お見舞いの一コマ 〜一コマシリーズ6

阪木洋一

平坂さん家


「……ごめんください」


 夕刻のことである。

 小森こもり好恵このえが学業を終え、つい最近ご近所さんになった平坂さん家を訪ねたのは。

 一戸建ての門のインターホンを押してから、少し待った後に、


「あら、好恵ちゃん、今日も来てくれたのね。入って入って」

「……お邪魔します」 


 快活な雰囲気の、小柄な初老の女性が、笑顔で好恵のことを出迎えてくれた。

 彼女は、平坂ひらさか陽向ひなたさん。

 この地区に引っ越してきてからすぐに知り合った女の人で――好恵と仲良くしている後輩の男の子、平坂ひらさか陽太ようたくんのお母さんだ。


「……陽向さん、陽太くんの具合は、どうですか」

「んー、少しずつ治ってきてるわ。明日には回復すると思う」

「……そうですか。よかった」

「ふふ、そんなに大袈裟にしなくてもいいわよ。まったく、こんな可愛い娘に心配してもらえるなんて、あの子も果報者ね」

「……本当に心配だったの」

「うんうん、本当にありがとうね。陽太に会ってく? 今は大丈夫だと思うし」

「……はい」


 好恵が平坂さん家を訪れたのは、風邪を引いたという陽太くんの見舞に行くためである。

 昨日の朝、陽向さんから陽太くんの学校欠席のお知らせを聞いたときは、とても心配したし。

 その日は会うことが叶わず、今日も学校を休むことになっていたのには、好恵は気が気でなかったのだが。

 どうやら、大事にはならなかったようだ。

 とてもホッとしたのと、今日はちゃんと陽太くんに会えることが――好恵には嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「陽太、起きてる? 好恵ちゃんが来てくれたわよー」

「…………」

「陽太ー?」

「…………」


 平坂さん家の二階に上がって、陽向さんが陽太くんの部屋の戸に呼びかけて見るも、返事はない。


「んー? ……ああ」


 陽向さん、少しだけ戸を開けて部屋の中をのぞき見て……それから、こちらに振り返って、少々申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんね、好恵ちゃん。陽太、寝ちゃってるみたい」

「……そう、なんですか」

「起きたら、好恵ちゃんが来てたって言っとくわ。あの子喜ぶと思うから」

「……あの、陽向さん」

「ん?」

「……寝ていてもいいですので、ちょっとだけ、陽太くんと会わせてくれませんか?」

「――――」


 それを聞いて、陽向さんは少々目を丸くするのだが。

 ややあって、ふ、と小さく微笑んで、


「いいわ。あたしは下にいるから、何かあったら言ってきて頂戴」

「……はい」

「ちょっとだけとか言わず、存分にゆっくりしていってね」


 そう言って、陽向さんは階段を降りていった。

 途中、『まったく、あの子、春満開ね……』と呟いていたのが聞こえたけど、意味はよくわからない。今は秋だ。

 それはともかく。


「……お邪魔します」


 一言断って、好恵は部屋の中に入る。

 男の子の部屋は大体散らかっていると友達から聞いていたが、この部屋はきちんと整頓されており、あと、ちょっとだけいい匂いがした。居心地が良さそうだ。

 そんな小綺麗な部屋の真ん中、布団で眠る陽太くんが居た。

 前髪をヘアピンで留めていて、額には冷却材を貼っている。なんだか可愛い。

 回復前と言っていたとおりに、まだちょっと顔は赤いけど、寝息は穏やかで、明日には元気になるというのは本当のようだ。


「…………」


 ああ。

 ……ホッとするなぁ。

 布団の傍らで座って、陽太くんの寝顔を見ながら、好恵は心からそう思う。

 眠っているからお話出来ないのは残念だけど、その顔を見られただけで、とても安らかな心地だ。

 ――いつからだろう。

 陽太くんに会えない日が、とても寂しいと感じるようになったのは。

 ――どうしてだろう。

 何も集中することがなくなったとき、ふと、陽太くんのことを考えるようになったのは。

 そして――なんなのだろう。

 陽太くんのことを考えて、今この時も陽太くんと会っている時に、胸の奥をきゅっと締め付ける、何かは。

 わからない。

 陽太くんは、これを知っているのかな?


「んっ……」


 と、眠る陽太くんが、少しだけ声を漏らして、好恵はびっくりする。

 ……女の子みたいな顔なのもあって、少し色っぽくも感じてしまったのはともかく。

 もしかして、起こした? と一瞬思ったけど、違ったようだ。

 ややあって、再び静かな寝息を立て始めた。

 今、陽太くんはどんな夢を見ているだろう?

 

「……夢と言えば」


 思い出したことがある。

 いつの日だったか。

 放課後の図書室で、授業でわからなかったところの調べ物をしようと思って、それでついつい眠ってしまって。

 あの時の夢。

 確か、好恵が陽太くんに料理を振る舞う夢だったと思う。

 何故そうなったのかについてはわからないが、何せ夢の中であるし。

 あと、家庭の事情で、好恵は昔から料理が得意だったので、あまり気にならなかったと思う。


『……陽太くん、好きな料理、なに?』

『か、カレーッス! カレーが好きッス!?』


 その時の陽太くんが、何故焦り気味だったのかについても、やはり気にならなくて。

 で。

 過程も何もなく、あっという間にカレーライスが出来上がって。

 向かい合わせでなく、隣り合わせでカレーを食べている時。


『あ、先輩』

『……?』

『ほっぺたに、ついてるッスよ?』

『……え……あっ……!?』


 そう言って、いきなり陽太くんが好恵の頬に唇を寄せてきたのに、びっくりしてしまったところで、好恵は目が覚めたのだった。

 しかも、目が覚めた直後、現実の陽太くんが居たのには、本当に驚いて、同時にとても恥ずかしくなったものだが……。


「……夢の中の陽太くん、大胆だったなぁ」


 思い出して、またちょっと恥ずかしくなった。

 そして、好恵はふと考える。


 ……今、陽太くんが見てる夢に、わたしは、居るのかな。

 

 もし居るとしたら、どう映っているのだろう?

 いつも通りなのだろうか?

 それとも、自分の夢の中の陽太くんが大胆だったように、陽太くんの夢の中の好恵は大胆だったりするのだろうか?

 だとしたら、どんなことをしちゃうのだろうか?

 例えば、あの夢のように、その頬に――


「……あ」


 気がつけば、陽太くんの息遣いが近かった。

 女の子のように可愛く、でも、最近はちょっと……かっこいいなと思える顔が、好恵の視界いっぱいにある。

 ……いつの間に?

 わからない。

 ただただ、自然と、そうなっていた。

 ……どうしよう?

 答えは簡単。

 離れれば良いだけ。

 それなのに。

 離れられない。

 陽太くんの寝顔から、目を離せない。


『――知ってる? 眠り姫は、王子様のキスで目を覚ますそうよ?』


 そこで何故か、自分の友達の声が、好恵の頭の中で響いたような気がした。

 実際、友達がそう言っていたのを好恵は聞いたことがないけど、本当に、それだけがクリアに想起出来た。

 理由はわからない。


 キス?

 陽太くんと?

 わたしが?


 ただただ、考える。

 そうすることは、恥ずかしい。

 でも。


 ――どんな気持ちに、なるのかな?


 ほんの些細な好奇心は、やがて溢れる衝動となる。

 鼓動が早鐘を打つ。

 息が乱れそうになる。

 落ち着いて。

 陽太くんとなら。

 わたしは――



「……ん」



 そういう思いで。

 ――好恵は、陽太くんに触れた。

 少しだけ。

 そう、ほんの少しだけ。

 なのに。


「――――!?」


 すごく、柔らかかった。

 その感触だけで、好恵は、正気に戻って。

 次いで、バッと彼から離れて、全身を紅潮させた。


「……これは」


 自分の口元を手で押さえて、好恵はへなへなと弛緩して、寸前で堪える。

 恥ずかしいのは当然だけど。

 なんだか、とても、ほわほわする。

 この気持ちは、一体?


「んっ……んぅ?」


 と。

 陽太くんがうなり声をあげて、瞼を微妙に揺らしていた。

 これは、もしや、

 ……本当に、起きた……!?

 好恵はますます混乱するのだが、今、陽太くんに起きられても……どう向き合えばいいか、まるでわからない。

 ……どうしよう、どうしよう……!


「あふぁ……むぅ……ふぅ……」


 陽太くんはうっすらと目を開けたものの、また目を閉じて眠ってしまった。

 どうやら、まだまだ起きる気配はないらしい。

 ……ホッとしたような、ちょっと残念のような。

 好恵にはよくわからない。

 ただ。


「……陽太くん」


 一つだけ、なんとなく、わかったことがある。


 その顔を見られただけで、安らかな心地になるのも。

 陽太くんに会えない日が、寂しいと感じるようになるのも。

 ふとした時に、陽太くんのことを考えるようになるのも。

 胸の奥をきゅっと締め付ける、何かも。


 何より――陽太くんとなら、と思ったことも。


「…………」


 だから。

 もう一度。

 もう一度だけ……。


 そんな思いで、好恵は再び、その寝顔に近づいたところで、

 

「んー……ん? 好恵、先輩?」


 突然。

 本当に突然に、パカッと蓋が開くように、陽太くんの瞼は開いた。


「!?」

「あれ……なんで、好恵先輩がオレの部屋に……え?」


 突然だったので、好恵は思わず仰け反りそうになって、尻餅をついてしまった。


「……あ、あ、あ、あああああああああの……その……!」

「え、ど、どうしたんスか、先輩? 顔めっちゃ赤いッスよ?」

「……え、え、えっと、その……わたし、陽太くんの、お見舞いに来てて……それで……!」

「あ、ああ、なるほど。ありがとうございます。先輩に会えただけでも、オレ、めっちゃ元気出るッスよ。明日には、必ず治しますんで」

「……う、うん……そうだね」


 何もない?

 大丈夫?

 いつもの陽太くん。

 なら、落ち着いて、いつも通りに――


「それに……なんだか、今、すんごい気分がいいんス。先輩が会いに来てくれたのもだけど、それとは別に、なんだかこう、夢の中でマシュマロを食べたみたいに口の辺りがほわほわしてて」

「――――!」

「そういえば、その夢には先輩が――」


 訂正。

 無理だった。

 恥ずかしさに耐えきれなくなって、好恵は立ち上がって、


「……ご、ごめん……!」

「え? 好恵先輩?」

「……ごめん、ごめんね……!?」

「せ、先輩!? せんぱーい!?」


 ついつい、逃げるかのように、部屋を出て行った。

 しばらく、陽太くんの顔を見られそうにない。


「あら、好恵ちゃん?」


 途中、階段を降りようかというところで。

 お盆に飲み物を二つ用意していた陽向さんと遭遇して、


「もう帰っちゃうの?」

「……えっと、その、はい、あ、ありがとうございました。し、失礼します……!」

「好恵ちゃん」

「……え?」



「――ごめん。実は、見てた」



「――――!?」

「グッジョブ。……まあ、これからも、よろしくね?」

「~~~~~~~~~…………………………はい」


 しっかりと、追い打ちをかけられました。

 にこやかな笑顔で親指を立てる陽向さんに、好恵は、蚊の鳴くような返事をするしかなかった。


 もう、なんとなくではなく。

 ――はっきりと、今のこの気持ちを、理解した。

 その気持ちが、ずっと前から存在していたことについても。

 ただ、理解したとして。


 ……どうしよう?


 それからどう行動すればいいのかについては、好恵には、何も考えられなかった。


  ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★


 翌日の朝。


「好恵先輩、おはようございます。昨日はありがとうございま――」

「――――」

「……って、え、先輩、なんで走って……つか、速っ!? せんぱーい!?」


 昼。


「あ、好恵先輩、偶然ッスね。えっと、こ、これからお昼でも……」

「――――」

「あれ、なんで回れ右!? しかも、人を避けるのがやたら上手い!? 先輩、せんぱーい!?」


 放課後。


「こn」

「――――」

「って、先輩、オレまだ何も言ってないッス!?」


 とまあ、そんな調子で。

 風邪から復帰して以降、平坂陽太は、しばらく好恵先輩に避けられてしまい、ガチで凹んだ。


「なんでだ……オレ、何か悪いことしたのか……もしかして、嫌われて、しまったのか……」

「それはないと思うわよ」

「……なんで母さんにそれがわかるんだ?」

「乙女の勘ってヤツかね」

「……母さん、もうそんな歳じゃ……イテッ!?」

「キミはもうちょっと、オンナゴコロを理解しなさいな」

「???」


 そう言って食事の支度に向かう母は、とても嬉しそうで。

 その意味を陽太が理解するのは、もっと先の話である。

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