一週間後。


 順風満帆に航海を続けてきた船はいよいよ三十四年前にやおよろず丸が発見された海域に到着し、その日は追悼式が行われることになっていた。


 栄治はその朝、思った以上に早く目が覚めてしまった。まだ早すぎると思いつつも何もすることがなかったので仕方なく着替えを済ませた。そしてふと外の空気を吸いに行こうと思い立ち、部屋を出た。まだみんな寝ているのだろう。廊下は人気が無く、しーんと静まりかえっていた。


 ゾクッ!


 なっ!? 今のはなんだ?


 栄治は急に背中を撫でられたような寒気を覚え、思わず後ろを振り返った。薄暗い廊下の奥にはエレベーターが見える。その前に何かが立っていた。寒気の元凶はそいつのようだった。


 マントのようなものを羽織った後姿。白髪だ。しかし井奥のような品のある感じではなく、動物の毛を思わせるような乱雑さがあった。何より不気味なのは後ろから見てもわかる「仮面」だった。縦長で黒っぽいそれは人間の頭の数倍の大きさがあり、異常な存在感があった。


 いつから追悼式が仮装パーティーになったんだ?


 つまらない冗談だ。まだ寝惚けているのか、俺は。


 そう思っても栄治はそいつから眼が離せなかった。寒気は続いている。体が震えた。どうする? 思い切って声を掛けてみるか。酔っ払ってふざけているただの乗客かもしれない。


 栄治がそんなことを考え始めた時、そいつは急に動き出した。開いたエレベーターにすっと乗り込む。扉が閉まった時もまだそいつは後ろ向きのままだった。


 追いかけなくては。そうしなければならない気がする。


 そう思った瞬間、体の震えが治まった。エレベーターに駆け寄る。すぐ上でそいつは降りたようだ。帰ってきたエレベーターにすぐ乗り込んだ。上の階は毒島の知り合いの財界の大物たちがいるスイートのデッキだったはずだ。


 じゃあ、あれもお偉いさんなのか?


 そんなことを思っているうちにエレベーターは到着し扉が開いた。扉が開くのと同時に栄治は飛び出した。


 びくっ!


 心臓が止まりそうになった。まさに目の前にそいつがいたのだ。いや、それだけではない。正確に言えば二人の人間がいた。そいつと毒島である。二人は同時にこちらを見た。毒島の驚いた表情。そして栄治はその時に初めてそいつを正面から見た。


 体は腕も脚も黒いマントのような大きな布で覆い隠され窺い知れなかった。そして仮面。頭から完全にはみ出すほど上下に長い楕円形のそれは薄黒い色で目と口の部分にだけ丸い穴が開いていた。ところが穴の奥にあるはずの眼も口も確認できず、暗い闇を覗いたようにしか見えなかった。他の場所には模様が無いのに、なぜか目に当たる穴の上にだけ渦のような波のような眉毛らしき模様が彫られていた。


 現実的な栄治の姿を確認したことで我に返ったのか毒島は慌ててそいつから離れ、栄治の後ろに逃げ込むように隠れた。


「な、何なんだね、こいつは! 先生、君の知り合いかね?」


「そんなわけないでしょう! てっきり私はあなたの知り合いかと」


 どうやら毒島もこいつに今ばったり会ったばかりのようだった。彼はひどく狼狽していた。


「こんな奴、知るものか! ふ、不審者め! 誰か! おい、警備……」


 ギヒギヒギヒ。


 突然、毒島のセリフを遮るように音が鳴り響いた。それが笑い声だと気付くのに栄治は時間が掛かった。


「まだ思い出せんのか? 仕方のない奴だ」


 初めてそいつが声を発した。それは毒島に向けられたものだった。しゃがれた、ぎしぎしと軋むような耳障りな声。鼓膜ではなく脳が揺らされているような不快な気持ちにさせられる音だった。


「まあいい。いつも通りのことだからな。だが……」


 言葉が止まり、そいつの雰囲気は明らかに変わった。暗闇の奥の眼はこちらからは見えないのに射抜かれるような視線を栄治は感じた。


「貴様は何者だ?」


 栄治に向けられた言葉には毒島の時とは違うはっきりとした敵意が感じられた。


「これまで貴様などいなかった。なぜ『今回』に限っておまえがいる?」


 今回? こいつは何を言っている?


「な、何のことだ? おまえこそ何者なんだ?」


 わけがわからず栄治がそう聞き返すと男は何も答えず「……ふん」と鼻を鳴らしただけだった。


「まあいい、大して問題にはなるまい。どうせ向こうまでは付いて来れん」


 吐き捨てるような言い方だった。


「行くぞ。お前はまだ欲しいんだろう? あの時のように」


 そう言われた毒島の表情が明らかに変わった。何かを思い出そうとしているようだった。


「そうだ、あんたの声、どこかで聞いたことが……、あっ! そうか、『やおよろず』であんたと会ったことがあるような気がするぞ!」


 やおよろず!? 


 そんな馬鹿な、と栄治は思った。やおよろず丸の事件からすでに三十四年も経っているのだ。


「さあ、来い。おまえだけが行けるのだ。あの時へ」


 そいつは初めてマントの中から右腕を出した。細く血管の浮き出た皺っぽい手の甲、それは明らかに老人のものだった。そいつの指が空中に何かを描くように動くと、なんと何もない空間が突然光り出した。縦長の大きな長方形。船の廊下に浮かび輝くそれは光のドアだった。音も無くその扉が開いたのが栄治にもわかった。しかし眩しく光っていてその中をうかがうことは全くできなかった。


「待っているぞ」


 仮面の怪人はそう言うと音も無くすうっとその中へ入っていった。消える。夢をみているようだ。


 栄治が呆然としていると後ろにいたはずの毒島がよろよろと前に進み出た。


「ま、待ちなさい、毒島さん! まさか、入る気じゃないでしょうね?」


「私は行かなくては」


 目の焦点が合ってないように見えた。普通じゃない。止めなくては、そう思ってもなぜか金縛りに掛かったように栄治の体は動かなかった。


「まだ欲しい。もっと、もっとだ!」


 ぶつぶつ呟きながら毒島が進んでいく。見る見るその体は光の中に消えていった。完全に彼の姿が光の向こうに呑まれた瞬間、栄治の体は自由を取り戻した。彼は慌てて毒島を追いかけ、光の中に入ろうとした。


 ところが……。


 バンッ!


 次の瞬間、突き飛ばされたように弾き飛ばされ栄治は尻餅をついていた。


 は、入れない?


 彼は先程の怪人の言葉を思い出した。


『向こうまでは付いて来れん』 『おまえだけが行ける』


 あいつと毒島しか通れないというのか、このドアは。


 栄治は途方に暮れた。誰か呼んでこようか? そんなことを思っているうちにドアに変化が起きた。次第に光が薄くなろうとしていたのだ。つい先程は眩し過ぎるほどだったのに今は向こうの廊下が透けて見えるほどになっていた。


 まずい。消えてしまう。


 そう思った栄治は弾かれるのを承知でもう一度手を伸ばした。すると光に触れる瞬間、先程と違う「暖かい何か」が手に触れたような気がした。そしてそれは彼を「向こう側」へと引っ張ってくれた。


 入れまいとする光とその何かが栄治をめぐって綱引きをしているような感覚があった。一進一退の攻防戦。栄治も向こう側に行くためにぐっと足に力を入れた。そのせいか、ちょっとずつ光の向こうに栄治は入り込んでいった。もう少しだ。そしてドアが消える寸前ギリギリのところで栄治は「あちら側」へぬるっと入ることが出来た。


 ……あれっ?


 ハッとして栄治は振り返った。光のドアはもうどこにも無かった。本当にあったのか、疑いたくなるくらい、痕跡すら見えなくなっていた。


 ここはどこだ?


 ようやく落ち着いて周りを確認する。さっきまでいた船の廊下と変わらないように見えた。そして廊下の端の方には毒島が立っているのがわかった。


 何だ、同じ場所じゃないか。


 栄治はすこしほっとしたがその一方で何か言葉では説明できない違和感も感じていた。


「毒島さん!」


 声を掛けると毒島は振り返った。目は先程と違いはっきりしている。どうやら正気のようだ。


「さっきの奴はどこに?」


「わからん。だがおかしいぞ、ここは。見ろ、この揺れを」


「揺れ?」


 揺れと言われても栄治は別段おかしさを感じなかった。まあ、さっきより揺れている気もするが、ホテルじゃあるまいし、船が少しくらい揺れても当たり前なんじゃないか? そう思った。


「ビルジキールやフィンスタビライザーを付けてあるんだ。こんな揺れ方するわけがない」


 そこまで言うと毒島は何かを思いついたように「……待てよ?」と言い、急に歩き出した。慌てて栄治も後を追った。


 先程の毒島のセリフ、確か船の横揺れ防止装置の名称だったはずだ。やおよろず丸の事件を調べ続けていた栄治にも聞き覚えのある言葉だった。昔から船の仕事をしていてこんな船まで造らせるくらいなのだから、毒島はかなり船に詳しいのだろう。


 揺れがおかしい? 一体どういうことなのだ?


 毒島は黙ってどんどんどこかに向かって歩いた。付いていくだけの栄治はもう自分がどこにいるのか、わからなくなってきていた。


 やがて二人の耳にはなんらかの音楽が聞こえてきた。そして次第にそれは大きくはっきりとしてきた。どうやら毒島の目的地は音の発生場所らしかった。だんだん音楽の中に人の話し声のざわめきが混じってくる。視界がはっきり開けた。


 そこは普段食事などを取るダイニングルームだった。着飾った大勢の人々がグラス片手ににこやかに談笑している。ちょっとしたパーティーが開かれているようだった。


 追悼式……、じゃないみたいだな、どう見ても。


 栄治は傍らの毒島に説明を求めようと彼の方を振り向いた。毒島もそんな栄治の視線に気付いたようだった。


「蒲生さん、たぶん、これは……。いや、しかし、ありえん……」


 歯切れが悪かった。毒島は自分の考えに戸惑っているように見えた。何かに気付いたがそれを認めたくない、そんな感じだった。


「そんなことはありえない。でもこの光景には確かに覚えがある。それにこの揺れの感覚にも。間違いない」


 何かを踏ん切るようにふうっと毒島は大きな溜息を吐いた。


「ここは……、三十四年前の……、『あの時』の本物のやおよろず丸の船内だよ」







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