パーティー会場の人々の視線が一点に集まっている。その先にはあいつがいた。仮面の怪人。そしてよく見ればもう一人。


「い、いってえな、この馬鹿力! 仕事中だって言ってんだろ!」


 青白く背の低い男がパーティーとは程遠い作業着姿でわめいていた。


 どこかで見覚えのある顔だと栄治は思った。


 あれは……、そうか、面影がある! 毒島か! そうだ、あれが過去の、若い頃の毒島なのか! 


 どうやら若き毒島は仮面の怪人に仕事場から無理矢理引っ張って来られたようだった。


 これでこの場所には毒島が二人いることになる。


 栄治は先程寅吉と一緒にお酒を取りに行った「未来の毒島」の様子を伺った。グラスの酒を零しながらぽかんと口を開けて目を丸くした姿はまるで漫画の登場人物のようだった。過去の自分に会うなんて突拍子もないことがあれば誰でもあんな風になるのだろう。二人の毒島を見比べた栄治はある疑問に囚われた。


 毒島に何があると言うのだ?


 やおよろず丸の怪事件にあの仮面の怪人が関係していることはもう間違いない。だがあいつが毒島にこだわっているのはなぜだろう? 未来からわざわざ過去に毒島を連れてきて、さらに過去の毒島まで同じ場所に連れてくる。なぜ毒島が二人必要なのか?


 栄治は洋子に「ちょっと待ってて」と声を掛け、怪人の方に向かって歩いていった。とにかく全てはあの怪人だ。何を企んでるにせよ、絶対止めてやる。


「おい! おまえは何者なんだ?」


 人々を掻き分けるようにして栄治は怪人の前に進み出た。仮面のせいで表情はわからなかったが、動きからそいつの驚きが読み取れた。


「……また貴様か。なぜだ、なぜここに来ることが出来た? 貴様こそ何者なのだ?」


 心を直接引っかいてくるような軋んだ声に栄治は一瞬たじろいだ。


「き、聞いているのはこっちだ。おまえがやおよろず丸に何かしたのか?」


「……よかろう。小魚が一匹跳ねたところで大波の向きは変えられん」


 怪人がそう言った瞬間、栄治の体はまた金縛りのように動かなくなった。しかも今度はさっきより強力だった。ガチーンという固まる音すら聞こえた気がした。


 こ、声が出ない……。


「おまえはそこでただ見ていろ。ただの観客が劇に参加することなど許さん」


 必死に体を動かそうとする栄治を無視し、怪人は傍らの若い毒島に向かって話し掛け始めた。


「さあ、始めよう。おい、君はこの客たちを見てどう思う?」


 怪人は先程から遠巻きにこちらを見ていたパーティーの参加者たちを指差した。


「ど、どうって?」


 震えながら毒島が聞いた。


「羨ましい、とは思わないかね?」


 図星をつかれたのか、毒島の体がびくりと反応した。


「う、羨ましいなんて、お客さんだから……」


「君が汚れまみれ汗まみれで働いている時に彼らはここでパーティーなどと呑気に楽しんでいるのだよ。悔しくはないのかね?」


「だ、だからお客さんだから、それは当たり前で……」


「では、彼らがお客であるのはなぜかね?」


「それは、皆さんはお金をちゃんと払っていらっしゃるから……」


「君はお金が無いせいで遠縁に当たる船長に土下座してまでこの船に乗り込み、他の正式な船員たちから虐められながら過酷な労働をしなければならない。一方こいつらは金があったという、ただそれだけで客としてもてなされている。そういうことかね?」


「な、何でそんなことを知ってるんだ?」


 驚きと怯えが混ざった顔で毒島は怪人を見つめた。それには答えず怪人は話を続けた。


「君と彼らを分けているもの、それはなんだ?」


「お、俺は出来が悪くて仕事も出来ないからお金も貯められなくて……。ここにいる皆さんはきっと仕事も出来て、だからお金持ちで……」


「そうかな? 君と彼らが違う部分、それは『運』じゃないのかね?」


 毒島の体がまたびくっと震えた。


「君は自分の運の無さを嘆いたことはないか?」


 毒島の震えが大きくなった。


「う、運なんて、そんな、そんなこと……」


「なぜ、否定しようとする? 運以外の何がある? 人は産まれた時からすでに差がついている。誰も親は選べない。金持ちの親、貧乏な親。その後どうなるかも運次第。親が事業に失敗したら? 逆のこともあるかもしれない。親だけではない。入った会社が倒産したら? 自分で始めた仕事がたまたまうまくいく奴もいる。どんなに努力してもどんなに能力が高い奴でも運の悪さだけで絶望することがある。そうじゃないかね?」


「そ、そんなもんどうしようもないことじゃないか! わかりきったこと、ぐちぐちと言いやがって!」


 身も蓋もない話に毒島が怒るように叫んだ。仮面の下で怪人は笑った。


「認めるのだね? 運が全てだと。自分には運がないと」


「だからどうした? どうなるっていうんだ?」


「私ならどうにかできると言ったら?」


「えっ」


 一瞬にして毒島は怒りの表情を無くした。


「誰にも負けない強運を手に入れられる。そんな方法があるとしたら」


「そ、そんな馬鹿なこと、あるわけ……」


「ある。君が望めばだが」


「ほ、本当か?」


「少々荒っぽいやり方だがな。でも心配する必要はない。君は望めばいいだけなんだ」


 栄治は嫌な予感がした。これは、これがきっと惨劇を引き起こした「きっかけ」なのだ。


「望むだけ、なのか。本当に?」


 若い毒島が興味を示し始めていた。まずい。栄治はどうにか動こうと身悶えしたが、以前、声すら満足に出せなかった。


「そう、望むだけ。望みを声にするだけ。ただし犠牲は必要だ」


「ぎ、犠牲?」


「運とは生まれ持ったもの。だから運が欲しければその分の運を誰かから奪わなければならない。だから強い意志を持って願わなければ運は手に入らない」


「ひ、人の運を奪うって? そんな……」


「君は鍵なのだ。私が見つけた選ばれし鍵。君の一言で全てが始まる。君は何も気にすることなく望めばいいのだ。君ならば許される」


「許される? 俺なら?」


 毒島は下を向き何やら考え始めていた。


「これまで辛かっただろう。君はこれから幸せになる資格がある。さあ、願え。望め。叫べ。何を犠牲にしても運が欲しいと!」


 待て! やめろ! やめるんだ!


 栄治は声にならない叫びをあげた。


「お、俺は……」


 毒島が顔を上げた。


「欲しい! 俺は金持ちになりたい! 誰にも負けない強運が欲しい!」


 唾を飛ばしながら若き毒島はそう叫んだ。栄治は仮面で見えないはずの怪人の顔がにやっと歪んだ気がした。


「そうだ。それでいい。いつもどおりだ」


 怪人がそう言った瞬間、風でも吹いたように辺りの空気が変わった。


 栄治ははっきりと感じていた。


 目に見えない霧で包まれたような、目の前の物が現実でありながら幻と混ざっていくような、そんな感覚を。


 若い毒島も同じ感覚になったようできょろきょろと周りを見渡していた。


「何の騒ぎだ、これは!」


 その時、突然毒島たちの背後から誰かの怒鳴り声がした。威厳のある低い声。声の主は数人の船員を従えた初老の男性だった。着ている制服の袖に入った袖章は四本。それは船長の証だった。


 彼は仮面をつけた怪人の異様な姿に気付くと驚愕を顔に浮かべたまま立ち止まった。


「な、何だ、おまえは? そんな格好で何をして……、ぶ、毒島! 貴様、こんなところで何をしてるんだ? ここに入ってはいけないと言っただろうが! それに今は仕事中のはず! そうか、そのおかしな奴はおまえの知り合いだな? 馬鹿げたイタズラでパーティーの邪魔をするとは、貴様、ただで済むと思っているのか! 金のないおまえを乗せてやった恩を忘れおって!」


「相変わらずうるさい奴だ。いつも通り、こいつからでいいだろう」


 怪人が吐き捨てるようにそう呟いた。するとその瞬間、船長が立っている硬いはずの床になんと「波紋」のようなものが広がった。「あっ」と言う間もなく船長の体は床の「中」に沈んでいった。奇妙な光景だった。すぐそばにいる周りの人間たちは依然として普通に立っている。「床」の「海」に沈んだのは船長だけだった。


「な、なんだこりゃ! ど、どうなってるんだ? た、助け……」


 すでにその裏返った声には先程のような威厳はなく、周りの船員もなすすべなく呆気にとられているだけだった。何とか這い上がろうと船長はもがいていたが、床はばしゃばしゃ音を立てるだけで彼はどこにも掴まれなかった。ようやく自分の置かれた立場を理解した彼の顔は次第に恐怖に歪んでいった。


「ち、畜生! 何がなんだかわからんが、泳ぎは得意なんだ! 溺れたりするもんか」


 誰にいうわけでもなく船長は喚き始めた。


 その時、床に突如大きな黒い影が映った。天井に何かいるのかと思い、皆一斉に上を見上げていた。しかし上には何もなかった。影は次第に大きくなっていく。仮面の怪人を除くその場の全員がまさかと思った。


 この影は床の中を泳いでいる!


 ザパーン。


 大きな音とともにそいつは床面の上に躍り出た。映画に出てくるような巨大な鮫。その凶悪な口はまっすぐ船長を狙った。


 ドパーン。


 水飛沫を上げて再び鮫は床の中に消えていった。泳ぐ姿が次第に小さくなっていく。深く潜っていってしまったようだ。場は静まり返り、皆が一斉に船長のいた辺りを確認した。元に戻った硬い床に彼の姿はなく、そこには代わりに「あるもの」だけが落ちていた。


 四本の袖章が入った血まみれの右腕一本。


 誰かが悲鳴をあげた。次にどこからともなく複数の叫び声。パニックが始まろうとしていた。


 乗客の何人かが怪人の後ろを駆け抜けて逃げようと入り口に向かって走り出した。ところがもうすぐというところでまた床から何かが現れた。


 吸盤の付いた巨大な長い数本の足。本体は見えなかったが、それは確実に獲物を捕らえていった。ぐるっと巻きつかれ締め上げられ悲鳴も上げられないまま、彼らは液体化した壁や床の中に次々と引きずり込まれていった。


 再び会場は不気味に静まり返った。誰ももう動こうとしなかった。


 すると今度は壁が波打ち、何かがそこから抜け出てきた。同時に一瞬でとてつもない悪臭が辺りに漂い始めた。ゆっくり、ぴちゃぴちゃと音を立て、それは歩いてきた。変色し膨れ上がった体。男か女かもわからない。踏み出すたびに床に何かが落ちた。かつて海で死んだ者たち。表情などわかる状態ではないはずなのになぜか笑っているように見えた。


「仲間が増えるのだからな。そりゃあ嬉しいだろう」


 怪人がぎしぎしと笑い声を上げた。それにつられたかのように壁から次々と同じものが現れた。


 それを横目で見ながら栄治はまだ動くことができなかった。


 これが……、これが三十四年前の真実だというのか。


 その時、突然、若い一人の男性がうなり声とも泣き声ともつかぬ奇声を発しながら走り出した。錯乱した様子の彼はそのまま「歩く水死体」に体当たりをするように突っ込んでいった。


 ずぷっ。


 鈍い音を立て男の体がそれにめり込んだ。


 ぱふうん。


 破裂音のようなものがして死体は床に崩れるように散らばった。原型をわずかに保った頭部が男の手の上に落ちる。まだそれは笑みを浮かべていた。


「はっ、ははははははっははははっははっははは」


 声を上げて笑ったのは頭ではなく若い男の方だった。


 手を離すのも忘れ、それを見つめたまま、男は泣きながら大笑いを始めた。もう彼は正気ではなかった。


 ばたっ。ばたっ。ばたっ。


 女性が何人か気絶し床に倒れ込んだ。それを待っていたかのように床に再び鮫の影が現れた。しかも今度は数匹だ。人々は逃げ惑った。


 壁際には水死体のゾンビと巨大な触手が待ち構えていて床からは鮫が襲ってくる。そのうちにとうとう逃げまわる人間同士がぶつかり合い、人々は勝手に血塗れとなっていった。その間ずっと怒号と先程の若い男の狂った笑い声が会場には響き渡っていた。


 栄治は自分が見つめ続けなければならないものに絶望した。


 地獄絵図とはこのことか。こんなものを見せられるために私は過去に来たというのか?


 彼は自分をここに連れてきたものが何であろうとそいつを憎まずにはいられなかった。







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