5
「そ、そんな馬鹿な……」
栄治は驚いた。但しそれは「自分がタイムスリップした」という事実に対してではなかった。
ここが三十四年前のやおよろず丸だと聞いてもなぜかあまり驚くことができなかった、そんな自分に驚いたのだ。
こうなることを自分は心のどこかで予感していたのかもしれない。彼はそう思った。
「……待てよ?」
栄治の心の内などもちろん知らない毒島は不思議そうに首を傾げていた。
「おかしいぞ。なぜ私はこの光景に見覚えがあるんだ? ここが三十四年前のやおよろず丸なら、私はパーティーなんて見ることすら出来ず船の下の方で働いていたはずだ」
三十四年前の記憶を失ったままの毒島は混乱しているようだった。彼はヒントを掴もうとするようにきょろきょろと辺りを見回した。つられたわけではないが栄治も無意識に同じ行動を取っていた。
……んっ?
一瞬、何かが気になった。もう一度栄治はそこに視線を戻した。
ああ……。
心臓が急激に高鳴った。頭の中が白くなり足が自然と動き出す。後ろの方で毒島の呼び止める声が聞こえたがどうしようもなかった。周りが驚いて振り向くほど早足になる。その間も彼の視線は一点を捉えたまま動くことがなかった。
洋子!
根津洋子がそこにいた。思い出の中でしか会えなくなっていた彼女。いろんな私服を知っていたはずの栄治でさえ一度も見たことのない美しいピンクのドレス姿だった。
栄治は完全に我を忘れていた。そしてあまりにも彼女にばかり目を奪われたせいで彼女のすぐ隣にいる人間たち、熱心に話し込んでいる根津寅吉とその友人らしい男に全く気付かなかった。
「……というわけでバミューダトライアングルを知っていますかな? あの飛行機やら船やらが謎の失踪をしてしまうという魔の海域ですよ。どうなんですかねえ、異次元に消えたなんて説もあるようですが……、ん、君は?」
話し掛けられて初めて栄治はハッと我に帰った。いつの間にか彼は寅吉と洋子のすぐ目の前という位置まで近づいてしまっていたのだ。
三人に不審そうに見つめられ栄治は焦った。何か言い訳をしなくては。僅かに耳に届いていた言葉を彼は慌てて思い出した。
今、確か、バミューダが何とかって言っていたな。
彼は止まっていた思考をフル回転させた。
「いや、失礼しました。今、バミューダトライアングルのお話をされてましたよね? 私は昔からそういう話題に興味がありましてね。ご存知ですか? メタンハイドレート説というものを」
「メタン? 何だね、それは」
寅吉は隣の友人に目で確認した。その友人も知らないという風に首を振った。とっさの誤魔化しに寅吉は興味を持ってくれたようだ。しめたとばかり栄治は本で読んだ記憶を必死に手繰り寄せながら話を続けた。
「まずメタンハイドレートというのはメタンが固体になった氷状の物質のことです。低温高圧の環境で水分子が『かご構造』を作り、その中にメタン分子が閉じ込められているという物質で火をつければ燃えます。将来石油の代替品として期待されている新しい資源ですね。そしてこのメタンハイドレートが存在するための環境が整っているのが深海なんです。バミューダトライアングルの事故にこの海底のメタンハイドレートが関わっているんじゃないかというのが、メタンハイドレート説なんですよ」
「どういうことかね?」
「地殻変動などで刺激を受けると海底のメタンハイドレートがメタンと水に分離してしまいます。固体のメタンハイドレートが気体のメタンになると百倍以上もの体積になるんです。つまり大量のメタンの泡です。これが海上の船を襲えばどうなるか。船はあっという間に浮力を失って沈んでしまいます。では飛行機の場合。飛行機も空気の代わりにメタンガスを取り込んでしまうことになりますから、空中爆発とはいかなくてもエンジンは停止してしまうでしょう」
「ほお、なるほど。初めて聞いた説だが面白いね。最新の説なのかね?」
「ええ、まあ。まだあまり一般的には知られていない説でしょう」
栄治は誤魔化した。あまりどころか、おそらくこの時代この説を知るものは誰もいないだろう。確か三十四年前ならメタンハイドレートというものの存在がようやく確認されたばかりの頃で、これをバミューダトライアングルと結びつけた説が発表されたのはさらにずっと後になってから、数十年も先のはずだった。
「科学的で有力そうな説ですな。いやあ、面白い」
寅吉はしきりに感心していたが実はこの説には多少の問題点もあった。
この説を信じるならバミューダトライアングルの海域の海底にはメタンハイドレートが他より多く存在していなければならないことになる。そうでなくては他の海域より事故が多いことの説明にならない。ところがそのような事実はないらしい。面白い説ではあるがいろいろと否定的な意見は拭い去れなかった。
そもそもバミューダトライアングルの怪というもの自体、マスコミが面白おかしくデータを捏造して紹介したものに過ぎず、あそこだけが特別事故が多いわけではないという意見さえある。
しかし栄治は相手の興味を引くためにあえて白けるようなことは言わなかった。
「あなたはなかなか学のある方のようですな。どこかでお会いしたような気もするんだが、えー、お名前は?」
「白石高志です。初対面かと思いますが」
自分でも驚くほどスムーズに素早く嘘が出た。寅吉は若い頃の栄治を知っている。年老いて多少顔が変わったとはいえ、本当の名を言うわけにはいかなかった。「白石高志」は以前書いた小説の主人公の名前だった。
「白石さん……、うーん、そうですか、初めてお会いしますかなあ? ではどうです? お近づきの記しに一杯」
そう言って寅吉はグラスを渡してくれた。どうやらうまく誤魔化せたようだ。ほっとしたついでに栄治は洋子の方をちらりと見た。懐かしい、そして愛しい顔がそこにはあった。今すぐ話しかけたいという気持ちが沸き上がってきたが彼は耐えた。その葛藤した視線に寅吉は気付いたようだった。
「ああ、後ろのは娘なんですよ。そういえばまだ名乗っておらんかったですな。私は根津寅吉といって貿易商をやっております。そしてそっちが娘の洋子です。妻を数年前に亡くしまして、父一人娘一人で、まあ商売がてら旅行しとるところです」
もちろん栄治の知っていることばかりだった。どう返事しようか一瞬迷ったが結局「お名前は聞いたことがあります」と当り障りのない答えをしておいた。
そのすぐ後のことだった。
「ところで後ろの方は?」
後ろ? 寅吉にそう言われた栄治が何のことかと振り向くといつの間にか毒島が背後に立っていた。にやにやと人を馬鹿にしているようにも見える嫌な笑みを浮かべた彼は突然寅吉に向かって左手を前に突き出した。威嚇のようにも見えたがどうやら握手を求めただけらしかった。
「どうも、ああ、えーと、そう、薬島孝洋と申します。私も貿易商でして」
必要もないのになぜか毒島は妙な偽名を名乗った。どうやら後ろで栄治たちの会話を聞いていて、元々の事情を知っていた毒島は洋子が栄治の悲恋の相手であることを思い出したようだった。話を合わせるために協力する気になったようだが栄治にしてみればそれは余計な気遣いだった。
「くすりじま、ほお、随分と変わった名前でいらっしゃる」
栄治の心配どおり寅吉は不審そうな顔になった。まずい。栄治がそう思った瞬間、彼の視線が毒島の突き出された左手に向けられた。嘘のようにみるみる彼の表情は良くなっていった。
「おっ、これは! ほお、なかなかの時計を身に付けていらっしゃいますな。こいつは限定品でかなり高い代物でしょう? こいつは失礼しました。どうやらあなたも相当の商人とお見受けします」
栄治は時計のことはよくわからなかったが、確かに言われてみれば高そうな時計だった。
握手が終わった後、毒島は小声で「こいつはアンティークでな。この時代でもそれなりの値段がするんだ」と教えてくれた。
寅吉と毒島に寅吉の友人を入れた三人はそれから楽しそうに時計の話を始めた。どうやらこの三人は金持ち同士趣味が合うらしかった。こうなるともはや栄治は話に付いていけなかった。話は完全にバミューダトライアングルからも時計からも離れて、アンティークだの骨董だの、そんな話になっていた。お酒も入っているせいか話は止まらなくなっていた。
「いや、しかし薬島さんはなかなか骨董にお詳しい。おっと、もうグラスも空ですな。どうです? 向こうで座って飲みながらゆっくり話しませんか?」
寅吉がそう提案すると毒島は喜んで付いていった。完全に自分が過去に来ているということを忘れているようだ。嵐のような三人が立ち去り栄治は洋子と一緒にその場に取り残された。
でもこれでやっと彼女と話ができる。
ホッとした栄治はゆっくり洋子の方を振り返った。
すると思っていたより近くに彼女の顔があった。目が合っただけなのにドキドキが止まらなかった。
そうだ、初めて彼女に会った時も確かこんな感じだった。
彼は自分の心が若かったあの頃に戻っていることを知った。
早く何か話し掛けなくては。
そう思ったのだが言葉が出なかった。そんな栄治をなぜか洋子は黙ったままじっと見詰めていた。
「あ、何か、私の顔、変でしょうか?」
栄治がそう聞くと洋子はハッと我に返ったようだった。
「ご、ごめんなさい。失礼ですよね、初対面の方をじいっと見ちゃって」
懐かしい声だった。
「あ、あの、もし違っていたらごめんなさい。ひょっとして白石さんて『蒲生栄治』さんと何かご関係のある方じゃありません?」
先程とは違う意味でどきりとした。歳を重ねて自分でもわかるほど若い時とは変わってしまった顔。それでも洋子はわかってくれたのだ。嬉しかった。だからこそ一瞬無言になってしまった。
思い切って本当のことを話してしまおうか。だが三十四年後から来たなんて話、信じられるわけがない。いや、でも洋子なら信じてくれるかもしれない。
では、信じてくれたとしてそれから何を伝えればいいんだろう。この船でこれから何かが起きる。そして君は行方不明になってしまう。そんなこと言える訳が無い。
待てよ? それなら過去を変えればいいのではないか。これからここで何が起きるかわからない。でも自分が洋子だけでも守ってやれば彼女は死なずに済むかもしれない。
あっ、でも、その時、篤子はどうなる? 洋子が助かれば若い自分は洋子と結婚してしまうだろう。じゃあ、篤子と自分が重ねてきた今までの時間はどうなってしまうんだ?
一瞬でそこまで考えた。答えは出なかった。だから今はこう答えておくしか無かった。
「ああ、確か遠い親戚にそんな名の人間がいたかもしれませんね」
初めて洋子についた嘘だった。
「似ているんです、あなたの顔が、栄治さんと。あっ、いえ、あなたよりずっと若い方なんですけど」
それから洋子は自分が父の反対を押し切って蒲生栄治と付き合っていることを話してくれた。当たり前だがきらきらした目は三十四年前とまったく同じだった。年をとって多くのものを失った自分と違い、彼女は美しいままだった。
思わず抱きしめたいという衝動に駆られたが栄治は必死に堪えた。どうしようもなく切なくなり彼は昔どうしても聞けなかったことを聞いてみたいと思った。
「それで、あなたはその栄治さんという方と付き合っていて幸せなんですか? 付き合っているだけなら楽しいのかもしれないが、結婚ということになれば苦労するでしょう。それでもいいんですか?」
栄治は洋子に質問するのと同時に篤子のことを思い出していた。今は小説家としてそこそこ有名になったが、篤子と結婚して暫くは挫折の連続だった。十数年掛かり、やっと安定して仕事が出来るようになったもののそれはそれでまた大変だった。
歳をとり、余裕ができてやっとこれから楽をさせられると思った矢先、彼女はあの世に旅立っていったのだ。篤子の人生は幸せだったのか、その問いは栄治の死ぬまで終わらない宿題のようなものだった。
「確かに私はお嬢様育ちで人より苦労を知らないかもしれません。でも彼とだったら、彼とだから、してみたいんです、その苦労を」
柔らかい笑顔の中に強い決意が感じられた。
栄治は思った。「そうだ、これだった」と。昔、自分が愛したのは正に彼女のこの部分だった。
守りたい。ただシンプルにそう思った。
ここが過去だとか、未来がどうなるとか、そんなことよりも今、目の前にいる洋子は現実だ。
篤子の声がまた聞こえた気がした。
そうしなければいけない気がするんでしょう?
そうだ、そうしなければいけないんだ。
栄治がひとつの決意を固めた、その時だった。
先程自分たちが入ってきたばかりの入り口辺りがざわざわと何やら騒がしくなっていた。
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