おまけの章

八重樫くんと雛子ちゃん


「おい、八重樫。また見てるぞ、あの子」


「え? あの子?」


 営業課の先輩に肩を叩かれ、八重樫が課の出入口の方へ振り向く。すると、確かにあの子がいた。さくらの退職後、新年度の新入社員として入社した事務課の女性だった。


 ここ最近、よく見掛けるとは思っていたが、何か用事でもあるのだろうか。


「あのっ……」


「ごごご、ごめんなさい! なんでもないんです!」


 声を掛けようと八重樫が彼女に近寄ったところ、何故か大声で謝罪をされ、物凄い勢いで彼女は疾風の如く逃走していった。


「どんまい」


 唖然として彼女が去った方角を眺めていると、自身の左肩にとん、と手が置かれる。振り向くと、先輩が笑いを堪えた顔をしていた。


「な、何がですか?」


「いや、お前も大概たいがい鈍いなと思ってさ」


 先輩の言う、鈍いって何のことだろう。結局、彼女の用事は何だったのか、判らず仕舞いになってしまった。それより俺は、彼女を怖がらせてしまったみたいだ。


 後で会ったら謝ろう。


 ◇


 翌日。


 午前の営業を済ませて、八重樫は一度会社へ立ち寄った。休憩をしようと自販機で缶コーヒーを買い、営業課へ向かう。


 その行き先の廊下で、八重樫は誰かと衝突してしまった。


「すみません」


「ごめんなさい!」


 相手は衝撃で転倒したらしく、抱えていたのだろう書類が、廊下へ派手に散らばってしまっていた。


 書類を拾い上げていると、不意に相手と視線が交差するも、すぐに逸らされる。


 前日の、あの彼女だった。眉尻を下げて、今にも泣き出しそうな表情で、散らばった書類を懸命にかき集めている。掛けている大きな丸眼鏡が、思い切り、ずり落ちているのにも気がついていないようだ。


「ごめんね。俺、よそ見してたみたいで」


「いえ……」


 彼女の口から、かろうじて聞こえてきたのは、蚊の鳴くような声だった。やっぱり、俺は怖がられているのだろうか。


「はい。これで全部かな。それと、これ。良かったら飲んで。ぶつかったお詫び。怪我はしてない?」


「ありがとう、ございます……。怪我は平気です……」


 二人で無事に書類を集め終え、八重樫は先ほど購入していた缶コーヒーを彼女へ差し出す。


 彼女は俯いたまま、両手でコーヒーの缶を受け取り、小走りで廊下を駆けて抜けて行く。


 走り去る彼女の後ろ姿を見つめながら、八重樫は今度は転んでしまうのでは、と、少し心配に駆られた。


 それから数日後のことだった。


 上司に報告書を届けて、帰宅をしようと会社のロビーを抜けた時、八重樫は誰かに後方から呼び止められた。──その声の主は、やはり、あの彼女だった。


「あ。君は、えっと……」


 そういえば名前を聞くのを忘れていた。どう声を掛ければいいのか、考えあぐねていると、彼女は自身のバッグから、淡い桜色の小さなペーパーバッグを取り出して、八重樫に差し出した。


「こ、この前は……ありがとうございました」


「あ、うん。こちらこそ、本当にごめんね」


 反射的に紙袋を受け取ると、彼女は大きくお辞儀をして、またもや、そそくさと駆けて行く。


 彼女は毎回、風の如くあっという間に消えて行く為、今回も話し掛けるタイミングを見事に逃してしまった。


 紙袋の中身を確認すると、一目で手作りと分かるクッキーが、可愛らしくラッピングされた状態で入っていた。そして、その紙袋の中にお菓子と一緒に、一枚の小さなカードが入っていることに気がつき、取り出す。


 『良かったら、食べてください。この前のお礼です。 弥生雛子やよい ひなこ


 雛子……さんって言う名前なのか。


 確かに彼女は雛鳥のように小さく、とても可愛らしい雰囲気の女性だった。


 もしかしたらこの先。何度も彼女とこんな、やり取りをする予感がして、八重樫はカードを手に眺めながら、つい笑みを溢していた。



【終】



 

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不死身の俺を殺してくれ S【雑賀 禅】 @zen_s

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