第64話 終章 桜木の煉羊羮
──三年後の初春。
ソメイヨシノが咲き誇る日本の何処か。
「お母さん、お腹すいたー。ここで、ご飯食べようよ」
「はいはい。急がなくても、お店は逃げていかないわよ」
小学生くらいの女の子を連れた母親が、食事処──
「いらっしゃいませ。二名様ですか? では、こちらへ」
「……いらっしゃい」
女性店員と同じく、和装に身を包んだ大柄な男性が、厨房の入り口に掛けられている暖簾を手で上げて、挨拶と共に顔を表へ出した。
店内をキョロキョロと見渡していた女の子は、顔を出している男性をちらりと見上げる。すると、突然に大きな声を上げて、彼を指差した。
「…………あっ!
「小梅、何言ってるの。人違いじゃないの? すみません。娘が勘違いをして……」
「ほんとうだもんっ! お兄さん、あの時公園にいた人だよね?」
母親が慌てて娘の言動を制止しようとするも、少女は断固として意見を譲る気配はない。
厨房担当とおぼしき男性は、暖簾を掻き分けた隙間から少女を無言で見下ろしていた。眉間に深くしわを寄せて、暫しの間、黙考していたかと思うと、やがて小さく声を上げた。
「……お前は、もしや、あの時の子か。トラックに轢かれそうになっていた……」
「うん、そうだよっ! あの時は助けてくれてありがとう! お兄さん」
少女は嬉しそうに、身体を大きく左右に揺らしながら破顔する。
「そうか。大きくなったな。無事で良かった」
「煉、どういうこと? 知り合いなの?」
女性店員のさくらは、訝しげに亭主の煉を一瞥する。
「この子は俺が三年前に、トラックに轢かれそうになっていたところを助けた子だ。いつだったか、俺がぼろぼろになって帰ってきた時があっただろう?」
煉は厨房を抜けて、少女の傍へと歩み寄り、目線を合わせる為に屈む。さくらは親子を席へ案内することも忘れて、その場で約三年前の記憶を探っていた。
「あ! 確かにあったかも。理由は聞かなかったから分からなかったけれど、あの時の怪我はそういうことだったのね」
両手をぱちんと合わせ、表現を明るくした、さくらは納得の表情をする。少女の母親だけは、この状況を飲み込めずに戸惑う。
「あの……では本当に娘を……?」
「まあ、そうだな」
煉が立ち上がり、戸惑い気味の母親と対峙する。
「あ、有り難うございました。貴方が助けてくれなければ、私の娘はきっと……。いくら感謝しても足りないくらいです」
「無事なら、それでいい」
少女の母親は目尻にうっすらと涙を浮かべ、声を震わせながら何度も礼を重ねていた。
◇
「お兄さん、ご飯美味しかったよ! また来るね!」
「ああ、何時でも来るといい」
煉は少女の笑顔に応える。食事を終えた親子は、会釈をしてゆっくりと店から遠ざかって行く。
「良かったね。あの時助けた子が来てくれて」
店の玄関口で、親子を見送っていたさくらは、隣の煉を見上げる。煉は真っ直ぐに前を見据えたまま、口を開いた。
「奇跡だな。……あの少女に再会出来たのは、さくらとこの店を開いたからに他ならない。礼を言う。ありがとう」
「煉が修行を頑張ったからよ。私は傍にいただけだから」
今年の四月に開店した桜木の煉羊羮は、煉とさくらが資金を貯蓄して、古民家を買い取り、煉自らの手でリフォームをし、手に入れた念願の店だ。
さくらは新年度を迎える前の三月末で、勤めていた会社を退職した。今後は煉と共に二人三脚で、この大切な店を切り盛りしていく予定だ。
大きなソメイヨシノの樹木は満開で、ひらりひらりと優雅に舞い落ちる花びらが、さくらの夜会巻きにまとめ上げた髪に付く。
「似合っているな」
「え、何が?」
「着物姿だ。さくらによく似合っている」
煉はさくらの髪の毛に付いている桜の花びらを、そっと取り除く。大きな手のひらの上に乗せられた花びらは、突然吹いた風によって、再び宙に舞い、何処かへふわりと消えていった。
「──さくら、愛している」
「私も好きよ。煉」
重ね合わせられた唇に、愛を込めて。
この先、どんな苦楽も共に乗り越え、二人が人生を、未来を歩んで行けるように願って……。
【終】
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