スキュラとカリュブディス、と

鳴海てんこ

スキュラとカリュブディス、と

§ 1

 おめでとうございますという言葉が飛び交う。志熊しぐま教授は頭の上下運動を繰り返し、眉尻を下げっぱなしだった。数年前、最初に研究費をもらった時はこんなものに必要性があるのかと問われたが、出来てしまうと金になると分かった業界が絶賛して飛びついてくる。それでも食糧問題に対する一つの解答がようやくここに結実したかに見えた。


 食用魚。

 始め誰もが考えたのは、どういう意味か、という疑問であった。


 魚は食べるものと思っている者たちにとって、この言葉は衝撃的であり、そして同時に意味が分からなかった。だからこの言葉の提唱者である志熊は丹念に言葉の意味、そして開発の意義を説明した。


「よろしいですか。食肉も野菜も、元は全て野生の生物だったのを、人間が長い時間をかけて改良したものなのです。魚にもこれと同じことが必要です。美味しい魚、栄養価の高い魚、可食部位が多い魚、飼育管理が容易な魚、この4つを兼ね備えた食べるための魚、―――つまり食用魚です」


 彼は世界中の魚の遺伝子を用いて、何年という歳月と、何人もの学生たちの卒業論文を股にかけ、食用魚を開発した。美味しく、栄養があって、たくさん食べる部位があって、そして過密飼育に強い、育てやすい魚が生まれ、世間に認められた瞬間だった。


§ 2

 食用魚の生産ラインが稼働し始め、一般のスーパーでは久しく取り扱いが途絶えていた魚が、丸の形のまま売り出され始めた。それから少し経った頃に、困り顔で食用魚生産会社の営業の見黒みくろが研究室に駆け込んできた。


「先生、大変ですよ」

「どうしたんだい」

「食用魚が不評で、売れ行きが悪いんです」

「なんでだ? 人工のタンパク質ではない天然のタンパク質だぞ」


 実際ここ十数年は天然の魚は漁業禁止、養殖の魚も非常に高価になってしまっている。魚の取り扱いは、高級デパートで一匹ずつパッキングされている製品しかない。


 対する食肉もコストは高いが、なにぶん陸上の生物由来の天然タンパク質であるためか、維持管理が比較的楽であった。高いが資源の管理が楽な肉と、高いし資源の管理が難しい魚では、金銭が絡めば絡むほど食肉の扱いばかりが増えていく。だがどちらも圧倒的に足らなかった。


 そこで開発されたのが合成タンパク質だった。アミノ酸を高分子化させたもので、それらしく形成し、臭いと味を調えれば、簡単に肉にも魚にも化ける。現在の動物性タンパク質元は合成タンパク質が主流だった。もちろん天然には存在しない人工的なアミノ酸も取り扱うことが出来る。したがって本来は無い薬効を持たせることも可能で、しかも安価。


 そんな食糧事情の中、流星のごとく現れた安価・安全・天然のタンパク質。これがなぜ売れないのか、志熊には全く理解が出来なかった。


「それがですね、骨と鱗があるということで」

「骨? うろこ……?」


 まさかのキーワードの出現に彼はピシリと固まった。

 骨。

 まさか骨ごときに、私の開発した新進気鋭の食用魚が負けたと? 信じられないと言った顔で彼は頭を振りながら言葉を探す。


「もう何年も魚を丸ごと調理したという家庭がなくて、どうやら魚に骨や鱗があるということ自体が受け入れられない様子なのです」

「ははは……。これは、それはなんともはや……」


 乾いた笑いの続く先は何か。脱力しかない。


「先生、申し訳ないのですが、何とか骨と鱗を無くせないでしょうか?」


§ 3

 それから志熊はどうにかこうにか骨を無くす努力を行った。

 具体的には幼魚の時には軟骨があるものの、成長と共に消失するという仕組みを持たせるに至った。


「先生やっぱりすごいですね。普通は思いつきませんよ、こんなの」

「もともと魚は軟骨と硬骨の境があいまいでね。それにサメやエイは元々軟骨だ。だから全身を軟骨で形成して、成長に従ってアポトーシスを……」

「すいません、専門的なことは、私にはちょっと」

「そうだったな、すまんすまん」


 営業の見黒に笑って返す。志熊はしかし、これはこれで満足していた。


 骨と鱗があって不評だと聞いた時にはまさかと思ったが、確かに現代人にとっては食卓以前、キッチンにのぼる時点でほとんど食べられるぐらいでなければならないのだ。


 求められているのは食育や命の大切さを学ぶための魚ではなく、とことん食べるために特化した魚。これこそが食用魚のあるべき姿。


「そういえば、知ってますか? この食用魚が出てきたことで、最近、形ある動物を食べるのが罪だとする新興宗教が出てきたって」

「ああ、テレビで見たよ。これもまた時代ってやつかね」

「実はあれ、どうやら合成タンパク質で儲けてた会社がバックについているみたいですよ。非天然のアミノ酸で新しい効能を付与したっていうあそこです」


 にやりと笑った見黒は、それ以上は何も言わなかった。だが志熊は、なるほどと唸る。自分が開発した食用魚は、残された海洋の天然資源を守ると同時に食糧問題の一つを解決したつもりでいた。しかし一方、同じく食糧問題の解決策として働いていた別の会社とライバル関係になっていたというわけだ。


「先生はあまりお気になさらず、今後の開発と応用に、わが社は資金提供を惜しみません。昔と違って資金は潤沢ですしね」


 そういって三黒は一つ冊子を取り出した。


「これは、企画書?」

「いや実はですね。今この食用魚って海でしか育てられませんよね。これを何とか内水面、つまり湖などでも養殖できるように出来ないかと……」

「今度は淡水魚ってことですか」

「いえ、出来れば同じ種類でお願いしたいんです。大きな湖を持つ国々はやはり淡水で養殖できる魚を欲しがっているんですが……」


 現在、志熊の開発した食用魚は人工的な魚種であるため、生産は一部の会社が一手に引き受けている状態だ。つまり卵や稚魚の状態で受け渡すことは出来ず、幼魚サイズまで成長しなければ出荷されない。


「大量輸送でしかも長距離となると空輸ではとても間に合いません。そこで考えたのが海上輸送です。海から河を遡上して、湖の間近くまで届けるという出荷方法を上が検討したがっているんです」


§ 4

「すごすぎですよ先生。まさか本当に一つの魚種でここまで出来るとは!」

「こういう体の仕組み自体は、もともとサケマス類が持っていたものを応用しただけだよ。すごいのは魚の方さ。多少時間はかかるが塩分濃度への順応は……」

「先生すいません、その、難しいことは……」

「すまん、そうだったな」


 志熊は生け簀ごと海外の湖まで連行されていく食用魚たちを見送るために養殖場の見える岸壁に立っていた。三黒と一緒にゆっくりと曳かれていく生け簀の黄色い浮きと船を見守る。


 その後ろに一人の若い女性が立っていた。


「まさにドナドナですね」

「残酷だと思うかい?」

「いいえ先生。食べる、食べられるというのは自然な関係ですから、ある部分では非常に純粋ではないかと思うのです。命に感謝して、命をいただく行為の、始まりの現場ですねここは」


 そう言いつつも、その学生らしき女性は物憂げに最後まで沖を見守っていた。


「彼女ね、最近新しく研究室に入った犬上空羅君」

「スカイの空に、羅漢の羅でソラ、です。羅生門の羅と言った方が分かりやすいかしら」

「変わったお名前ですね。よろしく、見黒です」

「一時期そういう、少し変わった名前を付けるのが流行りましたでしょ?」


 どうも、と優雅にお辞儀をする空羅に見黒はドキッとした。なんとも生き人形のような別次元の美しさがある女性だな、と感想がぱっと心に浮かんでぽっと消える。だが今日の三黒は、犬上ではなく志熊に用事があるのだ。


「志熊先生、申し訳ないのですが少々調理室の方へ来てもらえますか」


 そういって案内したのは、会社が持つ実験室のような調理室だった。多種多様な現代の調理器具がほぼ全て揃っている。ここにある調理器具を全て用いたうえで、問題なく調理できる、誰が調理しても何とかなる、となって初めて食べ物としてクレームリスクを最低限と認めて出荷が出来る食材と判断される。


 三黒は捌いたばかりの食用魚の中からある一匹をすでに準備していて、身と内臓を皿に並べる。志熊と犬上は皿の上に乗せられた食用魚をまじまじと見た。


「問題はこれなんです」


 きれいな赤い色をした内臓だった。形は崩れておらず、ぴんと鮮度を保っている。


「何が問題なんだ? 特に問題無いように見えるんだが」

「実はここに……」


 そういって楊枝の先で内臓のうち少々白っぽい肝臓と思しき臓器を指し示した。


「見えますか? これ寄生虫ですよね?」


 くるりと巻いた形で半透明の何かがそこにいた。動きはしないが言われてみれば、確かにこれは虫のような形状をしている。


「先生、この寄生虫どうにかなりませんかね。実は寄生虫のクレームが度々ありまして」

「冷凍すれば問題ないし、食べる部分じゃないだろう?」

「冷凍って書くわけにはいかないんですよ。生魚として売り出している以上、生ではない冷凍って書いたら別のクレームが来るんです。あと寄生虫のクレームの多くは、家庭ではなくてスーパーからなんですよ」


 そんな話を耳半分に聞いているのかいないのか、犬上は爪楊枝ではなく陶器のような指で直に内臓に触れて、寄生虫を手に取った。見黒は、うわぁと気持ち悪そうな声を出して顔をしかめる。志熊は腕組みをして、犬上の手のひらの上に乗せられた寄生虫を、まじまじと眺めた。久しく見なかった生物だった。すでに死んでいるのかピクリとも動かない。


「寄生虫って餌から感染するんですよね、確か」

「うむ。海上の生け簀だから、時々なにか天然の物を間違って飲み込んでいるのかもしれんなぁ」

「じゃあ食べても排出されるようにすればいいのでは?」

「そういう方向で考えてみるか」


§5

「いやぁ……お見それしました先生。本当にすごいです。新しいタイプにしてから全く寄生虫のクレームが来ません」

「寄生虫ってのは、宿主と言って本来は適切な生物相手じゃないと寄生しないからね。だから間違って寄生虫の卵を持っている天然の何かを食べても、接触する消化管の内壁を宿主以外の……と言っても君には分からんのだっけかな」

「申し訳ありません、まさにその通りです」

「いやいや、こんな話、理解してくれるのは犬上君ぐらいなもんだよ」


 綻びかけた桜の花が窓の外に、志熊もまた綻んだ。また今年も、志熊の研究室の窓から桜が見える季節になった。枝が伸びるばかりで何年たっても同じような風景だが、部屋の主は灰色だった髪の毛がほとんど真っ白になってしまっている。


 志熊の年齢を考えるとあと数年で退職だろう。つまり彼の後任は自然な流れからすれば犬上空羅。だからこそ三黒は言わねばならなかった。


「志熊先生、折り入ってお話が」

「なんだい?」

「あの、犬上さんのことなんですが」

「わたくしが何か?」


 まさかと思ったが半開きになった扉の向こう側から作り物のように美しさの犬上が顔を出す。はっと三黒が息を飲んだ。続きの部屋が犬上の研究室になっていたのだ。


「お続けください。おおよそ見当はついておりますから」

「じゃあ、あの……申し訳ないですけど犬上さんのご実家って、あの合成タンパク質の製造会社、ですよね」


 あれから三黒は、犬上という少し聞きなれない苗字が忘れられずに調べたのだ。そこに出てきたのはまさかの合成タンパク質で莫大な利益をあげた会社、つまりこの食用魚にお株を取られた会社。


 その会社社長の一人娘が犬上空羅。彼女は今、実家の最大のライバルの研究室に在籍している。これはどう考えてもおかしい。


「これどう考えても企業スパイですよ。どこまでお父様に情報流してるんですか」

「何も。何も流しておりません」


 見当がついていると言っていただけあって、犬上は全く動じずに返答をする。だが三黒の方だって黙っているわけにはいかない。どう考えてもこれは出来過ぎている。


「だっておかしいじゃないですか。あなたのお父様の会社は、確かに現在も相当利益をあげられてはいますが、それでも食用魚がなかった最盛期の70%まで売り上げが落ちています」

「ええ、確かに父にはこちらの研究室に所属する条件として情報を暴露するか、あるいは魚に毒でも仕込むようにと命令されましたが全て突っぱねました」

「それならばなぜ!」

「わたくしは純粋に先生の研究に賛同しているだけです」


 議論は平行線。噛み合おうともしない状態を見て、志熊がそっと助け舟を出す。


「三黒さん、犬上君が言っているのは多分本当なんだ」

「先生まで!」

「ほら、かなり前に教えてくれた新興宗教の話あったろう。形ある動物を食べるのは罪で、形のないタンパク質元と植物から栄養を摂取すべきって。あれは確かに彼女のお母様が教祖の新興宗教で、彼女も年端もいかない頃から教えを実践しているらしい」

「ええ。母の教えは絶対でした。ですが、学べば学ぶほど、私には食べることへの飽くなき執念といいますか……生き物としての純粋な欲求が生まれてきてしまったのです」


 彼女は助け舟の意味を咄嗟に理解するぐらいには賢い様子だった。何をどう説明すれば、この営業が優秀な三黒に理解してもらえるのか、一瞬で理解したらしい。そこからの説明は実に流暢なもので、そして不思議な感覚に至った彼女の半生を説明するものだった。


「いつからだったかもうだいぶ昔のことになりますが、合成タンパク質と栄養剤、あとは少量のお野菜しか摂取しない生活をしてきました。生き物の形をしたものを食べてはならぬと教義にはあるのですが、それは敬うべき他の生き物の形を『食べる』行為によって形を失わせてしまうからとされています。他の生き物を敬い、尊ぶことを至上の幸福とする宗教なので、わたくしは生き物の研究を専攻いたしました。ですが学べば学ぶほど、逆に『食べる』行為自体が尊ぶべきではないかと考え始めました。ですが幼い頃からの宗教的習慣を逸脱することは簡単ではありません。ですから、志熊先生の元で生き物という名の食べ物に触れていこうと考えたのです」


§ 6

「この研究室もさびしくなってしまいましたね」

「ええ、もうわたくし一人。研究費はいただけるのに、やはり最近の若い方々には生き物を研究するというのが恐れ多いという分野なのか、あまり学生は来てくれませんね」


 志熊の桜が見える部屋は犬上の部屋になった。そして足しげく三黒が通う相手も犬上になった。志熊は退職したものの、別の研究機関に移って嘱託として細々と研究を続けている。


「今日はどうかされたのですか?」

「流石にお分かりになりますか」

「ソワソワしてらっしゃるからまた何か、問題があったのかと思いまして」


 見透かしたように犬上は言うと三黒はいやぁと頭を掻きながら笑う。対する彼女の方は全く笑わない。本当に陶器でできた人形のようだった。


「実は、最初の頃はあまり表に出て来なかったのですが、卵が入っていないというクレームがありまして」

「それはいかに食用魚とはいえ、雄雌がなければ途絶えてしまいますから、当たり前と言えば当たり前です」

「そこを何とか、全て同じ規格で出荷できるようになれば仕分けの手間も減って値段を下げることが出来ますし、全てが子持ちなら栄養価もぐっと上がって食糧難の地域では特に助かるんです」

「なるほど……」


 犬上は腕を組んで目を閉じる。遥か年上の三黒を凌ぐ、圧倒的な存在感があった。窓の外の枝葉が揺れる。


「分かりました。何とかしてみましょう」


§ 7

「本当に雌だけなんですねこいつら」

「いえ、正確には0.01%の確率で雄化してしまう、卵が成長しない個体が出てきてしまいます」

「1万匹に1匹の割合でしょう? それよりどうやって受精するんですか」

「受精の必要はありません。単為生殖と言ってお分かり頂けるかしら」

「うーん、やっぱりいつ聞いても私には難しいようです」


 情けなさそうに笑いながら、三黒は稚魚用の丸い陸上水槽から中を覗き込む。数えきれないほどの食用魚の稚魚が時計回りに泳いでいる。大きさはまだ5センチほど。これが一年に満たないうちに大きさが30センチ程度まで成長して、腹にたくさんの卵を抱えて出荷されていくのはさぞ壮観であろう。


「そういえば犬上さん」

「なんでしょう」

「以前、あなたのことを疑ったこと、ずっと謝っていなかったと思って。こんな場で申し訳ないのですが謝罪します。申し訳ありませんでした」


 三黒は深々と頭を下げた。驚いたことに犬上が慌てた表情で三黒の肩を叩く。


「あの、えっと、お止めになってください」

「犬上さんでも慌てることがあるんですね」

「いえ、何と言いますか。疑われても当たり前でしたからね、あの頃は」

「でもこうしてちゃんと全てを雌にしてくださった。もうこれで疑う余地はありません」


 顔をあげた三黒は、珍しく困り顔の犬上をまじまじと眺める。これはなかなか無い光景、絶景だ。世間では美人アンドロイド博士と揶揄される犬上が、少し頬を赤らめて慌てているなんて、恐らくこの世にこんな光景を知っているのは自分しかいないだろうと三黒は笑った。


「それで、あの、今日はまた何かありました?」


 犬上は目線を水槽の方に逸らし、そして話もそれとなく逸らした、つもりのようだった。これ以上おちょくると怒られるかもしれないと、三黒は確かに話があったのでそちらに話題を移すことにした。


「突拍子もない話なので聞き流してもらって全然かまわないのですが、生産過程における薬剤投与をなしには出来ないかと、上の方がちょいちょい言ってくるんですよ」


 犬上はその言葉を受け取る際にはすでにいつもの真顔になっていた。そして聞いてから陶器のような額にほんの少々眉間にしわを寄せた。


 確かに現在の生産の過程では、病気の発生を抑えるために定期的な薬剤の投与が義務付けられている。これは食用魚が過密飼育にも耐えられるからこそ、一匹病気が発生してしまうと死滅してしまう規模が非常に大きくなってしまうことが原因だった。そのため定期的に薬剤を投与して病気に耐性を付けてやることで、病気の発生自体を抑えるとともに、もし病気が発生しても感染が拡大しないようにしていた。


 しかし出荷時にはちゃんと薬剤が抜けていることを毎回確認する決まりがある。よって薬剤の投与は必要であり、また法的にも義務付けられたものなのだ。


「いえ、実はですね、薬剤投与の実態をマスコミが報道してから少々売れ行きが落ちてまして。もちろん安全性は問題ないことは公表しているのですが、薬ってだけで消費者が過剰反応しているみたいなんですよ」

「ふむ……」


 言い方は悪いが、薬抜きをした元薬漬けの魚と言われてしまえばその通りだ。そう考えると消費者たちが嫌な顔をするのは簡単に想像できる。


 だが薬剤を投与しなければ、恐らくこんなに安定して出荷することは出来ないし、一つの生け簀で飼育できる数ももっと減らさなければならないだろう。それでは生産コストが上がってしまい、食料供給に支障が出る。


「薬剤無しでも、病気にならない魚……いいえ、薬剤を自分で合成できる魚ならどうかしら……?」

「できるんですか?」

「少し考えがありますが、お返事は志熊先生にも相談してからでもよろしいですか」


§ 8

「犬上君、出来るにはできたが、これはもう外では飼えないぞ」

「ええ、それでもいいと、全て陸上水槽で飼育できるし、海上輸送も筏曳航式ではなく、適切な形の船を会社が用意すると……完全密閉だそうです」

「私はあまり、これは世に出したくないがな」

「わたくしもです。ですがこれで、助かる人が増えるのなら、あるいは」


 犬上は、退職した志熊にも相談しつつ、独自の手法で食用魚のさらなる改良を進めていった。そして完成してしまった。


「犬上さん、本当に何と言ってお礼を言ってよいやら」

「いえ、薬剤投与をしないなら、体内で薬剤を自分で生成するように遺伝子を組み込んでしまえばいいと考えまして。ですが薬剤を生成し続けてしまうと薬剤耐性がついた病原体には一発でやられてしまいますからね。そこで逆転写ウイルスの応用と言いますか、考え方を用いて、体内に入ってきた病原体の遺伝子情報を自分のDNAに取り込んでそこから抗体を作って……」

「犬上先生! いやいや素晴らしいですよまったく!」


 彼女の甲斐甲斐しい説明は、樽のような体格の社長によってぶった切られた。犬上はまた説明の続きを再開しようとしたが、果たしてこの社長の頭で理解できるかどうかという点において無理だという結論を出す。


 もう説明はしなくていい。しても無駄。それよりも最大の制約事項だけ守ってもらえればいい、むしろ守ってもらえなければこの研究成果を渡すことは出来ない。これだけは絶対の条件だ。


「よろしいですか」


 犬上は会社のお偉方を前に一歩もひるむ様子はない。この場にいる誰しもが、損得勘定でこの生き物を欲しているのは分かっていた。だがこの新しいタイプの食用魚さえあれば食糧難の最貧国にも生きた動物性タンパク質を届けることが出来る。それだけは間違いない。


「この生物はすでに食べる以外では利用してはならないほどに、人工的人為的なものになってしまっています。したがって天然環境に1匹、卵一つ漏らさぬと絶対にお約束ください。天然に広がれば取り返しがつかないことが起こります。それをお約束していただかなければ、お渡しすることはできません」


§ 9

 犬上は少し戸惑った声の三黒から電話を受けた。日差しが傾いている。電話の向こうはざわついていた。彼は、あの、その、と意味のない言葉ばかりを紡いでいる。どうやら困惑しているようだった。


「どうしたんですか三黒さん、落ち着いてください」

「ヤクザとつるんだ旧釣り具メーカーの人間に、わが社の社員がお金をつかまされて、……食用魚を数匹、湖や海に放流したというのです」


§ 10

「もう4年ですか」


 寒空の下、三黒が襟を寄せる。すでに50を超えた三黒の頭はごま塩に、彼が志熊に出会ったころと同じぐらいになっていた。隣に立つのは戴白の志熊と、そして未だに年齢不詳の美人アンドロイド犬上だった。


「わたくしからしてみれば、まだ4年しかたっていない、ですよ」

「私もそうだなぁ。たった4年でここまで様変わりとは。いやはや恐れ入った」


 3人は頭大の大きさの岩が転がる海岸線で、何者かを待っていた。昔、初めて海外の湖に出荷されるときとは逆で、見送るのではなく戻ってくるのを待っている。時期は3月、場所は鹿児島の桜島の西側、錦江湾に面した海岸。


 あれから食用魚は各地で発見された。天然の魚が激減後に衰退した釣りという文化が、予想通り瞬間的に復活した。釣りをすればただで天然のタンパク質が食べられると、釣りブームが起こり、一瞬だけ漁業が再開した。


 しかし、食用魚の天然環境への進出は、激減していた海洋生物にとどめを刺した。すでに絶滅したと考えられていたナガスクジラが食用魚の群れに襲われ、ものの一時間で骨まで食い尽くされた。そんな映像がお茶の間に流されたのをきっかけに、大規模な反食用魚運動が始まった。


 その昔アマゾン流域ではピラニアという肉食魚が川に落ちた哺乳類はもちろんのこと、一つ間違えれば人間をも食べかねないと恐れられていたが、まさに食用魚は現代版のピラニアだった。


 食用魚として志熊が初めに設定した目標は、美味しい・栄養価が高い・可食部位が多い・飼育管理が容易の4項目であった。このうち、可食部を多くするため内臓を小さくしたおかげで、短すぎる消化管は食べたものがすぐに通り過ぎてしまい、食用魚たちは体の大きさ以上に貪欲に何でも食べた。


 こうして製品としてしか名前が無かった食用魚につけられた初めての名前は『カリュブディス』。ギリシャ神話に出てくる海の暴食の女神。雌しかいないこともあって、本当にぴったりだと犬上は常々ぼやいていた。


「でもまさか人を襲うようになるとは、私には予想外でした」

「見黒さんは生き物のこととなると、本当にからっきしですね。営業の方は腕がよろしいのに」

「それについては返す言葉もないですね。専門的な知識は分かりかねます……が、今となってはちゃんと理解しておけばよかったのかな」


 初めて天然環境でカリュブディスが吊り上げられてから1年と経たないうちに、インドのガンジス川で、初めてカリュブディスによる死者が出た。ヒンズー教徒の男性が朝の沐浴中に食われたというセンセーショナルな報道は、一瞬にして世界を駆け巡った。


 問われたのは会社の管理体制だったが、それと共に開発者である犬上と志熊も厳しい立場に置かれた。


 しかし一方では、カリュブディスと合成タンパク質、そして少量の食肉以外に、動物性タンパク質を摂取する手段が無いのは相も変わらず。それゆえどんなに会社を非難しようとも、カリュブディスを食べるしかない人も中にはいた。


 4年が経ち、あらゆる水域からはカリュブディス以外の生物が消え、人間はカリュブディスを恐れて水辺という水辺には近づかなくなった。水域に関わる仕事には全てカリュブディスのリスクが付いて回る。海運業を始めとするほとんどの企業も倒産に追い込まれて行った。漁業も一時期は再開してカリュブディスを漁獲していたが、漁獲と同時に漁師に襲い掛かる魚を恐れて、次第に誰も獲ろうと言わなくなっていった。


 反比例して盛り上がったのは犬上の母が運営する新興宗教だった。これは生き物の体を弄んだことに対する罰である、今こそ人は生き物を尊び、なるべく生き物を食べない生活をせねばならないと訴え、それは世間に受け入れられた。


 人間が食われ人間は食うものが足りない状態で、ようやく天然に生息するカリュブディスをどうにかする対策チームを立ち上げたのは1年と少し前。それはカリュブディスが、餌となる生物が無くなってもなお一定数を維持し続けている原因を判明した後だった。


 カリュブディスたちは犬上が作った自己防疫機能を逆手に取り、己の体に新しい機能を次々と搭載していた。それは簡単に言えば世代内進化、ありえないとされているものだった。確かに薬剤耐性を恐れて薬剤そのものではなく、抗体を作れるようにしたのは犬上だったが、まさか植物プランクトンの遺伝子を取り込んで己の体表面で光合成できる個体が出てくるとは考えてもいなかった。光合成できるようになったにも関わらず、カリュブディスたちが食事を諦めようとしないのは、魚には満腹中枢が無いことに由来するであろうというのが志熊の予想だった。


「生き物って、何なんでしょうね」


 いまだに自分が開発に携わったカリュブディスを一口も食べたことが無い犬上は、南の海上を見る。錦江湾は桜島を挟んで大きく南北二つに分かれている。今彼らが待ちぼうけを食らっているのはその二つを結ぶ水道部分だった。幅約2キロ、水深は40メートル程度しかない。


「志熊先生、犬上さん、湾入り口の電気錠を作動させました。もう、じきに船が見えてくるはずです」


 携帯で連絡を受けた三黒が告げる。彼らはカリュブディスを待っていた。


 世界各地に散らばったカリュブディスは、飢えでタンパク質、とりわけ血の臭いがする方に集まるという生態が確認されていた。これを逆手に船で血を細く長く落としながら彼女たちをかき集め、そして錦江湾の最奥で一気に処理する。これが今回初めて行われるカリュブディス掃討作戦の内容だった。錦江湾はその形状から、水道二か所で電気錠を落とすのが比較的容易であることから選定された場所だった。


 船が見えた。どんどんと近づいてくる。このためだけに集められた腕利きの船員たち。海を守る戦いだからと言われて危険な船に乗り込んでいった彼らは、数か月かけて世界各地からカリュブディスをかき集めてこの鹿児島へ戻ってきた。志熊と犬上は自分が作った生物の最期を見守るためにここへ来たのだ。


「ねぇ先生、三黒さん、覚えていますか」


 唐突に犬上は履いていたブーツを脱いだ。ここは岩場。足が切れてしまうよ、と言う暇もなく、彼女は一心に海を目指して歩き始めた。


「わたくし、宗教的な問題ではありますけど生き物は尊いものだと母に教わって、それについては本当にそう信じております。でも、だからこそ食べてはならないというのだけは理解が出来なかった。生き物同士は食べて食べられる関係であるはずなのに、なぜ生き物の一種であるわたくしが他の生き物を食べていけないのか理解できませんでした。どうして理解できないのか、腑に落ちないのか不思議だったんですけど、最近になってようやく分かったんです」


 彼女はバッグから光る鋭利なものを取り出した。それは今や一般家庭ではまず見つからない魚を捌く専用の包丁、出刃包丁。それを片手にそのまま海の中へ入っていく。冬の海は冷たい。だがそれ以上に彼女が一体何をしようとしているのか理解できず、三黒と志熊は止めに入るのが遅れる。あるいは近づいてくるカリュブディスに対する恐怖もあり、海の中へ腰まで浸かる犬上の傍へ駆け寄ることを躊躇した。


「先生、三黒さん今までありがとうございました。わたくし、食物連鎖の中へ還ります」


 彼女は陶器の人形のように綺麗な笑い顔を残して、自分の腹に出刃包丁を突き刺して横に引いた。海が赤く染まる。ちょうどその背後を船が通り過ぎ、そして船の後ろで小さなしぶきを立てていた一つの魚群が犬上の方へと転進する。


 カリュブディスたちは今まで追っていた薄い血のにおいがする方から、もっと濃い血の方へと一斉に頭を向けた。


 見つけた美味しそうなごはん。柔らかい太もも。パリッと弾ける肌、噛みごたえのある筋肉と脂肪の層、コリコリとした筋膜、硬い骨とそれを砕いたあとに溶け出す骨髄、口いっぱいに広がる脂の臭いと芳醇な血液。


 食べ物が豊富だった世代のカリュブディスたちならば十分に味わっていたかもしれないが、飢餓に苦しむ当代たちは群の他のメンバーに取られまいとするだけで精いっぱい。咀嚼するわけもなく、噛み千切った肉を喉の奥へ小さな内臓へと送り込んでいく。


 カリュブディスたちはついに犬上の内臓に取り掛かる。筋肉よりもずっと柔らかくて栄養がある部位に、体を潜り込ませるように食らいついて、自分の体をすっぽり餌の中に潜らせて、―――そして彼女たちの動きが止まった。

 

§ 11

 腹から下に大量のカリュブディスたちをぶら下げたまま、犬上は天を仰いで息絶えていた。船が通った後を追いかけるように波が海岸に打ち付ける。周囲には何かの刺激臭が立ち込めていた。


 犬上は恍惚の表情のまま固まっており、下半身は見る影もない。腹から下にぐるりと周囲をカリュブディスに食いつかれ、海を真っ赤に染めている。バランスよく立っているのが奇跡だ。


「なんてこった……」


 三黒はその光景に、それ以上何も言えなかった。目の前に人間の死体が目の前にある気持ち悪さとともに、得体のしれない匂いが周囲に充満していて、思わず口元を手で覆う。だが、犬上の安らいだ表情を見ると、この人は天に昇ったのだとも思えてくる。


「彼女は生き物として死にたかったのか……」


 口に出してそういうと、納得できたような気がした。志熊も同様に衝撃を受けてはいたが、何かに気が付いて犬上の体に手をかけた。ぐらりと揺れて彼女の体は浅瀬に倒れ込む。だが海水に浸かった体をそれ以上食べようとする者はいない。カリュブディスもまた、空羅の腹に食らいついたまま波間にたなびいて死んでいた。


「どういうことだ……?」

「先生、何でしょうこの……匂い? 刺激臭」

「これはアンモニア臭です。でもどこから」


 アンモニアの発生源と言えば、体内での経路を考えれば尿が一番近い。しかし、と志熊は首を傾げる。確かにカリュブディスは内臓が小さい分だけ排泄までの時間も短いが、明らかにこんな匂いがするほどの高濃度のアンモニアを排泄するだろうか。食べたものと言えば犬上の体だけだというのに。犬上空羅の体、もといヒトの体は摂取できないような量のタンパク質が含まれているのだろうかと。


「まさか犬上さんで食あたりを起こして死んだとかじゃないですよね」


 生物の知識がない三黒だからこその発想。志熊はぽんと手を打った。


「そうか、犬上君の体は、カリュブディスには消化吸収できないようなものが含まれていたって可能性も」

「それじゃ犬上さんがまるで人間じゃないみたいじゃないですか」

「彼女は幼い頃から合成タンパク質漬けの生活で、体内に本来は存在しない人工のタンパク質由来の物が大量にあったんじゃないかな。それでカリュブディスが処理できない非天然のアミノ酸のアミノ基が全てアンモニアとして排泄されたら……水に溶けて強い塩基性になるか……?」

「先生、さっぱりです」

「うむ、私にもよくわからん。世迷い事だと思って聞き流してくれ。単純に犬上君が服毒していたのだけかもしれないしな」


 そういって白髪頭の老博士は、愛弟子と愛すべき自分の創造物を水の中から引き上げる。


「カリュブディスのオルニチン回路はまだ働いてなかったのか。陸上生物と違ってこいつらは尿素を作ることが出来なくて、自分の排泄物の濃度の急激な変化にやられたと。まだまだ生き物だったってことか。いやこれも想像の域を出ない……」


 ぶつぶつと何か言いながら、犬上の腹に食いついたまま死んでいるカリュブディスたちを一匹ずつ丁寧に引き離して大きな岩の上に並べ始めた。


「なんだか分かりませんが、とりあえず終わってよかった……いやそうではない、そうじゃないですよ。これは事件なのか自殺なのか、どうしたらいいのか。ええい、とりあえず警察か」


 少しずつ現実に戻っていく三黒は、本来は当然の作業である通報を思い出す。


 一方、志熊は一匹ずつ丹念にカリュブディスを調べ続けていた。悲しいかな、研究費は一番儲かっていた時代の十分の一。だが犬上が死んだ以上、カリュブディスの残存状態を調べて安全宣言を出すまで、この志熊ならばやるだろう。


 三黒は犬上の死体に背を向けて、ポケットから携帯電話を取り出した。それから通報をしようとして、志熊の唸り声を聞く。


「大丈夫ですか先生! カリュブディス生きてました⁈」

「いや死んでる。死んではいるが、これは……なぁ三黒君」

「はい?」

「安心するのは、ちと早いかもしれん」


 見せられたのは30センチ大、成魚のカリュブディス。胸鰭と尻鰭が肢の形状に変形した個体だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スキュラとカリュブディス、と 鳴海てんこ @tenco_narumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ