ばたっ!


 苦悩する栄治の側でまた人が倒れる音がした。彼はその音の主が誰かすぐにわかった。自分の望んだことの代償の恐ろしさに耐え切れなくなったのか、ついに若い毒島が気を失ってしまったのだ。そんな彼に怪人は近づき耳元で何か囁きながら彼の頭を撫でた。


「よしよし、よい子はねんねしてな」


 まるで愛しい赤ん坊を寝かしつけた母親のように怪人はそう言って笑った。


 栄治は未だピクリとも動くことが出来なかった。その中でとうとう洋子が水死体の群れに囲まれていた。寅吉はいつのまにか鮫に襲われたらしく、無くなった左脚辺りを押さえたまま苦痛な表情で唸り声を上げながら床を転がり回っていた。


「お、おい、おまえ!」


 聞き覚えのある声に栄治が視線を戻すといつの間にか未来から来た毒島が怪人に詰め寄っていた。そして不思議なことに、これだけ化物がうようよしているのに彼にはどこも怪我した様子がなかった。やはり毒島は特別なのだ。だが栄治はふと疑問に思った。


 そういえばなぜ私も襲われないのだ?


 怪人は栄治のことを明らかに邪魔にしていた。これだけの力があれば真っ先に消し去ってしまえるはずだ。なぜ動きだけ封じてそれ以上のことをしないのか。栄治はそれが不思議だった。


「思い出したぞ! 全て思い出したのだ!」


 未来から来た毒島は興奮気味に叫んでいた。


「おまえが全てを与えてくれたんだな。ここにいるこいつらの分の幸運を全て俺に!」


 顔がどんどん真っ赤になり彼が高揚しているのがわかった。


「思えば俺はこれまで自分でも不思議なほど悪運が強かった。お前のおかげだったとはな。なぜ忘れていたのかはわからんが感謝するぞ!」


 毒島は自慢の腕時計をした左手を出して怪人に握手を求めた。怪人はそれには応じることなく、ただ首を横に振った。


「なあに、礼になど及ばんさ。おまえが望んだことだ」


「なあ、頼みがあるんだが……」


「わかっている。若き日の自分にだけでなく、今の自分にも幸運を分けて欲しいというのだろう?」


「そ、そうだ!」


 毒島はまた左手を突き出した。だが怪人はそれに応じなかった。


「おまえは先程全部思い出したと言ったな。だが一つだけ忘れてやしないか?」


「忘れている? 何を?」


「そこに若い時のおまえ、過去のお前が倒れているだろう? おまえが失神し掛けた時に俺が耳元で囁いた言葉がある。大事な約束なんだ。覚えていないのか?」


 そう言うと急に怪人は左手を突き出した。条件反射的に毒島は出していた左手でその手を握った。交渉成立かと喜びかけたその時、彼は握った手の「あること」に気が付いた。


 同じ腕時計!? まさか、そんな……。


 握った手を離すことが出来ないまま毒島はがたがた震えだした。


「俺はおまえにこう言ったんだ。『幸運を与える代わりに将来おまえの体を貰いに来るぞ』とな」


 怪人がゆっくりと右手で自分の仮面を取った。


 それは三人目の毒島だった。


 年老いた、では済まないほど皴の深い、まるでミイラのような顔。それでも僅かに毒島の面影があった。未来の毒島の顔は一気に青ざめた。


「ではそろそろ時間だ。おまえは俺になるのだ」


 そう言った怪人の口から黒い煙のような塊が噴き出した。目にしただけで吐き気を覚えるような不気味な色だった。


 これが怪人の本体!


 栄治はそう確信した。それはそのまま毒島の口へするすると流れ込んでいった。握手の格好のまま逃げることも出来ず彼は激しく身悶えした。


「やめ……、ぐうっ、ぐげええええ!」


 毒島の発する断末魔の声を合図に握手の形のまま二つの体は倒れ込んだ。そして依然動けない栄治が見守る中で未来からやってきた毒島「だった」方だけがゆっくりと立ち上がった。


「ふう……、やはり新しい体は良い物だな」


 声こそ若々しく変わったもののそれは怪人の口調だった。かつて怪人だったミイラのような体は最早単なる抜け殻となって床に転がっていた。


「さて、おまえだが……」


 新しい体を手に入れた怪人はちらりと栄治を見た。


「……なるほど。おまえはあそこの女の恋人だったのか」


 怪人は水死体の群れに囲まれた洋子を一瞥した。栄治は驚いた。なぜそれを知っている? 「おまえは何者だ?」とつい先程まで言っていたはずなのに。


「不思議がることはない。俺の一部となった毒島の記憶を読んだだけだ。俺が乗っ取ったのは体だけじゃないのだよ。毒島という者の意識も俺の意識に吸収されたのだ。だが一つわからんことがある。なぜ今回だけおまえが現れた?」


 なぜ今回だけ。


 最初に栄治が怪人と会った時にも言われた言葉だった。怪人は何かを不思議そうにしていたが栄治はそれ以上にわけがわからなかった。


「……まあいい。いつも通り、新しい体は手に入れた。おまえがいてもいなくても何も変わらなかった。君はチケット無しでかってに潜り込んできた野暮な観客といったところなんだろう。ではそこで指を咥えてじっくり見ていればいい、恋人の痛ましい最期をな」


 栄治は声にならない叫びをあげた。


 やめろおおおおおおお!


 怪人が左手を上げ合図を送ると水死体たちが一斉に洋子に襲い掛かった。悲鳴が上がった、が、すぐにその声は消えてしまった。やがて水死体のひしめき合う「ぐちゅぐちゅ」という不気味な音だけが辺りに響いた。動けない栄治は目を逸らしたくても逸らせなかった。


「君はヒーロー気取りでここへやって来たのだろう? 自分の歳も考えずに。自分が過去に来たからには恋人の運命を変えてやるなどと息巻いていたのかな? 俺はそういう身の程知らずの希望を抱く奴が一番嫌いなのだよ」


 確かにその通りだった。最初は巻き込まれるように過去に来たが、洋子に再会し、彼女を助けたいと思ってしまった。だが実際はどうだ。助けるどころか、知らなくて済んだはずの彼女の最期の姿を見せ付けられてしまっただけだった。


 自分はそんな事のために過去までやって来たのか。栄治は絶望に襲われ涙を流した。


「ああ、良い顔だ。ぞくぞくするよ。その顔ならこのやおよろず丸の一員として認められよう。おまえも俺の一部となるか? 簡単に忘れられるぞ、その胸の痛みなど。さあ、決意しろ!」


 忘れられる? こんなにつらい思いを抱いて生きていくくらいならいっそのこと……。 


 栄治の心が折れかけた、その時だった。


「だめ!」


 どこからか声がした。怪人が「まさか」と呟き、振り返った。


「希望を捨てては駄目!」


 いつの間にか、元は怪人だったミイラが起き上がっていた。抜け殻になったはずの体が意思を持っている。それを見た怪人の表情が一変し、その顔にはわずかだが恐怖のようなものが浮かび始めていた。


「ば、馬鹿な!? その体にはもう何も残っていないはず……。貴様はいったい何者だ?」


 怪人が元の自分の体に向かって一歩を踏み出したその瞬間、辺りの空気がさあっと変わった。


 それまで包んでいた重い雰囲気が消えて現実感が戻った気がした。それと共に栄治の体は金縛りが解け、やっと自由を取り戻した。


 慌てて怪人の方を見るとそいつは一歩を踏み出した格好のままで銅像のように固まっていた。さらに周りを確認すると水死体たちも鮫も襲われていた客たちも皆が蝋人形のようになり微動だにしなかった。


 唯一、栄治とミイラだけがその中で自由を保っていた。


「時を止めたのです。長くはもたないけれど」


 ぎしぎしとした声でミイラが話した。その声を聞いてもなぜか先程までのような不快感が無くなっていた。栄治はハッとした。声も姿も全く違うが、ミイラのその口調の奥に秘められたものに覚えがあった。


「君は……、洋子なんだね? 僕の夢で語り掛けてきていたのは君だったのか!」


 こくんとミイラが頷いた。


 姿こそ違えど、控えめに頷くその仕草は確かに洋子そのものだ。栄治はそう確信した。


「但し、正確に言うと私は洋子そのものではありません。根津洋子の中にあった小さな希望が少しずつ積み重なって出来たもの、いわば、洋子の希望の集合体とでも言うべき存在です。ずっとこの時を待っていました。先程あなたが見ていた通り、今回、根津洋子が死んだ時に抱いていた分の『希望』を得ることでようやくあいつを出し抜くだけの力を溜めることが出来たのです」


「待ってくれ、話がまだよくわからない。あいつは何者で、ここで起こっていることは一体どういうことなんだ?」


「最初から説明しましょう。海という場所では大昔から数え切れない事故が起きてきました。そして当然それだけ犠牲者もいたということです。彼らは水の中という場所柄、決して楽には死ねなかった。苦しみ、怒り、嘆き、そんな負の意識を抱きながら消えていかなければならなかった。けれど体が消えてもそんな強い意識は現世に残ってしまったのです。やがてあちこちの海で生まれた負の意識が波に乗って流され一つの場所に集まり始めました。そして気が遠くなる程の年月を経てそれは一つの意思を持った。それがあいつの正体なのです」


 栄治は先程見た黒い煙の塊を思い出した。あの怪人は海で生まれたものだったのか。同じ読みだが「海神」という字がふと浮かんだ。


「海で死んでいった者たちの怨念の集合体であるあいつは自分の存在を保つため、新たな海の犠牲者を探し回るようになりました。世界中の海を漂い、犠牲者を見つけてはその意識、いわば魂を自分の一部として吸収する、そうすることで自分が消えないように維持をしてきたのです。さらに長い年月が過ぎ去り、あいつはどんどん力を蓄えていきました。やがてあいつはその力を使い自ら海の事故を誘発するようにさえなりました。幾つかの有名な海難事故がそのために起きているのです」


 栄治の頭の中にバミューダトライアングルの話がよぎった。そして海難事故といえばもっと有名なものがある。


 ……まさか、タイタニックも?


 全ては繋がった話なのか。


「やがてあいつは考えました。いちいち新しい事故を待ったり誘うのは面倒だ。何か効率のいい方法はないだろうか、と。そして船の中にいた蜘蛛の巣を見て閃いたのです。蜘蛛は自分から動き回らず網のような巣を作って獲物を待ち構えている。自分も巣を作ればいい。しかも絶対に獲物が集まる仕組みを作れば……。そう考えました。まずあいつは手頃な人間が乗った、それなりに乗客の多い船を探しました。そしてやおよろず丸というクルーズ船に毒島洋孝という、うってつけの人間が乗っているのを発見したのです」


「ま、待ってくれ。じゃあ、この船がこんな目に会っているのは毒島のせいだというのか?」


「ある意味そうなります。あいつが必要としたのは自分を受け入れる入れ物となることができる人間でした。あいつがやろうとしていたことはひどくエネルギーを必要とすることだったので弱った本体を一時的に守るために物質的な体が必要になったのです。しかし必要なのは生きた体だけでそこに元々在る精神をどうするのかという問題がありました。無理矢理に体へ入り込めばもともと在った精神は強烈に反抗します。体を無くした不安定な怨念は吸収出来ても、まだ体を持っていて、希望に溢れている元気の良い意識と闘えば逆に自分を弱めてしまう恐れがあった。そのため出来るだけ暗い性質を持つ自分と似た人間をそいつは選んだのです。それだけではなく、事を起こすための鍵となる強い欲望を毒島さんが持っていたことも重要なポイントでした」


 鍵。栄治は思い出した。確かに海神が言っていた。毒島が鍵だと……。


「意外かもしれませんが、あいつは自分から物質的に人を襲うことは出来なかったのです。どんなに不思議な力を持っていても、自分のためだけに人を襲うことは出来なかった。出来るのは人間をそそのかしたり、幻を見せたり、そんなことだけだったのです。あいつにもそれがなぜかはわかりませんでした。おそらく意識だけの存在として生まれてしまったことに関係があるのかもしれませんし、強い力を持ったものに対してバランスを取り、抑制しようとするもっと大きな何らかの力が働くのでしょう。そこであいつが思いついたのは自分の他に現実世界の協力者がいれば物質的な方面にも力が使えるのではないかということだったのです。自分と同じ邪悪な願いをする物質世界の共犯者。それが毒島さんだった」


「今の君の体はやはり毒島なのか? その、ミ、ミイラみたいな……」


 わかっていても洋子に向かってミイラとは言いたくない、栄治はそう思った。


「順序良く説明します。まずあいつは実体を持たないあの黒い煙のような姿のまま若い毒島さんに近づきました。そして先程あなたが見たように彼をそそのかし邪悪な願いを願わせたのです。狙い通り現実世界の協力者を得たあいつは物質にも影響するほどの力を使うことが出来るようになりました。そして悪夢のような惨劇の中で死んでいった乗客たちの意識は怨念となり後からあいつに吸収されることとなったのです。そしてあいつの当初の計画ではそのまま若い毒島さんに乗り移ってしまうつもりでした。そして大技を実行する計画だった」


「大技?」


「時間の巻き戻しです」


「時間を巻き戻す? タイムスリップという事?」


「少し違います。あいつがタイムスリップすれば毒島さんのように過去の自分が過去の世界にそのまま存在していることになるでしょう? そうではなく自分を中心として時空の一定の範囲を切り取り、過去から未来へ流れている時間をスタート地点まで巻き戻してしまうのです。パラレルワールドを作り出していると言ってもいいでしょう。自分はその狂った世界の中でも唯一無二の存在を保ち、乗客たちだけが過去の世界で何度でも復活する。あいつがやったのはそういうことです。例えればあいつが蜘蛛で、やおよろず丸の乗客たちが餌。そして食べた餌は時間を戻せばまた目の前に現れる。それを繰り返せば永遠に餌には困らないということです」


 時間を巻き戻すなんて普通ならとても信じられない話だったが、過去に来たり時間が止まったりしている今となっては栄治も頷くしかなかった。







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