ゆくえふめい

オボロツキーヨ

月光浴

 街の小さな貸本屋の戸口は開け放たれている。

涼やかな潮風が吹き込んでいた。

絶えることなく店先の風鈴を鳴らしつづける。

突然、柔らかな婦人の声と風鈴のが重なり合う。


「こぎげんよう幸雄さん、今宵こよい少しだけ、お時間をいただけるかしら」

「いらっしゃいませ。奥様、ご無沙汰しておりました。

その後、先生から連絡はありましたか」


婦人は長いまつ毛の陰を深く落として、寂しそうに首を横に振った。

「いいえ、ないわ」

「そうでしたか」


 幸雄ゆきおは憂いの色が濃くなっていく婦人の顔から視線を落した。

白い清楚なノースリーブのワンピースが、入り口から差し込む夕暮れに染まり、風に揺れている。

片手には細い腕と指にしっくり馴染む、華奢な柄の上品な日傘が握り締められている。

その様を幸雄は息を飲んで見つめた。

伯爵家の令嬢のような風情がある。

先生とは親子ほども歳が離れていると聞いた。

だが、このひとはいくつなのか全くわからない。

先生はどんなふうに、この美しい女を抱くのか。

この白いワンピースの下には、どんな。


 幸雄は帝国大学の文学部を卒業後、すぐに鎌倉へ移り住む。

在学中に執筆した室町時代が舞台の恋愛小説を

文学者の川合隆成かわいたかなりに送ったところ、気に入られた為だった。

 

 明治22年に横須賀線が開通して以来、東京と鎌倉は近くなる。

人と文化の往来も盛んになった。

多くの文学者が海と山に囲まれた古都へ移住してきた。

彼らを総称して鎌倉文士と人々は呼ぶ。

 

他の文士たちからは酷評されていたのだが、何故か川合だけは幸雄の小説を高く評価して、七里ヶ浜にある自宅へ招いてくれた。

鎌倉別荘文化の象徴のような、緑の芝生のある洋風邸宅だった。

そして親しく朝まで創作論を語り合った。

川合のすすめで、今は御成おなり通りにある貸本屋で働きながら、

鎌倉文士の端くれとして地道に執筆活動をしている。


「店を閉めてからなので、お会いできるのは夜8時頃になってしまいますが、

どこのお店へ伺えばよろしいですか 」


「そうね、七里ヶ浜まで来てちょうだい。シロの散歩をさせたいの」

「わかりました。仕事が終わり次第、向かいます」


 幸雄は少し拍子ぬけして、苦笑する。

先生が不在なのだから、さすがに自宅には招かれないだろうと思っていた。

だが、もしかしたら和田塚「つるや」の鰻を食べることができると期待していた。

まさか犬の散歩のお供とは。



 あわただしく店を閉めてから、ふと汗臭さが気になり風呂屋へ行きたいと思ったが、少しでも早く七里ヶ浜へ向いたい。

あまり奥方を待たせるわけにはいかない。

店の近くにある下宿へ寄り、汗臭いシャツとズボンを脱ぎ捨てた。

白地に大きな青い水玉模様の真新しい麻の浴衣に着替え、紳士の身だしなみ流行の細身のスティキを持つ。

 

 鎌倉駅から江ノ島電鉄の納涼電車に颯爽さっそうと飛び乗った。

避暑地として人気の鎌倉にふさわしい車両で、水色を基調とする派手な塗装と窓を取り払った開放感が人気だった。

数人の乗客の視線が幸雄に張り付く。

江戸っ子の幸雄は自分の容姿と粋な浴衣姿には自信がある。

座席に腰をおろすとステッキを握ったまま、ゆったりと腕組みをして夜の香をはらんだ風に吹かれる。

自分は鎌倉文士らしく見えているのだろうか。


 七里ヶ浜駅の目の前に海岸が広がっている。

密度の高い騒音を立てて、寄せては返す白波。

夜の海は黒っぽく混沌としているが、ある種不思議な生命力に満ちている。

太古の地球の風景もこんな様子だったのだろう。

 そう考えながら夜の海を眺めるのが好きなのだが、今宵の海はいつもと違う。

息をひそめて静まり返っている。

海は波も無く穏やかで、まぶしいほどの月明かりに照らされ、蒼醒あおざめて見えた。

 

 渦巻き模様が描かれた派手な紫の浴衣姿に断髪。

妖艶なモダンガールが月光を浴びて海岸の砂浜で微笑んでいる。

白い秋田犬が自由に走りまわっていた。

つい先ほど、夕暮れ時に会った美しく清楚な婦人が月明かり下では、毒婦のように見える。

深赤しんくの口紅のせいだろうか。

獲物を食い散らかした女狐めぎつねが夜の海を背にして微笑んでいる。

幸雄の丸く柔かくほの温かい恋心が、ぐにゃりと歪んでいく。


「こんばんは、すいません。遅くなりました」

近づくと、狂ったように砂浜を走り回っていた秋田犬が、牙をむいて幸雄を吠えたてる。

そういえば、お屋敷を訪ねた時にも思いきり吠えられた。


「こらシロ、お座り」

「ははは、僕は嫌われているみたいですね」

「ふふふ、犬も人を見るのね。あなたは何か隠している事があるでしょう。 

川合の日記に<明日は愛する幸雄と山梨を旅する>と書いてあったわよ。

あの人と最後に会ったのは幸雄さん、あなた。

それ以後一月間、川合は音信不通で行方不明。

どうしてかしら。本当のことをおっしゃって」

強い語気だった。


「確かに一月前の今日、僕は川合先生と山梨県へ富士五湖巡りの旅へ出かけました。江ノ島の洞窟と、富士のふもと鳴沢なるさわ村の氷穴ひょうけつが地下で繋がっているという伝説をご存知ですか。 

実際に鳴沢氷穴へ行きました。

あそこに見える江ノ島の洞窟と本当に繋がっているのかということについて、先生と議論になりました。

先生は<氷穴をぬけると、そこは江ノ島だった>という浪漫を求めているのです。

そして確かめてみようということになったのです。

でも僕は反対しました。そんなの非科学的です。

富士山から江ノ島まで一体何十キロあると思いますか。

しぶしぶ氷穴の途中まではお供したのです。

この世のすべてを眩しく照らすお天道様の目の届かない深いどこまでも続く洞窟。

最初はひんやりとして気持ちよかった。

でも狭いので、だんだん嫌になって先生を置いて引き返して来てしまいましたよ」

幸雄は悪びれずに言った。


穴巡あなめぐりの途中で行方不明とは、あの人らしいわ。

わたくしはてっきり、貴方が川合を殺したのだと思っておりましたのよ」

奥様は口元を扇子で隠しているが、目は見開かれて一回り大きく鋭く光っている。


「まさか、そんな恐ろしいことを。僕は先生を心から敬愛しています」


「わたくしね、実は川合がどこかで、のたれ死んでくれればいいと思っているのよ。

あの人は我がままで意地悪。

男尊女卑で、わたくしを見下して威張っている。浮気ばかり。

それにわたくしは幸雄さん、あなたが川合の新しい愛人だと、とっくに気づいているわよ。

男同士の愛は崇高だ素晴らしいと、いつも散々聞かされています。

てっきりあの人は、あなたに痴話喧嘩の果てに殺されたのだと思ったわ。

でも、とにかく行方不明だけは困るのよ。

ご存知かしら。 

素晴らしい仕組みが近頃できましたでしょう。

わたくし川合に生命保険というものを掛けているのよ」


「そうか、しくじったな」

幸雄は無意識に舌打ちをする。


「あら、やはりあなたが殺したのね。どこに遺体を隠したの。

風穴の奥、氷穴の奥、それとも富士の樹海。

遺体が見つからないと保険金が受け取れないの。

どうか、怒らないから本当のことをおっしゃって。

お金を半分、分けてあげるから」

奥様の声と顔が凄みを増してきた。


「あははは、冗談ですよ。奥様、何をおっしゃいます。

愛人だなんて。

おっしゃる通り、先生にはいつも優しくしていただいてます。

僕の文学の理解者で、誰よりも大切な人です。

それなのに殺めるわけないでしょう。

先生はきっと今頃、江ノ島の岩屋の洞窟にたどり着いてこの月を見ていますよ。

そんな気がしてきました。

何なら、これから一緒に迎えに行きましょうか」


ひどい人。

あなたは川合を大切な人と言いながらも置き去りにした。

わたくし、おてんばじゃないから浴衣と下駄で夜の洞窟へは行かないわ。

殿方のような、馬鹿馬鹿しい冒険はしなくてよ」

キツネのような目でキッと睨む。


「それなら、せっかく月が綺麗で風も無い穏やかな晩ですから、

月光浴などいかがでしょうか」

幸雄は夜の海を明るく照らす月にすがる。

月の光が面倒な人間関係を洗い流してくれればいいと思った。


「川合は偉そうにしているけれど所詮、軟弱な男。

どうせ氷穴を探検している途中で疲れて、すぐ引き返したに違いないわ。

あなたに去られたから、一人寂しく何処かの温泉街へ行った。

そして、そろそろ遊び飽きて帰路に着く頃かも。

帰ってきたらまた地獄のような生活が始まるわ。

そうね、せめて今宵は月光浴を楽しみましょう。

よしよしシロちゃん、たっぷりお散歩させてあげるからね」

愛おしげにシロの背を撫でる。


「もしよかったら、すぐそこですから小動岬こゆるぎみさきへ行ってみませんか。

とても眺めのいい岩場がありますよ」


「あそこに見える三本の松のあたり。

先日、若い小説家と銀座のカフェの女給の心中事件があったそうね。

いいわよ。でも、あなたと心中するのはまだ早いわ。

ところで今宵わたくしが言ったことは、すべて忘れてちょうだい。

本心ではないの。すべてこの月のせいなの。

月光にあたりすぎると女は気が狂うものなのよ」


「ええ、わかります。

でも、もしこれからずっと先生が行方不明で帰って来られなかったらどうします。いつか僕の恋人になってくださいますか」

足にかかる砂を蹴るように歩きながら、やけになって軽口を言う。

これも月のせいなのだ。


「ええ、喜んであなたの恋人になります」

恥らいながら手にした扇子を広げて顔を隠しているが、鋭い横目で幸雄を観察しているのがチラリと見えた。


「僕は、あなたが少し恐ろしいです」

つい若者の本音が出てしまう。


「幸雄さんこそ、ゾッとするほど悪い人。

わたくしと主人を両天秤りょうてんびんにかけているのね。

本当はどちらが好きですの」


「正直、よくわかりません」


「まあ、自分の心のゆくえさえもわからないなんて、哀しい人ね」


 幸雄は押し黙るしかなかった。

あなたこそ正体不明の哀れな女狐ではないか。

様々な仮面を使い分けてはいるが。

夫婦とは一体何なのだ。

自分は所詮、世間知らずの売れない小説家だが、かつては武士の都だったここで、鎌倉文士として一旗上げる。

清濁せいだく合わせて飲み込んで生き残ってやる。

心の中でつぶやいた。


 月明かりに洗われたかのように、白く輝く秋田犬のシロが二人を振り返る。

幸雄の気持ちを察したのか、尻尾を下げ神妙な顔をして砂浜を歩いて行く。

(了)

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