「ところが一つ計算外のことが起こりました。すぐに乗り移ろうと思った若い毒島さんの精神の中に希望の光があったのです。移民として成功するという思い。僅かではありましたが毒島さんの中には確かな光があった。それが邪魔であいつは毒島さんの中に入れなかった。あいつにとっては大きな誤算でした。そこでその場は毒島さんの記憶を無くしてしまうだけにして一度は諦めた。その僅かな希望を無くしてやるにはどうすればいいか策を練ったのです。希望を失うには希望を上回る絶望を与えなければならない。持っているものが多ければ多いほど無くした時の絶望は多いはず。そこで……」


「毒島に乗客たちから奪った幸運を与えてゆっくり大金持ちにしてやり、有頂天、人生の絶頂期になったところで、また過去に連れてきて、それを失わせるという絶望を与えたんだね?」


「はい。初回は『おまえにはもう運が残っていない。毒島グループは終わりだ』というようなことを言って、かなり苦労して、心に隙を与えてから体を乗っ取ったのです。しかし二回目からは毒島さんの体という実体を持ったことで楽になりました。仮面で隠した顔を未来から連れてきた毒島さんに見せ付けるだけで良くなった。自分の顔が、しかも異常に老いたミイラのような顔を見せられればそれだけでかなり動揺しますから。こうしてあいつはまんまと一つの循環を作り上げたのです。未来から毒島さんを連れてくる、過去の若い毒島さんをそそのかす、事を起こす、若い毒島さんの記憶を消し、未来から来た毒島さんの体に乗り移る、乗客たちの怨念を食らう、また未来へ行く、と。終わることのないこのサイクルは今まで数え切れないほど何度も何度も行われてきたのです。まさに、やおよろずに……」


 奇妙な暗合を栄治は感じた。


「ところが永遠に変わらないと思われていたサイクルに一つの誤算が生じました。あいつは悪夢のような死に方を迎えた乗客たちには希望などあるはずがないと決め付けていました。それは大昔から海の犠牲者たちを食らってきたあいつの経験からくるものだったのでしょう。ところが乗客の中に他の乗客とは違う変わった人間が一人いたんです」


「君か」


「そうです。水死体に襲われて、死体も残らない程、ひどい死に方をしたというのに、根津洋子は……、私は信じていました。最後まで、栄治さんがきっと助けに来てくれるって」


 それなのに私は……。栄治の胸が痛んだ。


「もちろんそんなわけないって頭ではわかっていたんです。でもなぜか心は信じて疑わなかった。恐怖や痛みにかき消されそうになって、それでも僅かにそれは残ったんです。他の人たちは残せなかった希望という名の貴重な小さな光。そしてそれは他の怨念たちと一緒にあいつに吸収されました。あまりにか弱い消えそうなその光に、大きな闇となっていたあいつは気付けなかった。闇の中でならいくら小さな明かりでも認識できたはずなのに、見えていたのに見過ごした。あいつは自分の力に慢心してしまったのですね。光はその好機を逃さずこれまでじっと我慢してきたのです。本当にあいつを出し抜けるだけの力が積み重なる、その時まで」


「それが今の君なんだね? やおよろず繰り返し死んでいった幾人もの洋子たちの小さな希望が結集した光」


「はい。ついにその時が来たのです。これまで繰り返されたサイクルでは未来から過去へ来たのは毒島さんひとりだけでした。私はやっと今回あなたにコンタクトを取ることに成功したんです」


「ああ、それがあの夢なのか!」


 揺れ、囁き、願い、呼んでいる。あれはやはりこの船から洋子が自分に助けを求めている声だったのか。


「それだけではありません。あなたがあの土地を買ってくれたことも今回が初めてのことだったのです。あそこは私があなたを呼ぶために必要な場所でした。毒島さんの秘書とあなたを会わせるために。そう、篤子さん、いい奥様ですね。あなた以上に私の声を感じてくださって、私のことをわかった上で協力してくださったんですよ。……あんな素敵な人があなたの奥様になってくれて良かった」


 ちょっと寂しそうにミイラは笑った。昔の口調。栄治は付き合っていた頃の洋子を思い出した。


「そうだったのか。篤子が君の家の跡地を買うことに賛成してくれたのは君の声を感じたからなんだね。しかしそこまでして私を呼ぶことに意味があったのか? 私のように無力な年寄りに何が出来るんだ?」


 自分がヒーローでも何でもなくただの初老の物書きであることを栄治は先程まざまざと痛感していた。


「先程、目の前で私のひとりが死んでしまったことはあなたが気にすることではないんです。こうしてあいつを出し抜いて時を止めるためにはあの分の洋子の光も必要だったのですから。それにあなたにはきっと天が与えた役割があります。その証拠にあいつはあなたに攻撃を加えませんでした。あなたが死んでいればきっと他の乗客のようにあいつに魂を吸収されていたでしょう。でもあいつはそれを躊躇していたみたいだった。あいつは今までの循環に登場しなかった異質な存在であるあなたを恐れているんです」


「役割か……。私は何をすればいいんだ? 君には考えがあるのだろう?」


 答えはすぐには聞けなかった。少しの間があった。彼女は悩んでいるようだった。


「……もうすぐ時が動き出します。私の力ではそろそろ限界なのです。その瞬間、時間が動き出す勢いを利用してあなたを次の『時のサイクル』まで飛ばします。あいつも後を追うでしょうが、あなたの方が僅かに早く着けるはずです。そうしたらあいつより早く過去の若い毒島さんに会って、邪悪な願いをしないように説得してください。鍵である彼が願わなければこの災厄も起きないし、あいつは将来乗っ取るべき体を失うはずです」


「そうすれば君も助けられるのか?」


「残念ながらそうじゃないのです。あくまでも変えられるのは次のサイクルでの未来。世界が違うのです。この世界でたった今死んだ洋子も乗っ取られた毒島さんも蘇らない。そして……」


「私も戻れないんだね。元の世界には……」


 薄々気付いていたことだった。招かざる客には帰るためのチケットが無いということだろう。


「ごめんなさい。わかっていても私はあなたを呼ぶしか方法がなかった」


「いいんだよ。気にしなくていい。変えなくちゃならないのは終わった『過去』じゃない、『今』なんだ。何が出来るかわからないけど行ってみるよ」


「ありがとう。ああ、もう時間が……」


「うん。洋子、君にまた会えて嬉しかった」


「私も……」


 栄治と洋子はじっと見詰め合った。黙って抱き合う。何かがぼたっと下に落ちた。それは洋子が乗り移っているミイラの毒島の左腕だった。それを合図にするかのように周囲の空気が震え出し、止まっていた時が動き出そうとしていた。


「じゃあ、飛ばすね」


「ああ、行ってくる!」


 それまで固まっていた全ての物が動きを取り戻した。


 動き始めた海神が二歩目を踏み出した瞬間、洋子の乗り移っていたミイラはボロボロと崩れ落ちた。


 そして栄治は消えた。





 そして、それは別の「時」での過去の話。 





 毒島洋孝はその時、床の掃除をしていた。専門知識を持った正式な船員ではない彼は出来ることが少なく、仕事は雑用としか言えないものばかりだった。上で行われているという「パーティー」というものに妬みに近い思いをはせ、溜息を吐いた瞬間、驚くべきことが起きた。


 初老といえる風貌の男性が突然目の前に現れたのだ。


 もちろん船には初老の男性など数えきれないほど乗船していた。しかしそいつは何もない空中から突然現れたように見えた。そんなわけはない。ぼうっとしていて近づいてきたことに気付かなかっただけだろう。洋孝はそう思うことにした。


 男は洋孝を見つけると慌てた様子で急に駆け寄ってきた。そして「怪人はまだ来てないか?」というようなことを言った。


 何のことか、洋孝にはさっぱり意味不明だった。おそらく顔にもそれは出たはずだ。それにはお構いなしに男は話を続けた。


 今からここに怪人がやって来る。そいつは金持ちにしてやると言って君を誘惑してくるだろう。でもそれに乗っちゃいけない。ひどい目に合わされるから騙されるな。


 色々と喋っていたが大体そんな話だった。


 具体的な忠告なのか抽象的な例え話なのか、わけがわからなかった。


 怪人? そんなものがいるわけないだろう。頭がおかしいのか、このおっさん?


 そう思ったが男の目はとても真剣だった。ひどく汗をかき、唾を飛ばし熱弁をふるってきた。


 何が彼にそこまでさせるのだろう?


 洋孝がそう思っているとまた目の前の空間に何やら変化が起き始めた。空中が四角い形に眩しく光り出し、それはやがてドアのように見え始めた。それを見た男の顔色が変わった。彼は「絶対に願ってはいけないよ!」と念を押し、大慌てで逃げるように廊下を走り去っていった。


 なんだ、何をそんなに慌てて……、と思った瞬間、光のドアから何かが出てきた。


 妙な仮面をつけた、まさに怪人といえる人物だった。


 さっきの男が言っていたのはこいつか。確かに怪人としか言い様がない。


 しかし洋孝はその仮面に見覚えがあった。必死に記憶を辿って思い出した。そうだ、この船のホールの壁に飾ってあった奴だ。確か南洋のどこかの島に伝わる祭りで使う海の神様を模した仮面だと船長から聞かされた覚えがあった。さては酔った客が壁から外して被っているんだな、洋孝はそう思うことにした。


 怪人は洋孝を見つけるとゆっくりと歩み寄ってきた。


 そいつは「あいつはまだ来ていないのか」と言った。


 あいつ? さっきのあの初老の男のことか。


 いったい何がどうなっているんだろう? 問い質そうと思った瞬間、怪人はただ一言「来い」と言い、洋孝の腕を掴んで走り出した。突然のことに驚いて洋孝は必死に抵抗したが振りほどく事も立ち止まる事も全く出来なかった。「仕事中なんだ。船長に怒られる。やめろ!」と叫んでみたが無駄だった。仕方なく洋孝も走った。走るのを止めればおそらく血だらけになるぐらい引き摺り回されるという確信があった。それ程の恐ろしい力だった。


 こ、こいつは酔っ払いなんかじゃない……。


 ふと自分の腕を握る怪人の手を見た洋孝はそう思った。細い、皺だらけの老人の手。その見た目と出ている力には差が有り過ぎた。「化け物」という言葉が再び頭に浮かんだ。


 まさか本当にこの世のものじゃないというのか。


 恐怖がふつふつと湧いてきた。すると急に怪人が立ち止まった。そのためぶつかるように洋孝も止まった。息が切れた。あまりに必死だったため、どこをどう走ってきたのかわからなかったが、そこがパーティー会場であることは見当がついた。


 着飾った人々が自分たちを見ている。場違いな場所に連れて来られたものだ。洋孝はどこか惨めな気持ちもあり、思わず怪人に「仕事中だって言っただろ!」と毒づいた。奇妙な二人組みに会場がざわつき始めていた。掴んでいた洋孝の腕を離すと怪人は話を始めた。


 大体が先程初老の男が説明したようなことだった。つまりはこの客たちから運を奪って自分にくれるという話だ。荒唐無稽、とても信じられない話だったが、この化け物なら本当にやってくれるかもしれないと思えてしまった。夢にまで見た金持ちになれる。確かに魅力的な提案だ。だが運を奪われた奴らはどうなるんだ? 想像もしたくない。葛藤が洋孝を襲い始めた。


 お前には資格があると怪人は言った。今まで辛かっただろうと慰めてくれた。望むだけでいいなんて最高だ。そんな思いが強くなってきた。怪人が叫べとそそのかす。そうしようかと気持ちが傾いた時、なぜか、ふと先程の男の言葉が脳裏をよぎった。「人から奪った物では一生幸せな気持ちになんてなれない!」、そんな類のことを確か言っていた。必死な形相で一生懸命語ってくれた男の言葉。なぜこんなにもあいつの言葉が気になるのだろう? 


 ……そうか、わかった、「感情」のせいだ。


 男の言葉には切なるものがあった。何とか自分に伝えようとしてくれた必死な気持ちが感じられた。一方、怪人の言葉には何も無かった。一見甘いが空虚な空っぽの言葉。比べてみて初めて分かる大きな差があった。


 洋孝は顔を上げた。迷う事などもう無かった。真っ直ぐ怪人を見て彼はこう言った。


「断る」


 仮面で隠れていても怪人が驚愕の表情をしたのがわかった。







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