夏の空気とR.Muttの署名

叩いて渡るほうの石橋

夏の空気とR.Muttの署名

 絶え間ない晴れ。汗を撫でた風が背中も簡単に通りすぎた。一生物も案外、とうに朽ちた。


 いつまでそこに立ってるんだ馬鹿だな。そう言われても返せないあかんべ。楽観的で涼しげに見えるけれど、私がここに居続ける間に世界を回り戻ってくる。そしてまた目の前に現れ、また私を追い抜いて行く。


 風になれたらどんなに軽くなるか。


 頭に降る。暑く、夏が。


 早くここまで来れば。


 追いつけないかもしれないという気持ちは振り払った。クレバーじゃないけれど描き出す。むしろ、描かなければならなかった。いつしか手は裏返ったが、地に足つけ堪えた。


 私はかねてからの疑問を投げかける。


 「先輩は、芸術が芸術たる理由はなんだと思いますか。美術の教科書にある絵画や彫刻には写真を撮ったように綺麗なものもあれば、そうでない、何と言いましょうか、言うならばみすぼらしいものも多くあります。私にはあれらが芸術である理由がわかりません。理解しやすく万人に受け入れられる作品のほうがよっぽど美しいと思うのです。暢気に眺めていられる娯楽こそ芸術の真髄だと思うのです」


 質問に対する答えをまとめているようで、先輩はしばらく黙った(いま思えばあれは、後輩にもバカなやつがいたものだとの呆れによる沈黙だったのかもしれない)。暖かいと思える温度を超えた熱気が私たちを切れ味悪く溶かしていく。しばらくして先輩はやっと口を動かし始めた。


 「僕が考えるに、芸術と娯楽は似ているようでまるで違う。どちらが偉いと言うことはないけどね。娯楽は、小さな子どもでも楽しめる物なんだ。もちろん大人にだってバカにだって楽しめる。ところが芸術は、教養がある者でなくては楽しめない。多くの大人が芸術を鑑賞するのは己に酔っているからじゃない、己の経験をもって自分と向き合わなければ開かれない扉だからだ。もう一度言うけど、どちらが偉いなんてことはない。子どもの楽しみがあり、大人の楽しみがある。問題はそこじゃあない」


 彼の顔は一転、苦虫を噛み潰したようになる。


 「バカというのがいるんだ。彼らは大人も娯楽のみを見るのが全うで小難しい芸術は気取っている、そのうえ娯楽を芸術だとまで思っている。さっきの君のようにね。いいかい、この二つは混同しちゃいけないんだ。例えるなら陸上競技ってあるだろう、同じ短距離でも100mと200mは別物だ、そういう感じかな。芸術の扉の取っ手を握ることもない自分を棚に上げて、彼らはこう言う。芸術は多くの人に理解されてこそ本物だ、と。それ自体に異論を唱えるつもりはないけどね、娯楽にだけ浸っていた子ども時代から成長なく、幼いままただ時に流され、周りが嘲笑しているのにも気がつかないのは哀れでさえある」


 ふと、ちょうど一年くらい前に先輩とそんな話をしたことを思い出した。


 用を足そうとトイレに入ったら、便器が目についたからだ。先輩の言葉を一言一句聞き漏らさず、そらで言えるほどであるが未だに芸術が何か理解できずにいる。私はまだ子どもなのだ。歳を重ねようと、経験を積もうと、彼の言う大人は彼方にある。果たしていま使っているこの便器は、芸術なのだろうか。


 精密で写実的な絵を見たら、描いたのが芸術家であろうと素人であろうと美しいと思える。恐らく世の大半がそうだ。しかし美術館に展示される芸術品の中には私にでも作れそうなものがある。あれは何なのだろう。


 便器は芸術だろうか。


 いいや、芸術じゃない。


 用を済ませてすぐにトイレを後にする。背を向け、未練もなく、手を洗いに行く。


 よく、「下手」だけれど評価されている物を作る人たちはとてつもなく「上手」な作品も持つのだと聞く。私には高い技術がありながら、あえて遊びのようなことをするのは納得がいかない。名高い人の「下手」な作品よりも素人の「上手」な物のほうが評価されてしかるべきだ。誰が作ったかによって価値が左右されるなんて許されることなのか。


 半ば怒りのような気持ちを持って汚れを無くそうとする自分の顔のもう一つが鏡にある。石鹸を手の内でこねるように泡立てるその表情は微笑みを匂わせていて、私は私に驚いた。


 友達にとても綺麗な絵を描くのがいる。そいつの絵に初めて出会ったときは感動した。趣味としてはかなり高度なものを作るやつだと思う。


 しかし、記憶を掘り下げてもその友達が「上手」だとの事実は出てくるが、何を描いていたかを思い出すことができない自分にはっとした。


 泡が、ひとつ弾ける。


 ──芸術とは、刹那的なものなのだろうか?


 美しくあることより、遊びだとしても新たなことに挑戦するその姿勢にこそ真の価値があったのではないか。もし私が何かを意味した絵を描きそれを芸術だと宣言したとき、ほとんどの人は自分の価値観における「上手」「下手」の線引きによって評価をするのでは無かろうか。しかし、先輩はきっと違う。「この芸術は何を表現しているのか」を見る。そして、先輩なりの思考を私にぶつけてくれる。作者の意図したものと真逆の考えだったとしても先輩が恥じることはないだろう。私の作品でも、芸術家の作品でも。


 そうか、物理的な物も、思念的な物も芸術なのだ。それらは何を意味しているのか考える時間を与えてくれる、さらには発見した意味を通して自分自身と、他者と話すことのできるものだったのだ。作り手による意味の込もった表現が芸術であり、鑑賞者によるそれの理解もまた芸術なのだ。


 私は考えることを止めていた過去を悔やんだ。どれだけの作品を無駄に捨てて、どれだけの新しい自分を失ったのか想像もつかない。芸術とはどれだけ細かに写すかという行為だとばかり思っていた。本質は、現実を見せつけてくるそれらを見て何を感じられるかにあるに違いない。


 先輩はそういった現実を知るために正しく教育を受けていなければ、何かを感じとることすら不可能であると言っていたのかもしれない。それが、バカではなく大人になるということなのだと。


 あの便器は芸術だろうか。


 もしかしたら、私が芸術だとさえ言えば芸術なのかもしれない。簡単なことではない、いたって普通の日常的な物に何かしらの特別な意味を含めなければ、それを訴えることもできない。当然、感じてもらうこともできない。


 私はトイレという閉じられた空間から一歩、強く踏み出す。相変わらずの暑さだけれど、そこにもう重みはなかった。


 考えを止めてはならない。人間にしかできない、私にしかできない思考をするのだ。


 それが現実であり芸術なのかもしれない。

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