第2話


 過去と現実



       ※


 十一月八日、日曜日。

 午前十時。中央大学付属病院201号室。中央に設置されたベッドに腰かけ、青いスポーツバッグにパジャマと着替えの下着を力いっぱい押し込んでいる青色のワイシャツ姿、天川あまかわまも

 まさにこれから、一週間お世話になった病院を退院する。一週間前は全身に包帯をぐるぐる巻きつけた重傷だった。その姿、ピラミッドに埋葬されてもおかしくない有様。それがたった一週間で治癒し、退院することができる。医学の発展と、丈夫な体に育ててもらった母親にただただ感謝であった。

「…………」

 窓側の白いカーテン越しには、向かいのオフィスビルが見える。日曜日だが、照明が点けられている部屋は一つや二つではなかった。

 位置関係により、来年の博覧会の目玉、セントラルタワーを眺めることはできない。他の部屋からは眺めることができるので、なんとなく損をした気分。入院する病室は治療に専念するためのもので、窓の景色を求めるのは滑稽な話かもしれないが。

「…………」

 壁にかけられた猫のカレンダー、ポットの湯飲みが台に置かれている。テレビが設置された台には、部下のきあが持ってきてくれたお菓子の詰め合わせがあるが、希守が一つも手を出していないのに、一割程度しか残っていなかった。きあ瑠本人がこの病室でぼりぼりっ食べていったから。それはもう幸せそうに表情を緩めて。さすがに見舞い品ということで全部食べることを遠慮したのか、申し訳程度に残骸が置かれている。それを目にして、思わず苦笑。ビニール袋に詰めて、パジャマの上から無理矢理押し込むようにしてスポーツバッグに突っ込んでいく。

 腰かけていたベッドのシーツの皺を整え、忘れ物がないことを確認。ワイシャツより色の濃いネクタイをして、準備完了。

(さてと)

 危険と背中合わせの職業柄、こうして入院することは、両手で数えきれない。つまり、その数だけ退院していることを意味する。できることならあまり病院にお世話になりたくないが、なぜだか希守は事件の度にお世話になることが多かった。謎である。

 けれど、入院は決していやなことばかりでない。この病院にいれば入院している母親の見舞いも容易にできるし、それに、楽しみなこともあるにはある。それも気持ちが超絶に高まるほどの。

「…………」

「支度できたみたいですね、天川さん」

 いつの間にか、入口には前ボタンの純白なナース服に身を包んだ女性が立っていた。とりますたから。二十五歳。この中央大学付属病院の看護師で、入院している希守の担当でもある

「あまり無茶しちゃいけませんよ。毎回毎回、どうしてこんなことになっちゃうんでしょうね? 少しは自分の体を大事に考えてもらいたいところです」

「仰ることはもっともで、僕も体は大事にすべきだと思います。しかしですね、これは仕方のないことなんですよ」

 希守の脈動の周期はおかしくしている。目の前の相手と会話を交わすこと、それだけのことで緊張して体温が上昇してしまうから。相手に悟られないよう、平然と装って声を返していく。

「いつも真剣といいますか、必死なんです。この国を守るため、平和を保つため、断じて目の前の悪を見逃すわけにはいきません。時には飛び込むように、もう後先のことなど考えずに突き進んでいくことだってあるわけでして……そうすることがこの国の平和を守ることであり、自分の使命でもありますから」

「……その結果、展望塔から飛び下りちゃうわけですか?」

「その通りです!」

「……そこ、力入れるとこじゃないと思います」

 宝美は大きく嘆息。相手に見せつけるように。

「なんでそんなことしちゃうんですか? とても正気の沙汰とは思えません。だって、屋上から飛び下りちゃうんですよ?」

「あの場面では、仕方がなかったんです」

「飛び下りることが仕方ないんですか? どんな場面なんです?」

 目を丸める宝美。

「でしたら、もし、わたしが同じ状況に直面したら、わたしは迷わず飛び下りるべきでしょうか?」

「そんなはずないじゃないですか!」

 即答。声を荒げてまで。希守は首をぶんぶんっと横に振る。

「飛び下りるだなんて、そんな危険なこと、やっていいわけありません! 宝美さん、少しは自分のことを考えてください」

「あなたもですよ!」

 宝美の叫び。的確な指摘を相手に突き刺すようにして。

「なんで天川さんは自分のことになると、周りが見えなくなっちゃうんですか!? もっと自分の体を大切にしてください」

 ビル十階分の高さから飛び下りることを躊躇なくしてしまう相手に、宝美はまたしても大きく吐息。腰まである長い髪の毛を小さく揺らしながら、首を横に振っていた。

「そんなことじゃ、お母様だって天川さんのことが心配でゆっくり静養することもできないじゃないですか」

「う……」

 それから十秒間、『う』の形で唇が固まる希守。両目は尋常でないほど泳ぎまくっている。決定的な弱点を突かれ、どうにも反論できなくなったみたいに。

「……か、母さんのことを出されてしまいますと、なんとも苦しいものがあります……仰る通り、母さんにはいつも心配をかけてしまい、申し訳ないと思っています。ですが、それがこのつきこくにおける僕の役割だと思っています。母さんだって、こんな僕のことを応援してくれるはずですから」

「どうしても譲る気がないみたいですね……まったく、なんでこうも頑固なんでしょ」

 宝美は吐息。したくもないのに、その口からは必要のない息が漏れて仕方がなかった。

「いいですか、『勇気』と『無謀』を履き違えないでください。もし天川さんに万一のことがあったら、みんな悲しむことになるんですよ、職場のみなさんもお母様も、もちろんわたしもです」

 宝美はぷいっと横を向く。

「それに、天川さんがいなくなっちゃったら、いったい誰が怪盗トレジャーを捕まえるっていうんですか? いやですよ、別の人に追いかけられるなんて」

「……はい? 追いかけられる?」

 希守の頭に巨大な疑問符。届けられた言葉の意味が理解できずに、口を開けたままきょとんっとしている。

「……どうして宝美さんが追いかけられるんです?」

 そんな覚えない。まったくない。微塵もない。かけらもない。

(もしかして)

 心臓が激しく脈打った。

(うわうわうわうわっ! もしかして!)

『自分がなんとなく素敵だなー』と入院する度に見ていること、気づかれているのかもしれない。これまでは断じて相手に知られていないと思っていたのに。まさか!?

 この事実、とてつもなく恥ずかしい。

 赤面である。

「い、いや、別に、そんな変な風には見てないですよ。僕は、全然、まったく、これっぽっちも。あはっ、あはははっ」

「天川さん、何を言っているんですか? いいですか、怪盗トレジャーを天川さんが追いかけるんですから、それはつまりは、わたしが追いかけられるということじゃないですか」

「はい……?」

 希守の頭上に特大の疑問符が浮かぶ。

「……どうして僕がトレジャーを追いかけると、宝美さんを追いかけることになるんです?」

「どうしてじゃないですよ。だって、怪盗トレジャーは──」

 宝美の動いていた口が、ぴたっと止まった。映像の停止ボタンを押したみたいに。それから暫く、これまでが信じられないほど、口は言葉をなくしていた。

 そんな、いかにも不自然なところで言葉を止めた看護師は、身長百七十センチと怪盗トレジャーと偶然同じ身長で、髪の長さも腰までとまったく同じ。そればかりか、その顔にあの巨大なゴーグルをつければ、まず怪盗トレジャーと見分けがつかない外見をしている。だからこそ、希守が楓緑地公園にある展望塔から飛び下りた経緯もまるでその場に居合わせていたみたいによーく知っている。

 十秒という時間を経て、止まっていた唇が小さく動き出す。

「……あ、あのですね、えーと、その……どういうことなんでしょうね? わたし、何言ってるんでしょうね? えへへへっ」

 宝美の顔に尋常でない汗が浮かんでいた。なぜだか現在、窮地に追い込まれたような心情的圧迫を得ている。

 それも自業自得の。

 喉が大きく鳴った。

「と、とにかく、その、天川さんには怪盗トレジャーを捕まえてほしいですよ。わたしは。だから、頑張ってください」

「はぁ……」

「つ、つまりですね、天川さんには頑張ってもらわないと困ります。はい、頑張ってください。頑張るのが天川さんの素敵なところです」

「……頑張って、頑張って、頑張る?」

「はい、天川さんは頑張ってくれればいいんです!」

 まったくもって、さきほど向けられた問いの答えになっていないが、言葉を連ねることによって宝美はこの窮地を力ずくに揉み消す方向に話題を導いていく。

「だいたい、こっちだって大変なんですからね。毎回毎回天川さんが入院する度にわたしが担当になるわけですよ。この前退院したと思ったら、すぐ戻ってくるんですもの。骨が折れるといいますか……すぐ病院抜け出そうとするのを見つけては、したくもないお説教しなきゃいけないわけです。もっとご自分を大事にしてください。じゃないと、今度から首に縄をつけますから」

「……首に縄ですか。とすると、僕、犬みたいになっちゃいますね。だとすると、飼い主は宝美さんってことですか? なるほどなるほど」

 想像してみる。宝美の部屋で、鎖をつけられて一緒に暮らしている自分の姿……一緒にテレビを観て、食事して、風呂に入って、同じ布団で寝て……自身の姿は犬とはいえ、その生活は悪くない気がした。

「なんて素敵なんでしょう!」

「はいぃ!?」

「あ、いえ……」

 こほんっと咳払い。今の興奮を相手に悟られるわけにはいかない。

「そ、それはいやです。首に縄だなんて、涙ながらにいやですよ。本当に。いや、本当の本当に。ですので、忠告は充分肝に銘じておきます。今日までお世話になりました。ありがとうございました」

「仕事もいいですけど、ほどほどにしてくださいね」

「お約束はできませんが、心がけます」

 終盤のやり取りによって、なぜだかほっと胸を撫で下ろす雰囲気を醸し出した宝美に、希守は深々と頭を下げて、スポーツバッグを手に病室を後にする。

 平坦なリノリウムの床がつづく廊下で振り返るが、宝美は姿を見せない。どうやら病室の清掃をするようで、見送りはしてくれなかった。入院した回数は両手でも数えることはできないので、当然のごとく看護師に見送られるのも数えきれないぐらいしている。なくてもいいが、お世話になった宝美に見送られないのは少し寂しい。

 無意識化において、っすん、と洟を啜った。

(…………)

 201号室を出て右方にあるエレベーターの前に立つ。エレベーター近くに休憩所があった。『コ』の字型に設置されたソファーに、パジャマ姿の老人とその娘であろう中年の女性が談笑している。近くには自動販売機があり、小さな子供が母親にジュースをねだっていて、実に微笑ましい。テレビにはニュース番組が流れていて、一昨日もまた現れたという暴走バイクについて報じていた。

「…………」

 ちんっ! という音とともに、エレベーターがやって来た。扉が開くと、車椅子も利用するということで小会議室ぐらいの広さが目に飛び込んでくる。

 中には楕円の眼鏡をかけた白衣姿の男性が一人乗っていた。希守を見て驚いたように目を大きくしたが、すぐ元に戻る。

 希守はこの病院の医師であろうその男性に小さくお辞儀して、エレベーターに乗り込んだ。

 本日は日曜日であるが、希守には午後から仕事があり、これから署に向かう予定。けど、その前に寄るところがある。希守はエレベーターで一階ではなく、五階に上がっていった。

「……あれ?」

 目的地は505号室。エレベーターを出て、通路を通って手前から四つ目の扉……そこに男性が立っていた。

(誰だろう?)

 個室のため、いるとすれば505号室に入院している人物の関係者であるはずだが……立っているのは、希守には見知らぬ人物。首を大きく傾けることに。

 なんにしろ、そうやって扉を背にされては入ることができない。自分よりも背の低い、二回りぐらい年上の男性を前に、なるべく遠慮がちにこほんっと咳払い。

「すみません、ちょっとどいていただきますか。入りたいものですから……」

「では、あなたが天川希守君なのですね? お待ちしておりました」

 そうしてゆっくりとお辞儀する、全身を黒いコートに身を包んだ男性は、頭に薄茶色のソフト帽を被り、短髪に口髭を携えている。全体的にほっそりとした印象で、左頬に特徴的な深い傷があった。

「よかったです、お会いすることができて。あの、もしお時間よろしければ、少しお話しさせていただいても構わないでしょうか?」

「はぁ……?」

「ああ、これは失礼。紹介が遅れましたね」

 男性は右手にしていたアルミケースを左手に持ち替え、懐から銀でできたケースを取り出し、名刺を希守に差し出した。

「私、こういう者です」

「どうも……」

 手渡された名刺には『さきあたる』という名前があり、肩書きは『探偵』であった。見た目は五十歳前後。渡された名刺だけの情報で目の前に立つ人物のことを推測すると、『密かに他人の行動や犯罪事件を調べることを職業としている人』だと思った。警察の仕事と重なる点もあるが、だからといって公務員と民間ではまるで違う。

「えーと、探偵をされている方が僕にいったいどういった要件があるんです?」

 警戒する。希守の職業柄、探偵や新聞記者など、接触を試みてくることが多々あった。こういう場合、大抵は丁重に断ることにしている。関わると、口下手な希守ではうまく対応することができず、重要な情報を漏洩しかねないから。

「あの、どうしてここに?」

 相手が探偵を名乗るのなら、きっと事件に関してかれるに決まっている。名刺だけ受け取って、すぐ病室に入るのが得策であろう……頭ではそう分かっているのに、希守には気になることがあった。

 希守が入院していること、そして本日退院することは調べれば分かるだろう。しかし、なぜこれまでいた201号室でなく、一階の玄関ロビーでもなく、この505号室の前に立っているのか?

 希守は、こうして疑問に思ったことは即座に質問することにしている。『知るは一瞬の恥』を地でいっているため。

「ここは、母さんの病室なのですが?」

「はい、存じておりますよ。そして、天川君が本日退院だということは調査済です。病室に顔を出してしまうと、荷物の整理で忙しいあなたを邪魔してしまうと思い、お会いするのはそれが落ち着いてからにしようと考えたわけです」

 ここで一呼吸分、間を置く。

「そこで、荷物の整理が終わって準備万端となった天川君は、病院を後にする前に必ず母上に挨拶にくるだろうと推理し、お待ちしていたというわけです」

「はぁ……それはなんとも、とても観察眼がいいといいますか、素晴らしい推理力をお持ちなんですね。そんな風に考えられること、羨ましい限りです。僕なんか目の前のことしか考えられませんから」

 頬を指でぽりぽりっ。

「なるほど、僕が退院する前にここを訪れることを推理されたわけですね。さすがは探偵をされているだけのことはあります」

 希守は腕組みをしながら『なるほどなるほどー』と何度も首肯。

 相手に感心するような思想になったからこそ、警戒する心が一気に緩んでいった。突き放そうとする意識が消えたのである。

「……それで、僕に用とは?」

「私も職業柄といいますか、個人的な興味といいますか……この独立国家、月絵国一の凄腕警部がいるなら、是非お話ししたいと思いまして。同じようにこの国の平和を願う者として」

「そうでしたか。それは、わざわざ、どうも……あ、いやいや、僕が凄腕だなんて、そんなことありませんそんなことありません」

 ぶんぶんぶんぶんっ! と首を首が飛んでいくのではないかと思うほど凄い勢いで横に振る。

「僕なんか、全然凄くないですよ」

「謙遜なさる? 数々の難事件も解決していますし、凄腕以上の凄腕警部ですよ。その年で警部になっている時点で凄いどころじゃありません。相当な実績を積まないと飛び級なんてならないでしょうから」

 皺を増やし、にっこり。

「是非お話しさせていただければと思っています」

「えーとですね、僕の場合は実績といいますか……あんなの全部、運でしかありません。本当に凄いことなんかないんです……あ、あの、よければどうぞ。ここではなんですので」

 こういった接触は、普段なら丁重に断り、追い返すところだが、不思議と咲牙を受け入れる希守がいた。人柄がよさそうに見えたのか、はたまた自分のことを称賛してくれる相手に気をよくしたのか。

 505号室に入っていくと、まず中央に設置されているベッドが目に飛び込んでくる。そこには上半身を起こした女性がいた。その目に眼鏡をし、手にした本に目を落としている。

 希守はその女性に声をかけた。

「母さん、ご心配をおかけしました。これから退院いたします」

「……ああ、希守。よくきましたね。ほら、こっちへおいで」

 ベッドの女性は、あまかわひとみ。希守の母親である。灰色のパジャマ姿で、半分以上白くなった髪の毛を大きく揺らして、ベッド脇に置いてあった飴の袋に手を突っ込む。

「ほら、飴だよ。好きだよね、お前。どうしたの? 遠慮なんかするもんじゃないの。ほら、おいで」

「あ、はい」

「えーと、他には何かあったかしら?」

「…………」

 振り返ると、咲牙は『隅で待ってるますから』というように手を小さく振った。お辞儀して、ベッド脇へと移動する。

「今回は一週間も入院することになりましたが、ようやく退院できます。ですから、今日から仕事に復帰したいと思います。これからも月絵国のために、懸命に精進していきます」

「そうだよ。あなたは父さんと母さんの息子なんですから、しっかりこの国のために働くのですよ。そのために、決して努力を惜しんではいけません、常に全力を出して取り組んでいくのです」

 瞳子は機嫌よくにっこりと微笑んだ。小さな丸い眼鏡の奥は、とても細いものとなっている。

 と、次の瞬間、その目はどこか遠い空を見つめるみたいに虚空を彷徨っていく。

「……この国は、もうあんな過ちを繰り返すわけにはいきません。そのためにも、希守はしっかりするのです」

「はい、肝に銘じております」

「もう争いは、たくさんです……」

 瞳子はどこでもない虚空を目に、小さく長い息を吐き出した。そうして、当時を思い浮かべるようにゆっくりと口を開ける。

「あんなの、人が生きていていい世界ではありません……」

 その身が体感した、目を塞ぎたくなるほどのおぞましい記憶を、惨劇を、心の奥底より少しずつ紡いでいくようにして、多くの言葉をつなげていくこととなる。

 常に死という恐怖が漂っていた、残酷な世界の話。


       ※


 月絵国は、二十九年前の敗北宣言まで戦争をしていた。戦争は世界規模の大きなもので、小国である月絵国ではとても勝てる見込みなどなかった。そんなこと少し考えれば子供でも分かることなのに、開戦に踏み切ったのである。戦うことが、月絵国に残された唯一の選択肢であるように。それこそが唯一の正義だと疑うことなく。


 月絵国内に戦火が徐々に拡大していく大戦中、瞳子は月絵国中央地区にある弾薬工場で働いていた。学校の体育館を改造した工場で、毎日右側から流れてくる筒状の薬莢に火薬を詰めて左へ流していくのが主な仕事。そうすることが、月絵国のためになると、その先に自分の幸せが待っていると信じて、毎日精を出した。

 国は戦争しているのである、子供であろうと学校に通うことなく、みんな国のために働いた。それもすべては世界規模を巻き込んだ大戦に勝利するために。

 当時の月絵国民は戦争に負けることなどこれっぽっちも考えられなかった。国王からもそう告げられていたし、反対のことを口にする人間がいなかったから。ただ自国の勝利を信じて働くのみ。

 けれど、『そのように信じさせられてきた』というのが正しいかもしれない。月絵国民であれば、自国が敗戦するなどという弱気、口が裂けても言えなかった。そんなことをしてしまえば、大人によって粛清されてしまうから。

 瞳子は、工場に向かうバスでは常に国歌を熱唱し、月絵国が勝利だけを信じ、そう信じることに縋って毎日働いた。

 子供の仕事とはいえ、仕事は大人と同じ内容であり、決して楽なものでない。労働時間は朝八時から午後五時まで、ずっと立ちっぱなしで、仕事後は腰痛に悩まされることとなる。しかし、それも慣れが解決してくれた。

 朝、工場に出勤し、作業台の前に立って作業を開始する。作業に没頭していると、いつの間にか太陽が高くなり、昼食となる。軽い昼食後にまた作業に没頭し、気がつけば西の空が赤く染まり、どうにか一日の勤めを果たすことができる。その間、作業に関すること以外、考えるということを放棄するみたいに、淡々と手を動かしていった。右から流れてくるものを処理し、左へと流す。まるで作業ロボットにでもなったように。

 勤めている工場は月絵国中央地区の北部で、校舎を改造したことが功を労してか、これまで一度も空襲の被害に遭うことがなかった。

 その工場に勤めて五年目となる瞳子、子供としては『年長者』ということで、他の若い子から相談を受けることが多かった。工場で働いているのはほとんどが十代の女子で、当時十九歳の瞳子はみんなのお姉さん役として頼りにされたのである。

 仕事をしていると、突然工場内に危険を知らせる警報が響くことがある。配属になったばかりの人間は怯え、慌てふためくのだが、慣れた人間からすれば日常茶飯事。けたたましい警報音にも瞳子は冷静に対応し、念のために作業台の下にみんなを誘導しつつ、頭を抱える。五分もしないうちに警報は途切れ、再び作業に戻っていく。

 そうして瞳子たちは、自身の身を守りながら、敵国の兵を殺すために存在する弾薬を作製していく。それが瞳子の戦中での生活であった。


 ある夏の日。

 その日も家から持参した昼食を済ませて、午後の作業に取りかかった。最初は慣れなかった火薬の匂いも苦になることなく、右から流れてくる薬莢を左へと流していく。その日もそれまでのように淡々と慣れた作業の繰り返し。

 そんな時、突如として工場内にけたたましい警報が鳴る。嘆息。瞳子は『またか』と思った。いつも誤報で、これまで一度だって外に避難したことはない。今回もそうに違いないが、誤報であることが確認されるまでは中断する決まりとなっている。

 周囲のみんなを誘導するように作業台の下へと潜った。みんな警報には慣れたもので、立ち仕事をしている途中でしゃがむことができるということもあり、緊張感もなく笑みを浮かべる女の子もいる。

 刹那! 工場の建物が大きく揺れた。それは建物全体が巨人によって揺り動かされているように。地の底から轟いてくる激しい爆音とともに、工場のガラスが一斉に割れた。

 その瞬間により、警報音が響いていた工場内はパニック状態。警報は毎度のことで、危険に対する緊張感が薄かった分、混乱は極限までに達していた。各所から空間を裂くように悲鳴が上がり、次々と棚が倒れてくる。工場には百人以上が働いていただが、突如として置かれた状態に、奇声を上げている者、膝を抱えて放心している者、腰を抜かして身動きができなくなった者と、うまく対応できずにいた。こういう状況を想定した訓練はちゃんとしていたが、何の役にも立たない。

 瞳子も例外ではなく、周囲の混乱の渦にどっぷりと呑み込まれてしまう。脳には黒い多くの毛玉のようなものが飛び交うようで冷静になれず、直面した状況に対してどうしたらいいか分からずに、隠れている作業台の下でじっと膝を抱えていること以外、やれることがなかった。全身からは大量の汗が噴き出してくる。

 目の前に、天井にぶら下がっていた照明が落ちてきた。音を立ててガラスが割れ、工場内の光を乱反射させるように散乱。

 壊れた照明を目の当たりにした瞬間、瞳子の心がぱっと弾けた。命ある者としての『ここにいてはいけない!』と本能が働く。現状に命の危険を感じたのだ。瞳子は隣にしゃがみ込んで放心状態だった十五歳の女の子の手を引き、出口を目指すことに。

 瞳子が作業していた場所は工場中央部で、東西にある出口のどちらからも離れていた。床には割れたガラスや作業台から落ちた工具、木材も散乱しており、覆われる空気は埃と煙でひどく濁んでいる。この工場は弾丸を製造している以上、火薬を扱っている。下手すると発火、爆発する危険性すらあった。一刻も早く外に避難しなければならない。

 動き出した足は西口に向かうも、その時はもう逃げ惑う人で工場内は蜘蛛の子を散らした状態にあった。人の波が荒れ狂っているみたいに。出口に辿り着けないのではないかと不安になる。

 そうしている間にも、心臓を圧迫する激しい爆音が轟いた。割れたガラス窓から激しい熱風が吹き寄せ、煙の匂いと目に映った炎の色を目の当たりに、絶頂の恐怖のために全身ががくがくがくがくっ震える。瞳子はつないでいる手を強く握り、奥歯を噛みしめながら女の子の手を引いて工場内を移動。工場内にいては危険である、まずはとにかく外に出ることが先決だった。

 乱雑した棚や工具、光に反射する多くのガラス片、そして錯乱している多くの人間を視界に捉えながら、抑えることのできない体の震えをぐっと歯を食い縛り、鞭打って足を動かしていく。倒れている棚を大股で越え、逃げていく少女に肩をぶつけられつつも、垂れ下がったコードに首を窄めて……どうにか出口に辿り着くことができた。刹那、『これで助かる!』と思った。いつ爆発するとも限らない工場内から脱出することができたから。

 ほっと一安心である。


 工場を出てすぐの場所に防空壕がぽっかりと口を開けていた。避難すれば安全を確保できるのだろうが、しかし、すでに定員となっており、入ることができない。

 手を引いた女の子はぎょろぎょろっと落ち着かない怯えた目で、置かれている現状を理解できないのか、目の前の現実を認めたくないのか、ただただ首を横に振っている。まともな思考もすることができないぐらい精神的に疲弊していることだろう。

 不思議なもので、瞳子は自分よりも混乱している女の子を見ていると、冷静さを取り戻すことができた。さっきまで頭を占領していたごちゃごちゃしたものが、すーっと消えていったのである。

 工場周囲に用意された防空壕は五つ。一番近いのは、南方にある小屋の向こう側だった。材料が置かれている小屋で、すぐ横に防空壕があるのである。

 女の子に励ましの声をかけながら、駆けていく。眼前は大量の土煙が立ち込めており、視界がほとんどない状態。それでもさきほど見えた小屋に向かって懸命に駆けていく。そこには、手を引いている女の子のため、普段にない勇気を出せている瞳子がいた。

 耳にまた爆音が響いてきた。間近で打ち上げ花火を見るように、音が耳を貫くようで、心臓がびりびりっ痺れてしまう。

 こんな場所で死ぬわけにはいかない。瞳子はまだ十九歳である。まだまだしたいことが山ほどある。育ててくれた両親にだってちゃんと孝行しなければならない。

 駆ける。駆ける。駆ける。駆ける。

 視界は黒煙と土煙が入り混じっており、十メートルの距離が遥か遠くに感じた。

 そうして女の子の手を引き、決死の思いで小屋近くの防空壕へと辿り着く。その時はもう顔面が汗だくで、どこでついたか定かでない煤で作業着が真っ黒だった。防空壕はまだ充分入るスペースがある。手を引いてきた女の子を先に入れ、自分も避難しようとした瞬間、突如として迫ってくる熱を感じた。振り返ると……愕然となる。

 さきほどまでいた工場からは激しい火柱が上がっていた。それはもう荒れ狂うほど強烈に、炎が空に向かって暴れていたのだ。

 刹那、頭に過るのは工場内に残っているたくさんの少女。作業台近くで膝を抱えていた少女は助からないだろう。そう思うと、自然と唇を噛みしめる瞳子がいた。

 視界の隅に、どこか怪我をしたのか、倒れて動けない女の子がいる。瞳子は避難するはずだった防空壕に背を向け、その女の子の元へと歩み寄っていく。もう安全な場所に辿り着いたのだ、だとしたら一人でも多くの人を助けてあげたい。その一心で防空壕に入ることをやめ、女の子の元へと小走りで向かっていった。


 その選択が、未来を生きる者としての大きな分岐点となることを知る由もなく。


 尻餅をついたまま半べそ状態の女の子は、どうも足首を捻ったようで身動きできずにいた。とても一人では歩けそうにない。涙を浮かべる表情は痛みと恐怖によって恐慌の色が濃く出ている。

 瞳子は支えるように肩を貸し、なるべく負担をかけないようにゆっくりとした足取りでさきほどの防空壕へと向かっていく。慌てることなく、ゆっくり、ゆっくり。

 刹那! 強烈な閃光が瞬いた。爆光は目の前を真っ白に染め上げ、次の瞬間、前方にあった小屋とともに、防空壕が跡形もなく破裂した。それは上空を覆う戦闘機より投下された爆弾によって。

 すぐさま爆圧が襲いかかってくる。瞳子は、咄嗟に顔を両腕で隠そうとするも、前方二十メートルに爆弾が投下されたのでは、襲いくる爆風に踏ん張ることなど不可能だった。

 瞳子の足が地面を離れたと思ったら、三十メートル後方まで一気に飛ばされてしまう。まともな受け身を取ることができずに、地面に背中をしたたかに打ちつけた。息が止まる。

 刹那、意識が消えるように遠のいていく……のだが、それを許すわけにはいかない。そんなことになれば、もう二度と目覚めることができないと思ったから。瞳子は重たくなる瞼を気力で持ち上げた。打ちつけた背中を庇いながら立ち上がろうとするも、流れてきた黒煙が視界を奪っていく。視界を奪われた絶対的な恐怖が瞳子の全身を雁字搦めに縛りつける。

 もう駄目だった。こんな場所、とても生きている人間の世界ではない。ここにいては死んでしまう。このままでは死んでしまう……けれど、絶望するわけにはいかなかった。なぜなら、瞳子は生きなければならない。生きて、未来を見つめなければならない。魂の奥底から溢れる思いは『幸せになりたい』という渇望。こうして生きている以上、幸せを掴むだけの権利がある。ここで終わりなんて、そんなの受け入れられるわけがない。

 世界がどうなろうとも、自分は生きて未来を掴もうと願った。もう後ろを振り返ることはしない。どんなことがあっても、生き抜いてみせる。もう他に目を向けることはない。関係ない。自分以外の命など関係あるはずがない。

 生きたい!

 生きていきたい!

 自身の奥底から湧いてくる衝動のまま、瞳子は軋む体を鞭打って立ち上がる。それからは一切のよそ見することなく、ただ真っ直ぐ前を向いて突き進んでいく。

 近くには地面に座り込んで泣きじゃくっている女の子がいる。気にしない。そんなのを気にしている場合ではない。

 爆発の影響で、全身に大量の血で染まった少女がいる。知ったことではない。大きく首を振ることによって振り切っていく。

 左腕が焼けただれた人間が横たわっている。もはや視線を向けることもしない。ただ今は真っ直ぐ前を見つめるのみ。

 瞳子の前には、爆発に巻き込まれ、破片となった人の成れの果てがたくさん転がっている。そんな場所、決して生きている人間が足を踏み入れていい世界でない……躊躇は生まれなかった。迷うことなく突き進んでいく。どんな場所だろうとも関係ない。死者を踏み越えても自分だけは生きる。生きてみせる。

 後ろ髪を引かれる強い気持ちを振り切って、ふとした拍子に零れていきそうな数々の感情を奥底へと閉じ込め、今は一心不乱に足を動かしていく。

 走って走って走って走って、ただ真っ直ぐ前を向いて走り抜けていき……目の前に用水路が見えた。見えた瞬間、幅二メートルほどの水面に頭から突っ込んでいく。

 緩やかに流れる水面に飛び込むと、全身に激痛が走った。これまでに負った傷ややけどによって水が物凄く染みたのだ。その痛み、思わず涙が零れ落ちたほど。けれど、水に浸かることにより、火照っていた全身を冷やすことができた。

 これで落ち着けるかもしれない。そう思った瞬間! またしても閃光が世界を染め上げた。同時に、轟音が耳をぶち壊さんばかりに襲いくる。

 世界を染め上げる閃光、瞳子は咄嗟に水中に頭を隠した。そうして潜水したまま移動していく。三十秒と息がもたず、水面に顔を出しては、一歩でも離れるために用水路の水に浸ったまま歩いていく。

 この用水路がどこに向かっているか定かでないが、考えている場合ではない。とにかく今はこの場所から離れることが先決である。そうしないと死んでしまうから。

 瞳子は、とても自分のものとは思えない重たい体を引きずるように、絶望の世界を歩いていく。


 視覚的に光を得ることができた。だからこそ、重たい瞼を上げることができる。

 いつの間か眠っていたらしい。恐怖が緊張を超越した極限状態でずっと体を動かしていたのだ、体力の限界とともにその場に倒れ込んで意識を飛ばしたのだろう。

 目に飛び込んできた太陽は、これまで見たどれよりも深い赤色をしていた。この世のすべてが燃え盛るような凶暴さを有しているよう。その色が徐々に薄まりながら、青い空に昇っていく。

 日の出。生死の狭間に身を置いたような、壮絶なまでの辛い目に遭っても、こうして太陽が顔を出してくれる。新しい一日のはじまり。絶望的な闇を抜けて、再び朝を迎えることができた。

 その口が空気を吸っては吐いて、そう正常に繰り返していることを意識しながら、辺りを見渡してみるも……どこだか分からない。周囲には人工的な建物はなく、背の高い雑草がたくさん生えていた。

 起き上がる。立ち上がる。意識して大きく息を吸い込んでいく。ここには火薬の匂いも立ち込める黒煙もない。脱力するように、ゆっくりと息を吐き出した。

 喉が渇いており、すぐ横に用水路がある。行儀なんて思案する間もなく、瞳子は用水路に顔を突っ込んで、ごくごくっ飲んだ。用水路の水は多少茶色く濁っていたが、気にしていられなかった。

 水は流れていく。瞳子は流れに沿ってここまで歩いてきた。であれば、上流に向かえば工場に戻ることができる。

 空を見上げた。そこにはここに辿り着いた経緯をきれいさっぱり流してくれるような、気持ちいい真っ青な空が広がっている。

 瞳子は、多くの雑草が生える道ですらない場所を、こうべを垂れながら引き返していく……背の高い草は瞳子の胸ほどあり、歩きにくい。加えて、足取りはとても重たく、その頭で昨日ことを思い返す度に、涙が零れてくる。それでも足を止めることはない。歩いていって歩いていって歩いていって歩いていって……その間、工場で一緒に働いてきたみんなの顔が次々と浮かんだ。そこに昨日の惨劇で見た多くの死骸が次々と交錯し、みんなが次々に死んでいって……黙々と歩を進めていく。その胸を大きく痛めながら。『希望』という光など、この世のどこにもないことを痛感しつつ。


 太陽が一番高い場所に位置する頃、瞳子は昨日まで五年間働いてきた工場に戻ることができた。

 戻った場所は、まさに地獄絵図。

 鉄が焼け焦げた匂いが鼻にまとわりつき、昨日まで働いていた建物はすっかり燃え尽きている。多くの残骸が点在する地面に、たくさんの死体が無造作に転がっていた。大人の男性が多くの死体と、もはや肉片でしかない物体を次々に荷台に乗せ、工場の隅に重ねていく。淡々と繰り返し、死体の山ができていく。それは人間の亡骸を扱うというより、散らかったごみを処分しているみたいに。

 呆然とした。目の前の光景に、思わずその場に膝から崩れてしまう。こんな世界、嘘だと思った。ここに人が生きていいわけがない。地面が割れて、どこまでも落ちていくような絶望を得た。

 誰だって死にたいと願ったわけでない。生きていたかったはずなのに、死がそこらに転がっている。知った顔もある。腕がなくなったのもあれば、顔が破裂したものもある。

 直面したこの世の真実に、到底生きていられないと思った。


 働いていた工場は空襲によって崩壊した。破壊力は破滅的なもので、生存者の確認もろくにできない状態にある。惨状を目の当たりに、瞳子は放心したかもしれない。焦点が合わせられない瞳のまま、ふらふらっと歩みを進め……気がつくと実家に戻っていた。『家族のことが心配』という名目だが、そんなことはない。家に帰った理由、それは自身を落ち着かせる時間がほしかったから。安心できる場所で、砕けていった心をゆっくりと修復したかった。

 家は無事だった。家族も無事だった。柴犬の『ごん吉』が自分を見つけ、勢いよく尻尾を振って吠えてくれたこと、それでようやく張っていた力を抜くことができた。長い時間緊張感を持続していた反動で、玄関に到着した直後に倒れてしまう。

 それから一週間、高熱を寝込むことになる。ただただ心配する家族の顔に囲まれつつ、布団で横たわって高熱にうなされた。

 実家に戻り、体調を整えるように静養をして……そうして二週間もするとどうにか生活に支障がないぐらいには体調が回復した。しかし、そこには外出することを避けている瞳子がいる。

 もう空を覆う戦闘機を見たくない。焼けた地面の匂いを嗅ぎたくない。人が人でなくなった破片を目の当たりにしたくない。外は危険、いつ爆弾が降ってくるか分からない。だから、家で無気力に日々を過ごすことしかできなかった。


 数日後、大国の巨大戦闘機によって中央地区に大きな爆弾が落とされた。とても大きな爆弾で、一帯にあった建物すべてを一瞬にして吹き飛ばしたほど。死者の数は何千人にも及んだ。

 爆弾が投下された三日後、月絵国の国王は爆弾が投下された地域を視察し、ある決断を下す。夜にはもう全世界に向けて発信された。

 国王の敗北宣言。

 国民全員が『絶対に負けるはずがない』と信じて込まされてきた月絵国が、敗北を認めた。


 瞳子は、その宣言を家族とともにラジオで知る。敗戦なんて、最初は信じられなかったが、しかし、工場を木端微塵に破壊された光景が頭に過ると、すんなりと受け止めることができた。

 国全体は敗戦による絶望の淵に沈んでいる。国のためにと戦ってきた結果が、これ。だからこそ、瞳子はもう国のためではなく、自らの幸せを謳歌することに決めた。周囲のことなんか関係ない。ただ自分自身のために生きていく。

 そうして戦後は自身の幸せのために費やすようになり……そんな瞳子だったからこそ、どれだけ周囲に反対されても、強引に押し切ってある人と結ばれた。

 一年後、その人との間に、希守が誕生することとなる。


       ※


 さきほど病院を後にしたばかり。入院しているときの着替えが詰まったスポーツバッグを肩からぶら下げた希守は、すっかり寂しくなった何十本という桜が並ぶ川沿いの道を西方に向けて歩いていく。すぐ隣には片側二車線の道路があり、乗用車が次から次に後ろからやって追い抜く。

 退院した。まだ全快というわけでないが、日常生活に支障はない。そんな希守には部下と呼べるような人間がいて、職場に向かうなら出迎えを依頼することもできた。しかし、その選択はしない。自分のために部下の業務を中断させるなどと、発想すらなかった。だからこそ、こうして徒歩で職場である警察署まで向かっている。

 歩いていると、多くの通行人と擦れ違った。希守が小さくお辞儀すると、相手は面食らったように目を見開き、そそくさと歩いていく。

 太陽は高い場所にあった。どこかで昼食を取ろうと考えたが、空腹を得ているわけでない。まずは職場に戻ることを優先した。

 前方には銀色の電車が南へと走っていったばかりのコンクリートの高架がある。希守はその下を潜って進んでいく。十年ほど前まではこのような高架はなく、踏切によって電車が通る度に足止めされていた。それが今では中央地区の線路はほぼすべて高架になっている。交通渋滞は随分と緩和されていた。凄いことである。

 高架の柱の近くにはバスケットゴールが設置されており、今は誰もいないが、夜にはきっと若者が集る場所なのだろう。

「…………」

 さきほどまでの母親のことが頭に残っていた。母親はああしていつも戦争のことを話してくれる。しかし、辛い生活を思い出すようで、興奮して血圧が上がってしまう。最後には呼吸を乱しながらも顔を赤くさせて今の平和の大切さを訴えてくる。

 こちらに手を伸ばし、そこにある幸せを掴もうとするようにして。

 そんな母親に対して、希守は力強く頷き、やさしく微笑みながらベッドに寝かしつけていく。母親は平和を望んでいる。希守はその母親の願いのために警察官になった。つまりは、この月絵国の平和を守るために存在しているのである。

「…………」

「今日はまた、随分冷えますね。今月に入って一気に冷え込んできたみたいです。まだ雪が降ることはないでしょうが、この分だと時間の問題ですね。お恥ずかしい話、寒いのはなんとも苦手でして」

 希守の隣、一緒に歩を進める薄茶色のソフト帽を被った咲牙。黒いコートの襟を直して、小さく息を吐く。

 咲牙は、病室での希守と母親とのやり取りを聞いていた。年代としては母親と同世代、つまりは二十九年前に終戦した大戦を体験した世代である。

「考えてみますと、本当に平和な世の中になったものです。まだ世界の各地では争いが絶えることはありませんが、それでもこの月絵国の平和を守っていくこと、とても大事なことだと思います。その点、天川君はとても優秀だそうですから、さぞかしお母上も誉れにお思いなのでしょうね」

「いやいや、僕なんか、とてもとても」

 戦後二十九年という今の時代、世の中がこれほど平和なのに、事件は絶えることがない。希守はそれらすべてを解決していかなければ真の平和は訪れないと考えている。

「治安維持のために、これからも精進あるのみです」

「このような話をすることができている、今の時代があることが、あの頃からは信じられないぐらい平和な世の中になったものですよ。天川君の年代は戦争を知らないでしょうから、ぴんっとこないかもしれませんが、あの頃は今の当たり前が当たり前ではなかったですからね」

 睡眠や食事、勉学に平和といった、今では当たり前に存在するものですら、当時はまともに行うことができなかった。それが戦争だったのである。あの頃からすれば、今こうして存在している平和な世界など、夢のまた夢のよう。

「この時代を生きていられること、感謝しなければいけませんね」

「今あるこの平和を、なんとしても守らなければなりません……そういえば、大戦のとき、咲牙さんは内地にいたんですか?」

「いえいえ、私はだいたい戦地に赴いていたました。特に終戦間際は最前線といいますか……ミッドゥルースに駐在していました」

 ミッドゥルース島は、月絵国と対立していた大国の北西部に位置する小さな島。

「役割としては、主に補給部隊でしたが……あそこでのことは、もう思い出しただけで胸が苦しくなります。悲惨なものでした」

 国から勅命としては、大国へ攻め込む足がかりとして、ミッドゥルース島に拠点を構えること。それに準じて作戦が立てられたが……作戦は失敗に終わる。

「ミッドゥルース島は、月絵国とはあまりにも環境が違い過ぎました。島を覆うようにしてある樹木は青々とした広葉を茂らせ、どれもが蔦を垂らして蔓をまとっていましたね。私たちからは見るからに奇怪そのものでしかなかったわけですよ。あれなら、近くにある大国が占領しようとしなかったのも頷けます」

 亜熱帯地帯であり、密林が島の八割を占めている。人工的な建物はなく、部隊はテントを張るなり、洞窟を見つけて拠点となる基地を構えようとした。しかし、慣れない月絵国兵では過酷な環境に順応することができず、上陸作戦をする予定だった相手国のことはもちろんのこと、拠点を構えるという作戦すら二の次となってしまう。

「あの環境下で生き延びていくことで、もう必死でしたね。他のことなんてとても考えられませんでした」

 一番の過酷さは、月絵国には存在しないマラリアの存在。上陸した直後、すぐに多くの軍の多くが四十度近くの高熱に襲われ、次々と倒れていく。熱帯地方とは縁のない月絵の人間にとって、襲われる高熱がいったいどういったものなのか皆目見当もつかなかった。四十八時間置きに高熱を繰り返す原因不明の症状に、ミッドゥルース島の呪いであると言い出す兵士がいたぐらいに。

「マラリアはご存知ですか? この国ではまず発症することはありませんね。あれはですね、が、その高温の周期と一致しているわけです。周期の時間は四十八時間や七十二時間とさまざまですが、ミッドゥルース島のは四十八時間でした。ようやく熱が引いたと思ったら、またその二日後には高熱に襲われるわけです。どうにも対応できませんでしたね」

「えっ、成長する時間……?」

 希守の目をぱちくりっ。信じられないことを耳にしたように。

「そ、それってのは、えーと……原虫っていう虫が人間の体内で育つってことですか?」

「そうですよ。原虫が血中を出るときに赤血球を破壊するわけです。この時、発熱現象が起きます」

 そうした正体不明の高温に襲われたとしても、何も処置することなく時間さえ経てば一旦は熱が下がる。だから、つい油断してしまう。処置としてすぐに治療しておかないと、どんどん重篤な状態に陥り、一般的には三度目の高熱で大変危険な状態になるのだった。

「肝細胞内で休眠して、長期間潜伏することもあります。これがまた厄介でしたね。まあ、当時は分かっていませんから、ただあたふたすることしかできませんでしたけど。なんせすべてが手探り状態だったのが、あの島での生活でしたから」

 小さく視線を上げる咲牙。

「自軍は一人、また一人と倒れていきました。顔を赤く変色させ、皮膚がかさかさに乾燥していきます」

 弱りきった体では、些細な傷からでもばい菌が入り込み、致命傷になることも多かった。しかも抵抗力を失った身では、壊疽えそする前にその部位を切断するしか治療の手段がなかったのである。

「国内の情勢が悪化したようで、早々に救援物資が届かなくなりましたから、食糧を現地で調達するしかないのですが……そうできるだけの元気ある人間が少なくてですね、慣れない土地のために食糧を確保することもままなりませんでした」

「どうにもならないですね。すぐ撤退されたのでしょう?」

「口には出しませんでしたが、誰もがそう思っていました。『こんな場所に拠点基地を作るなんて不可能だ。早く国に帰りたい』って。けれど、そんなこと口にしたら軍の命令に背くこととなり、刑を受けることになりますので、誰も言えませんでしたね」

 羽織ったコートを揺らす風が吹いた。咲牙は被っている薄茶色のソフト帽をアルミケースを持っていない左手で押さえつつ、小さく首を横に振る。

「けれど、我々はまだましな方でした」

 郵便局の前を通る。母親と手をつないだ就学前と思われる小さな男の子が、背伸びをして赤い郵便ポストに手紙を入れていた。

 その男の子が希守たちの方を向き、表情を止める。不思議なものを目の当たりにしたように口をぽかんっと開けた状態で。そのままゆっくりと母親の陰に隠れていった。

 咲牙はその行動の意味するものを察するも、真意には触れようとせず、言葉をつなげていく。

「大国への潜入作戦も同時進行で行われており、潜入部隊は、ミッドゥルース島に覆い尽くす密林を越え、大国へ上陸する作戦を命じられました。けれど、もちろんうまくいきません。そのはずですよね、一箇所に留まり、拠点基地を建造するための我々が生きていくだけで精一杯だったわけです。なら、島を横断しようとした彼らの作戦は無謀でしかありませんでした」

 命令された上陸作戦のために密林を進んでいくも、すぐに原因不明の高熱に襲われて足止めを食らう。当初の予定では五日間で島を横断し、大国へ上陸作戦に移行するはずだったが、結局二日目で動けなくなり、一か月間も密林から出られなくなっていた。

「当然食糧は底を尽きます。誰もがその場に横たわり、身動きもやっとの状態で、生い茂る密林に囲まれながら一歩も動けなくなってしまいます。現地には猿や小動物もいたそうですが、そんな状態ではまともな狩りもすることができませんね」

「とすると、その部隊は全滅しちゃったわけですか?」

「いいえ、全滅は免れました。命からがらに数人は生還しましたから。幸運と呼べるようで、実に残酷といいますか……」

 食料が底を尽き、現地調達もできずに移動することもできなくなった絶望的な状況下にあった潜入部隊が、どうやって帰還することができたのか?

「空腹が絶頂に達したとき、突然そこにのです。それを食らい、命をつないで地獄から生還することができたわけです」

 そこに見つけた肉に、全員が群がるようにして。

「生還したといっても、その目から生気が失われていましたがね」

「へー、それは過酷でしたね」

『もし自分がそんな状況に追い込まれたらどうか?』という想像をして、思わず身震いする希守。

「それにしても、どうにもならない状況下で、いきなり目の前に肉が出てきたんですか? 密林に肉が現れたなんて、まるで夜空に浮かぶお月様が助けてくれていたみたいですね?」

「いいえ、それは違いますよ」

 咲牙は静かに首を振る。

「戦場には月も神もありません。待ち受けていたのは凄絶たる現実で、祈ったところでどうにもなりません。敵が現れれば銃撃し、腹が空けばどうにかして食糧を確保しなければならない。そんな漠然としたものに縋ることなど、ありませんから」

「でも、生き延びられたんですよね?」

 それも目の前に肉を見つけて。

「間抜けな猪が木に激突でもしたんじゃないんですか?」

「いえいえ、違います。そんな牧歌的なことだったら、笑い話になるのですが、現実には、切り株を見ていたところで兎が飛び込んでくることなんてないのですよ」

 一回の呼吸分、咲牙は間を置いた。口にすべきかどうかを逡巡するように。けれど、次の瞬間には言葉をつづけていく。隣にいる相手に対し、そうすることを選んだかのごとく。

「確かに潜入部隊は思わぬところに肉を見つけました。それを食らうことによって生き延びることができました。ですが、そんなこと、『今を生きる人』には到底受け入れられるものではないでしょう。きっと嫌悪され、邪見に扱われるに決まっています。だからこそ、その事実は歴史から抹消されました」

 そんな事実、なかったことにされた。

「ミッドゥルース島の作戦そのものが、最初からなかったことになっているのです」

「ど、どういうことです? 記録に残せないようなことが起こったわけですか? あの、いったい何を食べたっていうんです?」

 密林で足止めを受け、食糧が底を尽いた部隊が見つけた肉とはいったい何だったのか?

「教えてください」

「……その、聞いてもあまりいい思いはしませんよ」

 咲牙の瞳が鈍い色となる。けれど、相手がさらに要求してくるのであれば、言葉をつづけるしかない。

「肉というものは、実はのです」

 凄惨な環境下でろくに身動きもできず、空腹で苦しんでいた潜入部隊だったが、考えてみればすぐそこに肉はあった。ただ、ずっとそのことに気がつかなかっただけで。しかし、気がついてしまえば、もう迷うことはない。我を忘れて食らいつくのみ。

 それは生き抜くために、命としての欲求に身を委ねるようにして。

「潜入部隊は、見つけたというよりは、とうとうそれを『肉』と認識したのですね。だからこそ、生き延びることができました」

 密林の奥底、生死の狭間で見つけた肉とは?

ですよ」

 自軍の人間。

「潜入部隊は人を食らったのです」

「…………」

「考えてみれば、人だって動物であり、肉ですからね。どれだけ痩せ細っていても、肉はついています。だからそれを食らったわけです」

 絶頂の空腹から発せられた、自身を支配する欲求に抗えず、自軍の若い者を殺し、目の色を変えた兵がそこに群がるようにして。

 食べた。

 人間を。

 自分が生き延びるために。

「この豊かな時代にいる天川君には信じられない話でしょうね。仲間を食べたなどと、月絵国民として冒涜に等しいです。この時代であれば、社会から徹底的に拒絶され、もちろん法律に触れて罪は免れないでしょう。けれど」

 けれど、時間も場所もここではない、戦中のミッドゥルース島。あの極限の地で、生死を彷徨う状態では、現代の倫理なんて適応されない。

「あの場では、それこそが正義なのです。でなければ部隊は全滅してしまいます。生き延びるためには食べなければならなかった。仲間だろうがなんだろうが、死ぬよりは食べて生き残ること、それが正しいことになったのですよ」

 生きることにしがみつくこと、それがミッドゥルース島へ上陸した部隊の果てであった。

「あの島には月も神も存在しませんでした。けれど、世にも恐ろしい悪魔は蠢いていたわけです」

 人間の理性を木端微塵に破壊してしまう残虐な悪魔が。

 そしてそれに誰もが抗う術を持ち得てはいなかった。

「…………」

「…………」

「……なんだか、妙な話になってしまいましたね。おかしいです、こんなはずではなかったのですが」

 病院から歩いてきて、全長三十メートルほどの橋に辿り着いた。赤い鉄橋で、手摺りと手摺りの向こう側に水面が見える。

 咲牙は、川上の方に顔を向け、桜並木の間を流れてくる水の音に耳を傾ける。マンションやビルが建ち並ぶ隙間に潜む小さな自然。

「いけませんね、天川君の母上の話を聞いたら、思い出したくもないことを思い出してしまいました」

 咲牙は気分を変えるために足を止め、川を覗き込んだ。両岸をコンクリートの壁が挟んでおり、多くの雑草が生えている。川幅は約十メートルで、緩やかな曲線を描いているために遠くまで見ることはできない。この川にはビルが建ち並ぶ月絵国中央地区の生活用水が吐き出されている。水は当然のように濁っていて、底を見ることはできなかった。

「この川も、以前は魚が泳いでいたのですが、そういうわけにはいかなくなったみたいですね」

「えっ!? ここにですか!?」

「はい。天川君には信じられないかもしれませんが、以前はほとんど建物がなくてですね、私が子供の頃は魚を捕ったものです」

 咲牙の目が今ではない遠い世界を見つめていく。それはさきほどの戦中よりもさらに古い、自然溢れる月絵国の情景。

「私が小さかった頃は、本当に自然豊かな国でしたが……戦争がすべてを変えてしまったのかもしれません」

 橋を渡る。直進していくと、信号のある交差点に辿り着いた。信号は赤であり、片側二車線の道路を次々と乗用車が通り抜けていく。

「戦中は、国民みんなが月絵国の勝利を信じ込まされてきました。それは月絵国中を巻き込んだ大規模な洗脳と呼べるものだったかもしれません」

『どんなに苦しい戦況であろうとも、夜空に月が浮かぶ限り、月絵国には『勝利』の二文字が輝いていく』

「あの島には人工的な明かりなんてありませんでしたから、夜の漆黒の闇に包まれて、みんなで月を眺めていましたね。月光によって、苦しい思いが洗われていくような気がして」

 けれど、実際にそんなことはなかった。月は月絵国民のために夜の闇夜に輝いているわけではない。凄絶な現実に、漠然とした神のようなものに縋りたい思いを滲ませて。

「ある晩、月を眺めていましたら、そこに小さな影ができました。『あれ、おかしいな?』そう思ったときはもう遅かったです」

 空からの月光を遮ったのは、爆撃機。月絵国の軍がミッドゥルース島にいることが大国に知られたのだ。爆撃機が空を覆い、夜空がちかっと光ったかと思った次の瞬間、次々と爆弾が投下された。

「投下される爆弾の雨に、多くの命が散りました。私はすぐに密林へと避難したので命を拾うことができましたが……翌朝、白かった砂浜には、自軍の死体がたくさん転がっていましたね」

 それはまるで、そうすることによって、この理不尽でしかない世界をより汚しているかのように。

 死という抗えない運命によって、この醜い世界に僅かばかりの抵抗を試みたかのごとく。

「あの光景を目の当たりに、思ったものです。『自分たちがやってきたことが、こんなにも悲惨な光景を作り出したなんて……もう国のために戦うのはやめよう。自分の幸せのために生きていこう。そのためにまず生活を豊かにしなければならない』ってね」

 それは敗戦を受け入れたときの月絵国民のほとんどが痛感したこと。だからこそ、国民は敗戦のショックに沈んだ心を奮い立たせ、輝く未来に向かって突き進むことができた。一心不乱に働くことで、もうあんな苦しみを味わうことがない世界を作り出すために。

 もう空腹で泣く子供がいなくなるように。

 二度とあの争いを起こさないために。

 みんなが笑って暮らしていける世界を築き上げていく。

 自分たちの幸せを願って。

「働いて働いて働いて働いて……気がつけば、この国はこれだけ豊かになることができました」

 戦後の急成長は、『復興』という言葉を通り越し、高度成長期を経て、月絵国は敗戦した大戦以前よりも豊かになることができた。これでもう空腹で泣く子供はない。目の前で多くの死が訪れることもない。みんな笑顔で暮らしていくことができる。

 それは、戦場で思い描いた月絵国民すべての願いだったかもしれない。

 国のために戦うことを、放棄して。

 自身の幸せを築いていった。

「思ってみれば、なんとも酷い話ですよね。戦中は『国のために戦うこと。一人でも多くの敵軍を殺すこと』が正しいことだと信じてきたのに、それを未来の自分たちが否定しているわけですからね」

 過去に信じてきた正義が、あろうことか未来の世の中では悪と見做されている。であれば、偽りの正義を信じてきた自分がいること、なんともやり切れない思いになる。

「私は両親がすでに他界しておりましたし、戦後すぐに妻にも先立たれました。子供にも恵まれませんでしたし……ですから、この国の成長を見届けると、のんびり他国へ旅をすることにしました。いろんな国を見て回りたかったのです。なんせ、もう国のために自分がいるわけじゃない、自分のために自分がいるわけですから」

 信号が青になった交差点を渡っていくと、昼食ために会社を出てきたであろう多くの背広姿の男性と擦れ違う。歩いていると、多くの人間がこちらを振り向いてきた。いや、正確には咲牙の横を目にしていく。珍しいものでも見るように。

 腰を大きく曲げた老婆がいた。ゆったりとした黒色の上着を羽織っていて、大きな風呂敷袋を両手に、ゆっくりとした足取りでこちらに向かって歩いてくる。スピードは遅く、交差点を渡り終える前に信号が赤に変わってしまいそう。

 老婆の周囲にいる人間は、老婆がそこにいることなど見えていないように、次々と交差点を渡っていく。

 その事実、咲牙の目にも映っている。戦争を経験した先にあるこの国の有様を。

「私はね、天川君、こんな風になった国を──」

「あ、すみません、先にいってもらえますか?」

 まだ相手が喋っている途中だったが、希守は耳にかかる外跳ねの髪とコートを揺らしながら、老婆の元へと駆けていった。

「こんにちは、おばあちゃん。随分と大きな荷物ですね、お手伝いさせてください。赤になる前に、急いで渡ってしまいましょう」

 大きな風呂敷袋を受け取り、希守は老婆とともに交差点を逆戻りしていく。途中で信号は赤になったが、向かってくる車に手を上げながら丁寧に頭を下げ、どうにか交差点を渡り終えることができた。

 頭を何度も下げてお礼を口にする老婆に別れを告げ、信号がもう一度青になってから、向こう側に立っている咲牙の元に向かう。

「すみません、お待たせしまいました」

「いえいえ。感心しました。ああいったことは、簡単そうで、なかなかできることじゃありませんよ」

「そんなことありませんよ。こんなの当たり前のことです」

「その当たり前が当たり前じゃなくなっているのですよ、残念ながら。いったいどうなっているのでしょうね、世の中は?」

 交差点を過ぎると、十メートル先に高い壁が見える。コンクリートの壁は高さ二メートルほどの塀で、その塀に囲まれた十階建ての建物にやって来た。巨大な黒門には制服警官が二人立っている。

 希守が勤めている月絵中央警察署。

「おやおや、あっという間に着いてしまいましたか。思ったより早かったですね。お話しさせていただき、とても楽しかったです」

「こちらこそ、貴重なお話を聞かせていただきまして……改めて、この平和を守らなきゃいけないって実感しました。今日からまた尽力したいと思います」

「お仕事、頑張ってくださいね。もし私で力になれるようなことがありましたら、名刺の番号に電話してください。すっ飛んできますから。では」

「あ、はい。ありがとうございました」

 薄茶色のソフト帽を上げて、歩いていく咲牙の背中を、希守はスポーツバッグを肩にしたまま見送り……すぐに振り返る。そうしてそこにある黒門を潜って。

 一週間振りの職場復帰である。


       ※


 門に立つ二人に敬礼をしている間に、自分を追い抜いた人間は正面にある巨大な十階建てのビル一階、玄関ロビーに向かっていくも、希守はそれにつづくことはなかった。玄関ロビーに入っていくどころか、建物を迂回するように塀に沿って敷地内を歩いていく。

 前方に焼却炉があり、今も煙突から煙を吐き出している。奥には多くの銀杏の木が植えられていて、この季節は黄色く染まった葉を眺めることができた。もう少しすると、この辺りの地面には黄色の絨毯ができ上がるに違いない。銀杏ぎんなんが楽しみである。

 希守は、鉄筋コンクリートの建物を迂回していくと、敷地内の一番奥に建てられたプレハブが見えた。『月絵中央警察特別捜査部特別捜査G』という木製の看板を掲げた二階建て。

 見えた瞬間に口元を緩め、希守は小走りになる。たった一週間の不在だったのに、とても懐かしい。

(あっ、ごうさんだ)

 プレハブの前、青い袴姿の男性がいた。背筋を伸ばし、肩までの髪の毛を小さく揺らしながら、木刀を素振りしている。頭上から振り下ろす度に空気が切り裂かれ、顔からは汗が飛び散っていく。

 希守は再会が嬉しく、相手に気づかれないようにそっとその場にしゃがみ込み、小石を拾う。そして、大きく振りかぶり、投げた。

 放物線を描く小石は、こちらに背を向けている袴姿の男に向かっていく。そのままでは確実にぶつかることだろう。

 刹那! 目にも止まらぬ速さで空気を裂いた木刀により、宙を渡った小石が真下に叩き落とされていた。

(さすがは豪さん)

 ぱちぱちぱちぱちっ、希守は拍手。いつ見ても見事な太刀筋に感心するばかり。

「やあ、豪さん、お久し振りですね。相変わらず、鍛練に精が出てるみたいで、なによりです」

「おお、これは天川殿ではないか! そうか、今日が退院だったようであるな。めでたいことである」

 小石を叩き落とした際、相手を眼光だけで威圧する鋭い目つきをしていた袴男から、緊張を通り越して殺意にまで達していた刺々しさが、風船から空気が抜けるように消えていった。

 表情を和らげながら額の汗を拭って希守のことを見つめていく袴男は、けんごう。三十歳。希守が所属する月絵中央警察特別捜査部特別捜査Gに在籍している。

「天川殿がいないものだから、小生はどうやって時間を過ごしてよいのやら、やきもきしていたところであるぞ。さあ、命令してくれたまえ。小生はこれから何をすればいいというのであるか?」

「うーん、なんともおかしな話ですね、僕がいないからって、豪さんがやきもきする必要なんてないのに? だって、豪さんには鍛練があるじゃないですか? いざというときのために、いつだって鍛練は欠かすことができないですよ」

「こ、これは盲点であったぁ!」

 雷が直撃でもしたかのように、豪は全身をびりびりっと震わせたかと思うと、瞳をかっ! と見開く。

「そうであった、小生には鍛練があったのである。さすがは天川殿であるな。貴重な助言、恩に着る。ふふふっ、すべての悪は小生によって成敗されるのである」

「その調子ですよ。僕、上にいってますから」

 相変わらず鋭い眼差しで、木刀を目にも止まらないスピードで振り下ろしていく豪の姿を横目に、屋根のない剥き出しの階段でプレハブ二階へ。

 かんかんかんかんっ、踏み出す度に鉄製の階段が大きく鳴り、錆の色が目立つこの状態では、『いつ壊れてもおかしくないな』と思わせるのに充分な恐怖があり、いらない緊張を帯びてしまう。慣れでは克服できない問題であった。

(はー、やっと戻ってこれたー)

 入院期間は一週間。振り返ってみればたったの一週間なのに、前回訪れたのが遠い日のよう。

 目の前の扉。変哲のない擦りガラスつきのスチール製のもの。ノブを掴んで手前に引くと、剥き出しの電球の光が目に飛び込んできた。今はなんとも眩く思えるオレンジ色。鼻孔を刺激する埃っぽさがとても懐かしかった。

「ただいまー」

 手前には下駄箱用の棚があり、他には段ボールがたくさん積まれている。元々このプレハブは荷物保管用のもので、一部を改修工事して事務所にしていた。そのため、まだ処理できていない荷物がそのまま残されている。たくさん積まれている段ボール表面にはどれも厚い埃が積もっているものばかり。

 玄関から顔を伸ばして奥の方に目を移すと事務机が三つ並んでいた。希守たちの事務所である。しかし、今は照明が消されており、まるで終業後のよう。

 この玄関近くには間切り板に囲まれた応接室にソファーが設置されており、テレビの音が響いてくる。覗き込んでみると、知っている顔を見ることができた。

「ただいま、きあ瑠ちゃん」

 応接室には、青を基調とした白い制服姿のきあ瑠が、ソファーに寝ころびながらせんべいを口に銜えている。

 一週間前までは当たり前にあった光景が、なぜだか無性に愛しい。

「お疲れさま。ちゃんと言われた通り、事務所の照明消してから休憩してるみたいだね。えらいよ。採掘される資源には限りがあって、貴重なエネルギーは大切にしないといけないんだ」

「あー、天っちょ警部だったりそうじゃなかったりしちゃうかもしれなかったりするような気がしないことはない」

「……天川だよ、確実に」

「今日が退院だったりしちゃいます? あらら、知ってたこともあるようなないようでしたよ。退院おめでとうございます」

 小さくぺこりっと頭を下げて、きあ瑠は再びテレビに顔を戻す。日曜日の昼ということで、バラエティー番組の再放送が流れていた。

「とかく、おかえりなさいだったりしちゃいます。天っちょ警部、言ってくれればお迎えにいったかもしれないような、だったりしちゃいます。水臭いですよ」

「きあ瑠ちゃんならそう言い出すと思って、遠慮したんだよ。僕なんかのことより、みんなには仕事を優先してほしかったから」

 希守の言う『みんな』とは、ここにいるきあ瑠と外にいた豪のこと。この月絵中央警察特別捜査部特別捜査Gに所属するのは、たったの三人。グループ長が希守で、部下がきあ瑠と豪という少人数部署。いや、正確には、隣接する立派な警察署ビルから押し出された部署である。そうなっている原因は希守にあり、だからこそ、みんなには申し訳なく思っていた。ただ、その点に関して一切愚痴を零さない部下には、本当に恵まれている。

「留守の間、変わったことはなかったかな?」

「変わったことがあったかなかったかっていうと、うーん……」

 きあ瑠は銜えていた煎餅をばりっと齧り、視線を斜め上に向けて逡巡し……首を横に振っていた。

「うむー、特にはなかったりします。一昨日黒暴走に逃げられちゃったぐらいだったりなかったり、ぐらいのようなそうじゃないような。うん、やっぱり特になかったりします」

「そう。よかったよ」

 夜のビル街を暴走するバイクの件は新聞で読んでいた。病院のテレビでもニュースを観た気がする。取り逃がしたことは、警察としてあるまじき行為だが、だからといって責めるつもりは毛頭ない。そんな肝心なときに、現場に居合わすこともできなかったのだから。

 希守は、病院からずっと肩にかけてきたスポーツバッグを奥にある自分の机に置き、受付箱に書類が山積みになった状態に苦笑。暖房はないが、だからといって寒いわけではない。コートを脱いで椅子の背もたれにかけ、机の上にある書類の山を見つめて少しだけ逡巡し、後回しにすることに決めた。今はまだ休憩時間である。

 応接室のソファーまで移動して、きあ瑠の隣に座る。テレビ番組ではゼッケンをつけた十人がカレーの大食いを競っていて、まだ皿に半分以上残っているのに目立ちたいがために無理しておかわりを要求した芸能人が笑いを誘っていた。その巨漢な芸能人は頬いっぱいカレーを突っ込み、喉に詰まらせて顔を真っ赤にしつつ、司会者に制止も振り払って、次の皿を求めていく。その瞬間はまた笑い声が起きたが、それ以降、画面に出ることはなかった。

 壁にかけられている丸時計は、十二時十五分を少し回っている。この時間だと、まだきあ瑠たちは昼食を済ませていないだろう。意識すると、急に空腹を得た。出勤したばかりで、いつもと勝手が違い、時間の感覚が少し変。『これだったら、どこかで済ませてくればよかったかなー』そう思った。

「…………」

「毎度ぉ、ばんらいらいけんでーす」

 威勢のいい声とともに、応接室近くにある扉が開けられた。そこには取っ手と蓋のついた鉄製の岡持を持つ、白い作業着に身を包んだ男性がいる。らいかけ。二十二歳。中華飯店と定食屋を足して二で割ったような万来々軒から出前にやって来たのだ。

「おっと、これはこれは天川の旦那じゃないっすか。もう退院されたんで? 旦那がいないから寂しかったっすよ」

 翔琉は慣れたように、応接室のテーブルにラップをかけたチャーハンと坦々麺を置いていく。

「きあ瑠さんは坦々麺っすよね。今日も丹精込めて運ばせていただきやしたっす。親方にスパイス全開って頼んでおきやしたから、今日のはきますぜ」

「どもね」

「炒飯は外で目の色変えて木刀振り回してた袴の大将の分っすよね。あれ? 天川の旦那の分はないんで? どうするんっすか? なんなら、もう一回出前してきやしょうか?」

「ありがとう。でも、今日はいいよ。また明日頼むから」

「そうっすか。毎度おおきに」

 翔琉は身長百八十と大きく、その分横幅も広い。声は地の底から這い上がってくる低く太いものだった。

 翔琉はきあ瑠から受け取った百月絵ドルを手にして、即座に照明に翳していく。百月絵ドルはこの国の最高紙幣で、シルクハットを被った初代国王の肖像画と、木々に囲まれた国会議事堂が描かれている。中央には透かしがあり、そこには満月があるが……翔琉は満月にひびがないことを確かめていた。

「物騒な世の中っすよね、偽札が横行してるなんて。毎回確かめないと安心できないっすよ。あ、いや、断じてきあ瑠さんが偽札を出したって疑ってるんじゃないっす。念のために確認しないと、親方に叱られますんで。はい、確かに。これ、お釣りっす」

 翔琉は釣りをきあ瑠に渡してから、テレビに顔を向けている希守に囁きかけるように声をかけていく。

「なことよりも、天川の旦那、一昨日の事件、どうっすか?」

「一昨日?」

 希守はついさっき退院してきたばかりで、一昨日といえば、希守は病院にいた。新聞を読んだ限りは、これといった事件は載っていなかった気がする。もしかしたら見逃したのかもしれないが……少なくても現時点ではぴんっとくるものはなかった。

「事件なんてあったんだっけ?」

「いやだな、旦那。一昨日の夜も、深夜の闇を切り裂く漆黒のブラックライダーが現れたっていうじゃないっすか」

「……ああ」

 新聞も読んでいたし、病院のテレビで報じていたニュースを思い出した。意識してみると、さっきその話をきあ瑠ともしたばかり。

「あの、黒暴走のことね」

「ブラックライダーっすよ!」

 なぜか呼び方にこだわる翔琉。譲れないとばかり、顔を近づけていき、両の拳を握りしめている。

「ブラックライダー、凄いっすよねー、ぶっちぎりでこの中央地区を駆け抜けていくんっすから。いやー、最高っすよー」

 希守のいう『黒暴走』と翔琉のいう『ブラックライダー』は同一人物。深夜の中央地区を黒スーツで暴走行為を繰り返す一人のライダー。これまでに何度も出没していて警察も追いかけているが、残念ながら逮捕に至っていなかった。

「ブラックライダーはスピードだけを追求して、どこまでも駆け抜けていくんっす。格好いいじゃないっすかー。どこかに盗みに入るわけでもないっすし、誰かを誘拐するわけでもないっす。単純に速さの限界に挑戦してるんっす」

「いや、格好よくなんかないよ」

 相手の興奮を、即座に全否定。希守は相手との凄まじい温度差で、淡々と言葉を紡いでいく。

「全然。まったく。これっぽっちも格好よくない。だって、スピードを追求っていっても、ただの暴走行為を繰り返しているだけで、迷惑でしかないよね。スピードを追求したいならサーキットですればいい。それなら応援してくれる人がいると思うよ。あれを迷惑以外に思っている人なんていないでしょう?」

「いますよ! いっぱいいます! 無茶苦茶憧れるじゃないっすか。格好いいっすもん。今や怪盗トレジャーと並ぶ中央地区の光っす」

「……トレジャーに並ぶことに意味があるとは思えないし、それに、どっちも迷惑だよ。なんであんなものに憧れるのか、僕にはさっぱり理解できないな。あと、黒暴走はトレジャーほど知名度ないね。やってること、バイクで走って迷惑行為をしてるだけだし」

「そんなことないっす!」

 またも力が入る翔琉。目に火花を散らしてまで。

「巷ではトレジャーよりもブラックライダーの方が盛り上がっているぐらいなんっすから。もう時代はブラックライダーっすよ、絶対。あのスピード、たまんないっす」

「うーん、そんなもんかなー、ちっとも理解できないよ……」

 希守は得心いかないように眉を顰めて首を傾けると、その鼻にはきあ瑠が食べている坦々麺の香ばしい匂いが。瞬間、存在を脅かすほどの凄まじい空腹に襲われた。盛大に腹の虫が鳴ったぐらいに。

 ぐぐうぅーっ!

「あー、駄目だ、僕も腹減ったから、ちょっと食堂いってくるよー。きあ瑠ちゃん、昼から打ち合わせだからねー。一週間あると、結構仕事が溜まっちゃうからー」

「あれ、天っちょ警部ぅ!?」

 食堂に移動すべく勢いよく立ち上がった希守に対して、坦々麺を啜っていたきあ瑠が思わず声を裏返した。目を大きく丸くさせているので、周辺に汁が飛んでいることにも気づけていない。

「天っちょ警部、食堂にいったりいかなかったりするんですか?」

「紛れもなくいくんだよ。たまには気分転換にいいでしょ。日曜日だし、そんなに混んでないと思うけど」

「そ、そんな天っちょ警部が食堂だなんて……じゃ、じゃあ、あたしもご一緒したりしちゃいます」

「どうして?」

 ただただ疑問でしかない希守。相手は坦々麺を啜っている最中。

「きあ瑠ちゃんは食べてるところでしょうが」

「で、でも、天っちょ警部……」

 不安そうに、心配そうに表情を曇らせて、きあ瑠はすっかり箸を止めてしまった。その視線は希守の外跳ねの髪の毛と瞳にいっている。そこにある色を意識して。

「天っちょ警部が、食堂だなんて、その……」。

「ははっ。大丈夫だよ。僕のことは気にしなくていいから。さっきも言ったけど、昼からは未解決事件の整理するから、書類をばっちり用意しておいてね。そうそう、お昼だから豪さんも呼んでこないといけないな。せっかくのが冷めちゃうよ。あー、なんか、こうしてると、『戻ってきた』って実感してきたよー」

 青色のワイシャツ姿のまま、引き止めようとするきあ瑠に安心させられるように微笑み、希守は事務所を後にした。


 月絵中央警察署一階にある大食堂。一度に五百人は入れるだろう大きな食堂で、希守が訪れたのは混雑する昼食開始時より少し遅いこともあり、四割程度にしか席が埋まっていなかった。スピーカーからは誰もが一度は耳にしたことがあるクラシックのピアノ演奏が流れていて、まだ暖房は入っていないが、料理の熱と利用する人の熱気で充分暖かかった。

 希守は窓側の席に座り、サンドイッチを食べている。カツサンドとハムサンドのシンプルなもので、トレイ端にあるコーヒーカップから湯気が立ち昇っていた。食堂といってもこういった軽食も用意されていて、喫茶店のように利用できる。希守は少食のため、こういうのがあると非常に助かるのだが、あまり利用することはなかった。

(…………)

 希守の周囲にもたくさん席があり、食堂の半分近くの席が埋まっているのに、希守の周囲は空席となっている。一番近くの人間でも席が八つ離れていた。まるで意図して希守の周囲が避けられているよう。事実、意図して避けられているのだが。

 けれど、だからといって無視されているわけではない。現に希守は多くの視線を感じている。遠巻きに大勢の人間に見られているのだ。若くして警部にまで飛び級昇進した希守は、こうして大勢の人間に敬遠される。しかし、本人は気にしない。慣れというのか、いつものことである。なぜなら、特別視されることは今にはじまったことでなく、幼少の頃から繰り返されてきたこと。もううんざりを通り越して、日常と化していた。

「…………」

 食堂を訪れるのは久し振り。以前は通っていたが、外に事務所を構えてからは、一年でも片手で数えるほどしかない。いつも昼食は出前か近くの店で買ってきて、事務所の応接室で食べている。同じグループの三人で、テレビを観たり、どうでもいいようなことを話しながら。希守にとってあの二人は、自分のことを特別視しないで接してくれる貴重な存在だった。

 だから、こうして一人寂しく食堂にいること、周囲の人間に遠巻きに見られていること、嘆息したくなる気持ちが大きいが、仕方のないことなのかもしれない。これが警察本部ビルにおける天川希守の扱いなのだから。

「…………」

「おお、これはこれは天川君ではないか」

 遠くの方から大股で歩み寄ってくる大きな男性がいた。八神やがみしゅう一郎いちろう。希守が所属している特別捜査部の部長である。恰幅のいい体型を揺らしながら、どしどしっと歩み寄ってくる。

「入院しているとのことだったが、今日はどうした?」

「ご迷惑をおかけました。さきほど退院しましたので、任務に復帰したいと思います」

「そうだったのか。あ、いや、せっかくの静養なのだから、ゆっくりしていればいいものを、熱心なことだな。儂ならもうちょっとぐうたらしているところであろうに。がっはっはっ」

 八神の身長は百七十センチの希守と同じぐらいだが、横幅が半端ではない。着ている背広も張りに張って今にもはち切れんばかりのぴちぴちっ状態。いつ背広のボタンが飛んでもおかしくない緊張状態にあった。もう十一月だというのに額には汗が滲んでいる。

「先週はまたしてもお手柄だったな。まさかあの連続児童誘拐事件のアジトを突き止め、犯人を逮捕してしまうとは」

「いえ、あれは部下二人がやったことです。僕は関係ありません。ただ、ああして事件が解決できたこと、とてもよかったと思っています。僕の使命はこの国の治安を守ることですから。それを乱す人間を断じて許すわけにはいきません」

「がっはっはっ。そう謙遜するものではないよ。あの業績に、また所長が所長賞を用意していると聞く。天川君みたいな部下を持って、儂も鼻が高いよ。これで天川君のその髪さえ──」

 八神は急ブレーキで言葉を止め、小さく咳払い。

「ああ、いや、その……と、とにかくご苦労であった。これからも中央地区の平和のために力を発揮してくれたまえ」

「はい、尽力いたします」

 大きな体を左右に大きく揺らしながら、食堂を後にする上司を目で見送り、これまでのやり取りを食堂にいた人間が好奇心に目を光らせながら遠巻きで見ていたことを認識する。顔を向けてみると、視界にいる全員が一斉に顔を逸らしていくので、希守は窓の方に顔を向けながら小さく吐息した。

 窓の外は小さな庭園で、大きな岩を囲むようにして木々がたくさん生えている。向こう側は警察署を取り囲む高い塀で、今は日陰となっている。食堂の照明と外の薄暗さの関係が窓に若干の反射を生み、僅かではあるが希守の姿を映し出した。

「…………」

 映し出されたもの、それは鮮やかなまでの黄色の髪と黄色の双眸。月絵国人のものではなく、大国人の色である。二十九年前まで戦争をしていた敵国の。

「…………」

 希守の母親は敗戦後、周囲の反対を押し切って大国人と結婚した。希守は父親の血が濃いようで、髪の色も目の色も大国人のものとなっている。だからこそ、この食堂では誰もが奇異なものを見るように遠巻きで見つめ、近づいてこようとしない。病院からの道程もこちらを振り返った人間は希守の髪の色を珍しがってのことで、古い人間からすればこの髪と瞳の色は忌み嫌う対象であろう。

『黄色い悪魔』それが月絵国民から見た大国人であった。さすがに戦後二十九年も過ぎればその差別的な見方も薄らいでいるものの、完全になくなることはない。

 吐息。

(……そろそろ戻ろうかな?)

 ここはあまり居心地のいい場所とはいえない。やはり希守の居場所はあの小さな事務所なのだ。それに、食堂にいくと伝えたとき、きあ瑠にいらない心配をかけてしまった。ああ言ってもらえたことは嬉しくあるが、気をかけてしまっている面では、上司失格である。

(みんなと同じ月絵国の人間なのにな……)

 すっかり冷めたコーヒーを飲み干し、トレイを持って席を立つ。

 移動する希守を追うようにして動いてくる周囲の視線を気にすることなく、『ありがとうございます。とてもおいしかったです』そう食器を洗っていた人に声をかけて、食堂を後にした。


       ※


 十一月九日、月曜日。

 希守復帰二日目で、すでに昼食を済ませている。中央警察特別捜査部特別捜査Gの事務所内において、現在G会議が行われていた。メンバーはGに所属する三人。希守ときあ瑠と豪。

 玄関近くの応接室が会議室となる。ホワイトボードにはここ最近、中央地区を騒がせている事件が羅列していた。

『怪盗トレジャー』『偽札製造』『連続幼児誘拐事件』『麻薬流通』『連続下着泥棒』『深夜の黒暴走』

 並んでいる事件の内、『連続幼児誘拐事件』には二重線が引かれている。それは先週、怪盗トレジャーを追いかけているときに偶然現場を発見し、解決した事件。金持ちの子供ばかりを狙った犯行で、なかなか犯人からの要求がなく、警察としても迂闊に手出しできない難事件を、希守たちがあっさりと解決したのだ。これでまた一歩、月絵国の治安維持に貢献できたと喜ぶところだが、まだまだ事件はたくさん起きている。

「こうやって並べてみると、僕たちにはやらなくちゃいけないことがたくさんあることが分かるね。僕たちはこの中央地区の平和を守るためにいるんだから、みんなが納める税金を有益なものにしないと。じゃあ、きあ瑠ちゃん、ここまでの点で補足はあるかな?」

「なかったりしますよー。だってだって、ようやく誘拐事件の方が落ち着いたりしちゃったんですもん。天っちょ警部が入院しているとき、現場検証とか、親御さんへの説明とか、子供の精神的な面倒とか、記者会見の見学とか、もろもろ大変だったりしなかったりすることもなかったんですから」

「……どっちなの? ってより、それら全部本部の人の仕事だよね。僕たちにそんな権限ないと思うけど……って、最後の記者会見の見学って、やってることは野次馬と変わらないんじゃ……」

「そうだったりすることはあるかも、ないかも」

 微笑みながらかわいらしく首を傾けるきあ瑠。会議中でも関係なく、制服姿で煎餅を口に銜えている。醤油味であり、さっき近所にある駄菓子屋で焼き立てを買ってきた。まだテーブルの上に置かれた紙袋にはたくさんある。その量、とても会議中に食べ終えることはできないだろう。

 噛むと、ぱりっといい音がする。瞬間的に香ばしい匂いが事務所内に漂う。食欲をそそると同時に、どこか懐かしい匂い。

 だからこそ、きあ瑠の手が次から次に伸びてしまう。

「とかく、事件解決はいいことで、それは間違いなかったりしちゃうかもしれないような気がする」

「部長の話だと、また所長から賞状がいただけるそうだから、きっと金一封もあると思うよ。そしたら、またみんなでご飯にいこう」

「わっはーい」

 諸手を上げて大喜びのきあ瑠。『みんなで食事にいける』という部分で、現在食べている煎餅が格別においしく感じられた。

「じゃあ、この辺でちょっとお菓子タイムにしたりしたりしたりしちゃったりしちゃいますか?」

「……会議やってるところだから、まだ休憩は早いかな。って、今でも充分お菓子食べてるでしょ。きあ瑠ちゃんの場合、年中お菓子タイムなんじゃない?」

 会議中のきあ瑠の発言に大粒の汗を額に浮かべつつ、希守はもう一人の袴姿の男性を見つめる。

「豪さんは未解決の事件についてどう思いますか?」

「小生は未熟者であり、まだまだ精進して業務を遂行していかなければならないのは明白である。だからこそ、教えてほしいのだ。小生はいったい何をすればいいのであるか? どうすればこれまでにない小生になることができるという?」

「うーん、それは豪さんが真面目な性格で、だからこそ、ちょっと難しく考えちゃっているところはありますね」

 希守はにっこりと笑顔。

「いざというときは、僕はちっとも役に立たなくて、いつも豪さんが頼りです。なら、豪さんは日頃から鍛練をしていてください。『ここぞ!』ってときに頼りになるのは、やはり豪さんしかいませんから」

「なるほど、そういうことであったか。小生が鍛練することによって、世の中の平和が確たるものになるということで間違いない、ということであるな。さすがは天川殿、その発言すべてに重みが感じるのである。よし、ぐずぐずしておれん。さっそく鍛練である」

「あ、あの、今は会議中でして……」

 意気込み強く、鼻息荒く、ソファー脇に置いていた木刀をさっと手に取って颯爽と事務所から出ていった袴姿に、半分開けられた口を十秒以上閉じられなくなる希守。

 いつものこと。

「…………」

「毎度ぉ、万来々軒っす。なんか今、凄い勢いで袴の大将が飛び出していったっすけど、大丈夫っすか」

 勢いよく出ていった豪と入れ代わるように、白い作業着に白色ヘルメットを首で縛った翔琉が現れた。今日もこの事務所の昼食は翔琉の勤める万来々軒の出前で、今は丼を下げにきたところ。手にしている岡持に空になった三つの中華丼をしまっていく。

 そんな翔琉の視線が、ホワイトボードに向けられた。羅列の最下段にある『深夜の黒暴走』を目にするや否や、声を裏返す。

「ちょっとちょっと、天川の旦那にきあ瑠さん、冗談やめてほしいっすよ! なんっすか、その格好悪いネーミングセンスはぁ!? ブラックライダーっすよ、ブラックライダー。って、なんでそんな一番下なんっすか!? ブラックライダーの扱い悪過ぎっすよ」

 力が入りまくって、思わず目を剥いて翔琉は熱弁していく。こだわりを全力で主張するように。

「ブラックライダーが夜を疾走すれば、それだけで若者が熱狂するじゃないっすか。そうして中央地区が盛り上がっていくんすよ」

「……それが困ったことになってるんだけど」

 最初はただの暴走行為に過ぎなかった。しかし、何回も現れることで噂が少しずつ広がっていき、今では若者がこぞって見物するようになっている。

 確かに怪盗トレジャーと同じようにちょっとした話題となっているが、年齢層が違う。怪盗トレジャーが全世代に人気があるのに対し、黒暴走バイクは若者の、それもあまり行儀がいいとはいえない人間に支持されている。であれば、真似されたら大変である。早く解決しなければならない案件であった。

「早く逮捕しないといけないけど、なかなか難しいんだよね」

「そりゃそうでしょうね。ぶっちぎりっすからね。あはははー。もちろん天川の旦那は警察一の敏腕警部でしょうし、きあ瑠さんはとっても素敵っすけど、ブラックライダーを逮捕するのは至難の業だと思うっす。なんせスピードが違うっすから」

「……雷田さん、やけに黒暴走のことを持つね。前からそうだったけど、あんまりそういうの、よくないよ。人気があろうがなんだろうが、相手は道路交通法を違反する犯罪者なんだから」

 ここは警察署で、警察官である希守の職場。丼を回収しにきただけなのに、いつの間にか翔琉はこの応接室で目を輝かせて黒暴走バイクのことを力説している。『大人に反発する、世間に背中を向ける』といった誰もが一度は経験する甘酸っぱい思春期はすでに卒業したであろう二十二歳が。

「……雷田さん、もしかして若者と一緒に騒いでいるんじゃないでしょうね? やめてくださいよ、そういうのは」

「へっ……!?」

 目が点。翔琉は慌てて否定する。

「や、や、やだなー。俺はもういい大人っすよ。そんな子供と一緒にしないでくださいよ。あはっ、あはははっ」

 まずいことをかれたみたいに、額に大量の汗を浮かべつつも、断じて『一緒に騒いでるわけじゃないっすよ』といった否定は口にせず、岡持を持ってそそくさと出ていこうとする翔琉。身長が百八十センチあり、この事務所は天井が低いので頭をぶつけそう。

 希守は知らないことだが、その身長に体格は、推定される黒暴走の体格とまったく同じであった。

「……それじゃ、これで失礼するっす。またご贔屓に」

「うん、また明日ね」

 逃げるように出ていった翔琉を見送り、希守はホワイトボードの一番上にある『怪盗トレジャー』という字を目に映す。先日まんまと逃げられた苦い思いが蘇り、唇を噛みつつの苦渋の表情に。

 怪盗トレジャーに、これ以上好き勝手させるわけにはいかない。次こそ逮捕しなければならないが、いつもそう思って懸命に追いかけているのに、なぜだか逃げられてしまう。

 大きく吐息。

「ねぇ、きあ瑠ちゃん、どうしてトレジャーにはいつも逃げられちゃうんだろう?」

「とかく、天っちょ警部の能力不足だったりしちゃう」

「……こういうときだけはっきり断定するんだよね」

 苦笑い。

 希守は首をぐるーっと回し、天井を仰ぐ。プレハブの天井には細いパイプが十字に組まれ、クリーム色の天井にはいくつもの黒い染みが見えた。まだ雨漏りは確認できないが、時間の問題だろう。次の夏から秋に大きな台風が上陸したら要注意である。

(……んっ?)

 と、その時、扉をノックする音がした。こんこんっ。こんこんっ。岡持を持っていった翔琉が忘れものをしたとしても、ノックするような繊細さを持ち合わせていないので違うことが分かる。翔琉は許可なく、かけ声とともに入ってくるから。

 またノックされた。どうやら来客のようである。希守は煎餅を銜えたまま資料の隅に猫の絵を描いているきあ瑠を残し、段ボールがたくさん乱雑に放置されている所に扉があるばかりに、自分たちが『玄関』と主張している場所へ。

 扉を開けた。そこに、希守にとって見覚えてのある人物が立っているも、意外な人物だったために、思わず目を見張ることに。

「あれ……? こんにちは」

「そこで岡持持った人と擦れ違いましたけど、出前されているのですか? よく許可が出ましたね。食堂があったと思いますけど」

「へっ……? あ、いや……まあ、その点に関しては、ちょっとした事情がありまして、特別に許可を……」

 希守が食堂へいくと、自身の外見によって本人も気まずい思いをするし、周囲が不必要にざわつくため、上層部が特別処置をしたもの。だが、内部事情を外部の人間に話すわけにはいかない。浮かべる笑みとともにお茶を濁すしかなかった。

「そんなことより、昨日は貴重なお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました。改めてこの国の平和を保っていこうと思った次第です」

 戦争の話を聞いた。戦後の復興の話を聞いた。だからこその今がある。その今の治安を維持するのが役目である以上、改めて尽力しようと思った。

「それで咲牙さん、今日はどういったご用件でしょうか?」

 希守の前には、黒いコートに薄茶色のソフト帽を被った咲牙が立っていた。ここは警察署敷地内で、目の前に立っている人物は月絵中央警察署の関係者ではないというのに?

「お約束でもしましたっけ?」

「ああ、いやいや、警察署には用があったのですが、なぜだかここを訪れることになりまして。立ち話もなんですから、いいですか?」

「あ、はい。狭い所ですけど、どうぞどうぞ……って、ちょっと待ってください。おーい、きあ瑠ちゃーん、豪さんもいなくなっちゃったし、会議は中断するよー。これから夜に提出する資料、作成してくれるかな? 四時までね。出す前に僕も目を通したいから」

 希守の言葉に、『わっはーい。これはもう、よろしかったりしなかったりしちゃうかもしれないから、気分全開ばりばりの喜びだったりすることもあるような』と言いながら、煎餅が入った袋を持って応接室から奥の机と移動していったきあ瑠を目に、点けられていたテレビを消して、応接室に咲牙を通す。

「少々お待ちください。すみません、本当に狭い所で」

 希守は事務所の奥の方にある電気ポットから湯を出し、煎茶を淹れる。すぐ近くには女性のきあ瑠がいるが、こういったことを押しつけることはしない。世の中には『茶を淹れるなどと男の仕事じゃない』と思っている人もいるようだが、希守からすればきあ瑠にはきあ瑠の仕事があり、それを邪魔する行為になるので頼むことはない。

 資料を作成しながらきあ瑠が食べている醤油味の煎餅を四つもらって、湯飲みを乗せた盆を持って希守の身長ほどある仕切り板で囲われた応接室に戻っていく。

「お待たせしました。粗茶ですが、どうぞ」

「たくさん起きているみたいですね、事件というものは」

 咲牙はソファーに腰かけた状態で、さきほどまで会議で使用していたホワイトボードを目にしていた。羅列の一番上にある『怪盗トレジャー』から『深夜の黒暴走』まで。

「現場の仕事といいますか、こういった状況を見ますと、考えるものがあります」

 咲牙はソファーに腰かけたまま斜め上の何もない空間を見つめる。

「もう戦後二十九年です。終戦したために敵国というものがなくなりましたが、なぜだか世の中は平和にならないですね。戦中は国のために敵国の兵を一つでも多く殺すことに全力を注いできて、戦後は自分たちの幸せを願って復興してきたのに、このような未来が待ち受けていようとは。あの頃からは考えられなかったですよ。それもそれを作り出したのは紛れもなく私たちです。当時は戦争さえなくなればみんなが笑顔で暮らしていけると思っていたのに」

「それは違いますよ」

 希守は大きく首を横に振る。

「そうできていないのは咲牙さんたちのせいではなく、僕の責任です。治安を維持するため、平和を保つためにこうして僕がいるのに、しっかりできていないのが原因です。なんとも情けない話です」

 小さく吐息。

「けど、必ず悪も争いもない平和な世の中を実現してみせます。そのために僕はいるわけですから。だから、安心してください、これらの事件は、必ず僕が解決してみせます」

「いやはや、実に頼もしい限りですね。さすがは優秀な警部さんだ。若くして飛び級での警部昇進は伊達じゃありませんね」

「そんなことありません、まだまだ未熟者ですから」

 希守はホワイトボードを背に、咲牙と向き合うように腰かけた。湯気が立つ煎茶を啜り、あまり味がしないことに苦笑しつつ、テーブルに置いた煎餅に手を伸ばそうとして……咲牙の顔を見る。

 正面の人物は、今はソフト帽を外しているので白いものが混じった短い髪が見えた。立派な口髭を携えており、戦争の影響か、左頬には深い傷。一生消えるものではないと思われるが……その咲牙が希守の方を正面から真っ直ぐ見つめてくる。

 希守は、理由は分からないが、相手から醸し出される雰囲気に気圧されるよう、喉をごくりっと鳴らした。それを紛らわすように小さく息を吐き出す。

「そ、それで、僕に用というのは?」

 探偵という職業の人間が、警察署内に足を運んでまでの用とはいったい何なのか? ましてや、希守の髪と瞳の色のせいですっかり本部から爪弾きとなっているこの特別捜査部特別捜査Gに?

「昨日、何か失礼なことでもしましたか? でしたら、謝罪したいところでありますが」

「いやですね、そんなに畏まらないでください。警察署に別件があったのですが、なぜだかここを訪れることになってしまいまして」

 咲牙は皺の数を増やして微笑し、壁の向こうを指差す。その方向には中央警察の本部ビルがある。

「八神部長の顔を見にきました」

 それが咲牙の目的であった。

「あいつ、暫く見ない間に随分太りましたね。最初見たとき、誰だか分かりませんでしたよ。健康にも悪いですからね、少しは痩せろと注意しておきました」

「へっ……?」

 話題に出ている八神部長とは、希守の直属の上司である。

「あ、あの、八神部長とお知り合いだったんですか?」

 希守の所属が中央警察特別捜査部特別捜査Gで、八神は特別捜査部部長である。希守がプレハブに締め出されていることもあり、めったに顔を合わせることはないが、昨日食堂で久し振りに挨拶した。体型については、希守が最初に見たときと変わることはないが。そんな部長を、目の前の咲牙は『あいつ』と呼んだ。あの部長を。部の長を。特別捜査部で一番えらい人を。

 瞬間、なぜだか背筋が伸びてしまう希守。

「あの、咲牙さんって……」

「あ、いえいえ、実はですね、私、以前はここに勤めていたことがありまして。あの八神部長の指導をしたことがあるのですよ」

 咲牙の二つ下が八神で、指導員と研修生という接点があった。

「久し振りに顔を見にいったら、ここ最近の中央地区のことをいろいろ教えてもらいましてね。どういった経緯だったか覚えていないのですが、気がつけば天川君の手伝いをしてもらえないかと相談されたわけです。いろいろと大変だろうから、と」

 咲牙の口にした『いろいろ』には業務のことも含まれているし、希守の髪の色の影響も含まれている。

「あ、もちろん、これは天川くんがよければの話ですが」

「それっていうは部長が直々に依頼したということでしょうか?」

 であれば、断れるわけがない。そもそも協力してくれる人を無下に断るような性格ではないし、髪の色のせいで協力をしてくれる人も少ない。申し出てくれる人がいるのなら、大歓迎である。

「是非お願いします。見ての通り、人手不足でして、お手伝いいただけるのでしたら、助かります。それに部長の指導員をされていた人なら、とても心強いですし、勉強させていただきます」

「いえいえ、これはまた随分と期待されてしまいましたね……どれだけ期待に応えられるか分からないですが、しっかりやってみますよ。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 がっちりと握手。こうして手を差し伸べてくれる存在がいること、希守の気持ちが華やいでいく。

「では、まずはどうしましょうか? 咲牙さんにはどういったことをお手伝いいただけばいいでしょう?」

「そうですね、まずは世間を騒がせている怪盗トレジャーというやつから教えてもらえますか? 最近の事件についての資料と、あとは、天川君の主観も是非拝聴してみたいです」

「はい」

「というより、そこに書かれている事件すべての情報がほしいですね。いろいろと検討する必要がありますから。なんせ、天川君はすべてを解決しなければなりませんし」

「分かりました」

 希守は一度ホワイトボードを目にし、奥の机の方へと足を運んで、山積みになっている資料の束を抱えていく。

 近くには本日締切の書類を作成しているきあ瑠がいる。近くに窓がないため、ここからでは見えないが、外では袴姿の豪が精一杯汗を流して鍛練していることだろう。

 これまではその二人しか頼れる人間がいなかったが、今日からは一人増えることとなった。それだけのことで、希守の心は重力を失ったように天高く浮いていきそうなほど嬉しくある。

 今度母親の見舞いにいく日が楽しみになった。今抱いている嬉しい気持ちを話すことができるから。


       ※


 午後十一時。

 煌々と灯るオレンジ色の街灯が点在するビル街。時間が時間だけに、建ち並ぶビルの窓にある明かりが一割ほどしか点灯していないが、少し離れた繁華街の明かりはまだまだ明々と灯っている。そのビル街と繁華街を南下する片側三車線の道路にはパイプの中央分離帯があり、分離帯の間には葉を失った木々が植えられていた。

 そんな広い道路を疾走する一台のミニパトカー。白と黒の外観で、車上の赤ランプを点灯させ、騒がしく警報を鳴らして疾走している。

 道路交通法で定められている速度制限を超えて。

「き、きあ瑠ちゃん、ス、スピード出し過ぎなんじゃないのかな?」

「天っちょ警部! 今日こそ逮捕したりしなかったりしたい気持ちもあることもあるような気がしてるんです!」

 普段はほんわか温厚であるきあ瑠だが、今は珍しく鼻息を荒い。表情は大きく緩んでいるも、目つきは鋭く真剣そのもの。いや、真剣を通り越して、狂気の色が滲んでいた。

「細かいことは気にすべきではなかったりしちゃうかも? うん、二の次だったりしちゃうかもしれないしそうじゃないかもしれないかもかも? そうかも? そうじゃなかったりしちゃうかも?」

「……えーと、悪いわけじゃないんだけどね、ただあんまりスピード出してると、安全に止まれなくなっちゃうよ。事故しちゃったら、大変だよ。僕、また入院なんていやだよ」

「その点、大丈夫な予感がしちゃうような気がしてますよ。テクニックでカバーしちゃいますから」

「……頼もしい」

「うむー。ただ、久し振りの運転だったりしちゃいますけど。クラッチって真ん中だったりしちゃいます?」

「……聞きたくなかったな、今の」

 ミニパトカーの助手席に座る希守。きっちりシートベルトして、必死の形相で座席にしがみつきながら。出動要請があったため、背広を羽織る時間を惜しんで青いワイシャツ姿で歯を食い縛っている。

 隣の運転席でハンドルを握るきあ瑠は、いつものように青を基調とした白い制服姿。口に棒つきのキャンデーを銜えたまま、頬を緩ませて目の色を変えていた。普段はのほほーんとのんびり屋を極めたのんびり屋だが、ハンドルを握ると劇的に性格が変わる。一般道だというのに、時速百キロメートル超。常に高速道路の上限速度であった。

 そんな運転席の後部座席に、袴姿の豪がいる。今も木刀を握りしめ、いつ出番が回ってきてもいいよう、精神集中のために目を閉じている。あの状態なら、猛スピードで走っていても、『今です、豪さん!』と声をかければ迷いなく車から飛び出すことだろう。そうして怪我なく平然としているのが、豪である。

 希守は無線機を手にし、本部に現在位置を報告した。さきほど一キロメートル先を封鎖するように願い出たところ。そろそろその地点に辿り着く。

「あの、大丈夫ですか、咲牙さんは? 恐縮です、こんな時間にこんな場所まで付き合っていただきまして」

「いえいえ、現場の雰囲気を見ておきたいですからね。それよりも、せっかく追い詰めつつあるのです、決して見失わないよう、しっかり見張っていてください」

「ですね。今日こそは必ず逮捕してみせますよ。咲牙さんの協力も得られていることですし、百人力です」

 助手席の後部座席には、黒いコートに薄茶色のソフト帽を被った咲牙がいる。部長の指示もあり、行動をともにしていた。

(にしても……)

 協力といっても、打ち合わせ程度のものだと思っていたのに、こんな現場まで足を運んでもらっていること、感服するばかり。いくら要請があったとはいえ、午後十一時という遅い時間まで付き合わせているのは申し訳ないが、本人から希望してきたので仕方ない。

「今日こそ」

 希守は、がーがーがーがーっと雑音を発する無線機を手にしたまま、前方を睨みつける。

 街灯のオレンジ色に照らされて、一台のバイクが疾走していた。体すべてを真っ黒に染め上げ、ナンバープレートはもちろん外されている。乗車している人間も真っ黒のライダースーツに身を包み、被っているヘルメットも黒いフルフェイス。通称『黒暴走バイク』、もしくは一部の熱狂的な人間からすれば『ブラックライダー』である。

 これまでずっと直進していた黒バイクが少し蛇行しはじめた。前方の閉鎖された道路に気づいたのかもしれない。道が閉鎖されている以上、スピードを維持することはできない。けれど、変わることなく希守たちの前を走行し、ただただ暴走するようにああしてこのビル街を南下していく。

 その目的は謎であった。

 現在追跡する黒暴走バイクについて、これまでは惜しいところまで追い詰めながら逃走を許してきた。『今日こそは逮捕する! してみせる!』そう強く意気込み、希守は助手席で前方を睨みつける。

「ここで捕まえる」

 百メートル先の交差点で、赤いランプが数多く点滅していた。希守が本部に要請した応援である。多くのバリケードにも電灯がつけられており、夜の道路工事のように派手に点灯していた。

 通常は交差点に進入すると選択肢として『直進、右折、左折』の三つがあるが、すべて数台のパトカーによって封鎖されている。これでもう袋の鼠。ゆっくりと減速する黒暴走バイクを慎重に追い詰め、いよいよ逮捕の瞬間を迎えることとなる……はずだった。

「……うへぇ!?」

 逃走する黒暴走バイクを追いかけ、封鎖された交差点に入り、目の前で起きた光景に、希守の口から上げたくもない奇声が。

 黒暴走バイクは、封鎖されている前方の状況に一旦減速させたかと思うと、また一気に加速して赤ランプが点滅している前方へと突っ込んでいったではないか!? その姿、みすみす捕まるより玉砕することを選んだように。まるで戦闘機が敵空母に特攻でもするかのごとく。

(危ない!)

 逮捕することを望んでいるが、だからといって怪我をさせてまで捕まえようとは考えていない。できることなら穏便に済ませたかったが、このままでは大惨事になってしまう。

 一瞬、希守の脳裏に、炎が舞う惨状が過った。

(……あれ?)

 道路を封鎖しているパトカーと、加速させながら突っ込んでいく黒暴走バイクが激突すると思われた寸前、バイクは激しいタイヤの摩擦音を立て、車体を直角に曲げ、封鎖されている前方と左方の建物間にある歩道へ乗り上げていった。そのまま悠々と歩道を疾走していき、封鎖していた検問を突破したのである。

「んな馬鹿な!? せっかく閉じ込めたと思ったのに……」

 本部要請した応援を突破されてしまった……予想外の展開に、希守は唖然としたまま……だが、いつまでも惚けているわけにはいかない。すぐに交差点を封鎖しているパトカーをどかしてもらい、希守たちも追いかけていく。

 随分足止めされたのでかなり距離を離されたと思ったが、前方に黒暴走バイクを視認できた。減速して、いつの間に集まった周囲の野次馬に手を振って自身をアピールしている。それに対して、道路を囲む若者は両手を上げて熱狂していた。

 再び黒暴走バイクを追尾すべく、けたたましくミニパトカーのサイレンを響かせながら、事務所にいるときからは信じられないほど頬を緩めたスピード狂となっているきあ瑠の運転で追いかけていく。

「まさかあんな狭い場所を突破されるだなんて、うーん、もっと別の手を考えないといけないな……」

「あの、天川君、ちょっといいですか?」

 後部座席にいる咲牙は、この騒がしい状況で声をかけるのに、いちいち前に身を乗り出すといった行為なく、背もたれに悠々と凭れながら口を動かしていく。

「普段もこうして追いかけているのでしたね。だとしたら、いつもはどうやって逃げられるのですか?」

「このまま郊外へと追いかけていって、それで……」

 繁華街の賑やかさが嘘みたいに、郊外は真っ暗闇に閉ざされる。その暗闇に黒暴走バイクが溶け込むようにして、気がつくと見失っていた。

 正直に口にするにはあまりにも悔しく情けない事実だが、希守は濁すことなくありのままにこれまでのことを咲牙に伝えていく。

「なんとかして郊外に出られる前に捕まえたいところなんですけど、封鎖させる作戦もうまくいきませんでした……」

「無灯火の黒い単車が暗闇に同化して見失う、ですか。なるほど、それならよかったですが……ああ、いや、なんといいますか、私はてっきりのかと思いましたね」

「はい……? 知り合いですか?」

 首を大きく傾ける希守。何を言われたのか理解できなかった。

「あの……」

「本気で逮捕する気でしたら、試してほしいことがあります。これから言うことを無線で本部に伝えてもらえませんか?」

 そうして咲牙が提案した内容が、黒暴走バイクの騒動を終息させることとなるのであった。


「観念するんだ、黒暴走」

 希守の目の前、ミニパトカーのヘッドライトが真っ黒なバイクを照らし出している。東西南をコンクリートのビルの壁が塞ぎ、唯一の北側には希守が立ち塞がる袋小路。

(まさか、こんなにうまく追い詰められるなんて)

 思ってもみなかったが、それがこうしてできている。凄いとしか言い様がない。

(すべて咲牙さんのおかげだな)

 咲牙の提案に、希守は全面的に従った。そうすることによって黒暴走バイクを逮捕できるかどうかは分からないが、自分たちに協力してくれる人のことを信頼し、実行したのである。

 咲牙の指示は、前方の交差点を封鎖すること。しかし、これまでのように分かれ道三つある内の三つすべてを封鎖するのでなく、二つを封鎖するというもの。それも時間を要するバリケードのような屈強なものでなく、パトカー一、二台という軽微なもので。

 希守は、そんな簡単な封鎖ではまた突破されると思ったが、違った。黒暴走バイクは、パトカーで封鎖された二方向でなく、残された一方向に曲がったのである。それこそが咲牙の狙いであった。

『すべてを封鎖するから、あの単車はそこを突破するしかなくなるわけです。どれか一方向でも残しておけば、例え封鎖状態が簡素なものでも、無理してそちらを突破しようとはせず、残された道を選ぶはずですよ』

 その咲牙の読み通りであった。やっていることはこれまでと変わらない『封鎖』だが、実際は封鎖に見せかけた『誘導』である。そうやって何度か黒暴走バイクの道を誘導させていき、ついにこの袋小路へと追い詰めたのだ。

「さあ、観念するんだ。もう逃げ道はないぞ」

 いの一番でミニパトカーから飛び出した希守は、まだ大音量でエンジンを吹かしている黒暴走バイクに歩み寄っていく。危険だと判断して、他のメンバーは後ろで待機させていた。

「もうこんなこと、やめるんだ!」

 暗闇に黒いライダースーツでは、相手の次の行動を読みにくい。黒光りするフルフェイスによって相手の表情を読むこともできないし……細心の注意をしつつ、声をかけながら少しずつ近寄っていく。

 しかし、希守の声はビルの壁に反響するエンジン音に消されてしまう。声を出している希守ですら聞き取ることができないぐらいに。

 真っ直ぐ前を見据えたまま、希守は両腕を広げた。どこにも逃げられないことを示しながら近づいていく。

 そんな希守に対し、バイクはゆっくり反転したかと思うと、突如としてヘッドライトを点け、希守に向けた。

 暗闇にいきなり向けられたライト、思わず目を閉じる希守。向けられる光量に、一瞬視界が真っ白になった。両腕で目を覆うも、その顔は真っ直ぐ前に向けられたまま。

「もう逃げられないよ。これ以上、この国の平和を乱す行いはやめるんだ。そんなことをしたって、誰も喜ばないぞ」

 そんな呼びかけにも相手からの反応はない。変わらずエンジンを吹かしている。

 希守はまた一歩、慎重な足取りで歩を進めていく。

 バイクは激しいエンジン音を上げ、アクセルを吹かせている。

 黒暴走バイクとの距離、十メートル。

「バイクから降りて、おとなしく投降するんだ。君にどういった事情があるのかは分からない。そう、僕には君がこうして暴走行為を起こすきっかけが何であったかは知らないんだ。けれど、そうさせてしまったことに対し、僕はどうもしてあげられなかった。今はそれが悔しくて仕方ないよ。できることなら、そうなる前に相談してほしかった。きっと力になれたはずだ。一人で悩んでないで、苦しみを分かち合いたかったよ。けど、まだ間に合う。これからは君のこと、ちゃんと見てあげられる。悩みがあるなら聞いてあげられる。一緒に苦しんであげられる」

 希守はゆっくりと首を横に振る。

「君が免許を取るとき、そんな無謀な運転はしなかったはずだ。そう、君はそんな暴走行為を繰り返すような人間ではなかったんだよ」

 問いかけに関し、相手が『ちゃんと免許を取得した上でバイクを運転している』という前提に一切の迷いがなかった。それからも黒暴走バイクに対してなんとも一方的な主張をぶつけていき、希守は変わらずに袋小路で両腕を広げつづけている。

 こうして立っているビルに囲まれた路地は狭い。両腕を広げた人間が三人も並べばそれで隣接するビルの壁に手がつくだろう。

「さあ、もう馬鹿な真似はやめるんだ。ここからまたやり直せばいい。安全運転、それが運転者の心がけだよ。社会はね、譲り合いの精神が大事なんだ」

 希守の正面、エンジン音をさらに吹かせて、バイクが急スピードで走り出した! 背後と左右が壁である以上、進行方向は両腕を広げている希守に向けてである。

 希守は、一気に加速して迫ってくるバイクに、断じて臆することはなかった。いや、それどころか、こちらからも立ち向かっていく。一歩、二歩と足を前に出したかと思うと、力いっぱい地面を蹴った。

「うああああああああああああああああああああぁぁぁ!」

 咆哮。

 迫っていく。希守の方から迫っていく。エンジンを稼働させているバイクへと迫っていく。

 希守が迫っていく以上に、バイクが凄まじい加速を経て猛然と迫ってくる。

 迫る。

 それ以上に迫ってくる。

 迫る。

 超絶なまでに迫ってくる。

 そして!

(がはぁ!)

 撥ねられた。それはもうお手本のような正面衝突で。

 真正面からバイクに激突され、真横に吹き飛んだ希守は背中をビルの壁に打ちつける。一瞬呼吸が止また。その体躯がコンクリートの地面へと滑り落ちていく。

(……ぁぁ……)

 耳にはまだエンジン音が響いているが、今は水中にいるようにぼんやりと聞こえる。

(……ぁ……)

 自身を狂わすような激痛後、突然あまり痛みを感じなくなっていた。ただ、全身が激しい熱を帯びているみたいに、熱い。体中から大きな脈が響いていく。その鼓動、とてつもなく激しいもの。

 どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくっ!

(…………)

 すぐにでも死神がやって来て、大きな鎌で刈り取られそうな希薄な意識、閉じそうな狭い視界、そこに見る光景は……バイクの明かりが隣のビルに向けられていた。近くには真っ黒なライダースーツを身に包んだ人間が倒れていて、脇に立つ人間によって木刀が喉元に突きつけられている。

 木刀を持つ男は長身で、青い袴姿の豪。肩までの長い髪を小さく傾けながら、自分の繰り出した一撃によって横たわったまま一向に起き上がろうとしないライダースーツをじっと見下ろしている。

 豪の横には、棒つきキャンディーを銜えたきあ瑠がしゃがみ込んでいた。もう運転はしていないので包まれる雰囲気はいつものほんわかとしたもの。そのきあ瑠が、小さく微笑んだかと思うと、倒れているライダーのフルフェイスのヘルメットを外していく。それは相手を労ってというより、興味本位といった感じで。

(……っ!?)

 そうして驚愕が希守の瞳に映ることに。

(どうして!?)

 同時に、かろうじて保たれていた細い意識が暗黒の濁流に取り込まれていくように、消えていく。

(雷田、さん──)

 最後の意識の一片には、いつも昼に出前を持ってきてくれる万来々軒の雷田翔琉の姿があった。


『俺だって目立ってみたかったんっすよ。ただそれだけっす。天川の旦那を撥ねようなんて、これっぽっちも思ってなかったっす。それ以前に、みんなに迷惑かけようとか、そんなんじゃなかったんっす。信じてください! 俺はただ、走りたかっただけっす。目立ちたかっただけっす。怪盗トレジャーみたいにこの国を盛り上げてみたかっただけなんっす』

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