9 (完)




「ば、馬鹿な!? いつもと違うだと! そんなことがあるわけ……」


「俺の運命は自分で決める! おまえの世話になんてならない!」


「や、やおよろず重ねてきた私のサイクルが崩れるなんて、そんな馬鹿な……。お、おのれええ! やはりあの小説家に誑かされたのだな? こうなったらせめて次の新しい体だけでも!」


 怪人が振り返り、きょろきょろと何かを探していた。そしてそいつは一人の人間に目を留めた。洋孝もそこを見て、ハッとした。背の低い小太りな年配の男がこっちを見ていた。老いてはいるが自分にそっくりだ。驚いた顔まで自分と瓜二つだった。


 いつの間にか怪人はその男に近づいていた。洋孝が危ないと言いかけた時、信じられないことが起きた。老いた自分に似た男がまるで幽霊のようにすうっと消えたのだ。会場から悲鳴が起きた。非現実な怪人の前で消える現実の人間。怪人の仕業かとも思ったが、その本人が先程以上の驚きを表していた。


「そんな、消える、俺になるはずの体が……。サイクルが途切れ、歴史が変わり、未来の毒島はもうここにはやって来ないということか。ちくしょうおおお! おのれえええええ!」


 怪人は叫びながら再び誰かを探し始めていた。そしてある一点でその首の動きが止まった。視線の先には美しい女性がいて、怪人はニヤッと笑うとそちらの方に歩き始めた。女性もそいつが自分の方に向かって来ることに気付き後ずさりしていた。


 その時、洋孝は自分でも驚く行動を取っていた。急いで駆け寄り怪人と彼女の間に割って入ったのだ。手を広げ彼女を守るように立ちはだかった。これまでの意気地無しの自分には考えられない行動。考えるより先に体が反応していた。この人は絶対に守らなければならない、なぜか湧き上がる強い思いがあった。


「ぶ、毒島!? なぜだ、なぜ貴様がその女を守ろうとする? そいつがいなければこんなことにはならなかったのだ! どけ!」


 怪人が左腕を振り上げた。その腕には時計が付いていた。時計が好きで少しずつ勉強していた洋孝はそれに見覚えがあった。有名なブランドの逸品、とんでもない値段がするもので、おそらく一生かけても自分の手には入らないと思っていたものだった。それが自分の頭に振り下ろされようとしている。そう思った、まさにその時、その腕が腐り落ちるようにぼたっと床に転がった。


「ぐうっ、も、もう限界が、ちくしょうおお!」


 少しずつ崩れる怪人の体から黒い塊が飛び出した。見ただけで気分が悪くなるほどの異常な気配の塊。それが洋孝の方に向かってきた。恐怖で足が動かなかった。目をぎゅっとつぶった。何も起こらない。目を開けた。目の前に誰かが立っている。後姿。それは先程の初老の男だった。


「この時を待っていたんだ。おまえがその体から飛び出す時を」


 突然、男の体がびくんと跳ね上がった。一度、二度、三度……。体の中であの黒い塊が暴れているようだった。


「おまえはこれを恐れていたんだろう? 強い意志に閉じ込められ乗っ取ることも出ることも出来なくなる、この事態を」


 初老の男は自分の中に向かって話しかけていた。そして今度はあまり振り返らず洋孝の方をちらっと見た。


「ありがとう。彼女を守ってくれて」


 それだけ言うと男は急に駆け出した。慌てて洋孝もその後を追った。あるドアから外に出ると急に風が顔に当たった。船の外側を囲む通路に二人は出ていた。ようやく男が立ち止まる。振り返った彼は口からかなりの血を流していた。服の上からでも分かるほど体のあちこちがまだぼこぼこと動いていた。


「こんな姿、洋子には見せられないからなあ」


 男はそう言うとふっと笑った。


「それにしても君が本当の悪人じゃないとわかって良かった。こいつさえいなければ君は大丈夫だ」


「わからない。あんた何者なんだ? そいつはいったい何なんだ? 教えてくれよ」


「知らなくていいこともある。君はこれから君の人生をしっかり生きればいい。君の本当の人生を。この邪魔者は私が連れてゆく」


 その時、空から突然光の塊が降ってきた。黒い塊とは対照的なふんわりとした暖かい光。男の体にそれが入る。彼はその瞬間すうっと涙を流した。


「ああ、篤子、来てくれたんだね。ありがとう。君が一緒なら怖くないよ。……さて海神よ。そうか、本当は寂しかっただけなんだな。おまえが中にいる今それがわかったよ。私たちが付いていてやるから帰ろう。お前の生まれた海へ」


 男は「じゃあ」と言って洋孝に微笑みかけた。止める暇など無かった。彼は信じられないほど軽々と手摺を乗り越えて、そして落ちるというより吸い込まれるように海中に消えていった。


 後には静かな海が残された。


 暫くの間、洋孝は彼が消えた海面を呆然と見つめた。男の言葉が耳から離れなかった。


 本当の人生を生きろ。


 逃した偽りの幸運よりも大事なものが俺を待っている、毒島は心の底からそう思えた。





 そして、それは「未来」の話。





 またあの夢か……。


 私はベッドの上で上半身を起こし、ふうっと溜息を吐いた。


 暗い海の底で眠っているような夢をよく見ることがある。そう言うと怖そうに聞こえるかもしれないが意外とそうでもない。同時にその闇の中で何か暖かいものが傍に居るのをはっきり感じるからだ。 


 感じとしては夫婦が寝転がり真ん中に赤ん坊を置いて見守っている、そんな雰囲気にすごく似ている気がする。赤ん坊は我儘で、暴れ、泣きじゃくるけど、二人はそれをあやしながら笑顔で見つめている、そんなイメージだ。こんな奇妙な夢を見るようになったのはいつからだろう? 小説家になってから? もう少し後か? ひょっとすると、あの事件の頃から……。


 そこまで考えていてハッと気付いた。


 約束! 今日じゃないか!


 今は何時だろうと時計を見るともう十時近かった。妻が生きていれば起こしてくれただろうに。もう六年も同じことを思ってしまうが一向に寝坊癖は直らなかった。慌ててベッドから飛び起きて着替えをした。昔に比べ、ちょっとだけ出たおなか。でもあの再会が無かったらもっとひどいことになっていただろう。仕方なく朝食は抜いて、大急ぎでタクシーを呼んだ。


 ある寺の前で車を降りた。約束の時間をちょっと過ぎてしまっていた。「こんな大事な日に、我ながら情けない」と私は焦っていた。彼女のことだ。まだ待ってくれているだろう。そんな甘えた考えを抱きながら急ぎ足で目的地に向かった。初老の体はすぐ息切れを起こした。だがある墓の前に彼女の姿を見つけると私の苦しさは吹き飛んだ。


「もう! 遅刻よ、せんせえ」


 おどけて洋子が笑った。歳をとっても笑顔は若い頃と全く変わらない。私は息を整えながら頭を下げ彼女の横に並んだ。


「いやあ、ごめん。……もう十三年だったかな、ご主人?」


 目の前の立派な墓石を見て私はそう言いながら手を合わせた。


「ええ。ほんと早いわ、時が経つのは。……奥様は?」


 洋子は数十メートル離れた所にある別の墓石を見ながらそう言った。うちの墓だった。


「ああ、もう六年だ。確かに早いね、時が経つのは」


 妻が死んでからの時間だけではなく、今、隣にいる彼女との時間を思いながら、私は呟いた。


 やおよろず丸の事件のことを彼女から聞いたのは船が港に引き返してきて暫くしてからだった。


 ニュースで船の事件を知り、港まで来ていた私は彼女の父親とも鉢合わせしてしまい、ばつの悪い思いをした。監視が厳しくなってしまい、再び彼女と会えるようになるまでに時間が掛かったのだ。その時、彼女の口から語られたのはニュースでも報道されなかった、信じられないような話だった。


 仮面の怪人、大衆が見守る中で神隠しのように消えた乗客、粉のように突如崩れた怪人の体、そこから飛び出した黒い煙の塊、それを受け止めて自ら海に飛び込んだ乗客名簿に名前の無い謎の老紳士。


 今でもやおよろず丸の事件がミステリーといわれる所以である。


 事件後、私たちはなかなか会うことが出来なくなっていった。


 それでも連絡を取り合う努力はしていたが、会えないことで気持ちが少しずつ変わっていくのを私は感じていた。やがてそれぞれに結婚の話が持ち上がった。私は親戚の紹介で篤子という女性と、そして洋子の方は毒島という男と、だった。


 彼はやおよろず丸の事件の際に彼女を守ってくれたという男性で、それをきっかけに洋子の父親に気に入られ彼の元で働いていた。若いのに骨董に興味があり、洋子の父親とは趣味があったらしい。


 私たちは自分たちがかつて思っていたよりも意外にあっさりと別れることになった。これも運命だろう、お互いその時そう結論を出したのだ。


 互いの結婚、それから数十年が経ち、篤子が亡くなった。そしてそれからさらに数年経った時、法事でも盆でもないのに私はふと思い立って墓参りに出向いた。そこで洋子と再会したのだ。聞けば彼女もなんとなく御主人の墓参りに来たところらしかった。お互い、自分の家の墓が同じ霊園にあることを知らなかったのだ。数十年の時間があっという間に追いついたような気がした。


「幸せだったかい? 毒島さんと……、御主人と結婚して」


「……ええ、幸せだったわよ。もちろん苦労もしたけどね。彼は頑固な性格だったからすぐ人と喧嘩して、結局、父から受け継いだ会社も人手に渡ってしまったし」


 彼女は笑いながらそう言った。なぜか楽しそうだった。


「なんか言葉だけ聞くと幸せに聞こえないな」


 私も笑った。


「でも彼は決して根が悪い人じゃなかった。私には最後まで優しかったし。だから彼と人生を歩めて良かった」


 それは本心からの言葉に見えた。


「私も彼女と、篤子と結婚して良かったと今でも思っているよ。彼女は私にとって運命の人だった。今でもはっきりそう言える。お互いが良いパートナーに巡り会えて『本当の人生』を歩んだんだね、私たちは」


「本当の人生?」


「うん。人生に嘘も本当もないかもしれないけど、なんかそんな気がするんだ」


「そうね。お互い色々あったけどそうかもしれないわね。……ねえ、ちょっと後ろ向いて見てくれる?」


 またか、と思いながらも私は黙って後ろを向いた。


「やっぱり似ているわ」


「またその話か。君とご主人を助けたあの謎の老紳士に私が似ているっていう」


「ええ。私はちゃんと顔を見たわけじゃないけど、あれはあなただったって今でも思っているわ」


「顔を見たという御主人はなんて言ってたの?」


「彼は何かを悟っていたみたい。『あの人の世界はあそこで終わりだったんだ。別の世界の俺たちが詮索すべきじゃない』って」


「……別の世界か」


「そう。……そうだわ! もしかしたら未来のあなただったんじゃないかしら?」


「おいおい、それじゃあ、私が今から出かけなきゃならんことになるじゃないか。タイムマシンでも使ってね。まったく、君はおかしな本を読みすぎなんじゃないか?」


「じゃあ、あなたのせいね。あなたとお別れした後もあなたの小説はずっと読んでいたんですから」


「ほお、それはそれは。お買い上げ毎度ありがとうございました」


 二人で笑った。お墓の前だというのに。いや、毒島さんや篤子が見守っていてくれるからこそ笑えるのかもしれない。 


 ……今なら言えるだろう。


「なあ、洋子」


「えっ、なに?」


「お願いがある。結婚して欲しいんだ」


「えっ!? こんなお婆ちゃんを捕まえて? そんな、もう遅いわよ」


 そう言いながらも洋子は嬉しそうだった。


「いや、遅くなんて無いさ。これからだってまだまだ僕たちの本当の人生だ。私はそう思ってる」


「本気なの? ふざけているんでしょ? 本気にするわよ?」


「もちろんだ。さてと、結婚式はどうしようか?」


「け、結婚式!? ちょ、ちょっと待ってよ! こんな歳で恥ずかしいじゃない!」


「そんなことないさ。君の花嫁姿、僕は今からでも見てみたいよ。そうだな、親戚はさすがに恥ずかしいだろうからお互いの友達だけ呼ぼうか? そうそう、井奥って人を呼びたいんだけどいいかな? ずっとお世話になっている社長さんでね、出版社の。本好きが高じて会社を興した変わり者で年上の親友って感じの人なんだ。後は……」


 何かを取り戻すように私たちはいつまでもずっと二人で話し続けた。





                  (了)








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やおよろずクルーズ 蟹井克巳 @kaniikatsumi

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