月の黄人

@miumiumiumiu

第1話


 犯罪者にまっしぐら



       ※


 十一月一日、日曜日。

 本日から新しい月がはじまる。十一月。今年も残すところあと二か月となった。昨日までは秋の涼しさを感じられたが、月が新しくなるタイミングを計ったみたいに、吹く風に冷たさと厳しさが含まれるようになる。急な変化に、このつきこく中央地区にいる五十万人は、慌てて箪笥の奥から厚手の服を引っ張り出したことだろう。

 そうして冬物のコートを引っ張り出した一人、月絵中央警察特別捜査部特別捜査Gに所属する天川あまかわまも。初冬を通り越して一気に真冬モードのフードつき深茶のコートに身を包んでいる。生地が厚いことと、ここまでの激しい運動量で、額に大量の汗を掻きながら建物内を疾走していた。

(くそー、なんでこんな暑いんだ!? 昨日までこんなことなかったのにー)

 足を止めることなく走り回りながら、右手の甲で額に浮かぶ汗を拭い、さらに駆けていく。駆ける駆ける駆ける駆ける。掲示物や模型のあったロビーから通路への扉を抜け、一瞬だけ目に映った白色を追いかけるように外に出た。

 襲いくる冷えた外気を頬で受け、見上げた先にあの白色を見ることができる。希守は迷うことなく長い螺旋階段を上がっていく。暴れるような脈動に、本当は中腰になって息を整えたいところをぐっと堪えて。もう気力のみで足を動かしていく。

 螺旋階段、上へ上へ。

 時刻はすでに午後十一時。当然のごとく周囲は真っ暗である。ここは中央地区西部に位置するかえで緑地公園内に建てられた施設で、周囲に緑はあれど人口建造物は存在しない。当然人工的な明かりも皆無で、暗闇は静まり返っている。耳を澄ませば揺れる木々の音と虫の音が聞こえるも、駆けている希守にそんなことを気にかける余裕はない。近くの公園に設置されている街灯の明かりがあるが、それより高い場所にいるため、あまり効果はなかった。

 特徴的な耳にかかる外跳ねの髪を大きく揺らし、細長い展望塔の頂上を目指して、足元の暗い外づけの螺旋階段をひたすら上がっていく。見上げたところで、さきほど見えた白色はもう視認することはできない。だが、こうして懸命になっている自分の行為こそが正しいと信じ、これまでの疲労によって壊れてしまいそうな両足に鞭打って階段を駆け上がっていく。

(うー、目が回るー)

 直径が五メートルほどの螺旋階段を上がっていって上がっていって上がっていって上がっていって、がんがんがんがんっと静かな闇夜に靴音が響かせながら、ようやく頂上に到着した。同時に、一気に視界が開けていく。

 この展望塔はビル十階分の高さがあり、屋上からの景色は障害物がない分、見上げた空に浮かぶ丸い月をきれいに見ることができる。今日のはかなり満月に近かった。

 だがしかし、現状は月見なんて洒落たことをしている場合ではない。螺旋階段はとても体力を消耗させるもので、足元は頼りないものとなっている。膝がじくじくっと痛い。そんな疲労と、ぐるぐるぐるぐるっ回っている螺旋階段を一気に駆け上がったことですっかり目が回っており、少し気持ち悪かった。小学校の遠足、観光バスで顔を青くしたときが、こんなだっただろう。希守は懐かしく思うも……過ったのは一瞬であり、今はあの白色を探す。

 とはいえ、体力にも限界がある。疲労と気持ち悪さにすぐにでもしゃがみ込みたくなる衝動を堪え、けれど、爆発しそうな心臓をこれ以上制御できず、肩を大きく上下させつつ、自然と中腰になっていくのを止めることはできない……そういった状態でも断じて気持ちは切れることなく、少しでも前へ向かおうと、前屈みに手を伸ばした。

「はぁはぁはぁはぁ……お、追い詰めたぞ、トレジャー」

 中腰というなんとも格好のつかない姿だが、希守が睨みつけるように見つめる先……すっぽりと全身を包む真っ白なローブに包まれた人間が立っていた。顔に大きなゴーグルをした女性。希守はそれを追いかけてここまで全力疾走してきたのである。

「か、観念、はぁはぁはぁはぁ……観念するがいい、トレジャー……はぁはぁはぁはぁ……はぁはぁはぁはぁ……」

「あらあら、これはまた恐ろしいほど息が上がってますこと。天川警部、少しは運動された方がいいんじゃなくて? 休日の日に、ジョギングなんて健康にいいかもしれませんことよ」

「う、うるさい……はぁはぁはぁはぁ……」

 荒い息を整えることもままならず、今も両肩を大きく上下させている。心臓の鼓動の胸を突き破りそうなこともあり、中腰状態からなかなか体勢を整えられない。

「う、運動、不足……はぁはぁはぁはぁ……そ、そんなこと、お前に言われる前に、ふ、普段から……はぁはぁはぁはぁ……普段からごうさんに口酸っぱく、言われてる……はぁはぁはぁはぁ……」

「あらあら、その分ですと、今夜の追いかけっこはここでお終いかしら?」

 顔を隠すような大きなゴーグルをした女性、怪盗トレジャーは、腰まである長い黒髪を一つに縛っており、吹いてきた風によって馬の尻尾のように揺れた。今は設置されている円形の給水タンクの横に立ち、まだ息が整うことのない希守を見つめながら、頬を大きく緩ませる。

 ここは展望塔の屋上。遠くには来年開催される博覧会の目玉、セントラルタワーを眺めることができる。地上四百メートルのとても大きな電波塔。頂上に設置された航空障害灯の赤い明かりが、ちかちかっと一定の間隔で点滅していた。

「さて、天川警部も相当お疲れみたいですし、この辺でお暇することにいたしますわ」

 優美にそう宣言するも、しかし、ここは展望塔の屋上。怪盗トレジャーの後ろに足場がない。そこから先は何もない真っ暗な世界。少し離れた場所に外灯の明かりが見えたが、ここからでは極めて小さく見えた。とても下りることはできないだろう。

 周囲には木々があるが、すべてこの建物の三分の一もない。跳び移れそうな建物もなく、ここから脱出するためには、螺旋階段を通っていくしかない。けれど、そこには息を切らせた中腰ながらも希守が立ち塞がっている。である以上、逃走しているトレジャーとしては絶体絶命の状態にある……かもしれないが、それはあくまで客観的に状況を分析した話であり、怪盗トレジャーは余裕綽々。微塵たりとも追い詰められた感はなかった。

「今夜はこれで……としても、あらあら、結果的に追い詰められてしまいましたわ」

 棒読み。

「大変ですわぁ。あー、どういたしましょう? 困りましたわぁ」

「はぁはぁはぁはぁ……か、観念して、はぁはぁはぁはぁ……め、女神の肖像を、はぁはぁはぁはぁ……お、おとなしく、返せ……はぁはぁはぁはぁ」

「うふふふっ。天川警部はいつもそんなこと仰いますが、そう言われて返すぐらいなら最初から盗みなどいたしませんことよ。今日もとっても楽しかったです、頑張り屋さんの天川警部とご一緒することができて。できれば今度は、もっと『あー、このままでは天川警部に逮捕されてしまいますわぁ! どうしましょう? 誰か助けてくださいませぇ!』といったスリルある追いかけっこをしたいものです」

「っ!? ま、待て!」

 肩を大きく上下に単振動させながら、激しい呼吸を整えていた希守だが、中腰の状態から立ち上がるまでに回復した。であれば、怪盗トレジャーを逮捕するために突進していくべきだが、足が動かない。疲労によるものということもあるが、そんなことに、目の前の光景に愕然としたから。

 闇に浮かぶように全身を包む白いローブを纏った怪盗トレジャーは、すぐ横にある給水タンク下から黒い傘を取り出した。事前に用意していたみたいに。ただの傘でなく、雨が降っても軽く十人は入れそうな巨大傘。と思ったら、その巨大な傘を広げる。ぶばあぁさっ! と大きく空気が弾ける音が響き、怪盗トレジャーが傘に隠れてしまった。

 直後、巨大な傘は手摺りを越え、ビル十階の高さに相当するこの屋上から何もない向こう側へと消えた。

(馬鹿なぁ!?)

 この展望塔の屋上から、飛び下りた!? 希守は目を巨大化させた驚愕のまま、慌てて向かいの手摺りまで駆けていく。

(トレジャー!?)

 腰まである手摺りに掴まり、眼下の光景を目に捉える……暗闇には、優雅に舞う巨大な傘。パラシュートの効果を果たしているようで、ゆっくりと降下している。ただし、色が黒色であるため、暗闇の中では保護色のように見づらく、徐々に公園の闇に溶けていく。

「こ、こらぁ! トレジャー、傘なんてそんな安全性の疑わしいもので、万一のことがあったらどうする気だぁ! もっと命を大事にしろぉ!」

 せっかく屋上に追い詰めたのに、まんまと逃げられた怪盗トレジャーに対してぶつけた言葉が、それだった。

 と同時に、声をかけた勢いのまま、希守は手摺りを越える。

 この状況、逃走する相手を追いかけるには、螺旋階段を下っていくべきだが、そんなことをしていれば逃走を許すのは明白である。かといって、もう傘はなく、忍者のように垂直の壁を這っていくこともできない。この状況、希守以外なら指を銜えるところなのだろうが……希守は手摺りを越えた、視界にいる怪盗トレジャーを追いかけるべく。相手に発した『命を大事にしろぉ!』という言葉の意味は、自身には適応されないように。

(わおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉ!)

 希守は巨大傘を持っていなければ、もちろんその背中に翼がないので空を飛ぶこともできない。そんな状態でこのビル十階分の高さから落ちればまず間違いなく死ぬだろう。

 けれど、今の希守にとって、身の危険は二の次。希守の目にはまだかろうじて巨大傘が見えている。ほとんど闇と同化しているが、まだなんとか視認できているのだ。完全に見えなくなってしまえば、また今回も怪盗トレジャーを取り逃がしたことになるが、まだ見えているのなら、現状ではまだ逃げられたことにはならない。

(ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃっ!?)

 重力に抗うことなく落下していく。希守はこれまでの二十五年間において、一度として得たことのない浮遊感を得た直後、その身が感じる空気圧は尋常のものでなかった。空気の層が次々とぶつかってくるようで、開けた口がぶわーっと広がって避けてしまいそう。とても目を開けていられず、ぶち当たる空気の壁に両腕が広がって大の字となり、一気に空間を渡っていく。

 真っ直ぐ落ちていく。

(ぐわちゅっ!?)

 これまでは落下する一方だったが、功を奏して目的通りに宙に浮かぶ巨大傘に辿り着くことができた。顔面をまともに打ちつけた激痛に涙がぱっと弾けるも。

 しかし、到達した傘は傘なのに、とてつもなく頑丈なもので、希守が追突したぐらいで破れることなく、今も悠々と宙に浮かんでいる。いや、そればかりかその弾力はとても強固で、トランポリンに撥ね返されるように希守は弾き飛ばされてしまった。

 ぼよよーんっと。

 弾かれた希守は、またしても無重力空間に身を置くように一瞬の浮遊感を得て、それから絶対に回避することのできない残酷や約定に縛られていく。

 地面に向かって一直線。

(いがあああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!)

 どごおぉーっ! という鈍い音が鼓膜に振動した瞬間には、全身の感覚が失われた。瞬きすらできない刹那の間に、躊躇なく破壊する凄まじい衝撃が全身に駆け抜けていく。

 地面に落下した。

(っ!? っ!? っ!? っ!?)

 生命として当たり前の『呼吸』自体がパニック状態に陥り、意識が根こそぎ刈り取られてしまいそう。神経が断裂されているのか、その身は痛覚を麻痺しているように、痛みすらも感じることができなくなっている。

 それでも、希守は瞳を動かし、追い求めていく。体をろくに動かせなくても、心は断じて折れることはない。

(ト……トレジャー、は……)

 命としては極めて危うい状態。力なくぐったりと地面に仰向けになる希守だが、それでも目玉を四方に動かしていき……けれど、あの真っ白のローブに身を覆った怪盗トレジャーの姿は見当たらなかった。

 それはつまり、逃走を許したことを意味する。

 今回も。

 無念。

「…………」

 とても静かな場所。とても深い闇。風が吹く。周囲に生えている木々の枝がざわめく。

 とてつもない喪失感が希守の胸に充満していた。

「…………」

 希守は地面に仰向けに倒れていて、立ち上がれない。起き上がることもできないし、寝返りを打つこともできないし、指一本を動かすこともできない。ただただ一方的に全身の感覚が失われていくばかり。持っている熱が一気に冷却されていく。見ているものがぼんやりと霞んでいき、聞こえている音が消えるように薄れていき、存在している意識が急速に希薄なものに。

 それは、希守という存在が、このまま、この場所で、灯っているその命の幕を閉じるみたいに。

 今はただ、絶頂の静寂がその身を包み込んでいく。


「……あまっちょ警部ぅ。おーい。おーい、天っちょ警部ぅ」

「……っ」

 包まれるのはあらゆるものが強制的に排除されていく圧倒的な静寂、それを切り裂く声。希守にはその声の主が誰なのかが分かった。そう認識したときには、消えかけていた意識を僅かばかり取り戻せた気がする。

(……きあ、ちゃん……)

 希守のこと、『天っちょ警部』というわけの分からない呼び方をするのは、この月絵国中央地区に一人しかいない。

 だから、もうちょっと頑張ることにする。長時間放置されて錆だらけの、ちょっとやそっとじゃ動かないだろう鉄製の扉を力ずくでこじ開けるようにして、希守は全霊の力を込めて自身の首を右へ傾けた。右側、それは声の聞こえてきた方角。

 視界に映る人物……こちらに走ってくる小柄な相手がすぐ横に立つ。中腰になり、首を傾けて不思議そうにこちらを覗き込んでくる。

 希守は、あってないような実に弱々しい声を、それはもう決死な思いで紡ぎ出す。

「……き……きあ瑠、ちゃん」

「わー、天っちょ警部だったりしちゃいます。まったく、ここまで捜しちゃったりしちゃいましたよー。もう、こんなところで寝てる場合じゃなかったりしちゃいます。だって、こんな所で寝ちゃって、風邪なんか引いたら有給休暇が減ったりしちゃいますよー」

「…………」

 実感として『瀕死』と称しても過言でない状況下で、どうせ期末には消化できずに残るだろう有給休暇のことを心配されるとは……いやでも額に巨大な汗が浮かんでしまう。

「……トレジャー、は?」

「さあ……?」

 問いかけに、大きく首を傾ける小柄な女性。問われたことに関して、最初から気にもかけていない様子。

「そんなことよりも、大変だったりしちゃうんですよ。あー、思い出しただけで大変だったりします。だから、今は怪盗トレジャーのことを気にしてる場合じゃないようなあるような気分だったりしちゃいます」

「……どっち?」

「とかく大変だったりしちゃうんですよ、天っちょ警部ぅ!」

 青色を基調とした白地の婦人警官の制服を着た加賀屋かがやきあ。いつものように肩までかかる髪の毛に十以上のカラフルなヘアピンをつけている。口には棒つきの飴を銜え、『とかくのとかくに大変だったりしちゃうんです!』と両手を落ち着きなく動かしながら、『とかく』という言葉を連発する。

「とかく、大変だったりしちゃいます。さっき怪盗トレジャーを追いかけて天っちょ警部が入った美術館横の倉庫が、なんと、世間を騒がせている児童連続誘拐犯のアジトだったりそうじゃなかったりするようなしないようななんですよー。あー、もうびっくり」

「……どっちなの?」

「けどけど、安心しちゃってもいいかもかもかもー。天っちょ警部が出ていってからはごうちょびが孤軍奮闘しちゃって、どうにかなると思ったりします。なんせ敵はたったの五人ですよ、ふっふっふっ、なら、楽勝だったりしちゃいますね。あ、でも、念のために応援もちゃんと要請したいところです」

「……要請してね」

「とかく、天っちょ警部が出ていっちゃってから、大変だったりしちゃったんですよ! あー、こんなことしてる場合じゃなくて、早く戻って、豪ちょびの奮闘振りを指差しながら笑ってたり寝転がってみたりしたい気分でもあったりなかったりするところです」

「……少しでいいから、豪さんのお手伝いをしよう」

 仰向けのまま、希守は大きく息を吐く。その視界、木々の間には僅かばかりの星々のきらめきを見つけた。

「そっか……今回も、トレジャーには逃げられちゃったんだねー」

 しみじみ。

 展望塔横の地面、そこに短い雑草が生えている。『またしても逃げられた!』そう事実を認めると、張り詰めた気が急速に抜けていき、漆黒の闇へと吸い込まれるように意識が希薄と化す。

(……僕は、また、トレジャー、を──)

 すぐ横では、大きな身振り手振りで『現状の慌ただしさ』を示すきあ瑠の姿。その姿を最後に、意識はぷつりっと糸が切れたように途絶えた。


 翌日の新聞には『お手柄、天川警部! 巷を震撼させた児童誘拐犯を逮捕! またしても怪盗トレジャーを取り逃がすも』という大きな見出しが飾ることになるが、希守はその日、運ばれた病院のベッドで一度も目覚めることなく、見出しを目にすることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る