第一章 座敷童誘拐事件──憧れの作家は人間じゃありませんでした──8

 梶原への報告は、その晩のうちに行われた。

 座敷童はもうこの家には戻らない、と御崎禅が伝えると、当然ながら梶原は激怒した。座っていたソファから立ち上がり、大きな声でわめく。

「どういうことだ!? お前達の役目は、あの女から座敷童を取り戻すことだろう! この役立たずめ、馬鹿者が! もう一度行って、座敷童を連れ戻してこい!」

「無駄ですよ」

 御崎禅の声はそっけなかった。

しきわらしは誘拐されたのではありません。自分の意志で、本村さんについていったんです。あなただって、本当はわかっているんでしょう?──あなたの家は、見放されたんですよ。座敷童にね」

 冷たく告げた御崎禅に、梶原はしばらく口をぱくぱくさせた後、がっくりとソファに腰を下ろした。そのままうつむき、手で顔を覆う。なんてこった、というつぶやきがれた。

 座敷童が出て行った家は傾く。

 今日の新聞に、梶原基喜が離党届を出したという記事が載っていた。近々議員辞職するのではないかとは、ワイドショーが言っていたことだ。

「子供の頃……あれと遊んだんだ、私は」

 手で顔を覆ったまま、梶原が呟くように言うのが聞こえた。

「上の兄が二人とも、私を置いて遊びに出かけてしまって、縁側で一人で泣いてたら、いつの間にか、すぐ後ろにあれがいた。あれは、泣いてる私に向かって『遊ぼう』と言ってくれた。『遊ぼう』、と……──私は、友達ができたと喜んだんだ、あのとき」

 政界の重鎮。もうりようばつする国会で、己の地位を築き上げた男。

 けれど今、かすれた声で昔のことを語る梶原は、とてもそんな風には見えなかった。あれだけ周囲に放っていた威圧感が根こそぎ消えてなくなり、あさひは今更ながらにこの男が随分と小柄な老人であることに気づいた。

「東京に出てきて、あれがついてきてると気づいたときには、うれしかった。だが、最近ではとんと姿を見なかった。……そう、あれは何という名前だったかな」

「それすら思い出せなくなったあなたに、あの子といる資格はありません」

 御崎禅が言う。

「座敷童は家に憑き、家を守るものです。家とは、くつろげる場所です。そこに戻れば安心できる場所のことです。この家は、この家に住む者にとって、そういう場所ですか?」

「……言ってくれるじゃないか」

 乾いた声で、梶原が笑う。その肩が震えているのは、笑っているからなのか、それとも泣いているからなのだろうか。

「この家に、もう座敷童の居場所はない。だから誰の目にも、座敷童は見えなくなってしまったんです。あなた自身、それがわかっていたから、わざわざ外から座敷童の相手役を雇ったんでしょう。座敷童をこの家につなぎ止めるために」

 梶原はもう何も言わなかった。顔も上げず、ただ静かに肩を震わせていた。

 もう用は済んだとばかりに、御崎禅は席を立った。あさひと夏樹もそれにならった。

 部屋を出る前に、御崎禅は梶原に向かってこう言った。

「座敷童が出て行った家は傾く。当然のことです、それまで座敷童がいるがために舞い込んでいた幸運がなくなるのですから。けれど、一ついいことを教えてあげましょう。座敷童が出て行ったことによって、不運が舞い込むわけではないんですよ。ですから、もしあなたが失ったものを取り戻したいのであれば、誰にも頼らず、自分自身でなんとかすればいい。──自分の手で、あなたの家を、取り戻せばいい」

 老人の肩が、びくりと揺れるのが見えた。

 返る声はなかった。顔も上げなかったし、もう何をわめくこともなかった。

 御崎禅はもう振り返ることもなく、部屋を出て行った。夏樹もその後を追う。

 あさひはまだ梶原を見つめていた。

 何か言ってあげたいと思った。けれど、何を言っても月並みな慰めにしかならない気がして、そんな言葉しか思い浮かばない自分が情けなくなった。

 結局、こう言った。

「大丈夫ですよ。きっとできます。まずは、お孫さんの明人くんに優しくしてあげてください。怒鳴ったりしないで、話を聞いてあげて、一緒に遊んであげてください」

 ありがちな、実に平凡な言葉だと、自分で思った。あまりにも陳腐すぎて、いっそ言わなければよかったと後悔した。

 だが、あさひが部屋を出る直前、梶原が何か呟くのが聞こえた。

 ひどく小さな声だったのでよく聞こえなかったけれど──ありがとう、と言われたような気がした。


 梶原邸の外に出ると、そこには新たに一台、黒い車が停まっていた。

 車の傍に立っていたのは、葬式帰りのような黒いスーツ姿の、ひょろりとした男だった。髪には白髪が混じっているが、顔にはあまりしわがなく、年を取っているようにもまだ若いようにも見える。

 男は、あさひ達が出てきたのを見ると、ひらひらと右手を振ってみせた。

「げっ。係長っ……!」

 夏樹が顔を引きらせる。ということは、あれが夏樹の上司らしい。

「やあ、御崎先生。いつもお世話になってます」

「これはやまさん。お元気そうで残念です」

 さらりとした口調で御崎禅が言う。

 山路と呼ばれた男は、もともと細い目をさらに細くして笑い、

「あれ? そこは普通『お元気そうで何よりです』でしょう、私の聞き間違いかな?」

「いえ、合ってますよ。まだ耳はおかしくないようですね、よかったですね」

 御崎禅も笑みを返す。ひたすらに冷え冷えとした笑みだった。何だろう、はたから見ていてものすごく怖いやりとりに思える。

「夏樹さん、あの二人って仲悪いんですか?」

 あさひは思わず小声で夏樹に尋ねた。

「やー、仲悪いっていうかなんていうか……ごめん、そこ俺にコメント求めないで」

 夏樹はまだ顔を引き攣らせたまま、首を振る。

 山路はそこであさひと夏樹を振り返り、

「ああ、林原くん、遅くまでお疲れ様。そちらの方は、どなたかな?」

「あー、この人は、御崎の新しい担当で」

「……希央社の瀬名と申します」

 あさひは名刺を取り出し、山路に渡した。

「ああ、希央社の。そうでしたか、大橋さんから担当替わったんですねえ。警視庁捜査一課異質事件捜査係係長の山路宗そうすけです、よろしくお願いします」

 山路も名刺を取り出し、あさひに差し出した。ちようだいします、と言って受け取る。

 山路はいかにも温厚そうな笑みを浮かべて、あさひを見た。

「それで、どうして一編集者のあなたが、こんなところにいるんです? まさかうちの林原があなたを巻き込んだんですか?」

 どうしてだろう。こんなに穏やかな笑顔なのに、こんなに人当たりのいい話し方なのに、この山路という男の何もかもが妙に恐ろしく思えてならない。

「困りますねえ、林原くん。警察の捜査活動に一般人を巻き込んじゃいけないなあ」

「係長、それはあのっ」

「違うんです、わたしがお願いしてっ」

 夏樹とあさひが同時に口を開く。

 そこへ、御崎禅が声を投げた。

「彼女は、僕のボディガードだそうですよ。警察への捜査協力で僕が無体な目に遭わされることがないよう、全力で守るつもりなのだとか」

「ほほう? それはそれは。こんな若い女性に守られるとは、うらやましいですねえ」

 山路の視線があさひかられる。ただそれだけでなんとなくほっとし、あさひは息を吐いた。梶原も怖かったが、山路はそれとは別種の威圧感を持っている。得体が知れない、底の見えない恐ろしさだ。

「それで先生、事件の方はどうでした? 無事に片付きましたか」

「片付いたも何も、そもそも事件など起こってはいませんでしたからね。あれは誘拐ではなく、本人の自由意志による家出です。梶原氏にはそう説明してきたところです」

「おやおや、困りましたねえ、それは。うちの上の方に梶原氏から直々に頼まれていた件なのに、そんな不本意な結果に終わるなんて」

「あなたが困る分には僕は笑って見ていますが、どうせ困るのはあなた以外の別の人なんでしょうね」

「そうですねえ、うちのキャリア官僚の誰かさんがどこぞの警察署長に格下げとかねえ。そんなことになったら可哀想ですねえ泣けますねえ」

 のらりくらりした口調で山路が言う。

 なぜ係長クラスの人間が困らず、それより上層の人間が格下げの危機にさらされるのだろう。あさひは思わず夏樹を見たが、夏樹は俺にかないでという顔でぶんぶんと首を振った。

 と、山路の懐からいきなりはんにや心経が流れ出した。

 何事かと思ったら、携帯電話の着信音だったらしい。山路は落ち着き払った様子でスマホを取り出すと、二言三言話して通話を切った。

「今、梶原氏から『誘拐ではなかった。もういい』との連絡があったそうです。というわけで、この件はおしまいです。誰も泣かなくて済むみたいですし、良かったですねえ」

 誰からの電話なのかということには一切触れずに、山路はそう言った。

 御崎禅は不機嫌な様子を隠さないまま、

「そもそも今回のようなケースの場合、僕が出る幕はないと最初からわかっていたんじゃないですか? なぜいちいち僕を呼ぶんですか。いい迷惑ですよ」

「そんなことはありませんよ。人外の存在に関わることは、人外の存在から説明していただいた方が説得力もぐっと増します。おかげで梶原氏だって、あっさり納得してくれたじゃないですか。けれど、そうですねえ、さらに理由をつけるとするなら──」

 相変わらずにこにこしながら、山路が言う。

「──我々警察に協力するのがあなたの仕事だということを、忘れないようにしていただくためですかねえ」

 そのときあさひは、山路の笑顔がこんなにも怖い理由にやっと気がついた。

 糸のように細められた目。黒々としたそのひとみに宿る光は、どれだけ顔が笑みの形を作ろうとも、ひどくえとしたままだからだ。

「ねえ、御崎先生。あなたは我々の管理下にあるということを、お忘れなく」

 山路が言う。

 親しげな笑みを顔に貼りつけ、その実、この男は、少しも笑ってなどいないのだ。

 御崎禅の顔に、ちようのような表情が浮かんだ。

「成程。犬が犬であることの確認というわけですか」

「犬だなんて、とんでもない。あなたはもっと素晴らしいものじゃないですか。──さて、では私はこれで失礼しますよ。ああ、林原くん、報告書ちゃんと書いてね」

 山路はそう言って、きびすを返した。自分の車に乗り込み、エンジンをかける。

 そのまま発進する前に、山路は一度窓を開けて顔をのぞかせた。

「そうだ、御崎先生。新作、お待ちしてますよ。私も先生のファンですからね」

 ──走り去る車めがけて石を投げたいなどと本気で思ったのは、初めてだ。

 御崎禅が言った。

「瀬名さん。言っておきますが、警察官の車に向かって投石したら、問答無用で逮捕ですよ」

「でもっ! 何なんですかあの人! ひどすぎます!」

「あーごめんあさひちゃん、うちの上司がひどくて。不快な気分にさせてごめん」

 夏樹がなだめるようにあさひの背中をたたく。

「夏樹さんまで! どうしてあんな言い方を許すんですか!」

「そりゃ俺だって腹は立つよ。でもあの人、裏では階級に反してちやちや権力持ってるし……直接トップとつながってるって噂もあるし。それに俺を異捜に引っ張ったのあの人だし、何より上司だしさ。上司に反抗するなんてドラマの中でしか許されないことだよ?」

「そんなっ……」

 あさひは夏樹の言い方にがくぜんとした。上司だからただ従うのか。普段はまるで御崎禅の親友のように振る舞っているくせに。

 猛然と言い返しかけたあさひの顔を、そのとき夏樹が至近距離から覗き込んだ。

「だってさあ、あさひちゃん。考えてもみてよ」

 その顔のあまりの近さに一瞬あさひが黙った隙に、夏樹は言葉を続けた。

「俺があの上司に嫌われて異捜クビになったら、どうなると思う? 俺の代わりに御崎の担当になる刑事があの上司と同じタイプだったら? それって、滅茶苦茶御崎が可哀想じゃない? ねえ、やばいでしょそれ」

 大真面目な顔で言う夏樹に、あさひは言い返しかけた全ての言葉を忘れた。

 あさひの横で、しみじみと御崎禅が言う。

「ほらね。馬鹿でしょう、夏樹は」

「んだよっ、馬鹿って言うな! 大体、異捜クビになったら、俺絶対交番勤務に回されるんだぜ! 山路さんが裏から手ぇまわして、離島とかに飛ばされるんだぜ!」

「魚とかしいんじゃないですか、離島。夏樹、魚好きでしょう」

「そういう問題じゃねえよ!」

「さあ、そろそろ帰りましょう。今日はWOWOWで、前から気になっていた映画が放送されるんです」

 御崎禅がそう言って、夏樹を車の方に追い立てる。

 あさひはその場に立ったまま、ぼんやりとそんな二人を眺めやる。

 ──なんというか、この二人は。

 御崎禅の傍にいるのが夏樹でよかった。素直にそう思った。

 山路のことはとても好きにはなれそうにないが、御崎禅の担当に夏樹をあてがったのが山路ならば、その選択はとても正しかったということだ。

 ──自分も、御崎禅にとって、そういう人間になれればいいなと、あさひは思った。

 他の人が見て、ああこの人が御崎禅の担当でよかったと思えるような、そんな担当編集になりたいと思った。

「あさひちゃんも早く乗ってー。近くの駅まで送るからさ」

「あ、はい! すみません」

 夏樹に呼ばれて、慌ててあさひも車に乗り込む。夏樹が運転席、あさひと御崎禅が後部座席だ。夏樹が車を発進させると、梶原邸が遠ざかっていく。

 最後に見た梶原の様子がやはりどうしても気になって、あさひは口を開いた。

「梶原さんの家は、これからどうなるんでしょう」

「梶原氏の家は衰え、本村さんの家は栄えます。しきわらしはそういう生き物ですからね」

 御崎禅が答える。やはりそれはどうしようもないらしい。

 ただ、御崎禅は先程梶原に向かって、「座敷童が出て行ったことによって、不運が舞い込むわけではない」と言った。それまでプラスされていたものがなくなるだけなのだと。

 ならばやはり、この先は、梶原とその家族達の問題なのだ。

 あさひにできるのは、彼らがこれから良い方向に向かうのを願うだけだった。家族としては崩壊していた彼らが、これを機に再生してくれるといい。『HOME 愛しの座敷わらし』だって、家族の再生の物語だった。家にくという座敷童は、つまるところ家や家族といったものの象徴なのだろう。

「先生、そういえばわたし、前に何かの本で、間引かれて死んだ子が座敷童になるという説があるというのを読んだんですが」

「かもしれませんね。彼の名前は『三太』でしたから」

 他に兄弟がいることを暗示させるその名前には、聞いたときから若干の引っ掛かりを感じていたのだ。もしかしたら、彼はかつて人間で──何かしら不幸な結末を迎えた子供だったのかもしれない。

「我々人ならざるもの達は、人の生まれ方とは異なる生じ方をすることが多い。かつて人として生きていたものが、あって人外の存在に変ずることはよくあります」

 座敷童は家に憑く。

 だが、三太は、梶原が上京するとき、共についてきた。

 もしかしたら三太は、梶原の家族のつもりだったのかもしれない。

 けれどいつしか、三太の姿は、梶原にも見えなくなった。梶原の家族達にも、三太の姿は見えなかった。──誰も、三太の家族とは言えなくなってしまった。

「……寂しかったんでしょうね、三太くん」

 あさひは思わずそうつぶやいた。

 最新のおもちゃばかりのあの部屋で。

 誰にも認識されない子供は、ただ遊び相手を──家族を、求めていたのだ。

「人恋しい、それは何も人だけの感情ではありません。人ならざる存在だって、誰かを親しく思い、恋しくも思うものです」

 人ならざる吸血鬼はそう言って、窓の外に目をやった。

「……先生」

「はい」

「それ、いい言葉です。次の短編、そんな話にしませんか? 明日あしたにでも、打ち合わせさせていただいてもよろしいでしょうか」

「……瀬名さん、あなた、意外と仕事熱心な人だったんですね」

 窓の外を向いたまま、御崎禅が呟く。夏樹が運転席で吹き出すのが聞こえた。


 この日もとうとう御崎禅に何の告白もできずに終わってしまったことにあさひが気づいたのは、家に帰ってからのことだった。

「……うわあああん二号また今日も言うの忘れたあああああ……!」

 頭を抱えてうめくあさひを、二号は無言で優しく見守ってくれた。

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憧れの作家は人間じゃありませんでした 澤村御影/KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko

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