母さんたちが感じてきた超絶な不幸は、この国からなくせているんです」

 息を吸い込み、ゆっくりと吐き出していく。

「件数だけでいえば、犯罪は増加傾向にあるかもしれません。しかし、それは咲牙さんたちが作り上げたものでなく、今を生きている僕の能力のなさを示すものなんです。僕が今の平和を保たなければならない立場なのに、不甲斐ないばかりに、多くの犯罪を発生させてしまっている。すべて僕の責任なんですよ」

『この国の治安を守る立場にある自分がもっと優秀であれば、中央地区の犯罪件数はもっと減らせたはず。それは文字通り自分が未熟だから犯罪をなくせていないのであって、精進すればこの国は清い心で満たされた平和な国になる。そうすることが自分の使命であると信じて生きている。自分が見つめて進んでいく未来にそれができると確信して』そう一気に口にして、力の入った両肩をゆっくりと落としていった。

「そのためにも、やはり僕はまだまだ未熟でしかありません。これからもご指導ご鞭撻、よろしくお願いします」

「いえいえ、私に何ができるか分かりませんが、なるべく天川君には協力したいと思っています。平和を思う気持ちは私も同じですからね。こちらこそよろしくお願いします」

「はい!」

 お辞儀した頭を上げると、西の空に太陽が顔を隠そうとしていた。反対側の空から暗闇が少しずつその色を増やしている。

 と、その瞬間、どこからともなくチャイムが響いてきた。きっと塀がつづいているどこかの工場のチャイムが風に乗って流れてきたのだろう。休憩時間を示しているのか、はたまた終業時間を示しているのかは定かでないが、そのチャイムに工場に勤める数多くの人が新たな行動を起こしているに違いない。

(…………)

 西方に向かって歩いている視線の先に、高架の上を走る電車を見えた。その方角から多くの人がこちらに向かって歩いてくる。ほとんど男性だが、女性の姿もちらほらとあった。年代は十代から四十代と思われ、次々の高い塀の間にある工場の門へと吸い込まれていく。そうして出勤してくる従業員に対して、門に立つ守衛の人間が挨拶して出迎えているが、入っていく方はせいぜい小さく会釈するだけで、元気な声が上がることはなかった。この時間に工場に入っていくぐらいだから、夜勤の人間だろう。ただ、今から仕事をするというのに、どれも疲れた表情を浮かべている。今日が月曜日なのに。もしかすると、昨日の日曜日も仕事だったのかもしれない。

(……頑張らないと)

 希守は、次々と工場に吸い込まれていく大勢の人たちが築いた今をしっかりと守るべく、改めて自身に与えられた職務に尽力し、全力で立ち向かっていくことを心に誓った。

 普段の希守からすれば『職務に尽力すること』は当然のことで、いちいち誓うようなことではない。そんなこと、警察官として、さらには希守が希守として生きている以上、当たり前のことである。しかし、疲れた表情をする大勢の人の歩みが、これまでにない強い決意を抱かせたのであった。


       ※


 十二月十一日、金曜日。

 振り返ってみれば、今年も刹那的に季節は移ろっていった。訪れている寒さはとても厳しく、いよいよ残す日数がカウントダウンされている。繁華街は華やかなイルミネーションに包まれ、日が落ちてからは幻想的な光景を作り上げていた。中央地区にあるセントラルタワーも、特大なクリスマスツリーを模した照明を点灯させることで、大勢の人間に年末ムード一色に染め上げている。

 そんななか、月絵国中央地区東部には二十階建ての立派なビルがあった。だいきょう商事株式会社の本社ビル。大京商事はこの月絵国を代表する総合商社で、国内に留まらずに世界にまでその手を広げている。食品や自動車はもちろんのこと、製紙に鉱石運送や化工建設関係など、多くの子会社を持つ大企業。

 普段は縁のないそんな本社ビルに、フードつきのコートに身を包む希守は立っていた。十階にある装飾品展示室の前で、非常口を示す黄緑色の明かりを睨みつけて。一時間前から、ずっと極度の緊張を帯びて。

「…………」

 三日前、警察署に怪盗トレジャーから予告状が届けられた。内容は、大京商事本社ビルにある宝石『太陽の石』を盗み出すというもの。警備を厳重にすべく、情報はマスコミには伏せられたが、どこからか情報が漏洩したようで、ビル周辺には怪盗トレジャー見たさに多くの野次馬で溢れていた。今ではお祭りムードで、路上には屋台が出るほどである。

 希守は、予告状を出した怪盗トレジャーから宝石を守るべく、特別捜査部特別捜査Gのメンバーと、探偵の咲牙に協力を依頼し、こうして展示室の前に仁王立ち。骨折した左腕はまだ完治していないものの、ギブスはすでに外れていた。だからこそ、眉間に皺を寄せた難しい顔をして腕組みすることができている。

 そんな希守の右隣には、木刀を握りしめた豪。

 左隣には、煙草の形をしたチョコレートを銜えているきあ瑠。

 他警備員は、展示室の中と、及びこのビル内に配置されている。蟻の子一匹入り込まないように厳重にして。

(…………)

 警察の威信にかけて厳重に警備しているのだが、一点だけ不安要素があった。それは、さきほどから咲牙の姿が見えないこと。一度外を見てくると出ていったきり、戻っていない。今日も探偵の七つ道具が入っているアルミケースを持っていたので、独自の調査をしているのだろう。中を見せてもらったことがあるが、虫眼鏡やカメラ、懐中電灯にピンセット、防虫スプレーに懐炉といった、どういった状況でどう使用するものなのか、希守には皆目見当もつかないものばかりだが、咲牙には必要不可欠だという。

 そんな咲牙の姿が見えないこと、心配だが、警備のためにこの場所を離れられない以上、どうしようもない。咲牙には咲牙の考えがある以上、戻ってくるのを待つのみ。

「…………」

 時刻は午後十一時。さきほどこのビルに設置された大時計がその時刻を告げた。いよいよ予告状に示された時間に近づきつつある。警備する全員の緊張の度合いが増すと同時に、ぴりぴりっしたものが空気を小さく震わせていた。

 希守の喉がごくりっと音を出す。

「…………」

 金の枠がある展示室の大きな扉を背に立っており、今のところ異常はない。水を打ったように静かな廊下が左右につづいている。正面には二台稼働するエレベーター。数字は三十分前からずっと『1』と『5』に固定されていた。

 まだ予告状の時間には余裕があり、耳にしている無線にも異常があったという連絡はない。希守は表情を少し強張らせながら、ただ静かな通路で薄暗い空間を睨みつけていく。

 廊下の左方には鉄枠のある扉が五つ並んでおり、床には毛の長い絨毯が敷かれている。足元までしっかりと照らしてくれる照明の光が、ここにある緊張と静寂を浮き彫りにしているみたいだった。

「……っ!?」

 瞬間、巨大な『?』が希守の頭上に浮かぶ。

 それは視覚として捉えたものでなく、耳にしている無線が騒がしくなったことで察知したもの。電波状態があまりよくなく、雑音が大きいのでうまく情報が入ってこないが……一階がこれまでにない慌ただしさになっていた。希守は全身にさらに力を入れるとほぼ同時に、階段から声が響いてくる。それはとても力の入った声。

『怪盗トレジャーが隣のビルに現れたぞぉ!』

 耳にした『怪盗トレジャー』の言葉に連動するように、希守は足を前に踏み出した。正面にあるエレベーターに。振り返ると、きあ瑠も豪もついてきてくれている。

 二人に顔を向けて力強く頷いてから、エレベーターのボタンを押した。ちんっという音とともに到着したエレベーターに乗り込み、目的の階のボタンを押す。扉が閉まり、ゆっくりと上昇していく。

(今日こそは!)

 エレベーターは一部ガラス張りで、外の風景を見ることができる。暗い世界に輝く宝石が散りばめられたように多くの建物の明かりを灯していた。近くのテレビ局のアンテナ頂上には赤いランプが点滅していて、横には煙草の看板が文字を浮き上がるようにライトアップされている。

 三人に会話がなく、耳にはエレベーターの駆動音が聞こえていた。見えている夜の中央地区が徐々に下がっていくことを認識しながら、希守は少しずつ表情を引き締めていく。

「…………」

 予告状を出した怪盗がわざわざ厳重な一階ロビーから入ってくるわけがない。隣のビルから移ってくるか、はたまた上空から現れるか……どういった手段で侵入してくるかは定かでないが、見張るためには全体を見渡せる屋上が一番である。

 エレベーターは屋上に到着。前方に駆けていき、腰までの高さにある手摺りから身を乗り出すと、地上で大勢の野次馬が騒いでいた。熱狂振りは異様で、一部暴動のようになっている。怪盗トレジャーの出現に興奮しているのは明白だった。

 予告状を出されたときはいつもだが、今回は輪をかけて警備員に大勢の人員を投入していることもあり、大勢いる制服姿の警備員が、怪盗トレジャーの出現に浮き足立っている模様。玄関ロビー近くには大声で怒鳴っている者は口を半分開けて上空を見上げている者など、多くの警備員でごった返している。

(……っ! トレジャー!)

 さきほど『隣のビルに現れた』という情報を得た。見える範囲に視線を巡らせていくと……ビルの壁、閉じられているカーテンから漏れる窓の明かり、こちらよりも低い向かいの屋上……いた! 大きな白いローブを風にはためかせ、向かいのビルの屋上に怪盗トレジャーが立っている。暫くすると、上空を旋回する警察のヘリコプターによってその姿が照らし出された。

 しかし、怪盗トレジャーは一切動じることなく、一歩たりともその場を動くことはない。やや俯き加減でこちらのビルに顔を向け、悠然とそこに立っている。

 希守は目を凝らすと、その顔に怪盗トレジャーの特徴である巨大なゴーグルを確認できた。間違いない! 正面のビル屋上にいるのは怪盗トレジャーである。

 一階まで下りて向かいのビルの屋上に向かうか、または上空のヘリコプターで向かいのビルまで運んでもらうか……といった遠回りの選択肢、希守には存在しなかった。

(っ!)

 姿を捉えた瞬間、怪盗トレジャーへ真っ直ぐ足を踏み出そうとする衝動が希守を揺り動かす。それは砂漠を幾日も彷徨い、喉の渇きが絶頂の状態で見つけたオアシスに後先も考えることなく駆け出すように、今の希守は背後に控えているきあ瑠と豪の存在も忘れ、胸の高さまである手摺りを乗り越えた。

(今日こそ!)

 こちらのビルが二十階で、向こうは十八階といった高さ。せいぜい段差は十メートルであろう。ビルとビルの間にある道路は一方通行で車が擦れ違えるほど広くはない。であれば、跳び移ることだって可能である。多分。きっと。希望的に。

 いや、そんな打算など希守には存在しなかった。その目があの怪盗トレジャーを捉えた瞬間、目も心も白いローブが靡くその体躯に向かっている。

「だりゃあああああああああああああああああああぁぁぁ!」

 跳んだ。無意識化においてムササビのように両腕を広げ、重力に従って落下していく。激しい空気圧に襲われ、翼を持たない人間として得ることのできない浮遊感を得た。

 視界では……近くにあるビルの明かりが夜空に輝く星々のようで、青っぽいのもあれば白やオレンジ色っぽいものとさまざま。視界の隅に巨大なクリスマスツリーと化しているセントラルタワーの明かりが目に。空中で希守の瞳がそれらを認識できたのは宇宙的な時間においてほんの一瞬だったが、なぜだか脳裏に焼きつけることができた。

 ビルからビルへのジャンプは、跳んでいるというより、飛んでいるような感触。しかし、翼のない人間が飛べるわけがなく、この星に縛りつける重力によって落ちている。着ているワイシャツを激しく揺らし、放物線を描くようにして。

 暗闇に薄らと見えたコンクリートの地面、それがみるみると近づいてきた。押しつける強烈な空気圧によって呼吸困難となり、体内のあらゆる循環が停止したかのような奇妙な感覚を得てしまう。

(くぅ!?)

 迫ってきた屋上が、急激なスピードで眼前に広がったと思うと、右肩に激痛が走った。同時に、激しい熱が全身を貫いていく。落ちた勢いのままにコンクリートの上を転がり、生じる摩擦力と意識して足を踏ん張ったことで、ようやく止まることができた。

(ぐうぅ……)

 体を強烈に打ちつけたせいか、十二月だというのに全身から大量の汗が噴き出してくる。特に最初に打ちつけた右肩は燃えるようで、激痛によって血走った視界がぼんやりと霧がかかった状態に……頬を撫でる冷たい風に少しは相殺されるようにして、今はどうにか意識を保つことができていた。

 同時に、手足をばたばたっと動かす。そうしていないと襲われる痛みに食い殺されそうで……けれど、いつまでもそうしているわけにはいかない。歯を食い縛っていくが、そんな陳腐な気力では断じて和らぐことはなかった。

 激痛。

(くうぅ!)

 けれど、希守は激痛に耐えながら立ち上がる。

 向かいのビル屋上を見上げてみると、きあ瑠と豪が心配そうにこちらを見ながら口に手を当てて声を上げていた。しかし、上空に停止するヘリコプターの駆動音と激しい風圧で聞き取ることができない。ただ、希守は『大丈夫』という意味合いで右手を上げようとして激痛が走り、涙することに。骨折の癒えていない左手を少しだけ動かして二人に合図し、視線を正面に向けた。

 今も上空で停止しているヘリコプターからは、手摺り付近に立っている怪盗トレジャーに照明が当てられている。それを誰よりも近くで見ている希守。上空からの風圧で外跳ねの髪の毛を大きく乱している状態にあるが、手で押さえるようなことはしない。今はそんなことはどうでもいいこと。

「トレジャー、今日こそ逮捕する!」

 相変わらず怪盗トレジャーは手摺り付近で、全身を覆う白いローブと腰までの長い髪を大きく横に流している。微動だにせず、立ち尽くしていた。この状況を気にもかけていないように。

「トレジャー!」

 駆ける。地面を蹴り上げたその力は大きく前方に進ませる力を有しており、その姿はまさに『まっしぐら』という言葉がぴったり。希守は直線的に怪盗トレジャーに向かっていく。

 希守の接近にも、やはり怪盗トレジャーは動くことなく、向かいのビルに顔を向けている。それは最初から一切変わることなく。

 希守は走る。屋上の給水塔や通信網のアンテナを横目に、踏み出すごとの振動で右肩を襲う痛みに、左右にふらふらっとする足取りが危うい状態にありながらも、その目に映す怪盗トレジャーに向かって駆けていく。

 それでも動くことのない怪盗トレジャー。

 視界にどんどん大きくなって白色ローブ。風で大きく靡いている。そこに向かって両腕を伸ばして。

 そして!

「だりゃあああぁ!」

 駆けていった勢いのまま、手摺りの手前にいる怪盗トレジャーにタックルする要領で頭から跳びついていった。

(やったぁ!)

 腕を回した真っ白のローブの上に確かな感触がある。捕まえた。ついに捕まえることができた。これまで怪盗トレジャーの背中を追いかけることしかできず、逮捕するどころか、触れることすらできなかったのに、とうとう捕まることができたのである。

 脳内では盛大にファンファーレが響いていた。希守の警察官人生、歴史的瞬間。

(トレジャー!)

 と、次の瞬間、希守の視界に激変が起きる!

「ぁ……!?」

 抱き着いたまま顔を上げた希守。ちょうどそのタイミングで怪盗トレジャーの頭が大きく横に傾いていき、どんどんどんどん角度を深めていったかと思うと、首元から取れた。

「いいぃ!?」

 首が、取れた。

 ぽろっと。

「あややややややややぁ!?」

 目の当たりにした光景、目を限界まで見開かせる驚愕。置かれた現実に、口を閉じることもできない。

 怪盗トレジャーの頭は、手摺りの細い部分で一度小さく跳ねると、何もないビルの向こう側へと落ちていく……数秒後には人でごった返した地上に到着するだろう。ただでさえ怪盗トレジャーの出現にパニック状態なのに、拍車がかかることは間違いない。なんたって、群衆に生首が落ちたのだから。

「……トレジャー!?」

 ごくりっ! 喉がとてつもない巨大な音を立てた。逮捕するつもりが、勢いあまって殺人を犯すだなんて……月絵国の治安を守る立場にある希守が、あろうことか人を殺してしまった。例え相手が犯罪者であろうとも、断じて許される行為ではない。

 罪意識に、膝ががくがくがくがくっ! 震える。

「うわあああぁ!?」

 錯乱する気持ち。荒ぶる精神。焦点がぶれる瞳。荒くなっていく呼吸。極限に陥る心理状態。

「わわわわわぁ!?」

 あまりのショックに、希守は力を感じられなくなっていた。震えていた膝が直角に曲がったかと思うと、すとんっと落ちていくように腰が抜け、コンクリートの床に崩れていく。

 今はただ呆然とその場に座り込み、首を失ってもまだ風に揺れている白いローブを見つめるしかない。

 その顔は、意味もなく横に振られている。何度も何度も、そうして希守の壊れていく精神が安定を求めるように、この異常事態を拒絶するかのごとく。

「わあああああああああああああああああああああぁぁぁ!?」

 大混乱。目の前で、人の顔が落ちた。怪盗トレジャーの頭部がビルの屋上から人でごった返す道路へと落ちていった。

 それは、自分が突進したがばかりに。

 その行為による衝撃によって。

 その手で。

 殺してしまった。

「わあああああああああああああああああああああぁぁぁ!?」

 絶叫。


 混乱状態にある希守の前、怪盗トレジャーの胴体部分は、首から上を失っても悠然と立ち尽くしている。まるでそこに立つことを、悠久の昔から宿命づけられているみたいに。

「あああああぁ!? あああぁ!? あああああ!?」

「だ、大丈夫でありますか、天川警部? お気を確かに」

 ヘリコプターの駆動音に混じり、ばたんっという屋上の扉が開いた音につづいて、鍔つき帽子を被った制服姿の警備員三人が現れた。

 一人は周囲を落ち着きなく見渡し、一人はヘリコプターを見上げ、最後の一人が、目を剥いたまま錯乱状態に希守の元に。

「しっかりしてください。警部? 警部ってば?」

 警備員は希守の体を揺らすも、反応がない。嘆息。これ以上は救護班に任せるとして、警備員は胸にあったトランシーバーを取り出した。この屋上の状況を本部へと連絡するために。

「こちら、大京商事の本社ビル向かいのビル屋上。向かいのビル屋上。先に駆けつけていた天川警部が恐慌状態にあり。至急救護班の要請を求む。それと、現れたのは怪盗トレジャーのダミー……はい、そうです、偽物です。そちらから見えているのは人形でした」

「……へっ……?」

 ヘリコプターの音が大きいせいか、駆けつけた警備員の声は荒かった。その大きさによって希守の鼓膜を振動させ、そうすることにで、希守の瞳に光が戻っていく。

「……人形……?」

 さきほど受けたショックがショックだけに、今でも膝は笑っている。どうにか立ち上がり、首から上をなくした白ローブに触れた。

「……あっ」

 ローブの下に人の弾力はなく、捲ってみればマネキンだった。白いローブをかけられたマネキンが、手摺りのパイプに固定されている。強い風にローブをはためかせて。

 希守は、目の前にあるマネキンに抱きつき、怪盗トレジャーを逮捕した気になっていた。

 さらには殺したとさえ。

(…………)

 さきほどは全身を襲う痛みと、怪盗トレジャーを捕まえた興奮と、首が取れた衝撃に、まともな思考が働かないまま恐慌状態に陥ったが……冷静になれば、すばしっこい怪盗トレジャーがそう簡単に触れさせてくれるはずがなく、ましてやこれぐらいの体当たりで人間の首が取れるわけがない。

(……なーんだ)

 背中に大きく伸しかかっていた罪意識が、霧散するように消えていった。人殺しという重犯罪を起こしたわけでなかったこと、心の奥底から安堵である。そんなことをしてしまえば、今もまだ入院している母親に、顔向けできなくなってしまう。

 同時に、全身から力が抜けた。張り詰めていた圧迫感から解き放たれ、へなへなっと心太ところてんにでもなかったように、滑るように倒れていく。地面に両腕、両足を広げていき、大の字に。

(よかったぁ!)

 よかった。本当によかった。人殺しにならなくて。

 双眸には光るものが浮かんでいた。

(……っ!?)

 ぼわあああぁーんっ! と巨大な破裂音が響いた。それはヘリコプターの音を突き抜けるように発生した、何か大きな袋が破裂したような鈍い音。希守は上半身を起こし、向かいのビルを見つめる。

(んっ……!?)

 希守の視界に膨大な白色が溢れてきたから。それはこれまでになかった色。

(しまったあああぁ!)

 向かいの大京商事株式会社ビルは二十階建てで、中間位置から白い煙が発生していた。白色は一気にビルとビルの間に広がり、希守の視界を白濁していく。まるで大量の小麦粉が破裂したみたいに。

 白煙が発生した場所、それは宝石『太陽の石』がある展示室の階。つまりは、すでに怪盗トレジャーはビル内部に侵入していたことを意味する。向かいのビル屋上に自分そっくりのマネキンを置き、まんまと希守を出し抜いて。

(トレジャー!)

 猛烈に腹が立った。怪盗トレジャーに手の上で転がされるなんて、自分自身に対する憤りは尋常でない。

 希守はすでに動いていた。屋上で打ちつけた右肩の痛みも忘れ、上昇する体温に導かれるように階段を下っていく。今度は向こうの方が高いので跳び移ることができず、ヘリコプターを利用して向こうのビルに移ることも可能だろうが、それでは時間がかかる。向かいのビルに移つるには、一旦地上に向かう必要があった。

 黄緑色の非常灯の明かりのみが照らす階段を、希守はリズムよく駆けていっては踊場でペースを乱し、またリズムよく下りていっては踊場で乱して……屋上から白色を見た約五分後、一階に到着。

(うわー……)

 頭上の白煙に、集まっていた大勢の野次馬や、取り締まろうとする多くの警備員が、蜘蛛の子を散らしたように動き回っていた。逃げ回ったり、その場にしゃがみ込んだり、パニック状態を極めて言葉にならない奇声を上げたり。

 そんな混乱状態にある人の波を希守は縫うようにして進もうとするが、うまくいかない。巨大な激流が起きているみたいに、前に進もうとしても四方から押され、思うように進めなかった。

「すみません! 警察です! 通してください! すみません!」

 人の渦に潰されそうになり、危うく窒息しそうになり、二回ほど誰かの肘が顔面に当たって痛い思いをすることになりながらも、どうにか人の波を掻き分けて向かいの大京商事ビルに到着。

 このビルは一般人の立ち入り禁止となっており、三階分が吹き抜けとなっている天井の高い玄関ロビーには制服姿の警備員のみで、騒ぎも随分と落ち着いたもの。外の喧騒が嘘みたいに。

 しかし、ほっと一息している場合ではない。急いでエレベーターへ。運よく一階に停止していたのに乗り込んだ。

(トレジャー)

 一部ガラス張りのエレベーターはゆっくりと動き出し、外の夜景が少しずつ遠くの方まで眺められるようになる。こちら側には特大のクリスマスツリーを見ることはできないが、中央地区には人工的な光が数えきれないほど存在していることが分かった。

「はぁはぁはぁはぁ」

 エレベーター内でなら中腰になって乱れた息を整える。希守の額の汗を拭い、痛む右肩を上下させながら、激しい動悸に今にも爆発しそうな心臓を意識した。

 向かいのビルからここまでやって来るまでの間、約二十分という時間を費やした。この分だと怪盗トレジャーに逃走を許している確率が非常に高い。しかし、めげている場合ではない。こちらにはきあ瑠と豪を残している。あの二人が状況にうまく対応し、今頃追い詰めているかもしれないのだ。

 一縷の望みを胸に、エレベーターを使って十階展示室に到着。左右に扉が開いてすぐ、見慣れた制服と袴が目に飛び込んできた。

「きあ瑠ちゃん、トレジャーは?」

 展示室前には、眉間に皺を寄せて目を閉じたまま座禅している豪と、グレープ味のグミの袋を片手に、もぐもぐと口を動かしているきあ瑠がいる。独自の判断で屋上からここまで駆けつけたのだろう。

 希守の問いかけに、豪は一切反応することなく目を閉じたまま。隣のきあ瑠はさもそれが当然のことにように首を横に振った。

「じゃ、じゃあ、『太陽の石』は?」

 怪盗トレジャーがいなくなっている以上、その問いは虚しいものがあるが……きあ瑠は頬を緩ませ、やはり首を横に振った。ちょうど次のグミを口に放り込むタイミングで。

「かぁーっ! またトレジャーを取り逃がしたかぁ!」

 がっくりとうなだれる希守。わざわざ取り寄せた設計図で大京商事ビルの構造を把握し、事前に探偵の咲牙とともに綿密な打ち合わせを繰り返していた。考えられる侵入ルート、逃走ルートを研究してきたというのに……あっさりと宝石は盗まれた。

 沈む心に、ただただ重く暗く情けない思いが募ってくる。

「…………」

 展示室入口である金枠の大きな扉は開かれている。展示室は毛の長い真っ赤な絨毯が隅々まで敷かれていて、天井には輝く大きなシャンゼリゼが煌々と展示室を照らしていた。大きさはだいたい百席ある中央警察署の大会議室ぐらい。天井からは白っぽい黄色の照明の光が全体を照らしており、分厚いガラスケースが五十ほど設置されている。それぞれのケースには巨大なエメラルドはもちろん、大きなルビーやサファイアがある。しかし、展示室中央にある金色の装飾をした豪華な台にあるガラスケース、そこに丸い穴が空けられていた。それは、本来そこにあるはずだった人間の拳ほどある巨大なダイヤモンド『太陽の石』が盗まれたことを意味する。

 室内にはまだ少しだけ粉上の白煙が残っていたが、換気設備が整っているようで、視界はほぼ正常さを取り戻していた。すでに現場検証が行われており、青色の作業着を着た警察関係の人間が、展示されている展示物のチェックをしている。

「…………」

 ここにいる全員は、きあ瑠や豪も含めて黒髪で、希守はここにいる全員と違う黄色い髪。だからこそ目立ち、展示室に入っていくなり全身の視線を浴びることとなる。

 刹那、希守に向けられる多くの視線から溜め息が漏れた気がした。

「…………」

 希守は愕然とする。自分の任務もろくに果たせず、あろうことか周囲を落胆させる結果となってしまった。がっくりと肩を落とし、焦点の合わない視線で床に敷かれた毛の長い絨毯を見つめる。

 こんなはずではなかったのに、怪盗トレジャーの思う壺となり、好き勝手されてしまった。現場の責任者として、ここにいる全員に申し訳なく思う。

 思わず涙ぐむほど。

「…………」

 悔やまれる。隣のビルに怪盗トレジャーが現れたと情報が入ったとき、飛びつくように屋上へ向かったが、今にして思えばあの行動は疑問である。なぜああして責任者である自分がこの現場を離れたのか? そんなことをしたがばかりに、この有様となってしまった。

 怪盗トレジャーには逃走を許し、

 宝石『太陽の石』は盗まれて、

 残されたのは大勢の落胆のみ。

「…………」

 周囲で作業している多くの人を目に、何もできない自分のこと、ただただ惨めに思える。こんなことではいけないのだが、ショックの大きさに顔を上げることもできなかった。

 情けない。

 あまりにも情けない。

「…………」

「天川君、緊急事態だ!」

 すっかり気落ちした希守の前に立つ男性は……室内なのに頭にはいつものソフト帽、全身を黒いコートに包んだ咲牙。小さく息を切らし、血相を変えて希守の両肩を揺らしている。両手を胸の前で動かすその仕草、いつも冷静な咲牙にしては珍しいものであった。

「天川君、しっかりしたまえ! 緊急事態なんだ」

「……はい?」

 目の前に立つ相手が肩を揺らしてくる。そんなことをされれば、向かいの屋上で打ちつけた右肩がじくじくっと痛むし、まだ骨折が癒えない左腕だって痛い。表情を歪めつつ、けれど、そのおかげで希守は落ちていた視線を上げることができた。

「……どうかしたんですか、咲牙さん?」

 咲牙が声を荒げる理由は不明だが、『緊急事態』はすでに起きている。宝石を盗んだ怪盗トレジャーに逃げられたのだから。

 であれば、ちょっとやそっとでは動じない。希守は半分閉じられた瞼で相手を目にした。

「今夜はお月様の裏側でも見えるっていうんですか?」

「爆弾だよ、爆弾!」

「ばくだ、ん……?」

 希守の頭に巨大な疑問符。現段階では伝えられた言葉をうまく認識できなかった。ただ、咲牙の血相を変えた表情に、体内の温度が一気に冷却されていくような感覚を得る。

「あ、あの……」

「機関室に爆弾が仕かけられていたのだよ! もうすぐこのビルは爆発する! 早く避難指示を出して、全員を撤退させるのだ! でないと、大変なことになってしまう!」

「爆弾んんん!?」

 伝えられた言葉が一瞬にして脳に伝達され、その言葉に含まれる真意を分析し……脅威と驚異に目が慌ただしく泳ぐ。自由形から背泳ぎから横泳ぎから犬かきまで、茶碗で転がる二つのサイコロのように、がちゃがちゃがちゃがちゃっ動き、両目がピンゾロとなった。

「た、た、た、た、た、た、た、た」

 た! た! た! た!

「大変だあああああぁ!」

「もう爆弾処理班を呼んでいる時間はない。早く避難指示を出すのだ。周囲にも警報を出した方がいい」

「は、はい! きあ瑠ちゃん、豪さん、聞いた通りだよぉ! 大変だよぉ! 爆弾だよぉ! 爆弾が見つかったんだぁ!」

 これまで沈んでいた希守の存在は、火が点いた花火のように慌ただしくなった。


 爆弾が仕かけられたという緊急事態に、希守は咲牙の協力もあり、全員をビルから脱出させることができた。無線と館内放送を使ったため、所要時間は二十分もなかったと思う。

 周囲の野次馬や警備員の人間など、ビル周辺にいる者はすべて半径百メートル以上離れるように指示を出した。けれど、混乱状態にある大勢の人間を誘導させるのは困難を極め、希守が倒れている女性に手を差し伸べようとした瞬間、巨大な轟音が起きる!

 その瞬間を、希守は目の端で捉えていた。大京商事ビルのビル三階辺りに真っ赤な光が発生したと思うと、空気中を伝わるように重く鈍い爆発音が響き、さっき見えた赤い光が一気に膨張するようにビルを呑み込んでいったのである。

 劫火の炎が縦長の二十階建てのビルを包み込んでいく。衝撃は階段を通じて全体に伝わったのだろう、建物の窓ガラスが一斉に割れ、周囲にある夜の明かりを乱反射させるように空気中を舞い、コンクリートの破片が周辺に飛び交って降り注ぐ。

 赤い閃光が発生した三階部分は大破し、支えを失うようにビルが一度沈み、安定性を失った建物がゆっくりと傾いていく。ゆっくりと、ゆっくりとビルが斜めに動いていって、向かいにあるビルの壁に寄りかかるようにして折れていった。

 多くのガラスとコンクリート片が落下する。

 地上は、突然の事態に逃げ惑う者と、その場に崩れていく者、降ってきた破片に潰されるように身動きできなくなる者、ガラスで頭を切った者……まるで大きな舞台で阿鼻叫喚を演じるように、絶え間ない苦しみの叫び声によって充満した。

 ビルが崩壊し、炎上するなか、希守は現場に一番近い位置に立ち、懸命に避難誘導に努める。その時はもう怪盗トレジャーに逃走されたショックはどこかへ吹き飛んでおり、ただ今は一人でも多くの人間の命を救うために……いや、一人でも犠牲を出さないために懸命に声を張り上げるのであった。


       ※


 大京商事爆破事件は、爆風と飛び散ったガラス片などで負傷した人間が三百七十六人となり、死者は十五名という被害甚大となった。一つの事件でその死者数を記録したこと、戦後最大の被害になったのである。今回の事件はそれほどの爪痕を中央地区に残していた。

 さらには、ビルの残骸から中央地区で禁止になっているカジノで使用される多くの設備が発見され、爆破事件とともに裏カジノとのつながりについて、大京商事に捜査のメスが入ることとなる。大きな事件は新たな事件を巻き込んできたのだった。


 大京商事爆破事件が発生した一週間後、中央地区南部の月絵国陸軍自衛隊基地において、大量の爆発物が紛失されていることが発表された。事実が発覚したのは二か月も前のことだったが、発表までの間ずっと内部捜査と銘打った隠蔽工作がつづけられてきたという。

 発表に至った契機は、隠蔽工作に反感を抱いた一人の勇敢な自衛隊員。隠蔽しつづけることに疑問を持ち、マスコミに情報を流したことから、自衛隊としてはこれ以上隠し切ることができずに正式発表する運びとなったのである。

 マスコミは、自衛隊の隠蔽体質はもちろん、その紛失した現物、そしてどこに消えたのかを強く追及するも、すべて『現在調査中です。詳細は後日改めて発表します』という長官の言葉のみで、強引に記者会見は打ち切られた。

 発表された情報があまりにも少なく、すべてが曖昧であったことが災いし、マスコミは各誌、連日あることないことを書き並べていく。ワイドショーでも爆発物の専門家と呼ばれる人間が数多く登場し、自衛隊の体質について遺憾の意を表するとともに、徹底的な解明を自衛隊と国に訴えていく。

 また、情報漏洩をして除隊処分された勇敢な自衛隊員をマスコミすべてが英雄視し、連日取材によってその顔を見ない日はなかった。

 そんななか、『紛失した爆発物はどこに消えたのか?』という疑問が残される。その疑問に対し、どの紙面も足並みを揃えるように、ある一つの線をつないでいた。

『怪盗トレジャー』

『全焼した楓美術館』

『爆弾によって爆破した大京商事ビル』

『自衛隊基地から失われた大量の爆発物』

 怪盗トレジャーは楓美術館と大京商事に盗みに入っており、そこを爆発させるためには、当然大量の爆発物が必要。また、自衛隊基地からは大量の爆発物が紛失……つまりは、中央地区を震撼させた爆破事故は怪盗トレジャーの大罪であると、マスコミは強く月絵国民全員に植えつけていったのだ。

 そうして怪盗トレジャーは、この月絵国を破壊する暴力主義者として、忌み嫌われる嫌悪の対象と化した。以前は真似をする子供もいたが、今では白いローブは燃やされ、ゴーグルをつける人間は一人としていなくなったのである。少し前までは、その華麗な盗みと存在の神秘性があれほど崇拝されていたというのに。

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