正しい包丁の使い方

 前に、お父さんが晩ご飯のおかずに魚を釣ってきたことがある。

 たった一匹。

 その日はほかにおかずを用意してなかったから、その一匹を四人で分けることになった。


 お母さんはその魚を捌いていた。

 お姉ちゃんはなにかを手伝っていた。

 悠月ゆづきは、ただ見ていた。

 あのとき、四人で分けた魚に、悠月は手をつけなかった。気持ち悪くて、食べられなかった。


 お母さんに「食べないの?」と訊かれた。

 お父さんはにこにこして「食べないならお父さんが食べちゃうぞ」と言った。

 お姉ちゃんは悠月を見て「美味しいのに」とつぶやいた。

 それでも、どうしても「じゃあ食べる」とは言えなかった。


 ――悠月も魚も、ひとりぼっちな気がしていた。


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 ハンバーグをこねたり、クッキーの生地に型をはめたり、それくらいはやったことがある。

 でも、本格的に料理を作るのは今日がはじめて。


 今日は、お父さんとお母さんの十二回目の結婚記念日。

 だからお祝いに、お姉ちゃんと一緒にカレーライスを作ることにした。

 上手く作れるかな。

 美味しい、って喜んでくれるかな?


 お祝いに料理を作るって二人に言ったとき、お父さんに、悠月に料理はまだ早い、って言われたな。

 ちょっと悲しいような気もする。

 お母さんは喜んでくれてたけど、その気持ちだけでも充分よ、とか思ってそう。

 ちょっと寂しいような気もする。


 ねぇ、お父さん。

 ねぇ、お母さん。

 悠月は二人にとって、なに?


「始めるよ」

「うん、作ろ。お姉ちゃん」


 待っててね、お父さん、お母さん。

 きっと美味しいカレーを作って、二人をびっくりさせるんだから――。


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「悠月とお姉ちゃん、上手く作れるかしら。楽しみねぇ、あなた?」

「そうだな。でも悠月、まともに料理するのなんてはじめてだろ。本当に大丈夫か?」

「あら、お姉ちゃんもついているし、大丈夫よ。それに、」

「その気持ちだけでも充分、だろ?」

「はい、あなた」


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「はい、これ」


 ピーラーという道具を渡された。これを使ってニンジンの皮をむくらしい。

 これなら悠月にも簡単にできそう。

 ……使ったことはないけど。


「お姉ちゃん、これどうやって使うの?」

「これはね、ここを持ってこう、」


 悠月と三つしか違わないのに、お姉ちゃんはすごいな。悠月の知らないことも、お姉ちゃんはなんでも知ってる。

 悠月も、大きくなったらお姉ちゃんみたいになりたいな。


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「お母さん、爪切り」

「はい、あなた」

「ああ」

「深爪しないようにね」

「気をつけるよ。でもなあ、一つを短く切りすぎてほかの爪も切って揃えようとすると、今度はほかの爪のほうが短くなったりするんだよなあ」

「ふふ、あなたらしい」


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 カレーのいい匂いがする。

 ニンジンの皮むきって、思ってたより大変だなあ。


「んー、若干スパイス足りないかな?」


 味見をしてたお姉ちゃんは悠月のほうを見た途端、石みたいに固まった。


「味見? じゃあ悠月も、」

「じゃなくて、ニンジン」

「ニンジン? 悠月、お姉ちゃんに言われた通りに、ちゃんと皮むいてるよ?」

「そうじゃなくて。――いつまでむいてるの?」


 お姉ちゃんはいつも、なにかに集中したり考えこんだりすると、現実を見失う。

 だからお姉ちゃんは料理に集中しすぎて、ニンジンのことなんか、悠月のことなんか忘れてたんだ。

 お姉ちゃんらしい。

 でも、ちょっと悲しいな。


 ねぇ、お姉ちゃん。

 悠月は、ひとりぼっちなのかな?


 ちっさ、とつぶやいたお姉ちゃんは、悠月のむいたニンジンを無理やり奪い取った。


「ま、いいか。あとはお姉ちゃんが切っておくから、悠月は隠し味のスパイスを入れてね……このニンジン、今から入れて火通るかな」


 だめ。

 悠月はまだ皮むきしかやってない。

 これじゃお姉ちゃん一人で作ってるのと変わらないよ。


「切るもん」

「え、でもさ、危ないよ。包丁使ったことある?」


 あるわけない。

 でも、それくらいしなきゃお父さんとお母さんに、悠月の気持ちが伝わらないかもしれない。


 だからせめて。


「悠月が切るもんっ」


 結局、お姉ちゃんは悠月に包丁を渡してくれた。

 ――どうせ渡してくれるなら、最初からそうしてほしかったのに。


 テーブルの下や食器棚の隙間を覗きこむお姉ちゃん。

 隠し味どこに隠れてるの、だって。


 まな板の上にはニンジン。左手を添え、右手で持った包丁をニンジンめがけて振り下ろす。

 ニンジンは面白いように上手く切れる。

 包丁の切れ味がいいのかもしれない。


 お姉ちゃんはゴミ箱を漁り、隠し味、とつぶやいて溜め息。

 ゴミ箱になんてあるわけないじゃん。もう、お姉ちゃんったら――痛い、痛い痛い痛い痛い。

 びっくりしすぎて声も出なかった。


 手元を見た。

 真っ赤に染まったまな板がある。


 思いだした。

 ニンジンを切ったときにはない生々しさを、悠月は知ってる。

 無表情に魚をころすお母さんを、悠月は知ってる。

 捌かれた魚から流れる赤を、悠月は知ってる。

 そんな魚を食べる悠月自身を、悠月は知らない。


 わからない。

 あのとき、四人で分けた魚に、悠月は手をつけなかった。気持ち悪くて、食べられなかった。

 悠月は魚。

 魚は悠月。

 ――悠月も魚も、ひとりぼっちな気がしていた。


 ニンジンに添えていた左手の人差し指が根元からなくなってる。

 溢れる血をニンジンに浴びせた。

 まな板の上に散乱するニンジンに紛れる指。

 指はたぶん、ひとりぼっち。


「悠月ー、そろそろニンジン、」


 振り返ったお姉ちゃんは、やっぱり石みたいに固まった。


「大変、お母さん呼んでくる!」

「それはだめ、だめなの」


 走りだそうとしたお姉ちゃんをとっさに呼び止めた。


「えっ、でもでも、だってその怪我――」


 幸いにもお姉ちゃんは止まってくれた。

 けど、ものすごく焦ってる。

 こんなお姉ちゃんはじめて見た。

 ――こんなお姉ちゃんはじめて見た?


 あはは、おかしい。

 なんで悠月より動揺してるの。

 なんで悠月はこんなに――。


 そして、お姉ちゃんは悠月を肯定した。


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 神経質なお父さんに似たのかもしれない。

 ひとりぼっちの指がいやでほかの指もきれいに揃えようとして、中指の付け根に包丁を添えた。

 お姉ちゃんに怒鳴られた。


 お姉ちゃん曰く、今日の悠月はどうかしてるらしい。

 本心は、寂しいだけなのかもしれないのに。


 台所の血痕は全てお姉ちゃんが拭ってくれた。

 それから、悠月の手にキッチンペーパーを何層にも巻きつけて、止血を試みてくれた。さらにその上からラップをぐるぐる巻きにされた。


「応急措置だから、カレー食べ終わったらすぐ一緒に病院いこ」


 やっぱり、お姉ちゃんはすごいな。

 悠月のできないことも、お姉ちゃんはなんでもできる。

 悠月の知らないことも、お姉ちゃんはなんでも知ってる。


「あのね、悠月……切っちゃったのは仕方ないけど、わざとにあんなことしちゃ、だめ」


 お姉ちゃんは悠月自身も知らない悠月の本心を、心の中を、知ってるのかな。


「ごめんなさい、もうしないから。――ねぇ、お姉ちゃん」

「うん?」


 訊いてみようと思った。


「カレー、上手くできた?」


 怖じ気づいて、訊けなかった。


「まあまあかな。でも結局、隠し味は見つからなかったんだけどね」

「――ねぇ、カレーってさ、なにを入れても美味しくなるって本当?」


 お姉ちゃんの答えはたぶん、間違ってなんかないと思う。


 ルーとライス、均等に皿へと盛りつけられたカレーを両手に抱え、お姉ちゃんは台所と居間を二度往復した。

 四人分のカレーライス。

 悠月はほとんど作れなかったけど、美味しくできてたらいいな。


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 怪我を悟られないように左手を後ろに回し、いつもの席に着いた。

 なんかどきどきする。


 ――おお、うまそうだなあ。


 悠月の頭の中、なんか変。

 お父さんの声がはっきり聞こえない。

 でも、すごくどきどきする。

 お父さんとお母さん、美味しいって喜んでくれるかな?


 ――おかわりもあるからね。


 お姉ちゃんの声。

 でも、はっきり聞こえない。

 どきどきする。どきどきどきどきどきどきどきどき。


 ――こりゃ絶品だなあ、お母さん?


 やった。お父さん、喜んでくれた。

 お母さんもお父さんに倣って、すくったカレーを口に含んだ。手のひらに吐きだした。


 なんで。なんでなんでなんで――。

 不味いのかな。

 それとも、悠月のこときらい?


 ――これ、なんの肉かしら。


 手のひらを見つめるお母さん。

 そこには当たり前のように、ぽつん、と指があった。


 ――それ、悠月のおにくだよ。


 お母さんが呻いた。

 なんで。なんでなんでなんで――。

 やっぱり悠月のこと、きらいなのかな?


 ――そっか。

 証拠がないもんね。

 それが悠月の指だって、今すぐ証拠を見せるからね、お母さん。


 左手に巻かれたラップを剥ぎ取った。血で固まったキッチンペーパーがこぼれ落ちた。四本の指があらわになった。微量のルーとお母さんの唾液と悠月の血がまとわりついた五本目の指を右手でお母さんから奪い取り、左手人差し指の付け根部分にくっつけてみせた。パズルみたいにはまった。空気が凍った。食卓が沈んだ。お母さんが猛り狂った。あるいはもっと前から。なんで。わからない。わからないよ。どうして。どきどきする。どきどき、どきどき、どきどきどきどきどきどきどきどき。


 お姉ちゃんを見た。

 石みたいに固まって、悠月を見てる。

 お姉ちゃんの答えは、間違ってないはずなのに。


 お父さんを見た。

 なんでかな、目が死んでる。


 お母さんを見た。

 汚いものでも見るように、じっと悠月を見てた。


 ――悠月の手から、指が落ちた。

 転がる指、拾った。愛おしい、舐めた。


 これ食べたら、どうなるのかな?

 口に放りこむと、仄かにカレーの風味があった。次に血の味が口の中に広がった。唾液の味はしなかった。


 悠月は悠月を食べてる。

 あははは――なんか愉快。

 ――そんなことってあるんだ。


 みんなに見られてる。意外にいいかも、ひとりぼっち。どきどきどきどき、あははははははは。


 でも――。あのとき、悠月は魚と同じになった。悠月は魚……なら、悠月は今、何を食べてるの?


 当たり前のように捌くお母さん。捌かれる悠月。当たり前のように食べるみんな。食べられる悠月。気持ち悪い。悠月は魚。気持ち悪い、気持ち悪い。悠月は魚、魚は悠月? 悠月は悠月を食べている。悠月は魚を食べている――吐きそう。


 吐いた。何度も吐いた。指も一緒に吐きだした。

 空気が凍った。食卓が沈んだ。みんなが口を閉ざした。あるいはもっと前から――。



 今日はお父さんとお母さんの結婚記念日。お祝いにお姉ちゃんと一緒にカレーを作ることになった。

 そして、今日は包丁をはじめて使った記念日でもある。


 そうだ。

 包丁って、人も切れるのかな?

 指も切れるくらいだもん、斬れるよね、きっと。


 どきどき――。



(2007年執筆・処女作)

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【短編集】行き着く場所は幼なじみの胸の中 かごめごめ @gome

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