杳々たる夜たちは

淡島ほたる

杳々たる夜たちは

 

 流し絵のようにただよう湯気が、私の意識を朦朧とさせる。毎晩のように通う銭湯は二十四時間営業にもかかわらず、今夜も誰もいなかった。午前零時をとうに過ぎたその時刻、私ははなはだしく解放的な気分でそろりとお湯に足を浸した。


 このままずっと湯船にいたい。露天風呂には涼しい夜風が吹いて、温まった身体をほどよく冷ましてくれた。


 きょうも疲れた。入社二年目なのに、仕事にはちっとも慣れない。上司も同僚もいい人たちだから、余計につらい。迷惑をかけっぱなしだ。

 人と話すのも正確を期する作業も苦手なのに、なんで普通の会社に就いてしまったのだろう。

 明日は休みだから、徹底的に自分を甘やかそうと決めている。好きなお酒をのんで、借りてきたホラー映画のDVDをすべて観る。パンケーキとか林檎のムースがのったケーキとか、とにかくふかふかしたものをたらふく食べる。なんとなく惹かれて買った盆栽をながめる、あとは。


 考えているとだんだん眠くなってきて、お湯のなかでなんども舟を漕いだ。こんなところで寝たら風邪をひいてしまうことは明らかだ。

 だいいち、ここには数時間にいっぺん清掃の女性が様子を見に来るか来ないかで、溺れる前に起こしてくれる可能性はきわめて低い。

 しかしながら、「寝たい」という絶大な欲求により、生きる意欲は儚くも消え去ってしまった。寝たら死ぬ。そんな限りなく単純な理性を手放すと、こんなにも気持ちがよいものなのか。私は充足感に包まれながら、ゆるやかな眠りについた。



 眼前には、鮮やかな青い花が咲いていた。

紫陽花だろうか。精巧に彫られたそれは白い肩によく馴染んでいて、彼女と同化している。



「綺麗ですね」

 は、と気づくと、私は見知らぬ人にそう口走っていた。彼女は首をすこし傾げ、ひとつに束ねた黒い艶やかな髪を揺らすと品良く微笑んだ。

「ありがとう、自慢なの。うんとむかし好きだった人がね、してくれて」

 夢見心地のぼうっとした頭で、『うんとむかし好きだった人』は、優しい人物だったのだろうなと想像した。


「私はさっきまで、寝ていましたか」

「それはもう。気持ちよさそうに眠ってたわよ。あんまり幸福そうで、嫉妬した。危ないから起こそうとしたら、あなた、目覚めたのよ」

「嫉妬ですか?」

不思議に思ってそう訊くと、彼女は「たぶんね」といたずらっぽく答えた。

「私、子どものころから眠れない性分なの。いろいろ、考えちゃうのがだめなのね。わかってはいるんだけど治らないのよ」


うんとむかし、などと形容するには、彼女は若すぎるように思えた。かといって同い年には見えない。私のいる場所からは圧倒的に遠く離れた、脆さと芯の強さを孕んだ女の人だ。

 

「ナクノ」

 彼女がふいにつぶやいた。

「え?」

「なくの、って言うのよ、私のなまえ。へんでしょう」

「素敵です、ナクノさん」

 私が心からそう言うと、彼女は耳のあたりを触りながら、「少数派だな」と困ったように笑った。

「なくちゃん、て、呼んでもいいですか?」

「いやだ、かわいすぎるわよ」

「ナクノさんは綺麗すぎるから、ちょうどいいと思います。緩和されて、あどけなさが残るの。私は、にはるです。数字の弐に、春と書きます。へんてこでしょう?」

 


 それからというもの、私は彼女のことを『なくちゃん』と呼び、彼女は私を、ハルとか、ミス・スプリングとか、ハレとか、サマーちゃんとか、つまりは好き勝手な愛称で呼んだ。私はそんな彼女の、ある種の適当さを愛していた。


 休日前夜になると汽車に乗り、午前零時をひとつまわったころに露天風呂で落ち合う。いつしかそれは私達の習慣となった。銭湯を出るとお蕎麦屋さんに行く。梅酒をのんでおろし蕎麦を食べ、大きな池のある公園で、瞼が重くなるまで他愛もないことを語る。それらは幸福な時間の連続だった。 

 なくちゃんは華やかな赤いドレスを着て煙草を吸っていることもあれば、曹達色のシャツを羽織りジーンズ姿で現れることもあった。

 結果として、彼女はなにを身につけてもよく似合った。ドレスを着ている日は「お願い、もらって」と言って高い香水や化粧品をくれる。私は家に帰ってそれらを棚にならべ、使うこともなくもてあましてしまう。

 


 六月が訪れて雨が激しく降ったその日、なくちゃんはなにかおかしかった。

 いつもよりすこし遅れて銭湯に行くと、彼女は申し訳程度に身体にバスタオルを巻きつけて、誰もいない脱衣所の床に座り込んでいた。いつも綺麗に髪を結んでいるなくちゃんが、きょうは無造作に下ろしている。

 行き場をうしなった髪の毛からは水滴がいくつも零れ落ちて、なくちゃんに咲いているしるしは物憂げに泣いているように見えた。

 ふわりとお酒のにおいを纏っているなくちゃんが、ひとこと、「弐春、」と震える声で私のなまえを呼んだ。


 私はとても哀しくなる。遠慮がちに肩に触れると、なくちゃんの身体はおそろしく冷たく、どきりとして指を離した。

「なくちゃん、どうしたの。そのままじゃ寒いよ。ふく、着よう」

 床に放ってあったワンピースと下着をたたんで彼女に手渡す。なくちゃんはそれを「いらない」と優しく押しかえした。


「贔屓にしてくれてる人がくれたの。それを着て黙って僕の隣にいてくれたらいい、だって。笑っちゃうよ。私が狂ってるのも知らないくせに、あのひとはなんにも見えてないんだよ。うわっつらばっかり。煙草吸う気にもなんなかった」


 なくちゃんの言葉にはいつもとちがって棘があったけれど、その声音は弱々しく、とても前後不覚に見えた。

 ワンピースは異国の民族衣装のように不思議なつくりになっていて、何色もの可愛らしい生地に羽のような飾りがあしらわれている。なくちゃんが着ると、きっとかわいいだろう。


 遠くで大きな雷が鳴る。じいんと耳鳴りがして私はひどく心細くなる。


「弐春。───私を、軽蔑して欲しいの」

 なくちゃんはそう言うと、しゃがんだ私を引き寄せた。彼女が好んでつかっている、レモン石鹸の甘く爽やかな匂い。だきしめられた身体は、なくちゃんのすべらかな白い肌にすっぽりとおさまってしまった。


「むかしから、私は、ばかなのよ」

 なくちゃんの花は、お湯のせいかうっすらとにじんでいる。私が着ている夏仕様の透けたブラウスに、彼女の涙はいともたやすく染みをつくった。


 なんで泣いているのか、わからなかった。

 なくちゃんがなにかに傷ついているのは明白で、私はそれを慰めなければと思うのに、涙はとどまることなく流れ落ちた。あんまり泣くものだから、床には私となくちゃんの河ができてしまいそうだ。私はなくちゃんを襲う脅威を、一刻もはやく取り除きたかった。


 なにがあったの、と訊くと、なくちゃんは私をだきしめていた手をすこし緩め、はああ、と長い息を吐いた。そうして小さな声で、「弐春がほしい」と言った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

杳々たる夜たちは 淡島ほたる @yoimachi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る