チキン・ライス

地崎守 晶 

チキン・ライス


 人には、思うままに好きな食べ物を腹に納める時間が必要だ。

 そしてこの私も三大欲求から自由になれない人類の端くれとして、遅い昼飯を取りに行きつけの喫茶店のドアをくぐった。軽い鈴の音が耳に心地よい。

 いらっしゃい、と顔なじみの店員が声をかけてきたのでどうも、と会釈する。なかなかの美人で、いつも目を楽しませてくれる。

 いつものカウンター席に座ると、丸っこい字のメニュー表。私はいつもチキンライスを頼むので、めったに見ない。

 この店のチキンライスは米にしっかりと味と軽い焦げ目がついていて、好みの味だ。ここで一ヶ月昼飯をとれば九割はチキンライスだろうという自負がある。

 ただ今日ばかりはたまたまメニューのエビピラフが目に入ったので、たまに気分を変えるのもよかろうと、それを注文することにした。小さなエビのぷりぷりとした歯ごたえと玉子のほのかな甘みが美味だった記憶がある。

 さっきの店員を呼び止めて、注文を伝えてからコップの水を一口飲む。

 しばしの間、店内の落ち着いた調度品を眺める。厨房から漂ってくる香ばしい香りが空っぽの胃をほどよく刺激し、耳には他の客の会話や食器の立てる音がうるさくない程度に届く。

 こうして座っていると、日頃頭を占める仕事の問題も将来に対する漠然とした不安も遠ざかっていく。かけがえのないひとときだ。

 しばらくしてひときわ強い香りと共に女性店員が軽やかにやってくる。期待に胸が高まる。

 だが、目の前に差し出された皿の中身は――橙色だった。

 思わず彼女の顔を見ると、私と同じ当惑顔だ。

「すみません○○様、チキンライスでしたでしょうか?」

「ああ、いや、今日はエビピラフを……」

 呆気にとられてそう返すと、彼女は笑顔――少し申し訳なさそうに、恥ずかしさを誤魔化すように――になった。

「申し訳ありません、○○様はチキンと思いこんでました!」

 罪の無い笑い方に、私も――本当はごく些細な傷を胸に抱えて――ほがらかに笑い返した。

「いつも注文していますからね、チキンライスを。なんならそれをいただきますよ、値段は同じだし」

「いえいえ、すぐにピラフを持って参りますので。申し訳ありませんでした」

 頭を軽く下げられ、とチキンライスの皿が引っ込み、制服の背中が遠ざかっていく。

 私は水をもう一口含むと、ゆっくりと飲み下した。

 やがてバターの香りと共に本来の注文が運ばれてくる、美しい笑顔と共に。

 だがスプーンを口に運び、エビと米と玉子とパプリカを噛む間も、ずっと一つの言葉が頭を離れなかった。


――○○様は、チキン。


 笑い方が、言い方が邪推の余地がないだけに、却ってその響きは私の心をちくりちくりと刺すのだった。

 心なしか塩味の強いエビピラフを黙々と咀嚼しながら、私は思った。


 この店ではこの先チキンライス以外は食べられないだろう。

 


 なぜなら、腰抜けだから。


 

 


 

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 チキン・ライス 地崎守 晶  @kararu11

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